ジョモ・ケニヤッタその3
ケニヤッタ、帰国する
 さて、ケニヤッタがイギリスで見聞を広めていた頃、祖国ケニアでは何が起こっていたのでしょうか?
 1940年、植民地政府は、露骨な弾圧策に出て、Kavirondo納税福祉協会(Kavirondo Taxpayers
andWelfare Association) とキクユ地方協会(Kikuyu Provincial Association)の二つを除き、全ての政治団体
が非合法化されました。政府側のこうした動きに対して戦うには、各部族がそれぞれに結成した小規模な政治団
体では無く、発言力の大きな全国規模の団体が必要なのは明らかでしたが、弾圧による民族運動の挫折に伴
い、かなり深刻なリーダーの足並みの乱れが発生しました。最大多数のキクユ族対他の部族という主導権争いも
相変わらずだったので、ケニヤッタがイギリスで滞在していたことの最大の恩恵は、こうした抗争に巻き込まれな
かったことでしょう。

 第二次世界大戦の勃発により、イタリアの支配下にあったエチオピアでの作戦のため(一部は北アフリカ、中
東、極東にも送られた)、多くのアフリカ人が徴兵されましたが、植民地の支配者のために戦わされた兵士達の
不満は、もはや限界に達します。そんな中ではありますから、残った二つの政治団体は意外に奮闘し、なんとか
抗争を乗り越えると、1944年10月5日、初めて植民地政府の立法議会に、アフリカ人の議員を一人送り込む
ことに成功しました。それに伴い、
・アフリカ人国家建設のための団結
・人種差別の撤廃
・ヨーロッパ人およびアジア人の移住制限
・アフリカ人政党の立法議会への参加
・自由選挙の実施
・アフリカ人の、社会的、経済的、政治的啓蒙
を掲げる、初の全国規模政党(と言っても、メンバーの多くはやっぱりキクユ族だった)、ケニア・アフリカ人連合
(Kenya African Union, KAU)が設立されました。1929年の裏切りのほとぼりが冷めたのか、植民地政府の弾
圧を交わすため、植民地政府への協力姿勢を示していたために担ぎ出されたのかは不明ですが、初代党首に
は、ケニア民族主義の生みの親、ハリー・ツクが就任しました。

 ケニヤッタは、パドモアや、クワメ・エンクルマ(Kwame Nkrumah 1909-1972 ガーナ建国の父)、ヘイスティン
グ・バンダ(Banda, Hastings Kamuzu 1902?-1997 マラウイ建国の父)らとの交際から、ケニアの独立のみなら
ず、全アフリカ的な民族運動にも参加してゆきます。ケニヤッタは、彼らとともに、民族運動の連合体、汎アフリカ
同盟を結成し、1945年10月、マンチェスターにおいて第5回汎アフリカ会議を開催しました。ちなみに、第一回
汎アフリカ会議は、アメリカの黒人思想家、デュ・ボイス博士(William Edward Burghardt Du Bois 1868-1963)
によって主導されて、1919年にパリで開催され、当初は、アメリカや西インド諸島の黒人の権利の追求が目的
でした。なお、デュ・ボイス博士は、この第五回会議にも参加しています。
 1946年9月、ケニヤッタはケニアに帰国しました。ケニヤッタは、キクユ族に限らず、他の部族からも独立運
動のリーダーとして認めらていましたが、ケニアの白人達は、白人支配体制への脅威として、ケニヤッタの帰国
に強い反発を示しました。
 帰国したケニヤッタは、キクユ族の長老の娘Wanjikuと結婚します(1950年に出産時に死去)。また、ギサング
リ教員養成カレッジの校長に就任し、この立場を通じて、独立運動全体に対してさらに強い影響力を持つにいた
りました。この結果、非キクユ族勢力も、KAUを支持するようになります。ここで再び民族運動は力を盛り返し、マ
サイ族、ルオ族、その他キクユ族以外の部族でも多くの政治団体が結成されました。そして1947年6月、KAU
の二代目党首、ジェームス・ギチュル(James Gichuru)から党首の座を譲られ、ケニヤッタはKAU党首に就任し
ました。
 1948年から1952年にかけて、KAUは奪われた部族の土地の返還、アフリカ人に対する差別の撤廃、ケニ
アの独立を求めて活動を続けました。1951年5月、ケニヤッタは、ジェーロズ・グリフィス植民地大臣と会見し、
独立に向けた制憲議会を1953年5月に設置する合意に達しました。
 1951年9月、ケニヤッタは、キクユの族長の娘と、これが最後となる結婚をしました。この最後の妻、Ngina
Nyokabiは、ケニア最初のファーストレディ、ママ・エンジナとして今も人気があり、彼女との間に生まれた息子、
ウフル・ケニヤッタは、地方自治大臣も努めた大物政治家として活躍中です。

WEB デュ・ボイス博士
(William Edward Burghardt Du Bois 
1868-1963)


クワメ・エンクルマ
(Kwame Nkrumah 1909-1972)


ヘイスティング・バンダ
(Hastings Kamuzu Banda 1902?-1997)
BBCi (http://www.bbc.co.uk/)より



マウマウ団
 第二次世界大戦中、多くのアフリカ人が徴兵され、エチオピアやイタリア領ソマリランドでの作戦は勿論、北アフ
リカ、中東、一部はインドの戦線に投入されました。そして、当然ながら兵士達は、植民地の支配者のために戦
わされることに疑問と不満を感じました。勿論、ケニアに戦火が及んだり、植民地政府がアフリカ人にも公平であ
ったりすれば、こうした不満も少なかったでしょうが、あいにくとケニアにはイタリア軍の小規模な侵攻があっただ
けであり、植民地政府も公平でも公正でもなかった。
 戦争が終わり、動員解除となった元兵士達は、植民地政府へのこれまで以上に強い不満と共に、今までは考
えもしなかった武力による植民地政府の打倒という考えをもって、故郷に帰ることとなったのです。
 イギリス政府は、概ね民族主義に好意的であり、アフリカ人の利益のための社会改革を計画していたのです
が、ケニアの白人は執拗な反対工作を展開し、こうした動きは完全に阻止されてしまいました。当然、ケニア人
の不満が爆発することになり、マウマウ団(Mau Mau 語源は不明)と呼ばれる過激派が台頭し、「マウマウ戦争」
と呼ばれる大規模な戦闘に発展しました。
 いつの頃からかはっきりしませんが、ケニアには「40グループ」と自称する団体がありました。40グループとは
どういう連中かと言うと、なんのことは無い、酒と麻薬の密輸を生業としていたカンペキなギャングであり、もとも
と、政治的背景は全く無かったのですが、第二次世界大戦後、元兵士の加入によって急に政治色を深めて、19
46年頃からは「自由の戦士」を名乗ると、反植民地政府のテロ作戦を開始しました。とは言え、彼らの最初の仕
事は、「自由の戦士」への協力を拒んだアフリカ人有力者の暗殺でした。彼らはナイロビとモンバサの売春組織
を取り仕切っており、資金源、情報源として大いに活用していました。
 マウマウ団は、主としてキクユ族からなる秘密結社で、その期限ははっきりしないところが多いのですが、40グ
ループから発展したものと考えられています。Dedan Kimathi(? - 1957)という人物を長とする半ばカルト化した
集団であり、白人に奪われたキクユの土地の奪還を目標に掲げていました。最初は白人所有の牧場のウシを皆
殺しにする(この戦術を取る限り、ウシを大切にするマサイ族とは相容れなかったでしょう)という比較的大人しい
ものでしたが、やがて白人を殺し始め、さらには、マウマウ団に協力しないキクユ族まで殺すようになりました。

 今でこそ、マウマウ団の運動はケニアの独立に大きな貢献を果たしたと評価されていますが、実際のところ、こ
ういう暴力的な政治運動は問題解決の助けにはならず、確実に脚を引っ張ります。マウマウ団の蜂起のおかげ
で、アフリカ人のための社会改革も、戦後に着手された経済開発計画も完全に頓挫しました。
 ケニヤッタは勿論、KAUのリーダー達はマウマウ団とは関係しておらず、どちらかというと批判的でしたが、ケ
ニヤッタには、マウマウ団を抑えることは出来ませんでした。このことに関しては批難がましい意見もあります
が、マウマウ団とは、自分の意に沿わない相手は、キクユ族であっても殺してしまう連中であることを忘れてはな
りません。誰であれ、マウマウを止めることは出来なかったでしょう。また、マウマウ団が、独立運動の一本化の
ため、KAUと同じ主張も掲げ、入会の儀式がKAUと似ていたこと(両方ともキクユ族発祥だから当然と言えば当
然)から、白人入植者の間では、マウマウ団の黒幕がケニヤッタであると目されるようになりました。
  また、テロというものは、常に弾圧を正当化しまうものです。1952年10月20日、二週間前に着任したばかり
の新ケニア総督、イブリン・バーリング卿は、非常事態を宣言します。同時に、ケニヤッタらKAUのリーダー六名
を含む、独立運動のリーダー182人が逮捕されました。なお、この10月20日は、「ケニヤッタ・デイ」として祝日
となっています。植民地政府は、マウマウ団の暴走を招いたのが自らの偏屈さだとは気づかず、KAUの政治活
動を規制すればマウマウ団を抑えられると考えたのでした。

 マウマウ団の勢力は約12万人。しかし、ケニア植民地政府はイギリス本国に支援を要請し、5万人の軍隊を
投入した掃討作戦を開始します。一方で、キクユ族を有刺鉄線、地雷その他に守られた「保護村(protected
villages)」に収容して、マウマウのゲリラから隔離し、「保護村」を守る「ホームガード」として二万人のキクユ族を
動員しました。なお、「保護村」は、英領マレーの隔離村、南ベトナムの「ストラテジック・ハムレット」、満州国の
「ピントン工作」など、ゲリラ多発地域ではよく行われた手段です。
 植民地政府は当初、イギリス本国の軍隊を投入しても、マウマウ団のゲリラにてこずりますが、1955年になる
と、投降したマウマウゲリラからなる「偽ギャング(pseudo gangs)」、後に特殊作戦チームと呼ばれる部隊(マウマ
ウ団の指導者であるDedan Kimathiは、どちらかというと恐怖で部下を支配するタイプだったようで、投降者には
事欠かなかったようです)を投入し、森林地帯のゲリラ拠点をつぶしにかかりました。
 1956年10月21日、マウマウ団の指導者Dedan Kimathiが逮捕されると、マウマウ団の反乱は終わりまし
た。1957年2月、Kimathiは処刑(獄中で謀殺?)され、殉教者としてマウマウ団の残党に利用されないよう、遺
体は捨てられてしまい、今も見つかっていません。
 かくして、マウマウ団は壊滅しました。およそ100人の白人と2000人のアフリカ人兵士を殺した代償として、1
万3千人のマウマウ団メンバーが殺されました。これをもって、「一方的虐殺」とか言う意見もありますが、ゲリラ
戦、特に失敗したゲリラ戦のキル・レシオとしては妥当なものです。またこの当時、戦う人々の夢の兵器(自由の
戦士であれただのギャングであれ)、AK系突撃銃もアフリカに転がっていませんでした。問題は、約2万人のキク
ユ族が、マウマウ団シンパということで環境の劣悪な収容所に入れられ、多数の死者を出してたことであり、それ
やこれやで、マウマウ団の反乱によるキクユ族の犠牲者は、約四万人と見積もられています。
 
 マウマウ団は鎮圧されましたが、マウマウ団の活動が無駄だったわけではありません。まず英国政府は、マウ
マウの反乱の結果、白人至上主義のケニア植民地政府には、統治能力が無いとの判断を下しました。マウマウ
団を鎮圧したのも、イギリスの正規軍が投入されたからです。
 また、ケニア植民地は、軍事力無しでは支配できないと考えましたが、長期間軍隊を駐留させる金は無いし、
ケニアのアフリカ人には勿論のこと、独立運動への共感から、イギリス国内においても、そうした措置は不評でし
た。また、ケニア植民地政府は常に、アフリカ人は植民地支配に満足しており、幸福である、と植民地支配の正
当性を主張していましたが、自ら非常事態宣言を発したおかげで、その正当性も主張することが出来なくなりまし
た。
 ケニアにはまた、将来的に、白人至上主義政府による独立ケニアを考えていた連中もいたのですが、それが
妄想に過ぎないことをようやく悟りました。マウマウ団を鎮圧するのにイギリス本国の軍隊を投入しなければなり
ませんでした。簡単な話ですが、独立すればイギリスの支援は得られない→少数派の白人はあっさりつぶされ
る、という分かりきった結論の前に、「アフリカ人のアフリカ」を認めざるを得なくなったのです。身の危険を感じた
多くの白人入植者が、南アフリカ、ローデシア、オーストラリアに逃げ出しました。逃げ出した先を見ても分かると
思いますが、ろくでもない人種差別主義国家ばかり。ケニアの白人の資質がどの程度のものだったのか、よく分
かります。オーストラリアは、比較的早期にかつ平和的に人種差別主義を放棄しましたが、ローデシアでは、イア
ン・スミス率いるキチピーな白人至上主義政権を打倒するのに、結局は内戦になりました(イギリスは、反政府軍
を支援した)。南アフリカでも多くの血が流されることになりますが、ケニアも、一歩間違えば、そうした事態に陥っ
た可能性があったのです。



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