ジョモ・ケニヤッタその4 ケニア、ついに独立 1952年11月、マウマウ団騒動の張本人として、ケニヤッタは裁判にかけられました。白人入植者の間には、 ケニヤッタが暴力行為の黒幕であると言う根強い噂があり、また、ケニヤッタ自身も、一時、40グループと付き 合っていた事もあったようです。加えて、KAU内に、マウマウ団と通じているBildad Kagia (独立後、教育相)とい う人物が居たことが、話しをややこしくしました。しかし、実際のところは、ケニヤッタとマウマウ団には全く関係は ありませんでした。 ケニアのインド人社会は、この裁判を不当な弾圧とみて、直ちにインド系の腕利き弁護士をかき集めました。さ らに、ケニヤッタの弁護に当たっては特に、ネルー直々の指示で、インド本国からも腕利きの弁護士が送られて きたりしたのですが、1953年4月8日、結局、ケニヤッタは有罪を宣告され、重労働7年の刑を宣告されまし た。1959年4月14日、刑期満了で出所しましたが、その後も、ロドワーで自宅軟禁処分とされました。 一方、ケニアの植民地政府に見切りを付けたイギリスは、1960年1月15日、非常事態宣言の解除に伴い、 ロンドンのランカスターハウスで、ケニアの将来に関する制憲会議を開催しました。ここでKAUは、ケニヤッタの 釈放を要求しますが、これは無視されます。しかし、「アフリカ人主導による、1963年12月のケニア独立」とい う、重大な決定が下されたのでした。そしてこの会議の結果、ケニア政府の立法議会での過半数、および閣僚1 0名のうち四名をアフリカ人のポストとすることになりました。 ケニヤッタの収監とそれに続く自宅軟禁と政治活動の禁止により、独立運動の指導者が空白となっていました が、アフリカ人主導によるケニア独立の方針が明確となった今、いつになるかわからないケニヤッタの復帰を待 っているわけにも行かず、1960年3月27日、Kiambuで行われた会議では、独立に向けて足並みを揃える為、 全国規模の政党を結成しようとの提案がなされ、オギンガ・オデインガ (1911-1994)、トム・ムボヤ(1930 - 1969)が中心となって、5月14日、ケニア・アフリカ人同盟(Kenya African National Union; KANU)が結成され、 ジェームズ・ギチュル(1914-1982)が党首に任命されました(正確には、ケニヤッタが当人不在のまま党首に選出 され、ギチュルはその代行)。 とは言え、信望のあるケニヤッタの不在に加え、白人の入植者の運動もあって、独立運動には分裂が生じまし た。KANUは、来たる独立ケニアを、部族の枠を超えた中央集権国家として構想していましたが、中央集権体制 をとれば、多数派のキクユ族が必ず主導権を奪うと見た少数部族は、1960年6月25日、白人も含んだ部族毎 の連邦国家を主張して、ロナルド・エンガラ(? - 1974)をリーダーとするケニア・アフリカ人民主同盟(Kenya African Democratic Union; KADU)を結成します。1961年の選挙ではKANUが勝ちますが、対立は解消せず、 釈放されたケニヤッタが仲裁するまで、KANUとKADUは連立政府を組むことが出来ませんでした。 1960年、ケニヤッタの釈放を求める声が高まり始め、インドのAmbu Patel(ガンジーの師匠、Sardar Patel の息子)が中心となって、”リリースジョモ委員会”が作られました。ケニヤッタの釈放を求めるデモが行われ、内 外からの100万人分の署名(ネルー、ナセル、クワメ・エンクルマら外国の元首も含まれていた)が集まり、196 1年8月14日、ようやくケニヤッタの自宅軟禁処分が解かれ、生まれ故郷Gatunduに戻って、大歓迎を受けまし た。1961年10月28日、正式にKANU党首に任命されました。その後ケニヤッタは、第二回制憲会議のため、 KANUの代表としてロンドンに派遣され、この席では、1963年12月にケニアを共和国として独立させるという新 憲法が採択されました。 1963年5月、新憲法の元で選挙が行われました。路線対立が解消できなかったKADUとは、ついに袂を分か つことになりますが、ケニヤッタ率いるKANUが勝利し、6月1日、ジョモ・ケニヤッタはケニア自治政府の首相に 就任しました。KANUが勝利したことで、ケニアに残留していた白人入植者の中に不安が広がりますが、ケニヤッ タは、白人入植者に悪意は抱いておらず、過去のゴタゴタは「許すし、忘れる(forgive and forget)」と、白人を歓 迎する意向を示しました。 とは言え、白人に奪われた土地の奪還、は、かねてからの主張ですから、その辺のことをなおざりにすることも 出来ませんでした。そこで、イギリス本国より1億ドルに上る援助を受け、白人所有の農場の買い上げが行われ ました。買い上げられた農場は、小さく分割されてアフリカ人に分配されましたが、農場の分割による生産性の悪 化、さらに、住宅建設による農地の縮小と自然環境の悪化などの弊害ばかりが目立つようになり、買い上げ政策 は中止され、残念ながら、「奪われた土地の奪還」は、うやむやのうちに終わることとなります(余談ながら、最近 ジンバブエで、白人所有農場の没収と、黒人への分配が行われました。事の善悪は別として、ジンバブエでは近 いうちに、農業生産の低下が起こるでしょう)。 1963年12月12日深夜、ナイロビ、ウフルスタジアムで、大観衆の見守る中、ケニア国旗が掲げられ、ジョ モ・ケニヤッタは、ケニアの独立を宣言しました。その一年後、1964年12月12日、ケニアはイギリス連邦内の 共和国となり、ケニヤッタは、初代大統領に任命されました。
独立ケニアのその後 ケニヤッタは、ケニアの経済発展に尽力し、初等教育の無料化など、社会改革にも貢献し、東アフリカで一番の 繁栄と安定を築きました。1966年には、最初の心臓発作に見舞われますが、それでも、1978年に死去するま で大統領を務めました。 しかし、やはりと言おうか残念と言おうか、他のアフリカ諸国の例に漏れず、ジョモ・ケニヤッタもまた、政権を 担った後は独裁化し、紛れも無い身内のキクユ族中心の体制に移行しました。まずは1965年にKADUが「自主 解散」して、KANUに吸収され、連邦主義が消滅しました。1966年末には、議会は一院制となります。こうした動 きに対し、1967年、元副大統領のオディンガが中心となって、ケニア人民同盟(Kenya People's Union; KPU) が新たな野党として結成されましたが、1969年7月に、ケニヤッタの盟友、トム・ムボヤ経済開発計画相が暗殺 されると、それにかこつけて、10月にはKPUが非合法化されて、オディンガも逮捕されます。ここでKANUの一党 独裁体制が完成しました。また、ケニヤッタは体制批判にはそれほど寛大ではなかったようで、彼の政敵が何人 か「行方不明」になっているのも事実です。 1978年8月22日の午前3:30の就寝中、ジョモ・ケニヤッタは心不全で急死しました。 ジョモ・ケニヤッタは、ケニヤの独立のみならず、その著作と研究を通じて、アフリカの文化的ナショナリズムの 高揚に大きな貢献を果たしました。だから、権力の座についてからの晩年は、いささか残念です。とは言え、汎ア フリカ会議に参加したエンクルマも、バンダも、やはり独裁者(バンダは、「心優しき独裁者」とか呼ばれています が)でした。また。現在もサハラ以南のアフリカ諸国では、独裁体制でない国の方が少ないでしょう。ソマリアのよ うに、もはや国家としての体をなしていない国や、コンゴ(旧ザイール)のようにひたすら動乱に明け暮れている国 よりも、独裁体制がマシとは言えるでしょうが、これがアフリカの現実であることも、また事実でしょう。 ケニヤッタの死後、副大統領だったダニエル・アラップ・モイ(Daniel Arap Moi 1924 - )が大統領になりまし た。彼はTugen族という少数部族の出で、キクユ族独裁との批判をかわすための看板役とみなされてきた人物で したが、いざ大統領になると、ケニヤッタ以上に独裁的でした。それでいて、ケニヤッタほど人気もカリスマも無か ったため、必然、反体制派の逮捕、政治団体の解散、大学の閉鎖などの強権にはしりました。その後のケニア は、弾圧、暗殺、虐殺、インチキ選挙等、独裁国家にお決まりの事態の連続であり、先進国の顰蹙を買って、冷 戦終結後の1992年には西側の経済援助が途絶、経済は深刻に弱体化します。 2002年の大統領選挙では、KANUが押すケニヤッタの息子、ウフル・ケニヤッタが、野党連合、ナショナル・レ インボウ同盟(NARC)のムワイ・キバキに破れ、建国後初の政権交代が実現、現在にいたります。
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