デ・ヴァレラその3
休戦
 1920年12月、デ・ヴァレラが帰国する直前、臨時政府副議長で彼の代行だったアーサー・グリフィスが逮捕さ
れました。その結果、マイケル・コリンズが議長代行の代行として、一時的に臨時政府の全権を握リました。この
ことがどれだけ影響したかは分かりませんが、この頃からデ・ヴァレラは、コリンズの影響力の増大にはっきり警
戒感を抱くようになりました。
 これに関してコリンズの支持者は、コリンズにその意思が無いにもかかわらず、デ・ヴァレラはコリンズが自分
にとって変わられる事を恐れたのだと言っています。これは悪意のある解釈かも知れませんが、しかし、他に納
得の行く説明が無いのも事実です。暗殺、待ち伏せ、爆弾テロなどのコリンズの陰惨な戦術は、臨時政府の閣僚
の多くを占めている穏健な憲政論者からは批判が多かったのは事実ですが、武闘派として知られるIRBに属し、
義勇軍の創設メンバーでもあり、イースター蜂起にも参加したデ・ヴァレラは、はたして憲政論者と言えるでしょう
か?まあ、カサル・ブルッハー国防大臣が何か讒言したのかも知れませんし、熱心な共和主義者であるデ・ヴァ
レラは、暴力的(に見える)コリンズ一派が政権を握ることによって、強圧的な独裁政権が誕生する事を恐れたの
かも知れません(もしそうだとしたら、この危惧は部分的に正しかった)。
 1920年、反故にされていたアイルランド自治法が議会を通過し、アイルランドは晴れて独自の議会を持てるよ
うになりました。しかし、アルスターは断固として受け入れを拒否。その結果、アルスターは南部アイルランドとは
別に独自の議会を持つことになりました。デ・ヴァレラがアメリカから帰国したのは、こうしたアルスター分離傾向
がはっきりしたことに警戒感を抱いたからでもあります。また、南部アイルランドの国民評議会も、今更自治法を
受け入れるはずはありませんでしたが、それでもシン・フェーンは、アイルランド自治法の下での総選挙に参加
し、またしても大勝利を収めました。これを見たイギリスは、従来の対決姿勢を改めざるを得なくなります。
 イギリスの首相ロイド・ジョージは、アイルランドをカナダ、オーストラリアと同等の自治権を持つ自由国とするこ
とを申し出ました。しかし、港湾や航空路の管轄権についてイギリスの権限の及ぶ範囲が大きかったため、デ・
ヴァレラを初めとするアイルランド国民評議会は、全会一致で申し出を蹴りました。
 ここでデ・ヴァレラはもう一押しを目論見ました。マイケル・コリンズと対立するようになっていたデ・ヴァレラは
IRAのゲリラ戦術を批判し、コリンズの反対を押し切ると、「従来型」の戦術で大規模な攻勢を行うことをコリンズ
に命じました。目標はアイルランド総督府、カスタムハウス(税関庁舎)。
 この攻撃そのものは成功し、カスタムハウスは首尾よく炎上したのですが、IRAはたちまちイギリス軍に包囲さ
れてしまい、120名の兵士を失って作戦は大失敗。これはイースター蜂起の損害の倍に当たります。IRAの戦闘
能力はこれで大打撃を受けますが、突然の攻撃にイギリス側は困惑しました。
 1921年6月22日、アルスターでアイルランド自治法による議会が召集されたのを機に、イギリス首相、ロイ
ド・ジョージは6月29日にアイルランド国民評議会に対して休戦を申し入れ、和平交渉の予備会談のためにデ・
ヴァレラをロンドンに招待しました。しかし、アイルランドの代表団は英国の王権からのアイルランドの分離(つま
り共和国としての完全独立)を考慮しないことが前提条件となっていたので、デ・ヴァレラは和平会談を拒否しま
す。その後、すったもんだの末、ロイド・ジョージは前提条件を取り下げたので、デ・ヴァレラも申し出を受け入
れ、7月11日に休戦が発効しました。この時、デ・ヴァレラがどういう話をしたのか分かりませんが、ロイド・ジョ
ージは、「視野が狭く、考えが理解できない」と彼を評しました。デ・ヴァレラと会談した他の政治家も、「キリスト生
誕の話をした」とか「ノルマン・コンクエストの話を二、三時間もやった」などと証言しています。







マイケル・コリンズ(左)とアーサー・グリフィス (右)。え?
コリンズがミスター・スポックに似ているって?
カスタムハウス


大黒星 

  そこまでのイギリス側の態度から、デ・ヴァレラは、イギリス政府が、アイルランドの共和国としての完全独立と
アルスターの分離について譲歩の意思がないことを悟っていました。しかし、停戦を求める国際世論が高まって
いるこの時、妥協が必要なことも悟っていました。デ・ヴァレラは最初、自らも和平交渉に当たるつもりでいたの
ですが、10月に入ると態度を変え、健康を損ねていたアーサー・グリフィスに代わる実質的な交渉団長として、マ
イケル・コリンズを指名しました。
 これに関しては、イギリスとの妥協が必至となった状況で、共和国としての独立もアルスターとの統一も認めら
れない条約の調印者になりたくなかったデ・ヴァレラが、最大のライバルと認識していたコリンズにババを押し付
けたと言うのが定説となっています。
 しかし、これは悪意ある解釈だと私は考えます。デ・ヴァレラは交渉者としての手の内が読まれていたので、交
渉役の能力は未知数ながら、手の内が読まれていない上に、殺し屋として一目置かれているコリンズの手腕に
期待したのではないでしょうか(そして、後にデ・ヴァレラがとった行動も、失望故のものだと考えれば、納得が行
きます)。
 とにかく、アーサー・グリフィスを団長とする5人の代表団はロンドンへと赴き、10月10日(11日?)、和平交渉
が始まりました。イギリス側の代表は、ロイド・ジョージ、バーケンヘッド卿、ウインストン・チャーチルなど百戦錬
磨の大物政治家達。イギリス側は、アイルランドに大英帝国の自治領の地位を付与し、「アイルランド自由国」の
設立を提示しました。この「自由国」とは、カナダやオーストラリアのようなもので、ほとんど独立国なのですが、イ
ギリスの公債の分担義務や、イギリス王室への忠誠、国王代理としての総督(植民地ではないのでイギリス人で
ある必要は無い)の配置などの制約があります。
 一方、アイルランドの代表団は、イギリス王室への忠誠、アルスターの分離に関して異議を唱えますが、交渉は
押され気味であり、ロイド・ジョージに至っては露骨に脅迫もしました。結局、1921年12月6日、和平条約は調
印され、イギリス議会は満場一致で和平条約を批准しました。
 しかし、デ・ヴァレラは条約の内容に激しく不満でした。

1) アルスターの分離条項(一応、アルスターはアイルランド自由国の管轄下に入っていたが、1920年の自治法
によるアルスター議会のみが全ての権限を有しているうえに、自由国からいつでも離脱することが出来るように
なっていた)
2)イギリス王室への忠誠の宣誓
3)自由国の初代総督がイギリス人に内定したこと
4)南部海岸にイギリスの海軍基地が残る

 以上の項目をデ・ヴァレラは激しく攻撃し、共和国への道を閉ざすものだと非難しました。交渉を他人任せにし
ておきながら、今更なんだと言う気がするのですが・・・。それはともかく、グリフィス、コリンズらはアイルランドは
「自由を達成する自由」を得た、共和国は自由国を通じて達成出来る、と主張してデ・ヴァレラと対立しました。
 しかし、グリフィス、コリンズら(条約派)の主張が現実的で実際的であるのに対し、デ・ヴァレラ(共和派)は条約
を拒否して、その後どうするのか、という具体的な方策をもっていませんでした。

 デ・ヴァレラの持論は「外面的連合」と言うもので、アイルランドは英連邦に留まる反面、イギリスによる干渉は
一切受けず、アイルランド国民は、「国内的」にはイギリス帝国の臣民ではなく、王室に対して忠誠を誓う義務が
無いというものでした。はっきり言って、「自治領」「自由国」と何処が違うのか、と言うと、デ・ヴァレラ本人も認め
るとおり、ほとんど違いはありません。デ・ヴァレラとしては、イギリス王室に対する忠誠の宣誓が、歴史的経緯や
共和主義者としての心情から受け入れられなかったのですが、なんでまた形式的な宣誓に拘るのかが、ロイド・
ジョージは勿論、アイルランド市民や議員の多くにもさっぱり理解できませんでした。
 このため、シン・フェーンの「大物」の多くは共和派に付いたにも関わらず、結局1922年1月8日に、64対57
で条約は承認されました。
 デ・ヴァレラは直ちに国民評議会議長を辞任し、支持者ともども国民評議会をボイコットします。後任にはアー
サー・グリフィスが就任し、マイケル・コリンズが自由国成立までの暫定政権首相として実務を担当することになり
ますが、大物のほとんどがデ・ヴァレラについたため、暫定政権の閣僚の多くは、社会的に無名に人々によって
占められることになりました。
 コリンズは条約の賛否を問うための国民投票と総選挙を直ちに行うつもりだったのですが、デ・ヴァレラは強硬
に反対します。さらに彼は、共和派による国民評議会(=1920年の選挙で選ばれたデ・ヴァレラとその子分達)の
みが正当な権威を持つ立法機関であると宣言しました。その上、
「条約は共和国への道を閉ざすものだ!アイルランド人の血がまた流されるだろうが、内戦によってしか独立を
達成出来ないのなら、内戦しかない!」
「義勇軍は同胞の血を浴びることになるだろう。しかし、自由国政府は打倒する。アイルランドの真の自由を達成
するためだ!!」
 などとカゲキな演説をぶって公然と政府打倒を宣言しました。おかげでIRAにも分裂が生じ、共和主義を信奉す
る一派はデ・ヴァレラ支持を表明します。そして、すったもんだの末、コリンズとデ・ヴァレラの間で、国民評議会
における両派の現有比率(すなわち64対57)のままで候補者を出しあって1921年6月16日に選挙を実施し、閣
僚は条約派が五人、デ・ヴァレラの共和派から四人にするという協定が成立しました。
 しかし、選挙に出るのは条約派と共和派だけでは無かった。当然ですが、もともとアイルランドには、旧国民党
や労働組合系などの政党もありました。そうした政党は自由に候補者を立てて来ます。そして選挙の結果
は・・・?
 
  条約派が58議席を獲得したのに対して、共和派は36議席。条約派があまり数を減らしていないのに、共和派
の票が他の政党に食われたことで、デ・ヴァレラら共和派は、実は人気が無いことが判明しました。しかも国民投
票では78%の賛成で和平条約が承認されてしまった!デ・ヴァレラは決定的な大敗北を遂げたのでした。

      
      演説するデ・ヴァレラ

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