デ・ヴァレラその4 
コスグレーブの登場

  ここで話が終わるなら何の問題もありませんが、デ・ヴァレラはなおも、アイルランド共和国以外の権威を認
めようとはしませんでした。
「アイルランド独立のために死んだ勇者達に申し訳が立たない。」
 死人をダシにするのは、なにも日本の専売特許ではありません(大陸で死んだ英霊達に申し訳が立たない!だ
から戦争は続けるぞい!)。1922年3月、IRA内の共和派を支持するグループは、国民評議会に対する忠誠を
撤回し、1921年選出の少数派議員(=つまり、デ・ヴァレラら共和派の新共和党)の指揮下に入ると宣言しまし
た。そして4月には、デ・ヴァレラ支持のIRAが、ダブリンの最高裁判所に乱入し、占拠する事件を起こしていまし
た。
 しかし、デ・ヴィレラと言えども選挙の敗北はどうしようもありません。だから、何を思ったかとうとう、彼は武装
蜂起を決行します。IRAはダブリン市内の要所や各州の行政庁舎を占拠し、共和派はアイルランドの大部分を支
配下におくことに成功しました。
 この反乱に対し、マイケル・コリンズは当初、武力攻撃には消極的でしたが、チャーチルが6月中に共和派を排
除せよと要求してきたため、結局6月28日、マイケル・コリンズ自ら指揮する自由国政府軍が総攻撃を開始、つ
いに内戦が始まりました。

 IRAのような装備も人数も少ない不正規軍が、集団でどこかに立て篭もったりすれば、包囲される→しこたま砲
撃をくらう→手も足も出せずに降伏、というパターンをたどる事は、デ・ヴァレラはイースター蜂起とカスタムハウ
スで経験済みのはずでした。しかし、またもここでも正規の軍隊に正面からぶつかるというミスを犯します。IRA
はあっという間に鎮圧され、デ・ヴァレラもコーク州の田舎で逃亡生活を余儀なくされました。コーク州はマイケ
ル・コリンズの出身地でもありますが(ただし、ブラック・アンド・タンズの襲撃で家は焼き払われていた)、住人は
反骨精神旺盛で長く反英運動の温床であった場所です。
 8月に入ると、デ・ヴァレラに幸運(らしきもの)が舞い込みました。まずアイルランド自由国首相アーサー・グリフ
ィスが過労死。そして、いまやデ・ヴァレラ最大の敵となったマイケル・コリンズが首相代行に就任しましたが、そ
の直後、デ・ヴァレラとの会見に赴いたコーク州で殺害されました(デ・ヴァレラがコリンズの死に関与していたか
どうかは不明ですが、デ・ヴァレラ自身は、この期に及んでもまだコリンズをうまく手なずけることが出来ると考え
ていたようです)。
 グリフィスとコリンズは、条約派にとっては唯一無二と言っても良い大物指導者でした。特にマイケル・コリンズ
は、独立運動で果たした役割はデ・ヴァレラよりもはるかに大きく、テロリストの才能以外にも、優れた財務能力
と政治家としての感覚も持ちあわせていました。僅か31歳と言う早過ぎる死は、アイルランド全体にとって取り返
しのつかない損失を与えたのです。
 さて、自由国政府は12月の第一週までに憲法を制定し、イギリスの批准を受けなければなりませんでした。そ
のため、内戦が続いている8月に、共和派を排除した議会をつくるために再度総選挙が行われ、9月、仮の議事
堂で開かれた議会で、ウイリアム・トーマス・コスグレーブ(1880-1965)が、アイルランド自由国首相に選出されま
した。
 コスグレーブはイースター蜂起に参加して終身刑の判決(ただし、一年で釈放)を受けた人物ですが、どちらかと
言うとそれまでは無名でした。彼は急いで憲法を制定すると共に、自由国政府軍を大幅に増強し、武器の不法所
持に死刑を課すことでIRAに対処しました。実際、数人がピストルを持っていだだけで処刑されていますし、現場
で兵士に射殺されたりした者もかなりいたはずです。
 しかし、この頃にはIRAは鎮圧されており、新たな武力衝突も無く、どうにかコスグレーブは憲法制定までこぎ
つけました。

 憲法制定の2日後の12月8日、新憲法の下での最初の議会の席がIRAに襲撃され、議員一人が殺される事
件が発生しました。ここに至ってようやく、共和派はマイケル・コリンズ直伝の都市ゲリラ戦を開始したのです。
が、これは完全に逆効果で、怒り狂ったコスグレーブは、ついに共和派に対する大弾圧を開始しました。イギリス
がアイルランドに対して行った最悪の行為もコスグレーブの弾圧ほど過酷ではなく、理由無しの逮捕や裁判無し
の処刑が相次いで、半年足らずの間に一万人以上が投獄され、少なくとも50人の共和派メンバーが裁判無しで
処刑されました。
 さすがのデ・ヴァレラもこれには音を上げ、1923年5月、共和派に対して武力行使を停止し、武器を隠す
(dump)ように呼びかけました。「武器を捨てろ」と言わなかったのは、降伏を潔しとしなかったからですが、何はと
もあれ、前年6月から続いた内戦はここに終結しました。この間の死者は4000-5000人と推定されています。独
立戦争のアイルランド側の犠牲者が1000人ほどであることを考えれば、かなりの犠牲者です。また、戦火が全土
に及んだため(しかし、皮肉にもアルスターは平穏無事だった)、130万人の市民が失業してしまいます(当時、南
部アイルランドの人口は300万人程度)。しかし、イギリス支配下ならまだしも、1922年の状況における共和国
の理想が、果たしてマイケル・コリンズような卓越した指導者を含む数千人の死に値するものだったのでしょう
か?僕にはとてもそうは思えません。その責任は、全てとは言いませんが、少なくとも半分はデ・ヴァレラに帰せ
られると考えられます。




反条約派のメンバー達
マイケル・コリンズ、和平条約にサインする図


フィアナ・フェイル党

 コスグレーブ内閣はアイルランドの秩序回復に成功しました。しかし、その過酷な大弾圧で市民の信頼を失っ
た・・・・・・訳でもありませんでした。
 彼の閣僚には20代の若者も居り、コスグレーブ首相も含めて政府の運営には完全なド素人の集団でしたが、
ただでさえ貧しいのに内戦で疲弊していたアイルランド経済の回復に目覚ましい業績を上げて市民の信頼を勝ち
得ました。特に1927年の電力公社設立とシャノン水力発電所の建設は、独立アイルランドの経済建設の原点と
なったと高く評価されています。
 コスグレーブとその一派は、シン・フェーンと袂を分かち、ゲール同盟(Cumann na nGaedheal←どんな発音す
るの?_)を創設しました。彼らは、共和国への誓いを破ったとして、かつての同志達(=共和派)から敵視されていま
したが、イギリス政府と旧国民党は、コスグレーブ内閣を積極的に支援しました。自由国初代総督にも国民党出
身のアイルランド人が任命されます。
 
 アイルランドの秩序が回復した1923年8月、再度の選挙が行われました。デ・ヴァレラは、内戦中は「緊急事
態内閣」なるものを旗揚げして大統領におさまったりしたので、言い逃れのしようも無い反乱の首謀者であり、ず
っと逃亡生活を続けていたのですが、この選挙が近づくと、突然に姿を現して、「シン・フェーンを通じて、合法的
に世直しをしたい」と宣言し、地元の東クレア州から立候補しました。恐らくは、ここでようやく、由国政府打倒が
不可能であることを悟ったのでしょうが、デ・ヴァレラはこれ以後、内戦など無かったかのように振舞い、IRAとも
距離を置きはじめます。IRAの方も呆れてデ・ヴァレラを嫌うようになりました。
 こうしたデ・ヴァレラの唯我独尊的態度は、鈴木良平先生の著書「アイルランド建国の英雄達」によると、私生
児として差別された少年時代の反動と、愛読書「君主論」の影響が大とされています。しかし勿論、この時は無事
ですむはずは無く、演説中に自由国軍兵士に銃撃されて負傷し、逮捕されて1924年11月まで刑務所にぶち込
まれました。死刑に処されなかったのは、銃撃事件のおかげで同情論も高まっからですが、これは大いなる幸運
でした。

 さて、選挙の結果デ・ヴァレラ一派は44議席を獲得しますが、議員の宣誓でイギリス国王に対して忠誠を誓う
ことを理由に、またも議会をボイコットします。
 しかし、このボイコットはなんの役にも立ちませんでした。確かにイギリス国王への忠誠条項は、条約派の間で
も良くは受け取られていませんでしたが、デ・ヴァレラの態度は、この忠誠条項がうるさい共和派を遠ざける格好
の虫除けであるとコスグレーブに悟らせてしまったので、コスグレーブは忠誠条項を変更しようとしなかったから
です。
 このためデ・ヴァレラは、議会で忠誠条項を廃止するためには、一旦はイギリス国王に忠誠を誓わなければな
らないという自己矛盾に陥ってしまいました(←バカ)。まあ、大見得切ってからそのことに気づいたとは思いたくは
ないですけど・・・・・・。
 失敗を悟ったデ・ヴァレラは、現実路線に転換し、議会に参加することを考えます。シン・フェーンのメンバーの
多くは、それを自由国政府の承認であると考えてその方針転換を裏切りと憤慨し、IRAもついにデ・ヴァレラへの
支持を撤回してしまいます。このためデ・ヴァレラは、1926年にシン・フェーンを離党しました。
 しかしこの時、共和派ではデ・ヴァレラに対する個人崇拝(personal cult)がかなり進行していたので、意外なこ
とに、議会への参加に反対しつつも、シン・フェーンのメンバーの大部分はデ・ヴァレラについていってしまいまし
た(←なんとなくバカ)。結果、シン・フェーンは少数の過激派集団に落ちぶれ、デ・ヴァレラとその信者達は、フィ
アナ・フェイル党(「宿命の戦士」の意味。日本では「共和党」と訳される)を結成しました。もっとも、すぐに議会に
参加するのはさすがに気が引けたのか、フィアナ・フェイル党もまた、しばらくは忠誠条項の廃止とアルスターと
の統一を目標に掲げ、議会をボイコットしつつ院外活動でコスグレーブ内閣を攻撃し続けました。詩人イェーツ
は、デ・ヴァレラを評して「人間味が全く無い」としています。実際、デ・ヴァレラは小説や演劇その他、およそ文化
的なものには全く関心が無く、イェーツが評したとおりの人物だったのですが、妙なカリスマ性があったのでした。

 さて、内戦中にアルスターは、アイルランド自由国からの分離をイギリス政府に通告していました。その結果、1
923年4月までにアルスターと南部の境界には税関が設置されました。自由国設立時の和平条約では、アルス
ターが分離を決定した場合、境界の設定は住民投票で決定されることになっていました。しかし、この条文はア
ルスターの抵抗で反故になってしまい、もめにもめた末に、和平条約にあったアイルランド自由国の公債分担義
務の廃止と引き換えに、アルスターとの境界を現状のまま受け入れるということで解決しました。しかし同時に、
和平条約のアルスターとの境界設定に関する条文も廃止されたので、結果として、アイルランド自由国は、アル
スター問題の唯一の突破口を失ってしまいました。
 公債の分担義務がなくなった事で、貧しいアイルランド経済は計り知れない恩恵を受けたのですが、コスグレー
ブとゲール同盟は議会を無視して交渉を進めたため、アイルランド労働党から激しく攻撃されました。勿論、アル
スターとの統一を目標とするフィアナ・フェイル党も、この協定を激しく非難します。おかげでコスグレーブは人気
を下げてしまい、1927年6月の総選挙では他の政党が票を伸ばして、ゲール同盟は過半数を割ってしまいまし
た。しかし、議席数では相変わらず第一党だったので、コスグレーブは首相の座にとどまりました。それもこれ
も、フィアナ・フェイル党が相変わらず議会をボイコットしていたので、議会に参加して投票出来る反コスグレーブ
派の議員が少なかったからです(←大バカ)。
 しかし、ここでコスグレーブもミスを犯しました。フィアナ・フェイル党の院外活動を阻止する目的で、候補者の段
階で議会に参加する誓約と憲法への忠誠を誓わなければならないという法律を作ってしまったのです。
 さすがのデ・ヴァレラもこれには「屈し」、「大げさで白々しく、芝居がかった動作」で「イギリス国王への忠誠を誓
い」、実は「忠誠を誓ったわけではない」などと、無茶な強弁をしつつ、フィアナ・フェイル党の議員ともども議会に
参加しました。
 本当にデ・ヴァレラがコスグレーブの新選挙法に「屈した」のか、これ幸いと飛びついたのかはともあれ、議会
に登壇するや否やデ・ヴァレラは、アイルランド労働党、および国民同盟という小政党と連合して、コスグレーブ
内閣の不信任案を提出しました。勢力比ではデ・ヴァレラ派が一人分勝っていたのですが、採決の日にその一人
が何故か議会を欠席・・・。投票の結果は同点であり、議長のキャスティングボートでコスグレーブ内閣は存続し
ました。コスグレーブは直ちに議会を解散して総選挙を行いますが、その総選挙でもコスグレーブ派61議席、
デ・ヴァレラ派57議席と惜敗してしまい、コスグレーブはなおも首相の座にとどまりました。
 その後、デ・ヴァレラは労働党や国民同盟と提携して反対派の結集に全力を注ぎます。一方、コスグレーブは
様々な経済改革を行い、一応成功はしたのですが、貧しくて保守的なアイルランドでは不評も多くありました。

 1929年、世界恐慌が発生しました。もっぱらイギリスとの貿易に依存していたアイルランド経済は、イギリスの
経済危機に伴って大打撃を受けます。失業者が増加し、社会不安の拡大と共にIRAが活動を再開しました。こう
した反対運動に対して、コスグレーブはまたも強圧的な手段に訴えますが、内戦の時とは違い、今度は致命的に
評判を落としました。
 そして1932年2月、総選挙が行われました。テ・ヴァレラとフィアナ・フェイル党は、

1. 忠誠条項の破棄
2. 農民が支払う土地代金支払いをアイルランド自由国が徴収する(イギリス統治時代に農地改革が行われ、小
作農に農地が払い下げられたが、その総額300万ポンドにおよぶ年賦はイギリス政府に対して支払われてい
た)
3. その他、アイルランド経済におけるイギリスの影響力の排除
4. 国内産業育成のための保護貿易主義
5. 雇用の確保
6. ゲール語(アイルランドの土着語)の復活
7. アルスターとの統一

 を訴えます。一方、コスグレーブは、
「忠誠条項もアルスターも、今はそれどころではない。重要なのは経済の回復である」
と主張しました。ついでに、「アイルランドはモスクワの支援は必要ない」とフィアナ・フェイル党を暗に罵りました。
デ・ヴァレラは共産主義者ではありませんでしたが、2.の土地代金の支払いに関する主張を初めとする経済政策
に関する主張が、共産主義的政策であると広く誤解されていたため、このような批難になったものと思われます。
 選挙の結果、フィアナ・フェイル党は、労働党との連携で79議席(フィアナ・フェイル72、労働党7。アイルランド
では、労働党は人気の無い小政党です)を獲得。ついに過半数を制しました。そして、10年の雌伏を経たデ・ヴ
ァレラは、ついにアイルランド自由国首相に就任しました。

ウイリアム・コスグレーブ
(1880-1965)


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