デ・ヴァレラその2

イースター蜂起  
   
   ところが、イギリス政府に情報をつかまれている以上、最初から蜂起が成功する見込みはありませんでした。
まず、武器を運んできたドイツの輸送船が撃沈されてしまいます(そもそも、世界最大の海軍国の哨戒網を突破
出来ると考えたのか?この時点で考えが甘い!)。これを受けて、蜂起の中止を訴えるべく、Uボートでこっそりド
イツから帰って来たケースメント卿は、暗号が解読されていたので、上陸したその場で逮捕されました。形勢不利
と見たアイルランド義勇軍の指導者、オーエン・マクニールは、独断で蜂起の中止を決定して、各地の義勇軍幹
部に連絡すると共に、新聞広告でも「軍事演習の中止」を発表します。元来が憲政論者で、蜂起にはあまり熱心
でなかったシン・フェーンの党首アーサー・グリフィスも、その決定を支持しました。
 しかし、パトリック・ピアースら過激派が大暴走、「蜂起は一日遅れになっただけ」と勝手に声明を発するととも
に、仲間内でアイルランド共和国臨時政府の樹立を決定しました。勿論、ピアースは蜂起に成功の見込みが無
いことを認識していましたが、それでも率先して勇気を見せることで、後に続く者が出てくるのでは、と期待したよ
うです。
 そして1916年4月24日月曜日の正午、ついに蜂起は決行されました。これがいわゆる「イースター蜂起」で、
後に「歴史を変えた一週間(←本当は六日間)」と呼ばれる戦いが始まります。
 しかし、リーダー間の足並みの乱れは決定的であり、集まったのは訓練も経験も、ついでに武器も不足な男女
が1000−1500人のみ。それでも反乱軍は、中央郵便局、鉄道駅を初めとするダブリン市内の要所の制圧に
成功し、ピアースはアイルランド共和国独立を宣言しました。
 ところが、第一次世界大戦のドサクサの中での反乱は、当のアイランド人から大顰蹙を買ってしまいました。ま
た、義勇軍の死者六十数人に対してイギリス軍の損害440人はなかなかの戦いぶりでしたが、かれこれ数千人
のダブリン市民を巻き添えにした上に、イギリス軍の砲撃で市の中心部は廃墟と化しました(被害額は250万ポ
ンドにも及んだ)。これでは当然、アイルランド人の支持は皆無。
 本土からのイギリス軍の展開も素早く、水曜日には反乱軍は包囲されてしまいました。結局、土曜日の昼には
ピアースが降伏。反乱軍兵士達はダブリン市民の罵声を浴びながら連行され、共和国の夢はわずか六日で消滅
しました。
 さて、エイモン・デ・ヴァレラは、蜂起の首謀者の一人、トーマス・マクドノーの副官を務めており、計画段階の関
与はともかくとして、義勇軍の幹部であったため、一部隊の長としてイースター蜂起に参加します。そしてダブリン
市南部で奮闘し、彼の率いるグループは最後の方まで頑張っていましたが、結局は降伏。
 降伏した時、デ・ヴァレラは「もし俺を撃ち殺すのなら、俺の部下にやらせろ!"shoot me if you will, but
arrange for my men"」と言ったそうです。
 ピアーズ、コノリーら蜂起の首謀者15名は、即決の軍法会議で銃殺刑に処されました。ケースメント卿も、ドイ
ツと通じたスパイということで反逆罪で絞首刑(一般に、銃殺は名誉ある死で、絞首刑は不名誉と考えられてい
る)。勿論、デ・ヴァレラも銃殺刑を宣告されました。
 しかし、彼のアメリカ国籍が命を救いました。アメリカから抗議を受けて、結局、デ・ヴァレラは終身刑に減刑さ
れました。
 服役中の彼は、有名なマキャベリの「君主論」を愛読しました。デ・ヴァレラは、教科書以外にまともな読書はし
たことがないとのことですが、この「君主論」は唯一無二の愛読書となったそうです。



イースター蜂起の独立宣言に署名した七人。左からパトリック・ピアース、ジェームズ・コノリー、トマス・クラーク、トマス・マクドナルド、ジ
ーン・マクダーモット、ジョセフ・プランケット、エイモン・キャント。全員、銃殺刑。(http://www.iol.ie/~dluby/people.htm より)




イースター蜂起で逮捕されたデ・ヴァレラ(右)
(http://www. users.bigpond.com/kirwilli/default.htmより) 
連行されるイースター蜂起の逮捕者達
(http://www.users .bigpond.com/kirwilli/default.htmより)


国民評議会と独立戦争

  イースター蜂起の首謀者の処刑には、大きな禍根になると反対する意見は多くありました。しかし、ロイド・ジョ
ージの連立内閣が、国民党および統一党と打開策を協議している間に、蜂起のリーダー達は全員処刑されてい
ました。
 そして案の定、イギリスのこの苛烈な処置(と世間は見た。しかし、反乱軍が当のアイルランド人多数を巻き添
えにしたこと、国を挙げての戦争の中で敵国ドイツと通じての反乱、武装したまま逮捕されて事実関係が明白で
あったことなどを考えると、特に不当でも苛烈でもない)によって、アイルランド人の間には蜂起の首謀者に対す
る同情論が起こります。蜂起そのものには冷淡だったシン・フェーンも、死刑が執行された者を殉教として、生き
残っている者(つまりデ・ヴァレラ)をヒーローとして宣伝しました。実際、降伏したのが最後だったことが、デ・ヴァ
レラの大きなカリスマの素となっていたようです。
 1917年6月、アイルランド人の反英感情の高まりの中でデ・ヴァレラは釈放されました。14ヶ月の獄中生活の
間、彼は頻繁に外部と手紙をやりとりしており、シン・フェーンの宣伝活動もあって、イースター蜂起の生き残りと
いうことで民族運動全体におけるリーダーシップを確立していました。
 そして同年10月のシン・フェーン党大会において、デ・ヴァレラは党首に選出された上に、アイルランド義勇軍
の司令官にも任命されました。これは、イースター蜂起の生き残りの中で最年長者だったためですが、イースタ
ー蜂起以前に知り合っていた、マイケル・コリンズの強い推薦もあったと言われています。また、イースター蜂起
に冷淡だったアーサー・グリフィスが党首の座についていることへの批難も背景にあったようです。

 1918年初頭、ロイド・ジョージの連立内閣は、アイルランドに対する徴兵法施行を決定しました。自治法は相
変わらず棚上げで、そして20万人のアイルランド人が出征している中での徴兵法は猛反発を招きます。
 そんな中で、デ・ヴァレラ率いるシン・フェーンは、イースター蜂起の共和国独立宣言の継承を訴えてイギリスに
新たな戦いを挑みます。そのため、5月にデ・ヴァレラは、またも扇動罪で逮捕されて、イギリス本土のリンカーン
刑務所に収監されてしまいました。他にマイケル・コリンズなどの大物も含めた多くの党員が煽動罪で逮捕されま
したが、シン・フェーンはひるむことなく12月の選挙に打って出ました。ただしこの時、シン・フェーンの候補者の
半分以上は扇動罪で刑務所に入っており、デ・ヴァレラも獄中から選挙運動を行っていました。
 しかし、イースター蜂起の記憶とロイド・ジョージの失政はシン・フェーンには追い風であり、結局、レッドモンド
の国民党を議会からほぼ一掃し、シン・フェーンは106議席中73議席を獲得、アイルランドの第一党に大躍進
しました。

 選挙後間も無い1919年1月21日、シン・フェーンの副党首だったアーサー・グリフィスは、アイルランド選出の
全議員をダブリン市長公邸の会合に招きます。結局この会合には、まだ自由の身の居たシン・フェーン党員以外
は誰も参加しませんでしたが(少数の国民党員以外、他はアルスターの統一党だったから当然です)、ここでシ
ン・フェーンは、英国議会への登壇を拒否するとともに、臨時政府となるアイルランド国民評議会(ドール・エレン)
の創設を発表して、アイルランド共和国の独立を宣言します。まだ獄中にいたエイモン・デ・ヴァレラは、そのまま
国民評議会議長として臨時政府首班に指名されました。シン・フェーンの創設者、アーサー・グリフィスは副議長
に選出され、マイケル・コリンズは、当初は内務大臣、後にIRAの指揮官として軍事、諜報部門の長に任命されま
した。そして一月中に最初のテロが発生し、アイルランド独立戦争が始まりました。 
 1919年2月3日、デ・ヴァレラはケーキの中に埋め込まれた合鍵(鍵の型はデ・ヴァレラ自らが取った)を使
い、マイケル・コリンズの手引きでリンカーン刑務所を脱獄、アイルランドに戻りますが、同年6月、マイケル・コリ
ンズの相棒で、脱獄の片棒を担いだIRBのメンバー、ハリー・ボーランドを伴って、財政的、政治的支援を求めて
アメリカに帰国しました。また、その間の臨時政府首班の実務は、国民評議会副議長に選ばれていたアーサー・
グリフィスが代行することになりました。
 デ・ヴァレラのアメリカ滞在は一年半にもおよび、その間、アイルランド共和国の承認と、ウィルソン大統領との
会見を求めていろいろと活動しましたが、結局、共和国の承認も大統領との会見も果たすことは出来ませんでし
た。
 実のところ、ウィルソン大統領は親英的で、イギリスに対して攻撃的なデ・ヴァレラを嫌っていました。しかしデ・
ヴァレラは、自信がアメリカ出身であることから、なんとなくアメリカという国家に根拠の無い漠然とした期待を抱
いていたようで、大統領の態度などは全く気にしていなかったようです。しかし、それはともかくとして、デ・ヴァレ
ラは600万ドルに及ぶ資金を調達した上に、アメリカにおける世論を喚起することには成功しました。
 しかし、デ・ヴァレラのアメリカ訪問には、IRAとイギリス当局の間で陰惨な戦いが続いている時期であり、当
然、「敵前逃亡」という非難があります。また、資金集めには成功したものの、その過程でクラン・ナ・ゲールと対
立したり、後々の活動資金にと300万ドルをアメリカの銀行に残したうえに、豪勢なホテル暮らしや効果の無か
った裏工作で150万ドルを浪費したということです(なお、アメリカに残した300万ドルは、所有権に関してアイル
ランド自由国とデ・ヴァレラ一派との間で裁判沙汰となったため、出資者に返却された)。しかし、そうは言っても、
このアメリカ訪問はそれなりに成功でした。
 その間アイルランドでは、マイケル・コリンズ率いるIRAが過酷なゲリラ戦を展開し、イギリス政府に衝撃を与え
ていました。アメリカに居たデ・ヴァレラは、流血のアイルランドの現状をはっきりと認識することはありませんでし
た。また、ゲリラ戦の成功により、必然、アイルランドではコリンズの人気と影響力が高まっていました。臨時政府
の国防大臣、カサル・ブルッハーはデ・ヴァレラと親しい反面、コリンズをひどく嫌っていたので、いろいろと摩擦
も生じます。コリンズはデ・ヴァレラとはイースター蜂起の前から親しく、デ・ヴァレラの収監中、コリンズは彼の家
族(さすがカソリック、夫人に息子5人に娘2人!)に生活費を渡したりしていましたが、こうした事は、コリンズとの
関係に暗い影を落として行きました。


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