ダビッド・ベン=グリオンその2
生誕から第一次世界大戦まで 
  ダビッド・ベン=グリオンは、1886年、ロシア支配下のポーランド、プロンスクという町に生まれました。元々は
ダビッド・グリーンという名前であり、ダビッド・ベン=グリオンと名乗ったのはパレスチナ移住後の1906年からで
す。父親は弁護士でしたが、近代シオニズム運動の先駆けである「Hibbat Zion (シオンを愛する人々)」の中心メ
ンバーの一人であり、社会主義とシオニズムの両立を目指す団体「シオンの労働者(Poalei Zion)」の支部長でも
ありました。さらに地域のユダヤ人のための、ヘブライ語(当時、話し言葉としては死滅の危機に瀕していた)学校
を経営していました。グリーン少年は、父親の経営する学校で教育を受けており、かなり若い頃からシオニズム
(と社会主義)に傾倒していました。
 まず14歳の時、話し言葉としてのヘブライ語の復活を目指すシオニスト団体「エズラ(Ezra)」に加わりました。
更に17歳の時、「シオンの労働者」に加わってワルシャワへと赴き、若手のリーダーとして活躍しますが、1905
年から1906年にかけて、ストライキ煽動の容疑で二回も逮捕されてしまいます。父親が腕利きの弁護士だった
ため、いずれもすぐに釈放されましたが、2回目の逮捕後、さすがにポーランドにいづらくなったのか、かねてか
らの夢であったパレスチナ移住を決めました。
 当時、シオニズムには二つの流れがありました。シオニスト機構に見られるような、祖国再建を政治的な働き
かけと大国の承認の元に推し進めるという「政治的シオニズム」。この代表者が世界シオニスト機構であり、テオ
ドール・ヘルツルです。もう一つは「実践シオニズム」と呼ばれるもので、「アリヤー」や土地買占めもこれにあたり
ますが、主としてロシアや東欧系のユダヤ人による、手段を選ばずパレスチナへの移住(そのため「第二アリヤ
ー」とも呼ばれた)を推進し、ユダヤ人社会を建設してしまおうと言う運動を指します。お国柄か、信奉者には社会
主義者や無政府主義者が多く、「社会主義シオニズム」とか「労働シオニズム」とも呼ばれます。「シオンの労働
者」も社会主義とシオニズムの両立を目指す組織であるため、初期アリヤーのブルジョワなユダヤ人地主層とは
対立していました。当時のパレスチナでは、同じユダヤ人と言っても、ロスチャイルド家所有の農場や、その他裕
福な地主達は、アラブ人小作農を安く使っており、主としてロシアや東欧から来た後発のユダヤ人移民(第二アリ
ヤー)の就職は難しく、悪条件での就労を強いられていたのです。
 従って、ダビッド・グリーンは、ただパレスチナへ移住するだけでなく、「シオンの労働者」からパレスチナにおけ
る労働運動の指導という任務が与えられました。ヘブライ語式にダビッド・ベン=グリオンと改名した彼は、パレス
チナ到着早々、ユダヤ人労働者のストライキを煽動しています。そして、ユダヤ教独特の風習を利用して、彼は
ユダヤ人労働者の待遇改善に成功しました。パレスチナではオレンジの栽培とワイン作りが盛んでした。しかし、
パレスチナのワインはユダヤ教の安息日とパス・オーバー(キリスト教のイースターに当たる祭日)用として製造さ
れているので、ことブドウの栽培とワイン作りに関してはユダヤ教の教義に則った宗教的な作業であり、アラブ人
労働者を使うことが出来なかったのです。ダビッド・グリーンは賃上げと労働条件の改善を要求し、成功しまし
た。
 この成功から、「シオンの労働者」のエルサレム支部長、イツハク・ベンツビ(後、イスラエル大統領)と親しくな
り、二人は終生の友人になります。
 その後、ベン=グリオンはベンツビとともに、イスラエル北部、ガリラヤ湖畔(現ティベリウス湖)にある農場(イス
ラエル独特の集団農場、「キブツ」の先駆け)で働き始めました。ここでの農民暮らしをベン=グリオンは大いに気
に入り、彼は生涯を通じての農作業マニアとなりました。
 当時ガリラヤ近辺はまだユダヤ人とアラブ人(主にベドウィン族)は平和に共存していました。実際、ガラリヤの
アラブ人達は氏族間で揉め事があると、ユダヤ人の長老に調停を依頼した程です。ただ、ここはガラリヤ湖とい
う大きな水源を抱えた豊かな農地であるために、レバノンやヨルダンからやってくる盗人が多くいて、家畜泥棒や
作物泥棒が絶えない土地でした。ガリラヤ地方の伝統として、カナの村(キリストが奇跡を起こしたとされる村)出
身のアラブ人を夜警に雇う習慣がありましたが、ベン=グリオンら新参の移民達は、アラブ人に守ってもらうという
発想を嫌っていました。それに、新参の移民達の多くは、ロシアでポログロムから身を守るための自警団に所属
していた人が多くいたため、非ユダヤ人をあまり信用していませんでした。
 そこで、新参の移民達によって自警団「バル・ギオラ」が組織され、ベン=グリオンもそのメンバーに加わりま
す。この「バル・ギオラ」はやがて、パレスチナ全土にまたがる自警団「ショメール(ハショメール?)」に発展し、さ
らにはベン=グリオンの指導のもとにイスラエル建国の原動力となる政治結社「ハガナー」に成長していきます。
 バル・ギオラの創設者は、ロシア出身のマニア・ヴィルブシェウィッツというキツイ女性革命家でした。そのため
か、自警団といいながらも「バル・ギオラ」は、「ユダヤは火と血で滅んでも、火と血からよみがえる」という強烈な
モットーを掲げています。このモットーに引いたのか、最初は誰もバル・ギオラのメンバーを夜警に雇おうとはしま
せんでした。そこで、ベン=グリオンは非常手段に訴えます。ある夜、親友のイツハク・ベンツビとともに、アラブ人
の夜警がサボっていることを確認した後、とある農場からロバをかっぱらい、知らん振りしてその農場主に警告し
ました。夜警がサボっていた事は露見してクビになり、めでたくベン=グリオンとベンツビが夜警に雇われることに
なります。
 この頃のベンクリオンは、夜警、農夫、そして労働者達のリーダーとして忙しくも楽しい毎日だったと述べている
ようですが、実際の所、盗人達は武装しており、しばしば銃撃戦になりました。そして1909年のパス・オーバー
の日、二人の夜警が、盗賊に射殺される事件が起こります。この事件後、「バル・ギオラ」はより大編成の「ショメ
ール」として再出発します。ショメールの基本方針は、警備は行うが報復はしない(本当です!)というものでした。
この方針は「ハガナー」にも受け継がれますが、勿論、アラブ人を相手にする以上、アラブの風習に従わなけれ
ば身を守れないという意見もありました。しかし、アラブ人の「死には死を持って報いる」に従ってしまうと果てしな
い報復合戦に陥ってしまう、という意見が大勢を占めたのです。とは言え、現在のテロと報復の連鎖の根はここ
にあります。
 1910年、ベン=グリオンは、イツハク・ベンツビとともにからエルサレムで発行される「シオンの労働者」機関紙
の編集スタッフに選ばれ、田園生活はひとまず終わりました。

 さて1908年、オスマン・トルコ帝国では、エンヴェルを中心とする若手将校達によるクーデターが発生、いわ
ゆる「青年トルコ党の革命」です。日本の教科書では誉められているこのクーデターですが、現実のエンヴェルは
「大トルコ主義」を掲げる民族主義の過激派(後の大英雄ムスタファ・ケマルもクーデターに参加していたが、下っ
端でありエンヴェルと仲が悪かった)でした。当然、ユダヤ人にもいい顔をするはずは無く、1903年以来の反シ
オニズム路線に変更はありませんでした。それでも、オスマン帝国に議会が設置されたため、1912年、ベン=グ
リオンら「シオンの労働者」の若手幹部はイスタンブール大学に留学します。議会にユダヤ人議員を送り込むべ
く、トルコの法律を勉強するためでした。これはオスマン帝国の反シオニスト政策を変更させるためにも重要な布
石と考えられていたのですが、そんな中で、第一次世界大戦が勃発しました。トルコ自体、この戦争に参加する
理由は大してなかったのですが、オスマン・トルコの実権を掌握していたエンヴェルら軍部の大物(ムスタファ・ケ
マルは、この時もまだ下っ端だった)は皆揃って親独派であり、ロシアや英仏の蚕食を受けていたこともあって、
中央帝国側に立って宣戦布告します。
 パレスチナのユダヤ人社会は重大な危機に見舞われました。先にも述べたとおり、第二アリヤーの多くはロシ
ア、東欧からの(不法)移民であり、多くはまだ元の国籍を保持していました。そのため、「敵国の民間人」というこ
とで、多くのユダヤ人がパレスチナから追放されてしまうのです。議員を送り込む、という計画も当然ながら立ち
消えになりました。
 ベン=グリオンとベンツビは、第一次世界大戦勃発時、夏休みでガリラヤに帰っていました。ベン=グリオン自身
はトルコに忠誠を誓う考えだったのですが、ベンツビともども逮捕されてエジプトへ退去させらてしまいますが、し
ばらく後、二人は「シオンの労働者」のアメリカ支部の招きでニューヨークへと旅立ちました。


バルフォア宣言、もしくはイギリスの三枚の舌
 ベン=グリオンがアメリカで暮らしている頃、イギリスでシオニズムの実現に非常に重要な働きをした人物がい
ました。後にイスラエルの初代大統領となるハイム・ワイツマン博士です。
 1874年、ポーランドで生まれた彼は、少年の頃、姉がパレスチナへ移住していた関係からパレスチナのユダ
ヤ人支援のために寄付集めをしていました。シオニストに傾倒する素地は十分にあったわけです。そしてドイツ
の大学で教育を受けていた頃、ヘルツルの呼びかけに答えてシオニスト会議に出席しました。ジュネーブ大学で
しばらく講師をしていますが、そこでユダヤ人学生による「シオニスト・クラブ」を設立しています。その後、1904
年、奇しくもヘルツルが死去したその日、イギリスへ移住しました。ワイツマン博士は「不思議な力に引かれた」と
言っていますが、本当の所は専門が染料の研究だったので、織物工業の中心地であったマンチェスターに住み
たかったのでしょう。また、ウガンダ案に見られるように、イギリスはユダヤ人の苦境に理解を示していたので、
政治的な働きかけがしやすいと踏んだのかも知れません。
 ワイツマン博士はマンチェスターの有力新聞の編集者と友人になり、そこを通じて多くの政府要人と知り合う機
会を得ました。そこで知り合った一人が、首相も努めた大物政治家アーサー・バルフォア卿でした。バルフォア卿
はウガンダ案を蹴った経緯からシオニズム不信感を抱いていましたが、ワイツマン博士が「ロンドンの代わりに
パリに住めるか?」と説得してシオニズムの理解者にすることに成功しました。
 1907年のシオニスト会議でワイツマン博士は、政治的な働きかけとパレスチナ移住の両方を推進するという
提案を示し、「政治的シオニズム」と「実践シオニズム」の統一に成功しています(「統合シオニズム」と呼びます
が、まだ名前だけの統一で、実際に足並みがそろうのは1920年代からでした)。当たり前の提案なのですが、
先にも述べたように政治思想面での確執や宗教上の見解もあって、なかなかユダヤ人の事情はフクザツなので
した。
 そうこうしている内に第一次世界大戦が勃発。当然、火薬の需要が一気に高まります。火薬の製造過程では、
膠化剤として有機溶媒のアセトンが必要なのですが、この手の有機物は常に製造が難しく、イギリスにはアセトン
を大量に精製する技術がありませんでした。しかし、化学工業の先進国であるドイツはアセトン精製の技術を既
に確立しており、イギリスにとってアセトン製造法の発見は急務でした。海軍省の技術顧問を勤めていたワイツマ
ン博士はバクテリアを利用したアセトン製造法を開発に成功。イギリスは大量の火薬を火薬を手にすることがで
きるようになりました。その結果、ワイツマン博士のイギリス政府に対する影響力は増大します。
 1916年末、ロイド・ジョージの新内閣が成立すると、ワイツマン博士の長年の友人であるバルフォア卿が外務
大臣に就任しました。ワイツマン博士は、ぐずぐすしていればドイツが親シオニズム宣言を出し(実際、ドイツ帝国
は検討していた)、スエズ運河に近いパレスチナが一気に親ドイツに傾いてしまうだろう、今、シオニズムを擁護
すれば、パレスチナは親英的になる、と最後の一押しをかけます。
 そして1917年11月2日、外務大臣バルフォア卿から、英国シオニスト連合会長、ロスチャイルド卿宛ての書
簡という形で、パレスチナにおけるユダヤ人国家建設をうたった公式声明が発せられました。これが世に言う「バ
ルフォア宣言」です。ただ、その文面は「シオニストの願望に同情を示す」「ユダヤ人国家建設に好感を抱いて」
「最善を尽くす」など、表現はかなりあいまいであり、パレスチナ在住の非ユダヤ人の権利や利益を侵害しない旨
も(これはなかなか無理なことですし、ユダヤ人国家建設の意図とも矛盾します)明記されていましたが、シオニス
ト達は大いに勇気付けられ、パレスチナのユダヤ人は勿論、シオニズム自体が親イギリスへと傾きました。
 しかし、これはパレスチナを巡るイギリスの三枚舌の三枚目に過ぎなかったのです。
 1915年、中東地域からトルコの勢力を駆逐するため、カイロ駐在弁務官、ヘンリー・マクマホン卿は、マホメッ
トの血を引く名門ハーシム家の当主で、アラブ人のリーダー、フセイン・イブン・アリー(彼の三男が映画「アラビア
のロレンス」でもおなじみのファイサル王子です)にイギリスへの協力を求めます。フセインは「ダマスカス、ホム
ス、ハマ、アレッポを結ぶ領域内(地図で確認して下さい)をアラブ人国家として独立させる」ことを条件に出し、1
915年10月、マクマホン卿はフセイン師の要求受け入れを約束しました。このことに関する十通の書簡がいわ
ゆる「フセイン・マクマホン書簡」です。ここで注意しなければならないのは、フセイン師の要求する線には、地理
学的にパレスチナが含まれていないことです。フセイン師は、聖地アル・ドゥクス(エルサレム)の重要性を考え
て、わざわざ要求するまでも無くパレスチナはアラブ国家に含まれると考えていたようで、パレスチナに関するイ
ギリスの考えを確認しなかったのです。それに、マクマホン卿もフセイン師も、イギリスの残り二枚の舌に関する
動きは全く知りませんでした。
 1915年から1916年にかけて、イギリス政府の中東問題担当顧問マーク・サイクスとフランスの外交官シャル
ル・ピコが何度か会見し、1916年5月、英仏間でレバノンとシリアをフランス領に、イラクをイギリスの支配圏と
して、パレスチナは英仏露で共同管理するという秘密協定「サイクス・ピコ協定」が成立しました。これが当時のイ
ギリスの本音だったのでしょう。
 ワイツマン博士もフセイン師も、イギリスの(一部政治家)の意図は知る由もありませんでした。フセイン師は19
16年6月10日、自ら先頭に立ってトルコに対する蜂起を決行します(もっとも、これ以後の指揮はファイサル王
子が執った。また、この後の戦いで活躍したのが「アラビアのロレンス」ことトマス・エドワーズ・ロレンスである)。
ワイツマン博士もシオニズムへの理解と支援を求める政界工作を精力的に行っていたのですから、かなり哀れ
です。
 「バルフォア宣言」が発表されると、当然ながらパレスチナのアラブ社会に衝撃が走りました。イギリス政府のフ
セイン師に対する釈明は要領を得ないものでしたが、フセイン師は本質的に好人物であり、ユダヤ人のパレスチ
ナ入植は、迫害から逃れるための緊急避難で過渡的な措置であろうと釈明を受け入れたので、アラブ社会も、疑
いつつこの線で納得しました。しかし、この時もまたフセイン師は、将来的にパレスチナの領有権はどうなるのか
という問題を突っ込まなかったため、後々に大きな禍根を残すことになりました。

ハイム・ワイツマン(1874-1952)
アーサー・バルフォア(1848-1930) 

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