ダビッド・ベン=グリオンその3
ユダヤ人社会の発展と三枚舌外交の破綻
 パレスチナを追放されたベン=グリオンとイツハク・ベンツビは、アメリカ合衆国、ニューヨークへとやってきまし
た。二人はパレスチナにおける労働運動のリーダーとしてアメリカでも有名であり、労働シオニストの大歓迎を受
けます。当時、アメリカの世論はシオニズムに好意的で、特に在米ユダヤ人の半数が居住しているニューヨーク
市とその近辺ではその傾向が顕著でした。ベン=グリオンはニューヨークを拠点にアメリカ各地のシオニスト団体
を講演して回り、アメリカにおける労働シオニズムの普及に力を注ぎました(当時アメリカには、後にイスラエル首
相となるゴルダ・メイア氏がいました。彼女はベン=グリオンの講演会をすっぽかしてボーイフレンドとのデートに
はしり、組織から譴責されています)。
 約2年の米国滞在は、ベン=グリオンにとっては平穏な生活だったようで、「シオンの労働者」メンバーであるパ
ウラと結婚もしました。しかし、新婚早々の1917年、「バルフォア宣言」が発表されました。シオニスト達はユダ
ヤ人国家の実現性を見出して大いに勇気付けられ、ベン=グリオンも例外ではありませんでした。
 第一次世界大戦は、ユダヤ人の、祖国を持たない民としての悲哀をモロに感じさせる戦争でした。連合国側に
も中央帝国側(ヒトラーのようなキチピーな民族主義者がいなかったので)にもユダヤ系市民はおり、彼らはそれ
ぞれの祖国に対して忠誠を誓って同胞と戦う破目になっていたからです。そんなわけで、シオニスト機構をはじめ
とする国際的なシオニスト団体は中立を宣言せざるを得なかったのですが、はっきりと親シオニズムを打ち出し
たイギリスの姿勢に、シオニスト達は一気に親イギリスへと傾きます。また「バルフォア宣言」と同時に、中東地域
での作戦のため、イギリス軍におけるユダヤ人部隊創設も発表されました。ユダヤ人だけの軍隊の編成は、実
にローマ時代以来の出来事であり、イギリス在住のユダヤ人は勿論、アメリカやカナダのユダヤ人達からの志願
が殺到しました(ドイツ帝国は勿論、近代シオニズム発祥の地、オーストリアのユダヤ人達は志願出来ず、ただ
祖国を持たない民族の悲哀を感じるしかなかった)。
 もともとイギリスはシオニズムに好意的だったので、バルフォア宣言の前にも、ロシア出身のジャーナリスト、ウ
ラジミール・ジャボチンスキー(彼の自警団は、オデッサ市のユダヤ人を虐殺から救っています)は、ユダヤ人部
隊を創設してイギリス軍に協力しようという運動を展開していました。また、パレスチナ在住のユダヤ人達は、「バ
ルフォア宣言」の前からイギリスのためにスパイ活動をおこなっています。スパイの中で最も有名なのはサラ・ア
ーロンソンという女性で、彼女は逮捕され、ひどい拷問を受けた後に自殺してしまいましたが、「アラビアのロレン
ス」ことT・E・ロレンスの著書「知恵の七柱」では、「S.A.」というイニシャルで彼女に対して献辞されています。

 ベン=グリオンは当初、パレスチナのユダヤ人社会を弾圧の危険に曝すと、ジャボチンスキーのようなイギリス
への軍事的な協力には反対していました。しかし「バルフォア宣言」の発表で考えを変え、1918年にイギリス軍
に志願。イツハク・ベンツビとともにカナダへ渡り、ユダヤ人部隊の組織化に努め、自身も軍事訓練を受けた後、
創設された三つのユダヤ人部隊のひとつ、第39フュージリア連隊に配属されてエジプトへ派遣されました。
 しかしながら、ユダヤ人部隊の活躍の場はあまりありませんでした。「バルフォア宣言」の出されたその時、既
にイギリス軍はガザ地区で待機中であり、1917年12月11日、バルフォア宣言のわずか一月半後、アレンビー
将軍率いるイギリス軍がエルサレムに突入。ユダヤ人部隊の最大の活躍の場は、こうして失われました。その
後、翌18年10月1日、ファイサル王子のアラブ軍がダマスカスを占領、さらにアラブ軍の協力のもとイギリス軍
がホムス、ハマ、アレッポを攻略。かくてめでたく「フセイン・マクマホン書簡」の都市の全てが陥落した10月30
日、オスマン・トルコ帝国と連合国は休戦し、中東における第一次世界大戦は終わりました。これはベン=グリオ
ンの部隊がパレスチナに到着したのとほぼ同時であり、彼は結局、実戦に参加することはありませんでした。
 4年ぶりにパレスチナへ帰還したベン=グリオンは、除隊後、再び労働運動に身を投じます。第一次世界大戦
後、パレスチナへのユダヤ人移民の増大とともに、労働運動に分裂が生じていましたが、1920年12月、ベン=
グリオンは「シオンの労働者」をはじめとする労働者グループを統合して、ヒスタドルート(Histadrut 労働者同盟
の意)を結成、その書記長に選出されました。このヒスタドルートは、労働組合を名乗っていましたが、失業対策と
して雇用機会を創出するために作られた組織であり、その活動は道路工事の請負、セメント工場の経営、キブツ
(イスラエル特有の集団農場)の整備、農業機材のリース業など、実質はパレスチナ最大の「企業」でした。現在
でも、ヒスタドルートは建設、ホテル経営、海運などの事業を行っていますが、この時に作られた企業群や農場
は、後にイスラエルの産業と経済の屋台骨を支えることになります。さらにヒスタドルートは、ヘブライ語の新聞の
発行や、文学作品のヘブライ語訳の出版などを通じて教育制度の基盤を作り、病院建設を通じて、医療制度の
基礎を作ります。ヒスタドルートは、1920年代を通じてイギリスの委任統治下のパレスチナにおけるユダヤ人社
会の「政府」となっていたのです。その結果、1920年代のパレスチナは、労働組合の影響が強い、社会主義的
な社会が形成されました(そのため、テルアビブのヒスタドルート本部は「クレムリン」と呼ばれた……)。しかし、
何はともあれ、ベン=グリオンの指導の下、アラブ人の暴動、突然の移民制限やユダヤ人人口の減少傾向に悩
まされながらも、ユダヤ人社会は1920年代を通じて飛躍的な発展を遂げ、「国家」としての体裁を整えることが
出来ました。

 とは言え、1920年代のパレスチナが平和だったのかというと、そうでもありません。むしろその逆で、パレスチ
ナは、現代まで続く激動の時代に足を踏み入れたのです。ベン=グリオンはこの時期、地味な「内政」の分野でコ
ツコツ働いていたので、あまり目立ちませんでした。
 話を1918年に戻します。この年の6月、中東を訪問したハイム・ワイツマン博士は、イギリスの仲介によりヨル
ダンでファイサル王子と会見しました。「バルフォア宣言」と「フセイン・マクマホン書簡」との矛盾しているように見
える点を解決するためです(この場にはロレンスもいましたがワイツマン博士との会談は無かったようです)。
 ファイサル王子はユダヤ人に好意的で、また「フセイン・マクマホン書簡」で合意した範囲外であることもあり、
パレスチナの非ユダヤ人の権利や利益を損なわない、というくだりを確認して「バルフォア宣言」を受け入れまし
た。その上で、パレスチナにおける信仰の自由の保証、イスラム教の聖地(つまりエルサレム市内の一画)のイス
ラム教徒による管理、「フセイン・マクマホン書簡」で約束されているアラブ人の新国家へのシオニスト機構から
の経済援助、ユダヤーアラブ間のいかなる紛争もイギリス政府が責任をもって調停する、という内容の協定が締
結され、1919年の1月に、パリで正式調印されました。「サイクス・ピコ協定」がありながら、しらじらしくも調停を
申し出るイギリスと、調印の場を提供したフランスの面の皮の厚さには呆れるばかりです。

 しかしこの協定、パレスチナのアラブ人社会が拒否したので、調印はされたものの履行されることはありません
でした。ファイサル王子はいささか物分かりが良すたようです。ファイサル王子は父親に似て元来が好人物でし
た。「フセイン・マクマホン書簡」の条件を厳密に適用すればパレスチナがアラブ国家に含まれないことも弱点だ
ったのでしょう。でも何にせよこの協定、アラブ人社会が受け入れても、いずれ反故になったのは確実です(その
理由については、この先を読めば分かります)。ファイサル王子との会見の帰り、ワイツマン博士は念願のパレス
チナ訪問を果たします。そこでアレンビー将軍を含めた多くの士官達が「バルフォア宣言」の発表を知らないこ
と、さらに、イギリス軍の兵士達が「シオン議定書」(正確には「シオンの長老達の議定書」というタイトルらしいで
すが、どちらにせよ内容全部がパクりの完全な偽書。シオニズムに関しては一言も触れられていないが、タイト
ルが紛らわしいためにシオニズムと混同されました)の英語版を持っているのを見て唖然としました。
 
 さて、イギリスの三枚舌外交は見事に破綻しました。1920年4月に開かれた国際連盟の最高会議では、パレ
スチナではイギリスによる委任統治が行われること以外、「サイクス・ピコ協定」の内容が再確認されました。そし
て6月25日、フランス軍がダマスカスに突入、ファイサル王子のアラブ軍を追い払い、シリアの支配権を確保しま
した。ファイサル王子はイギリスに亡命する破目になり、アラブ社会は激昂します。幸か不幸か、イギリスは「フセ
イン・マクマホン書簡」と「バルフォア宣言」により、フランスのような強行策を取ることが出来なかったため、アラ
ブ人の敵意は主としてフランスへ向けられましたが、明らかになった裏切り行為にイギリス国内の世論が沸騰し
ます。イギリスは泥沼(中東だから流砂でしょうか?)にはまり込みましたが、それでも「サイクス・ピコ協定」で得た
利権だけは手放したくもなく、イギリスの中東政策は支離滅裂な状態に陥りました(更に、これらはアイルランドの
反乱と同時期の出来事であり、戦勝国と言えどもイギリスはかなり悲惨な状態にありました)。
 紆余曲折の末、事態打開のための会議がカイロで開催され、当時の植民地大臣、ウインストン・チャーチルは
中東の次のように色分けしました。

1)メソポタミア地域はイラク王国として独立させ、ファイサル王子を国王に就任させる。
2)ヨルダン川東岸からイラクまでの地域は、トランスヨルダン王国として独立させ、反仏運動の指導者、アブドゥッ
ラー(ファイサル王子の兄)を国王とする。
3)パレスチナでは委任統治を継続。「バルフォア宣言」に基づいてユダヤ人移民は受け入れる。

 これで「フセイン・マクマホン書簡」の約束は概ね守られた上に、親英派のファイサル国王がイラクを支配した
事で念願だった石油利権を確保出来たイギリスは大満足。反仏運動のリーダーにも独立国を与えた事で、フラン
スとアラブ社会の対立も沈静化に向かいました。ユダヤ人達はと言うと、イギリスの委任統治下で「バルフォア宣
言」の路線が踏襲されたので何の文句もありませんでした。しかし、一見して分かるように、パレスチナに住むア
ラブ人のことはしっかりと見落とされています。このため、パレスチナのアラブ社会は反イギリス、反シオニズム
の姿勢を強めることになりました。この重大なミスこそが、現在も続くパレスチナの戦いの発端となったのです。


戦いの始まり 
  委任統治が開始される前、パレスチナのイギリス軍政庁の顧問官に、ハジ・アミン・アル・フセイニという人物が
いました。彼はパレスチナの名門、フセイニ家の当主で、事実を無視した過激な記事で有名なジャーナリストであ
り、アラブ民族主義の過激派の頭目でした。
 アル・フセイニとその信奉者達は、モスクをユダヤ人が乗っ取ろうとしていると、エルサレムのあちこちでふきま
くりました。そして1920年のパス・オーバーの日、モスクを守れ、とアラブ人のデモ隊が、旧市街のユダヤ人地
区になだれ込みました。ユダヤ人部隊の生みの親ジャボチンスキーは、このような事態を見越し、ユダヤ人部隊
の元兵士による自警団を復活させていました。暴動の発生を知ると、直ちに自警団は駆けつけるのですが、旧
市街の城門でイギリス軍に阻止されてしまいます。押し問答の末、ようやく自警団が旧市街に突入した時、ユダ
ヤ人地区は暴徒の略奪に遭っていました。
 この騒動の結果、四人のユダヤ人が殺され、二人の女性がレイプされました。また、自警団との乱闘で五人の
アラブ人が殺されました。殺人とレイプの容疑者であるアラブ人達とジャボチンスキーら自警団メンバー19名は
逮捕され、全員一括で懲役15年を言い渡されました。更に、暴動の後に逃亡していたアル・フセイニは、欠席裁
判で10年の懲役刑を宣告されました。
 1920年7月、委任統治政府の初代高等弁務官、ハーバート・サミュエル卿が着任すると、アラブ人もユダヤ人
も、逮捕者はまとめて釈放(ただし、逃亡中のアル・フセイニは恩赦の対象外だった)されました。これで対立は沈
静化したかに見えました。8月に未確定の国境を越えてきたフランス軍が、何を思ったかガリラヤ地方のアラブ
人の村を攻撃。このどさくさの中で、「フランス兵をかくまった」という噂がたったキブツがアラブ人に攻撃され、6
人のユダヤ人が死ぬ事件がありましたが、しかしこれは、アル・フセイニの差し金では無いようです。
 高等弁務官サミュエル卿は、実はユダヤ人で熱心なシオニズムの信奉者でした。当時、委任統治区域の人口
は75万人。その内ユダヤ人は7万人程度でしたが、8月、40年ほどで人口比が半々になるという計算の元、彼
はユダヤ人の移民枠を年間16500人と設定しました。本来、高等弁務官は公平であるべきなのですが、このシ
オニストの代理人的な行動はアラブ人社会の反発を買います。
 この不満を静めるため、委任統治政府はパレスチナのヨルダン川東岸地区を、トランスヨルダン王国領とする
決定を下しました。シオニスト側もこの分割案を了承(もともと東岸地区にユダヤ人は多く無かった)したため、ア
ラブ人が委任統治政府に対して抱いていた不公平感を静めることが出来ました。
 しかし、ここでサミュエル卿はやりすぎました。アラブ人社会の不満を完全に抑えるため、アル・フセイニの特赦
を決定したのです。実を言うと、アル・フセイニの暴力的なやり方と、暴動の後にさっさと逃げ出した態度は大顰
蹙を買っており、アラブ人達の人気を失っていたのです。しかしイギリスは、彼を懐柔するためエルサレムの「ム
フティ」という宗教指導者の地位につかせようとしました。選挙の上位三人の中から高等弁務官がムフティを任命
出来るという規則を作り、更に選挙権のある聖職者に露骨な圧力もかけましたが、それでもアル・フセイニは第
四位・・・・・・。得票一位の人に辞退してもらって、なんとかアル・フセイニをムフティの地位に就けました。
 アル・フセイニは早速「大ムフティ」を自称。エルサレムのイスラム評議会議長にもなり、社会福祉活動の資金
をプロパガンダとテロリズムに流用して、またぞろ反ユダヤ主義を煽動しました。
 その結果、1921年の四月から五月にかけてアラブ人の反ユダヤ暴動が頻発し、300人の死傷者が発生する
事態となります。慌てたサミュエル卿はユダヤ人移民受け入れを一時凍結しました。この決定で、アラブ側の不
満は一応鎮まったのですが、同胞たるサミュエル卿の裏切りとも言える行為に、ユダヤ人社会は驚愕しました。
イギリスは、パレスチナの委任統治を成功させるには、ユダヤ人国家が建設された場合、失う物が多いアラブ人
社会をコントロールすることが重要だとようやく気がついたのです。
 そういうことで、委任統治政府があまりあてにならないと気がついたベン=グリオンは、自前の防衛組織の必要
を痛感します。そこで、ヒスタドルートが音頭を取り、「ショメール」を中心にいくつかあった自警団が統合されて、
新たな自警団「ハガナー(Haganah 防衛の意)」が設立されました。こういう私的な武装組織はどこの国でも非合
法なものであり、「ハガナー」も地下組織でした。従って、表向きハガナーはベン=グリオンやヒスタドルートと関係
ない事になっていました。とは言え、指導者の中にはイツハク・ベンツビの名前が入っており、説得力ゼロです。


                 
ワイツマン(左)とファイサル(中央)
軍服姿のベン=グリオン

inserted by FC2 system