イスラエル大使館のHPより拝借。
ダビッド・ベン=グリオン  
 (1886-1973)  
  
+:タタリがあるかもしれないので評価しません

-:怖いので評価しません  
ダビッド・ベン=グリオン。イスラエル建国の父にして初代首相の彼の名は、空港の名前にもなっていますが、日本ではほとんど知られて
いない人物でしょう。中東地域の専門書でも無い限りまず目にしない名前であり、教科書にはまず載っていない名前です。中東ではまだ
果てしない戦いが続いている時ではあり、臭い物にはフタ式に誰も触れたがらないのかも知れません。しかし、今も戦いが続いているか
らこそ、彼の事をよく知る必要があるのではないでしょうか?

シオニズムについて 
  本題に入る前に、まず「シオニズム」について簡単に触れておきます。
 「ユダヤ人」とは遺伝学的な人種を指す呼称ではなく、一般にはユダヤ教を信仰する人々を指します(従って、
所謂、「ユダヤ系」でもキリスト教徒への改宗者であれば、「ユダヤ人」ではないことになります。また、エチオピア
にもユダヤ教を信仰する少数民族(黒人)が存在していますが、彼らは「ユダヤ人」と認定されています)。ユダヤ
人はもともとパレスチナに住んでいましたが、いわゆる「ディアスポラ」でヨーロッパ各地に離散してしまいました。
彼らの苦難の歴史についてはわざわざ触れるまでもありませんが、ユダヤ教の思想は選民意識が強烈であり、
ユダヤ人も独自の生活習慣に固執する傾向があって、現地の人々と常に激しい摩擦を起こしました。また、キリ
ストを告発した民族の子孫(「ユダヤ教徒=ユダヤ人」という定義に従えば、ユダヤ教信者ではないキリストは「ユ
ダヤ人」では無い???)ということで、教会の権力が強いヨーロッパではさまざまな迫害を受けました。
 とは言え、パレスチナにユダヤ人の姿が亡くなったわけではありません。1516年、トルコ帝国はパレスチナを
占領しました。その後、1520年頃からエルサレム周辺に城壁と門を建設し、この城壁内においてキリスト教徒
やユダヤ教徒の居住が許可されました。この区域が、現在「旧市街」と呼ばれている地域です。その後、20世紀
までパレスチナのムスリムとユダヤ人は、揉め事が皆無とは言えませんが、平和に共存して来ました。宗教的寛
容というイスラム教の良き伝統のおかげですが、エルサレムのユダヤ人社会が維持できたのは、「ハルカー」と
呼ばれるヨーロッパ各地のユダヤ人からの寄付(ただし、タカリ同然のケースもあった)のおかげでもあります。
 19世紀後半になると、西欧では宗教の影響力が減退するにつれて、ユダヤ人の社会的地位が向上して行き
ます。しかし、ロシアや東欧(スラブ人は伝統的に人種偏見は無いのですが、ユダヤ人に対する差別だけは非常
に激しかった)ではそうした動きは見られず、1880年代には「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人排斥運動が激化し
ました。
 このような背景の下で、このエルサレム(ユダヤ人の間では「シオンの丘」)に、ユダヤ人国家を再建しようという
運動が始まりました。「シオニズム」という名称が使われ始めたのは、どうやら1890年頃からのようですが、18
62年、ドイツ系ユダヤ人、モーゼス・ヘスがその著書の中で、ユダヤ人のエルサレム帰還を説いています。ただ
この本はあまり有名にはならなかったようです。1882年、ロシア系ユダヤ人のレオン・ピンスケルの著書「自力
解放」の中で、ユダヤ人が安心して暮らせる「故郷」の必要性を説きましたが、この本もあまり有名になりません
でした。ヘスの本も「自力解放」も、祖国再建というかっこいい目標を語っていますが、その内容は理想論に終始
していて、具体的な方法に関しては言及されていなかったため、「シオニズム」は最初、かなりマイナーな運動で
あり、故郷を追われたユダヤ人達は、パレスチナではなく、アメリカやオーストラリアへの移住という現実的な選
択をしました。
 しかし、オーストリアのジャーナリスト、テオドール・ヘルツル(1860-1904)が登場すると、状況は大きく変わりま
す。彼はパリ特派員時代、「ドレフュス事件(フランス陸軍におけるスパイ冤罪事件)」の取材で、これまでユダヤ
人には寛容と思われていたフランスにおいても、凶悪な反ユダヤ感情が存在する事を知って強い衝撃を受けまし
た。そして、ユダヤ人国家の必要性を痛感したヘルツルは、急いで一冊の書物を書き上げました(これはきわど
い偶然でした。何故なら、ヘルツル自身が、ピンケルの「自力解放」を知っていたら本は書かなかった、と述べて
いるからです)。そのタイトルも「ユダヤ人国家」。100ページちょっとの薄い本でしたが、列強からの主権の承認
を取り付けた後、どこでも良いから開いている土地(ヘルツルは別にシオンの丘にはこだわっていなかった。当時
の地球はまだ空き地が多かった)に、時間をかけて継続的にユダヤ人の移住を進めること、国際会議の席でユ
ダヤ人問題を取り上げてもらうこと、などユダヤ人国家再建の具体的な手段について言及されていました。
 1896年2月に出版された「ユダヤ人国家」は、ユダヤ人社会に感銘を与えシオニズムが一気に盛り上がっ
た・・・・・・、わけではありませんでした。むしろその逆で、一部のシオニズム信奉者以外、ユダヤ人の間では激烈
に不評でした。西欧やアメリカでは既にユダヤ人の社会的地位は向上していたので、このような過激?な思想
が、反ユダヤ感情の再燃につながると考えられたためです。また、理不尽な暴力にさらされながらも、ユダヤ人
の苦境は神が与えた試練なので人為的な祖国再建は神の意思に反する、と無茶苦茶な事を言うユダヤ人も多く
いたのです(多分、ユダヤ人が迫害に耐えてきたのは、根底にこの考え方があるからでは?)。現在でも、ユダヤ
教超正統派の高位聖職者や原理主義者は、旧約聖書の言う「神の国」では無い、としてイスラエルの存在を認め
ていません(私事で恐縮ですが、かなり以前、僕はこのユダヤ教とシオニズムの対立をテーマに小説やテーブル
トーク RPGのシナリオを作ったことがあります。中東情勢の悪化でお蔵入りです)。
 しかし、ヘルツルは非常にハンサムで天性のカリスマを持っていました(このため、「ユダヤのプリンス」と呼ば
れた)。そして1897年8月、スイスのバーゼルで、シオニズム活動家の頭株を集めた「第一回シオニスト会議」を
開催する事に成功しました。この会議の結果、ヘルツルを議長とする「世界シオニスト機構」が設立され、さらに、
パレスチナにおけるユダヤ人国家建設を最終目標とする「バーゼル綱領」が採択されました。ヘルツルの予想で
は、計画通り行けば、50年後にパレスチナにユダヤ人国家が誕生するはずでした。この予想は、ほぼ的中しま
す。バーゼル会議の51年後、1948年5月24日、ユダヤ人達の国、イスラエルの独立が宣言されました。
 この時、ヘルツルの肖像の前で独立宣言を読み上げた人物こそ、ダビット・ベン=グリオンです。

アリヤー
  さて、シオニスト機構が成立した当時のパレスチナの状況はどうだったかと言うと、そこに住むムスリムには、
現代のような「パレスチナ人」という帰属意識はありませんでした。パレスチナは当時、オスマン・トルコ帝国の支
配下にありましたが、「パレスチナ」という地方の境界すら不明確であることに加えて、パレスチナのほとんどが、
レバノンやシリアの不在地主に所有されていたため、住民のほとんどが小作農であり、パレスチナを「故郷」と考
える者がいなかったからだと言われています。しかし、この住人の郷土意識の薄さは、シオニストにとって(この時
だけは)好都合のように思われました。
 1901年、テオドール・ヘルツルはオスマン帝国のスルタン、アブダル・ハミード二世と会見し、ユダヤ人国家の
建設について話し合います。スルタンはヘルツルの人となりにかなり感銘を受けたようで、彼を「ユダヤのプリン
ス」と呼び、更にはヘルツルの印象を「キリストとは彼のような男だったに違いない」とまで語っています。
 しかしスルタンは、トルコ領内全体へのユダヤ人の移住に関しては協力的でしたが、パレスチナへのユダヤ人
移住は認めようとはしませんでした。認めてしまえば、最終的にはパレスチナを失うことになるのですから、為政
者としては当然の対応です。ただし、この時オスマン帝国の財政は逼迫(帝国そのものもかなりの重症だった)し
ていたので、1000万ドルの融資と引き換えに、パレスチナへのユダヤ人移民受け入れを許可するという約束
が、ヘルツルとスルタンの間で交わされました。これは西欧のユダヤ人社会の経済力をもってすれば十分に可
能な計画であり、ヨーロッパに戻ったヘルツルは、ユダヤ系の銀行を歩き回り、オスマン帝国への融資話を持ち
かけます。しかし、行く先々で断られたあげく、最後の訪問先のパリでは、一回目の心臓発作に見舞われまし
た。
 その後、ドイツのカイザーや英国政府とも話し合いを持ちましたが、あまりはかばかしい成果は得られません。
そこで、もともとパレスチナにこだわっていなかったヘルツルは、パレスチナへの固執はユダヤ人国家建設を遅
らせると考えて、イギリス(当時、世界最大の土地持ち・・・)の政治家達の協力の下に、他の入植地を探しはじめ
ました。最初の候補はキプロス島でしたが、ここはギリシア系住民とトルコ系の対立が激しく(それは今も変わって
いない・・・・・・)、ユダヤ人の入植は話をよけいにややこしくすると却下されました。次に候補に上がったのはシ
ナイ半島でしたが、そこは掛け値無しに不毛の砂漠であり、とても人の住める場所ではない、とイギリス政府から
止めらます。
 そうしている間にもロシアや東欧の「ポグロム」は激化の一途をたどり、入植地探しはもはや猶予ならない状況
でした。そこで一部のユダヤ人達は、シオニスト機構とは別にパレスチナ移住を開始しました。「アリヤー(ヘブラ
イ語で上昇の意味)」と呼ばれた彼らは、1901年のシオニスト会議で設立された土地購入のための基金、「ユダ
ヤ民族基金」や、ロスチャイルド家その他、西欧の富裕なユダヤ人からの援助によって、パレスチナの土地の
「買い占め」をはじめます。先にも述べた通り、パレスチナの土地の大部分は不在地主の所有地なので、地主達
はユダヤ人に土地を売る事に抵抗する理由はありませんでした。こうした「アリヤー」達は、20世紀初頭の数年
間だけでもおよそ一万人にのぼります(映画「スターリングラード」でも、ヒロインが「パレスチナに土地を買うため
に父親が貯金していた」と語る場面があります)。
 そんな中、1903年3月、ロシアで大規模なユダヤ人虐殺事件が発生しました。この結果、ユダヤ人のロシア
からの流出が増大し、国境を接していて、かつパレスチナを支配するオスマン・トルコにユダヤ人難民が集中しま
すが、トルコ側では、くだんの融資話が、当のユダヤ人銀行家達の非協力で頓挫したため、スルタンはかなり機
嫌を損ねており、ユダヤ人の入国禁止が発令されました(それでも、少数のユダヤ人達は、パレスチナにもぐりこ
む事に成功している)。もはや悠長に入植地候補を探している場合ではなくなります。
 この危機の中で、救いの手を差し伸べたのはイギリス(だけ)でした。1904年4月、ネヴィル・チェンバレン(当
時、植民地大臣)は、財務省や現地のイギリス人の反対を押し切って、東アフリカ、ウガンダでのユダヤ人入植地
建設をヘルツルとシオニスト機構に提案しました。しかし、この三番目の候補地も、パレスチナに固執するシオニ
ストの過激派の反対に遭い(前年3月の虐殺の生き残りまでが反対した)、シオニスト会議で否決されました。シオ
ニスト達にとって、祖国とはあくまで「シオンの丘」とパレスチナであり、開いている土地ならどこでも良い、と言う
わけでは無かったのです。もっとも、この頑迷さが衝突の要因でもあるのですが…。
 この年、心労からテオドール・ヘルツルは44歳の若さで急死してしまいました。ヘルツルが亡くなると、もともと
入植地探しで分裂寸前だったシオニスト機構はユダヤ人社会に対する影響力を失ってしまい、著名な化学者ハ
イム・ワイツマン博士(後、イスラエル初代大統領)が登場するまで、シオニズムの主流は、ヘルツルのような政治
的運動から、「アリヤー」による単純な土地の買占めや、合法、非合法を問わない移住に変わりました(これはヘ
ルツルの「政治的シオニズム」に対して「実践シオニズム」と呼ばれます)。
 しかし、アリヤーの強引なやり方は、やはりトラブルを招きました。パレスチナでは、買占めとアリヤー流入によ
り、失業したアラブ人小作農が大量に発生してしまいます。その上、いつもの事ながらユダヤ人達は、現地の価
値観や習慣を無視してアラブ人の反感を買い、更に、もともとパレスチナには、「セファルディム系」と呼ばれるユ
ダヤ人が、エルサレムを中心に2万人ほどいました。彼らはユダヤ教の信仰以外はアラブ社会に同化していた
ため、アリヤーとの間でも摩擦が生じます。何はともあれ、現在までも続く宿命の対決が始まったのでした。宗教
対立のように言われていますが、その根源はもっと単純で切実な問題、「生活圏」の奪い合いです。

 ベン=グリオンの名前は一回しか出てきませんでしたね。でも、次からはベン=グリオンの人生です。


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