ダビッド・ベン=グリオンその4
ユダヤ機関の成立
  さて、「ハガナー」の発足により、ユダヤ人社会は自分達を守る「軍隊」を持ったわけですが、それからというも
の、1929年まで騒動は鎮静化しました。むしろ、この1921-1929年の8年間はパレスチナ現代史において
最も平和な時代だったと言えます。
 ユダヤ人の移民制限はすぐに解除されましたが、暴動の余波でパレスチナへのユダヤ人移住者は年間5000
人以下にまで激減、反対に将来を悲観してパレスチナを脱出するユダヤ人が増大します。1928年には脱出者
が移住者を上回る事態となり、ベン=グリオンは大いに頭を悩ませましたが、国外のユダヤ人からの資金援助も
あって、それでもパレスチナのユダヤ人社会は順調に発展してゆきました。
 1929年、ワイツマン博士の尽力により、非シオニスト(イスラエル国家建設を支援したいがパレスチナには住
みたくない、もしくはシオニズムが嫌いなユダヤ人)とシオニストの両方を含んだ、つまりユダヤ人なら誰でも参加
出来る評議会、「ユダヤ機関」が結成されました。チューリッヒで開催された設立会議には、シオニスト機構のメ
ンバーとともに、アインシュタイン博士、レオン・ブルム(後のフランス人民戦線内閣首班)など、多方面からも非シ
オニストの著名人なユダヤ人が出席しました。米英の政府はわりと好意的でしたが、シオニズムは過激な民族運
動であり一般受けするものではありません(今もそうですが…)。しかしながら、非シオニストのユダヤ人達が「ユ
ダヤ機関」に参加した事で、国家再建はユダヤ人全ての願望であることを世界に印象付けることが出来たので
す。
 もっとも、ユダヤ人に偏見を持つ者達にとっては、「やっぱりユダヤ人はみんな同じ穴のムジナだ」と言うことに
なってしまうのです。当然、ハジ・アミン・アル・フセイニ師もそう考えました。彼は確かに、ユダヤ人の入植に不満
を抱く一部のパレスチナ人の支持を受けていましたが、その頑固さと独裁制、猪突猛進型の政治手法はいいか
げん人気を落としており、アラブ人社会では、ユダヤ人との共存をめざすエルサレム市長、ラギブ・アル・ナシャ
シビを指導者とするグループが勢力を拡大していました。1921年の騒動の後で平和が続いたのは、アル・フセ
イニがナシャシビ市長派との勢力争いに忙しく、ユダヤ人にかまっている暇が無かったからです。アラブ人社会
の方も、整備された教育制度やよりよい職、整備されたインフラによる快適な生活条件(概してヒスタドルートの
努力の結果である)を求めて、ユダヤ人移民以上のアラブ人が周辺諸国から流入して人口が増加し、アラブ人社
会のリーダー達にとっては満足すべき状況でした。
 しかしアル・フセイニは、チューリッヒ会議を「世界のユダヤ人の陰謀者」が集まった、と宣伝し、いつもの伝で
エルサレムのモスクを破壊しようとしている、と騒ぎ立てました。その結果1929年8月、またも暴動が発生しま
す。宣伝に乗せられたアラブ人の暴徒は、エルサレム旧市街やヘブロンのユダヤ人地区に乱入しました。こうい
う事態に備えて作られた「ハガナー」でしたが、なぜか旧市街を守っていなかったため(ただし、郊外のキブツやテ
ルアビブはしっかり守っていた)、旧市街で140人のユダヤ人が殺されました。
 委任統治政府は直ちに公聴会を開催しますが、その席ではアル・フセイニの主張が全面的に受け入れられ、
ユダヤ人の移住と土地取得に制限が加えられました。ベン=グリオンらシオニストは落胆しましたが、それでもア
ラブ側の不満はなんとか鎮まり、事態は沈静化します。
 ただ、ここでベン=グリオンは、アラブ社会との対話を怠るというミスを犯しました。ただ、彼はあくまで自身を「シ
オニスト」と位置付け、自分は政治家とは考えていなかったようです(それに、民族間の紛争の調停は委任統治
政府の任務でした)。つまるところ、自分の任務ではないと関知していなかったのでした。ベン=グリオン自身は勉
強家で大変な読書家であり、宗教から政治学までその蔵書は2万冊を越えていましたが、その知識はもっぱらユ
ダヤ人社会の発展にのみ用いられました。もっとも、ここでアラブ人社会のことを冷静に切り捨ててしまったから
こそ、イスラエルという国家が今あるわけなのですが。
 それはともかく、1929年の暴動の後、またアル・フセイニも大人しくなりしばらく平和が続きました。1930年、
ベン=グリオンとベンツビは、委任統治政府の評議員のための労働シオニズム政党、「マパイ(Mapai 社会主義
労働党)」結成します。ヒスタドルートが政府なら、マパイは立法府といった役柄(そしてハガナーが軍隊・・・・・・)で
あり、マパイは、本来なら委任統治政府の任務である教育制度や社会保障を整備してゆきました。ここに至って
ようやく政情も安定の兆しを見せ始め、パレスチナにも平和が訪れるかに見えました。
 しかし1933年、ドイツの首相となったちょび髭の男が、パレスチナの運命を大きく変えてしまいます。


暴動とマクドナルド白書 
 ちょび髭が政権の座についた当時、ドイツ国内には53万人のユダヤ人が住んでいました。迫害が始まった19
33年から、ユダヤ人の出国が禁じられた1941年までに30万人のユダヤ人がドイツから脱出し、必然、パレス
チナへ流入するユダヤ人も増大します。
 1935年、ダビッド・ベン=グリオンはヒスタドルート書記長を退任すると、マパイ党の後押しで、ワイツマン博士
の後を受けてユダヤ機関委員長に任命されました。ベン=グリオンは、ここで初めて「政治家」としての自覚を持
ち、かつ世界の外交の舞台に初登場したわけですが、ドイツでの迫害に加え、アラブ人社会との対立も再燃した
時期でもあったので、ベン=グリオンに課せられた任務には容易ならざるものがありました。
 もちろん、委任統治政府のユダヤ人移民枠は頑として存在していましたし、1934年からはユダヤ人移民に一
定額以上の資産を要求して無制限な流入を阻止しようと図ります。委任統治政府がこうした対応に出る事は充
分に予想されていたことですが、ユダヤ機関は失望しました。さらに、上陸を拒否された難民船が沖合いで沈没
するという悲劇も発生します。
「もしイギリス政府が難民に門を閉ざすなら、我々はイギリスによる委任統治を認めない。」
 ベン=グリオンは公然と委任統治政府への敵対を宣言すると、ユダヤ機関は非合法の移民船を使って、ドイツ
およびオーストリアからユダヤ人救出を図りました。1938年にはハガナーに非合法移民(と言うか救出作戦)の
ための部局が開設されます。ここのエージェントはドイツとオーストリアにも派遣され、ベルリンではゲシュタポと
取引して数千人のユダヤ人をドイツから合法的に出国させることに成功しました。さらにウィーンの「ユダヤ人対
策室」を訪れた一人は、あのアドルフ・アイヒマンと交渉(買収?)してこれまた数千人のユダヤ人を脱出させること
に成功しています(ちなみにアイヒマンは、裁判でこの事を持ち出したのですが、当然、減刑されませんでした。さ
らに、アイヒマンの処刑は口封じとまで言う人も居ますが、これは「イスラエル建国物語(ミルトス)」のようなモロに
親シオニズムの本にもはっきり書いてあることです。口封じする必要は全くありません)。
 委任統治政府は非合法移民に対して厳しく対処し、逮捕されたユダヤ人移民は遠慮なく収容所にぶち込まれ
ました(でも、ナチの収容所に比べれば天国でした)。それでも監視の目をかいくぐって、多くのユダヤ人がパレス
チナの地に降り立ちます。その結果、ユダヤ人迫害が始まった1933年当時、23万人だったパレスチナのユダ
ヤ人人口は、3年後の1936年には40万人、アラブ人の三分の一、までに増加しました。
 パレスチナのアラブ社会にも迫害のニュースは伝わっており、当初はアラブ人達も(アル・フセイニ一派を除い
て)ユダヤ人移民に対して同情的でした。しかし、1935年末頃から、流入したユダヤ人達が国外からの資金援
助によって土地の買占めをはじめると、アラブ人社会にはまたもやパレスチナを乗っ取られるという危機感が募
り始め、同情論はいっぺんに吹き飛んでしまいました。20世紀初頭にも「アリヤー」の土地買収でアラブ人の小
作人が耕地を奪われるという問題が生じていましたが、今度のそれは規模が大きく、また、過激な民族主義が存
在していた事は20世紀初頭と決定的に異なる点でした。ユダヤ人社会としては、確かに増大した人口の生活基
盤を確保する必要に迫られていましたが、しかし、やり方がいささか強引に過ぎました。1936年4月頃から、テ
ルアビブ近辺で暴力沙汰が頻発します。
 更に1936年5月7日、アル・フセイニらアラブの過激派がエルサレムで会合を開き、ユダヤ人の移住を実力で
阻止することを決定しました。イギリスとしてもユダヤ人移民の流入を阻止する方針でしたが、ここに至ってよう
やく、ハジ・アミン・アル・フセイニが危険人物であると気がついたらしく、民族主義過激派に対して警告します。し
かし勿論、アル・フセイニは完全無視。それどころか「サイクス・ピコ協定」の古い裏切りを持ち出して反英感情を
煽り立てはじめます。同時にユダヤ人社会に対する大規模なテロ作戦を開始しました。
 とは言え、確かにユダヤ人社会への反発が高まっていたものの、まだアル・フセイニは少数派だったので、テロ
の実行にあたっては、シリアの民族主義者ファウジ・エル・カブーキとその私兵を呼び寄せました。ユダヤ人社会
への襲撃とともに、ライバルの暗殺も忘れず、ナシャシビ前イスラエル市長の一派をはじめとする、アル・フセイ
ニと対立するアラブ人社会のリーダー達が暗殺されました。
 キブツやユダヤ人入植地の攻撃は勿論、テロ攻撃は社会のインフラにまで及び、電柱は引っこ抜く、植林され
た森は切り倒す、舗装道路はほじくりかえすと、アル・フセイニ一派はやりたい放題で、イギリスの軍も警察も全く
対処できませんでした。9月22日、アル・フセイニは反ユダヤ闘争を反英闘争に拡大し、イギリス政府からシオ
ニズムが排除されるまで戦うと宣言します(アル・アセイニはあからさまにナチスとイタリアから資金援助を受けて
いました)。委任統治政府は、民族主義過激派の牙城イスラム評議会を解散させ、アル・フセイニを逮捕しようと
しましたが、彼はシリアへ逃れ、そこから闘争の指揮を執り続けました。
 一方、こうしたテロに対し、ベン=グリオン、ベンツビら「ハガナー」の指導者達は「防衛はするが、報復はしな
い」という従来の方針を堅持し続けます。また、非合法組織であるが故にあまり派手な行動に出る事も出来ませ
んでした。しかし、アル・フセイニ一派がイラクからパレスチナのハイファに至る石油パイプラインを攻撃目標に加
えると、さすがにイギリスは慌てだし、急遽、ハガナーを合法化して軍事協力を行います。
 1936年、イギリス陸軍の情報将校オード・ウィンゲート(当時は大尉)の指導の下で、ハガナー内部に特別夜
戦部隊(SNS)が設置されました。ウィンゲート大尉は、SNSを率いてガリラヤにあるエル・カブーキ一派の隠れ家
を急襲し、壮絶な銃撃戦の末、シリアへ追い払うことに成功しました(ちなみにウィンゲートの部隊は、太平洋戦
争中、日本軍占領下のビルマに潜入して日本軍に大打撃を与えています。そしてこの時、ウィンゲート部隊がイ
ンパールを出発し、踏破不能のジャングルを突破してきたことが、悲劇の「インパール作戦」のヒントになりまし
た)。
 「報復はしない」と言いつつも、ベン=グリオンら「ハガナー」の指導部は、ウィンゲートの協力でやるべき事はき
っちりやりました。しかしそれでも、「ハガナー」の穏健?な姿勢に不満を抱く人々は、ウラジミール・ジャボチンス
キー(こういう争い事には燃える男)に従って、テロにはテロで対抗するという方針の下、極右的な「ハガナーB」と
いう武装組織を設立しました。ハガナーBは1937年4月、「イルグン(Irgun Zva'i Leumi 英語ではNational
Military Organization)」と名を変えますが、この「イルグン」はその過激さで大いに悪名をはせます(独立戦争時
の「残酷なユダヤ人」は、概ね「イルグン」メンバーと見て間違いはありません)。何にせよ、これが現代まで続く暴
力の連鎖の始まりと言えるでしょう。ベン=グリオンはこの動きを抑えようとはしませんでしたが、後で激しく後悔
することになります。

 1937年7月、イギリスは事態解決のため、ロバート・ピール卿を長とする諮問委員会を設置します。ピール委
員会は、パレスチナで何度か公聴会を開いた後、政府に対して以下の勧告を提出しました。

1.委任統治政府は廃止し、パレスチナはユダヤ人地域とアラブ人地域に分割する
2.ヤッファからエルサレムに至る地域は、緩衝地帯として英国の統治下もしくは国際管理の下に置く
3.パレスチナの北西部をユダヤ人国家とし、南部地域はアラブ人国家として独立させる。領域外に居住する住民
は、それぞれの地域に移住させる
4.両国が独立するまで、ユダヤ人がアラブ人地区に土地を購入することを禁止する

 厳密な国境の設定は後回しにされましたが、議会はピール委員会の勧告を承認しました。
 ユダヤ人社会は、与えられた領域が狭い上にエルサレムが含まれていないことに不満で、勧告案への反対意
見が強力でした。しかしベン=グリオンは、勧告案がとにかくユダヤ人国家設立を明記していることから、祖国再
建の最初の足がかりとなると考え、勧告案受け入れを主張します。激論の末、ベン=グリオンは反対派を強引に
説得し、ユダヤ機関も(かなりしぶしぶながら)勧告案を受け入れました。しかし、一方のアラブ人社会はと言うと、
ピール委員会の勧告案が、ユダヤ人移民の増大がアラブ人社会に与える経済的な不利益について言及してい
ない上、移民制限に関する提案もなかったため、完全に受け入れを拒否しました。
そんなこんなで結局、ピール委員会の勧告案は棚上げになりました。それどころか、アラブ側の勧告案に対する
不満から、一時は沈静化していた暴動がまた再燃してしまいます。
 第二次世界大戦も間近い1939年5月、イギリスは新たな解決策を提示しました。「マクドナルド白書」として知
られるこの声明の内容は、

1.10年以内の、アラブ人主導によるパレスチナ国家の設立
2.ユダヤ人移民は今後5年間で75000人に制限し、それ以上の移民についてはアラブ側の承認を必要とする

と、ほぼアラブ側の要求を満たしたものでした。このマクドナルド白書、イギリス国内でも受けが良かったわけで
はなく、ウィンストン・チャーチルをはじめとする親シオニズム派は勿論、バルフォア宣言の矛盾を指摘する者ま
で反対論が続出します。しかし、委任統治政府から異論が出なかったこともあり(委任統治政府のイギリス人職
員は、概してアラブ人と親しかった)、結局、マクドナルド白書はパレスチナ政策の基本方針として受け入れられ
ました。
 マクドナルド白書の背景には、ドイツとの戦争が必至となったこの時期に、中東の産油国との関係を悪化させる
のは危険だという判断があったからです。イギリスがそうした判断を下すのも、ある種やむを得ないところがあり
ますし、実際、暴動は沈静化しました。しかしながら、このようなイギリスの態度の豹変ぶりは、かつての三枚舌
外交を彷彿とさせるものであり、結局は、ユダヤ、アラブ両民族の対立の解決に何の役にも立たなかったばかり
か、却って両者からの不信を買う結果になりました。


                  ハジ・アミン・アル・フセイニ
(1893-1974)
 ちょっとカルザイ大統領似の
ソフトな感じの人なのですが
……。

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