デュゲイ・トルーアンその6

デュゲイ=トルーアン、海軍士官として海賊稼業に励む
 
 パリで国王と謁見したトルーアンは、賞賛の言葉とともに、これまでの働きに対する報償として、ブレストで待機
中の2隻の戦列艦「Solide」と「Oiseau」を、費用自弁で使用する権利を与えられました。
 トルーアンは早速ブレストへ向かい、資金を調達して準備に取りかかりましたが、出撃準備が整った1697年9
月にライスワイク条約が締結され、大同盟戦争が終結しました。これで海軍士官は休職扱いとなり、トルーアンは
サン・マロの家へ帰りました。
 
 しかし、平和は長続きせず、1701年には、再びヨーロッパ大戦争が勃発します。世に言う「スペイン継承戦
争」です。トルーアンの回顧録は1697年から一気に1701年にとんでおり、この戦間期には、彼にとって特筆す
べきことは無かったのかも知れません。と言っても、トランプ賭博でイカサマをやったのやらないので決闘沙汰を
起こしたり、ガールフレンドと同棲したりと、トルーアンはそこそこ忙しくしていたようです。
 スペイン継承戦争の発端については、「ジャック・カサール その2」を参照していただくとしますが、早い話、ル
イ14世が、孫フィッリップをスペイン国王に就けたあげくに、フランスの王位継承権について曖昧な感じにしたこ
とで、英蘭をはじめとする諸外国に喧嘩を売ったのです。フランス=スペイン連合王国という超大国出現が現実味
を帯びたため、反仏の英蘭やドイツ諸侯が抱いた危機感はすさまじいものでした。

 戦争勃発とともに、トルーアンは海軍士官に復職して、まずは戦列艦「Dauphine」の副長として勤務しはじめま
した。艦長はオートフォール伯爵(comte de Hautefort)と言うバリバリの貴族であり、トルーアンは貴族との付き
合い方をしっかり学んだことでしょう。
 1702年になると、トルーアンは通商破壊任務に就くことになり、ブレストに停泊中のフリゲート「Bellone (38)」
と「Railleuse (24)」の指揮を任されます。この二隻の出港準備が整うと、トルーアンはスコットランド北方、オーク
ニー諸島近海でのパトロールを命じられました。
 この航海は、私掠船事業では無く海軍の任務でしたが、やることは私掠船と変わりません。トルーアンは、
「Bellone」「Railleuse」に加えてさらに二隻の40門フリゲート(船名不詳)を率い、ブレストから出港しました。この
時、「Bellone」には、トルーアンの末の弟ニコラスが士官として乗り組んでいました。
 この航海でトルーアンは、スピッツベルゲンから戻って来たオランダ捕鯨船3隻を拿捕し、幸先の良いカムバッ
クをはたした…かに見えました。しかし、スコットランド沖を離れないうちに大嵐に遭い、拿捕船のうち2隻が座礁
して沈没したあげくに、トルーアンの戦隊もバラバラになってしまいます。そして、単独航海になってしまったトル
ーアンの「Bellone」は、漁船団の護衛にあたっていたオランダの38門フリゲートに遭遇。嵐の中の熾烈な戦闘
の末に、トルーアンは敵艦を拿捕し、何とかブレストに戻りました。
 残りのフリゲートは、てんでばらばらでしたが、一隻も欠けることなくブレストへ戻ってきました。「Railleuse」なん
ぞは、遠く南のリスボンまで嵐で吹き流されており、かなり苦労があったようですが、とりあえずは無事でした。フ
リゲート4隻を投入したのに、ブレストへ持ち帰った獲物は2隻だけというありさまでしたが、とにかく、この航海は
「成功」と見なされました。

 翌1703年5月、彼はまた同じ部隊を指揮して海峡に出撃し、6隻の英国船を拿捕しますが、ブレストへ到着し
たのは4隻でした。
 7月になると、トルーアンは、戦列艦「l'Eclatant(66)」「Furieux(62)」と、フリゲート「Bien-Venu(30)」の指揮を
任されました。二隻の戦列艦が通商破壊任務に鈍重すぎると見たトルーアンは、この二隻の武装を軽量砲中心
の56門に改めます。それからトルーアンは、スピッツベルゲン近海のオランダ漁船団を命じられ、さらにサン・マ
ロの私掠船である30門フリゲート2隻(船名不詳)も併せ、計5隻を率いて出撃しました。
 スピッツベルゲンへ向かう途中のオークニー諸島沖で、トルーアンの戦隊は、靄で視界が悪い中に15隻からな
るオランダ船団を発見しました。これをインド帰りの商船隊だと判断したトルーアンは、喜び勇んで突撃します。
 しかし、射程内に接近したところで、それが15隻どころではないオランダ艦隊だと判明しました。大慌てでトル
ーアンは逃走にかかり、視界の悪さも幸いして、軽い損害のみで逃げ切りました。
 その後、無事に戦隊はスピッツベルゲン沖に到着し、周辺を荒らしまわりました。トルーアンの回顧録によれ
ば、その戦果は「破壊、および身代金をとった船40隻以上」、そして拿捕した15隻をフランスへ回航しました(し
かし、フランスに到着したのが15隻で、遭難や敵の奪回で何隻かの拿捕船が失われた、ともあります)。帰路で
もまた、砂糖を積んだ西インド帰りのイギリスの大型商船を拿捕しました。やや軽率な判断もありましたが、この
航海は大成功でした。


 同じサン・マロ出身で同業者だからですけどね…

デュゲイ=トルーアン、2人目の弟が死ぬ

 1704年、トルーアンは二隻の54門艦「Jason」「l'Auguste」の出港準備と指揮を任せられました。二隻とも、そ
の年にブレストで完成したばかりの、ぴかぴかの新造艦です。
 2隻の出港準備が整った9月、トルーアンは「Jason」の艦長となり、偵察用の大砲8門のコルベット「Mouche
(ハエ)」も加わった3隻を率いて、英仏海峡へ出撃しました。
 そして、戦隊がシリー諸島沖に到達して、トルーアンの「Jason」が島に接近した時、英国の72門戦列艦「リベ
ンジ (Revenge)」と出くわしました(9月の何日かは不明)。トルーアンの回顧録によれば、気がついた時には既に
大砲の射程内だったとのことであり、恐らくは陸地に隠れて相手が見えなかったのでしょう。おまけにこの時、ト
ルーアンの戦隊は広く散開していて、相互支援が不可能な状態でした(トルーアンの回顧録によると距離3マイ
ル)。
 これらは、不運と言うより、シリー諸島のような敵地で油断しすぎたと言うべきでしょう。一隻で戦列艦と対決す
ることになった「Jason」は、戦いながら逃走します。3時間後にようやく追跡を振り切りるも、まあ、当たり前です
が、「Jason」は僚艦二隻とはぐれていました。その日の内に「l'Auguste」とは再会できましたが、数日後にトルー
アンは、「Mouche」が英艦「ファルマス Falmouth (54)」に拿捕されたことを知ります。
 こういう事がありましたが、やはりトルーアンは幸運でした。「リベンジ」との戦いの翌日、「Jason」と「l'
Auguste」は、商船30隻からなる英国のコンボイと遭遇し、護衛についていた54門艦「コベントリー」と商船12
隻を拿捕。そして、追跡してきた「リベンジ」と「ファルマス」の攻撃を撃退し、拿捕船を失うことなくブレストへ帰港
しました。「Mouche」の喪失を償ってあまりある大戦果です(ただ、フランス海軍に就役した「コベントリー」は、17
09年に英海軍に奪回されました)。

 1704年11月23日、トルーアンは、「Jason」「l'Auguste」に加えて、弟ニコラス・トルーアンが船長を務める指
揮するフリゲート「Valeur (大砲の数不明)」からなる戦隊で、再び英仏海峡へ出撃しました。
 海峡では2隻の英艦「エリザベス (Elizabeth 70)」と「チャタム (Chatham 48)」に遭遇。トルーアンは、自身の
「Jason」で「エリザベス」を攻撃し、「l'Auguste」に「チャタム」を追わせました。
 「エリサベス」は、1679年の竣工ながら、この年に大改装を終えたばかりで、新鋭と言って良い強力な戦列艦
でした。そしてトルーアンも、実際のところは、自分の54門艦で大きな戦列艦に勝てるとは思っていなかったよう
です。しかし「エリザベス」のクロス艦長(Captain Crosse)は無能なうえに戦意もからきしで、至近距離での僅か
な戦闘ののちに降伏。「エリザベス」はトルーアンの手に落ちました(後に、艦長は軍法会議で有罪になり、終身
刑に処された)。もう一隻の「チャタム」は、船脚に優れており、「l'Auguste」の追撃を振り切って逃走しましたが、
70門戦列艦拿捕の大戦果の前には、なんでもないことだったでしょう。
 そのうえさらに、「エリザベス」を連れてブレストへ戻る途中、トルーアンの戦隊はオランダの大型私掠船二隻と
遭遇し、激しい戦闘の末に、その一隻「Amazone (40 - 42)」を拿捕しました。
 
 とは言え、そうそう良い事ばかりが続かないのが人生というものです。この航海の後、トルーアンは冬休みに入
ることにしましたが、弟ニコラスは「Valeur」単艦で獲物を求めて海に出ました。そして、獲物を一隻拿捕した後で
オランダ私掠船の攻撃を受け、なんとか「Valuer」は逃げ切ったものの、ニコラスは腰に銃弾を受け、致命傷を
負ってしまいます。
 出迎えたトルーアンは、負傷した弟を自ら陸へ運び、その後はつききりで看病しましたが、ブレストへ戻って来
た二日後、ニコラスは23年弱の短い生涯を閉じました。

  
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