デュゲイ・トルーアンその7

デュゲイ=トルーアン、また船を奪われる

 トルーアンには、弟ニコラスの死の悲しみに浸っている余裕はありませんでした(まあ、エティエンヌの時とは違
い、ニコラスは単独行動中の戦死なので、トルーアンが酷く責任を感じる理由も無いでしょう)。彼は、新任のブレ
スト艦隊司令官コエトロゴン侯爵(Marquis de Coëtlogon, Alain Emmanuel de Coëtlogon de Mëjusseaume
1646-1730)の下で、「Jason」と「l'Auguste」(艦長は、以前の上官ネスモン侯爵の息子)を率いての英仏海峡の
パトロールに戻りました。
 さて、ブレストを出港して2日後の1705年8月6日(しかし、記録が錯綜していて1月説、7月説もある)、トルー
アン戦隊は、前年にウェサン島沖で逃げられた英フリゲート「チャタム」と、再び遭遇しました。今回も「チャタム」
は逃走をはかりますが、トルーアンはうまく捕捉して至近距離での戦闘に持ち込み、二隻で「Chatam」を挟撃す
ることに成功します。
 「Chatam」は戦いつつ逃走を続け、トルーアンの「Jason」「l'Auguste」はこれを追いましたが、ふと気がつくと、
眼前にはイギリスの大艦隊が迫っていました。要するに「チャタム」は、囮となって主力まで敵を誘導していたの
であり、トルーアンは、絵に描いたような罠に、絵に描いたようなハマったのでした。
 このイギリス艦隊は、ジョージ・ビング提督(George Byng, 1st Viscount Torrington, 1663-1733)率いる21隻
でした。トルーアンは直ちに「チャタム」を放り出して逃走にかかり、敵の火力を分散させるべく、「Jason」と「l'
Auguste」は二手に別れました。
 トルーアンの「Jason」は、15隻もの敵艦に追いかけられましたが、幸いにも鈍足の艦ばかりだったようで、射
程内にまで追いついてきたのは、トルーアンすら「すごいスピード une vitesse extreme」と評した一隻だけでし
た。この敵艦は、トルーアンの回顧録では「Honster (64)」、イギリス側の記録では「Worcester (50)」となってい
ますが、どちらにせよ、「Jason」は至近距離の撃ち合いでその敵艦に大損害を与え、落後させました。この時、
「Jason」はさらに3隻に追いつかれつつありましたが、弱まった風と日没に助けられ、トルーアンは追撃を振り切
ります。そして、デュゲイ=トルーアンとはどこまでも幸運な男であり、大逃走の翌日、ベル島(Belle-Île-en-
Mer)沖でオランダの20門私掠船「le Paon(クジャク 本来はオランダ語でPauw?)」を拿捕する戦果をあげると、
ポルト・ルイを経てブレストへ戻りました。
 一方、「l'Auguste」はと言えば、残った6隻の英艦に追いつかれて、袋叩きにあいました。それでも、「l'
Auguste」は、風が弱まってからは、オールで漕いでまで逃走を図ったと言うことですが、翌朝に捕捉され、激しい
戦いの末に拿捕されてしまいました。戦果と損失から見れば、この航海は失敗であり、フランス側の敗北です。
 実際、トルーアンは厳しい非難も受けました。この批難についてトルーアンは、自分の「Jason」がより多数の敵
を引きつけたこともあり、やるべきことはやったと考えて、回顧録では「嫉妬による批難」と切り捨てています。し
かしまあ、罠に落ちたことを考えれば、それなりに当然の批難でしょう(笑)。

 それからトルーアンは、南米帰りの商船隊を狙うため「Jason」単独でポルトガル沖へ向かい、ココア、スパイ
ス、銀などを積んだ3隻のオランダ西インド会社船と、レバント(中東)帰りのイギリスの武装商船二隻(26門と30
門、トルーアンは回顧録にフリゲートと書いている)、そして西インド諸島へ多量の火薬を運ぶイギリス船を拿捕し
ました。これらの拿捕船を引き連れた帰り道では、もう一隻おまけにフィニステルレ岬沖でイギリス船を拿捕して
から、無事にブレストへ帰りました。

スペイン継承戦争 1706年までの流れ

 さて、ここいらでスペイン継承戦争について説明したいと思います。ただ、全体の流れについて説明すると長く
なってしまいますので、ここはデュゲイ=トルーアンと関係が深い海戦と、そもそもの発端であるスペイン情勢を中
心にざっと解説しようと思います。
 事の発端は、スペイン・ハプスブルグ家の最後の王、カルロス2世(1661-1700 在位1665-1700)の後継問題
でした。カルロス2世は、近親婚の繰り返しによる遺伝的疾患(「青い血の呪い」と呼ばれた)に侵されており、肖
像画にははっきり末端肥大症が見え、病弱で、おまけに癲癇と軽い知的障害があったと言う人物でした。
 ハプスブルグ家と言えば、スペインとオーストリアという二大国の王様を輩出している、ヨーロッパの名門中の
名門でしたが、大国の王家というのも楽では無く、いざ結婚となると、家格の釣り合いと政治的問題が出て来るも
のなのです。
 別の大国の王族と結婚するとなれば、後々に王位継承問題が紛糾する可能性もあり、また勢力図を塗り替え
かねないため周辺国の反発もあります。国内の大貴族と結婚するにしても、これはこれで貴族間の抗争を引き
起こしかねない。そういうしがらみのない小国の王族や小貴族と結婚するとなれば、今度は家格がつり合わない
(そもそも、ハプスブルグ家と釣り合う家はそうそうない)。おまけに、カソリックの旗手を自任するスペインは、宗
教にもうるさい。つまるところ、近親婚をする以外に取りえる途が無かったのです。
 
 カルロス2世後のスペイン国王には、三人の候補者がいました。これだけで紛糾の気配ばりばりですが、ここ
は、反仏の大英雄で、英国王兼オランダ総督ウィリアム1世/ヴィレム3世の主導により、関係各国(ただし、当の
スペインを除く)は、広大な中南米の植民地、南部ネーデルラント、イタリア半島の諸王国等のスペイン国王が持
つ王権を三分割して、それぞれの候補者に相続させることで合意しました。
 しかし、候補者の一人、バイエルン選帝候子フェルディナンドが6歳で亡くなってしまい、残った候補者は、ルイ
14世の孫アンジュー公フィリップ(1683-1746, ルイ14世の王妃がカルロス2世の姉だから)と、同じくハプスブル
グ家(ロートリンゲン・ハプスブルグ家)の神聖ローマ皇帝レオポルド1世(カルロス2世の叔父)の次男、オーストリ
アのカール大公(1685-1740)の二人。そして、言うまでもなくフランスと神聖ローマ帝国/オーストリアは仲が悪い
し、イングランド、オランダを筆頭とする反仏諸国は、スペインの王座がブルボン家に渡るような事態は看過でき
ませんでした。
 そこで、再び分割条約が話し合われ、第二次分割条約が英、仏、蘭の間で調印されました。ただ、神聖ローマ
皇帝レオポルド1世は、分割相続には賛成でも内容に不満だったので、神聖ローマ帝国は条約に加わりません
でした。
 しかし、頭越しで勝手に領土分割を話し合われれば当然ですが、スペインは条約に強く反発します。すると、ヨ
ーロッパに覇を唱えんと、野望ばりばりのルイ14世は、孫をスペインの王位につけるべく、なりふり構わぬカルロ
ス2世のご機嫌取り工作を展開しました。
 そして1700年11月11日、カルロス2世が崩御すると、その遺言により、ルイ14世の孫アンジュー公フィリッ
プ(当時16歳)が、スペイン王フェリペ5世として即位しました。これ以後、ナポレオンの侵攻、共和制やフランコ
支配などの中断を挟みつつも、現代に至るまでスペインではブルボン王朝が続いています。
 
画像はwikipediaより 画像はwikipediaより
カール大公 (1685-1740)

 かの「女帝」マリア・テレジアの父。自称スペイン王だったが、しかし、
兄ヨーゼフの急死により、神聖ローマ皇帝カール6世になってしまう(在
位1711-1740)。このため、戦争に勝ったら今度はオーストリア=スペイン
連合王国が実現しかねないため、ポルトガルを除く反仏諸国は概ね戦う
気を失ってしまった。皇帝即位後は幾多の戦争を勝ち抜き、神聖ローマ
帝国の最大版図を築くに至る。しかし、所領の一括長男相続の原則を制
定しつつも男児に恵まれなかったことから、オーストリア継承戦争の原因
を作ってしまった。なんとも皮肉かつ迷惑な話である。
フェリペ5世(1683-1746 在位1701-1740 1724年に一度退位
しているが、新国王の急死で重祚)

  祖父ルイ14世の傀儡と思われていたが、立派なスペイン国王として
の務めを果たし、スペイン国民からの人気はけっこう高かった。祖父ル
イ14世からは「よきスペイン人たれ、しかしフランス人たることを忘れる
な」とクギを刺されたと言うことだが、1718年には、スペイン継承戦争
での失地回復のため、母国フランスをも敵に回した戦争を仕掛けている
(四国同盟戦争 War of the Quadruple Alliance 1718-1720)。ただし、
勝つことは出来なかった。

 さて、カルロス2世の遺言では、領土は分割しない事と、新国王は即位にあたっては、出身地の王位継承権を
放棄するものと定められていました(この場合はフランスの王位継承権)。
 しかし、ルイ14世はフェリペ5世のフランス王位継承権をあいまいにしました。そればかりか、スペイン側から
は、フェリペ5世が成人するまでの間、ルイ14世本人に対して摂政就任の要請もなされました。他国が、これを
フランス-スペイン合同王国の前触れと受け取ったのは、当然のことでした。
 そのうえルイ14世は、一度は調印した分割条約を破棄しました。スペイン領土の一括相続は、カルロス2世の
遺言と、スペインの大方の世論にそった行動ではあったのですが、これでは、フランスの覇権主義のため、遺言
の都合の良い部分だけに従ったようにしか見えません(勿論、ルイ14世の言い分にも、それなりに正しいところ
はありましたが、過去の行状からして、ルイ14世の品性が疑われるのも仕方ないことでした)。
 さらに1701年2月、スペイン領南部ネーデルラントにフランス軍が進駐します。これは、オランダにとって深刻
な脅威となりました。英蘭両国は、戦争もやむなしと腹をくくりましたが、この時は戦争準備の時間を稼がねばな
らず、フェリペ5世のスペイン王位を承認せざるを得ませんでした。
 続く1701年夏、南部ネーデルラントの事態を見たオーストリアは、機先を制して北イタリアのスペイン領ミラノ
公国に侵攻します。ミラノ公国は、最初の分割条約ではカール大公の相続地域となっていましたが、第二次分割
条約では、アンジュー公の相続地域となっていました。しかし先述の通り、第二次条約に神聖ローマ皇帝は調印
していなかったし、フランス側も、ミラノの代償としてロレーヌをオーストリアに譲る約束を破棄していたのです(こ
のあたり、もはや滅茶苦茶だが、軍事行動の理由には充分)。そして、名将オイゲン公子(Eugen von Savoyen,
Prinz Eugen 1663-1736)率いるオーストリア軍は、「カルピの戦い(Battle of Carpi 1701.7.9)」でミラノ駐留の仏
軍を撃破。ついに「スペイン継承戦争」が始まりました。
 そして、翌1702年の5月から9月にかけて、英蘭を中心とする反仏大同盟諸国は、フランスとその同盟国に
対して正式に宣戦布告しました。

 イギリスの海軍戦略は、国王ウィリアム一世の方針で、いざフランス/スペインと戦争になった場合は、カディ
ス、もしくはジブラルタルを攻略して、早々に地中海の出入口を扼する事になっており、ウィリアム一世の死後も
その方針は堅持されていました。また、大同盟戦争以後は、オーストリアの支配地域を根拠地として、常に地中
海に艦隊を派遣し続けていました。
 一方のフランス側と言えば、死命を制する陸軍が中心とならざるを得ない事情を考えても、海軍戦略はごくお粗
末な状態でした。おまけに、1692年のラ・オーグの大敗以降、強大な英蘭連合艦隊と対決することは端っから
諦め、敵に海軍力の分散を強要するとともに、敵国経済へ打撃を与えることが出来て、かつ慢性的金欠のフラン
ス王室の財政も潤う通商破壊作戦(ゲール・ド・クールス guerre de course)を重視しました、というか、他に取る
べき途もなく、そうせざるを得ませんでした。フランスの海事業界には、冒険と金と祖国のために命をかけようと
言うコルセールは山ほどおり、王室の財政にさほど負担をかけることなく、民間資本で作戦を展開できるのです。
おまけに、概してコルセール達は、正規の海軍士官よりも優秀な船乗りでした。

 1702年7月、英蘭軍によるカディス攻略作戦が発動されました。
 そして8月23日、英海軍の大将サー・ジョージ・ルックを総指揮官とし、オランダのフイップ・ファン・アルモンド
(Philips van Almonde 1644-1711)を次席とする英蘭連合艦隊、およびイギリス陸軍のオーモンド公(James
Butler, Duke of Ormonde 1665-1745)が指揮する陸兵8000がカディスを攻撃しました。
 結果から言えば、この作戦は全くのグダグダでした。ルック大将は、直接攻撃は危険としてカディスへの砲撃を
行わず、上陸部隊の方も、肝心の攻撃はほったらかしで、オーモンド公の黙認のもとで、付近の略奪に血道をあ
げるありさまでした。結局、英蘭軍はロクに戦わず、一ヶ月後に撤退しました。一般にこのカディス作戦は、イン
グランド海軍の敗北で大醜態とされていますが、私としては、一ヶ月もの間、侵攻部隊を放置していたスペインの
軍隊の方も、負けず劣らずの醜態をさらしていると思います。

サー・ジョージ・ルック(Sir George Rooke, 1650-1709)

 イングランドの海軍軍人、枢密院議員、後にジブラルタル総督。22歳で海軍入りし、第三次英蘭戦争勃発の23歳の時には既にポストキャプテン(Post Captain 中佐-大佐相当)となっている。1690年、海軍少将(Rear Admiral)に進級、ビーチーヘッド沖海戦(1690)、ラ・オーグの海戦(1692)、ラゴス沖海戦(1693)など大同盟戦争の主要海戦で大活躍して、1696年には、最上席の海軍大将であるAdmiral of the Fleet(日本語では海軍元帥、もしくは将旗の色にちなんで赤色艦隊大将)に任じられた。スペイン継承戦争でも、カディス攻撃の失敗(と言っても敗北というわけではない)以外はかなりの武勲を立てている。
 慎重な性格により、頻繁に作戦会議を開いて部下の意見を聞いていたが、どうやらそれが決断力の不足と見られており、その輝かしい武勲にも関わらず、今も昔も評判はイマイチ。実際、有能か否かと言う点ではなんともビミョーなところがあり、ネルソン並みとは言えないのだが、それでも、ロイヤル・ネイビーの偉大な英雄として、もっと大きく扱われても良いと思うのですが…。
 ただ、英国編入300年を記念して、ジブラルタルに彼の功績を記念する像が建立された。 

 しかしながら、英蘭連合艦隊は手ぶらで帰国したりしませんでした。帰路におけるちょっとした世間話の偶然か
ら、ビーゴ湾に、かの有名なスペインの財宝輸送船団と、その護衛のフランス艦隊が停泊中であるとの情報を得
たのです。ルック大将らは、ウーもスーもなくビーゴ攻撃を決意しました。
 10月23日、オーモンド公の上陸部隊は、果敢な攻撃で砲台を制圧。艦隊の方も、入り口の防柵を体当たりで
ぶち破り、港に突入して暴れまわりました。
 ビーゴには、シャトー・ルノー侯(Francois Louis de Rousselet, Marquis de Chateaurenault, 1637-1716)率
いるフランスの戦列艦15隻と、併せて30隻ほどのフリゲート以下の艦艇とスペインの輸送船が停泊中でした
が、ほとんどなすすべなく撃沈されるか拿捕されるかして、文字通り一隻残らず全滅し、2000人に及ぶ戦死者
を出しました(撃沈された輸送船は、今も財宝ともども海底に眠っているといふ…)。
 この「ビーゴ湾海戦 Battle of Vigo」の結果、実際の金額ははっきりしないものの、200人ほどの戦死者と引
き換えに、英蘭両国は莫大な財貨を得ました(そして、将兵にも既定の分け前が支払われました)。「〜がウソの
ように」とはよく言いますが、カディスでの消極ぶりは、「ウソのよう」ではなくて、マジでウソだったのでしょう。カデ
ィスの名誉挽回という意識ばかりではないはずで、欲得が絡めば、戦いぶりはかくも変わるものでしょう。
 
 一方、純粋に物質的、経済的に言うと、このビーゴ湾海戦の敗北は、スペイン王室にとって、大した損害ではあ
りませんでした。既に王室と国庫へ入る財貨は陸揚げされており、しかもその場の王室所有船は2隻しかなかっ
たので、被害は民間の財貨と船舶に集中していたのです。しかし、戦列艦15隻を一度に失ったフランス海軍の
打撃は言うまでもないことですが、それ以上に、政治的にフランス、スペイン両国に重大な打撃となります。
 スペインの隣国、ポルトガルは中立国ではありましたが、フランスと同盟していたため、英蘭連合艦隊による海
上封鎖で、大きな経済的損失を被っていました。そしてビーゴ湾海戦の結果、ポルトガルはフランスの海上戦力
がまるでアテにならないと悟り、1703年、反仏同盟に加わってスペインに宣戦布告します。かくして反仏同盟
は、イベリア半島に巨大な橋頭保と兵站基地を得ました。

関連地図

 そして翌1704年8月1日、ルック大将率いる英蘭連合艦隊と、ヘッセン-ダルムシュタット公子(Georg von
Hessen-Darmstadt, 1669-1705)率いる陸軍部隊は、地中海の出入口にあるジブラルタルを攻撃して、ごく少数
のスペイン守備隊は、8月4日に降伏しました。奇怪なことに、自称スペイン国王カルロス三世(=ウィーンで勝手
に戴冠式を済ませていたカール大公)に対する降伏でした。
 ジブラルタルの地が、後に大英帝国に対して果たした役割を考えると、かなり奇妙なことですが、この時は、ジ
ブラルタルの位置の戦略的重要性では無く、再度のカディス攻略作戦も検討した結果、貧弱な防衛体制と、狭い
地峡で本土とつながった岩山という、陸からの攻撃には難攻不落に近い地形が決め手となって、作戦目標に選
ばれたのでした。
 ジブラルタル陥落の20日後の8月24日、トゥールーズ伯率いるフランス艦隊が、ジブラルタル奪回を目指して
出撃してきましたが、英蘭艦隊がジブラルタルへの砲撃で弾薬切れ寸前だったにもかかわらず、勝つ事が出来
ませんでした(マラガ沖海戦)。翌年からのフランス/スペイン合同の海陸共同攻撃も全て失敗に終わり、ジブラル
タルは同盟側に確保されました。そして、現在に至ってもジブラルタルはイギリス領であり、同時にスペイン-イギ
リス間の大きなヒビとなっています。
 
 1705年、同盟軍によるポルトガルからのスペイン攻撃は、べリック公(Jacques Fitz-James de Berwick,
1670-1734 名誉革命で追い出された前英国王ジェームズの息子)率いるフランス軍に阻止されました。しかし、
作戦上の明確な意図があったかどうか不明ですが、このポルトガルからの攻撃は大規模な陽動作戦となりまし
た。
 反仏同盟の主目標は、親ハプスブルグの気風が強い東部のカタロニア地方で、1705年8月22日、ヘッセン
公子(ハプスブルグ朝スペインではカタロニア知事だった)、および自称カルロス三世のカール大公ご本人も加わ
った同盟軍がバルセロナ近郊に上陸、9月17日にバルセロナは陥落しました。ここで、カタロニアで人気があっ
たヘッセン公子が戦死したため、その後の統治に一抹の不安を残すも、同年中に同盟軍はカタロニアとバレンシ
アを制圧します。ここに至り、スペインは東西から完全に挟まれてしまいました。

 翌1706年2月、同盟軍は再びポルトガルからの侵攻作戦を開始しました。この時、スペイン軍の主力は、フェ
リペ5世自ら指揮するバルセロナ奪還作戦の最中だったので、べリック公率いるポルトガル方面の軍は時間稼ぎ
の後退戦術以外になすすべなく、しかもバルセロナ奪還作戦も失敗しました。そして6月、フェリペ5世は首都マド
リードの防衛を諦め、べリック公の軍とともに北部へ退却します。6月27日、反仏同盟軍はマドリードに入城しま
した。
 この1706年、同盟軍はネーデルラントと北イタリアで大勝利をおさめ、両地域からフランス軍を駆逐していま
した。ここでスペインが同盟側の手に落ちれば、戦争は勝ったも同然です。フランス側にとって情勢が危機的とな
ったこの時、トルーアンがスペインへ派遣されたのでした。

デュゲイ=トルーアン、スペインでもめる

 1706年、ルイ14世の意向もあって、トルーアンはついに戦列艦艦長(capitaine de vaisseau 大佐相当)に進
級しました。同時に、「Jason」と、前年拿捕した「le Paon (20)」に加えて、ポルト・ルイに停泊している戦列艦「l'
Hercule(54)」の指揮権を与えられます。そして、この3隻を指揮してスペインのカディスへ進出し、予期されてい
たポルトガル艦隊の来襲に備え、現地の守備隊を支援せよとの命令を受けました。
 しかし、命令は受けたものの、ブレストで合流するはずの「l'Hercule」がいっこうにやってこないので、しびれを
切らしたトルーアンは、「Jason」と「Paon」を率いてブレストを出港し、ポルト・ルイまで「l'Hercule」を迎えに行き
ました。そして、ポルト・ルイへ向かう道すがら、イギリスの私掠船「Marlborough (36)」を拿捕する幸運にも恵ま
れました。
 ポルト・ルイで「l'Hercule」と合流したトルーアンの戦隊は、南下してカディスへ向かいました。しかし、リスボン
沖でポルトガルのコンボイに遭遇すると、トルーアンはこれをブラジル帰りの重要な船団であると見て、攻撃を命
じました。
 当然、カディスの防衛はどうするのっ? と言う反対意見が他の艦長からあったと思われますし、実際、トルーア
ンは正式な海軍士官なのだから、こういう場合も迷わずカディスへ向かうべきでしょう(遭遇したのが、カディス攻
略のための船団だったと言うなら別ですが)。このあたり、トルーアンはコルセール根性が抜けていなかったのだ
と思われます。もっとも、トルーアンのようなタイプの士官に言わせれば、敵に遭っても攻撃しない消極性や、命
令に頑迷に従って臨機応変の対処をしないことこそが、敗北の元凶と言うことになるのでしょう。しかしまあ、これ
は結果次第でしょう。勝って、かつ命令も遂行すれば臨機応変の行動も賞賛されますが、負ければ当然、批難さ
れて叩かれます。そして、この時のトルーアンは、残念ながら後者の瀬戸際でした(苦笑)。
 このポルトガルのコンボイは、50-80門クラスの軍艦6隻の護衛と商船30隻からなっていました。後になって書
かれたことを考慮しなくてはなりませんが、トルーアンの回顧録を見ると、彼はポルトガルの護衛の方が戦力で勝
っていることは認識していたようです。
 トルーアンは、護衛を分断するため二手に分かれて攻めかかりましたが、攻撃は失敗。三隻とも激しく被弾した
うえに、ものの見事に船団は取り逃がして、一隻も捕えることが出来ませんでした。トルーアン本人も、回顧録に
よれば三度砲弾が体をかすめ、服にはマスケット銃弾の穴が開いていて、破片で軽傷を負ったとのことです。
 「The Corsair of France」には、あまりの損害に、いったんポルト・ルイへ引き返したとありますが、トルーアン
の回顧録にはそのようなことは書いてありません。ま、何が正しいかはともかく、とりあえず1706年の夏には、ト
ルーアンの三隻はカディスに到着しました。このあたりの出来事については、時間が経ってから書かれたものだ
からか、トルーアンの回顧録には日付けが一切書いてありません。多分に根拠の薄弱な推測ですが、恐らくフェ
リペ5世のマドリッド撤退と同時期くらいと思われます。

 カディスの知事de Valdacagnas侯爵(不詳)は、戦隊の到着に「とても満足そうだった」と、トルーアンは回顧録
に書いています。しかし、両者の関係は全くうまく行きませんでした。
 まずde Valdacagnas候は、補給物資の代金立て替えを拒否しました。これに対して、トルーアンはフランス領
事(ルノー勲爵士と言う人らしい)を通じて抗議したため、外交問題になりました。またde Valdacagnas候は、トル
ーアンに限らずフランス軍士官全てに対して非常に横柄で尊大に振る舞い、またその助言を聞き入れることもあ
りませんでした。
 しかし、考えてみれば、どっちもどっちと言うところでしょう。レネ・デュゲイ=トルーアンという人物は、大同盟戦
争では一再ならずスペイン商船を捕まえているし、エティエンヌが死んだ時には、スペインの村で略奪に及んでい
ます。こういう人間を信頼するのはなかなか難しいでしょう。また、これは私見ですが、リスボン沖の失敗におけ
る損傷や消費した弾薬の立て替えも、当然ながらトルーアンは要求していたはずで、これをde Valdacagnas候が
拒否したとしても、了見の狭い行動ではありますが、スペインの行政官としては、さほどおかしな行動とは思えま
せん。
 また、トルーアンが受けた命令はどうあれ、実際のところは、ポルトガルや同盟側がこの時期にカディス攻略を意図していた証拠は見つからないのですが、トルーアンの戦力が、ポルトガルの護送船団にも勝てなかったたった三隻の軍艦でしかない事を考えれば、信頼されなかったのも無理ないかも知れません。
 スペインの貴族としても、長年スペインをいじめて領土を拡大してきた仇敵、ルイ14世の孫が王様になり、スペ
イン王室の所領分割阻止が大目標であったとはいえ、フランスの戦争に巻き込まれた、との思いがあってもおか
しくなかったでしょう。
 そして、リーダー達の対立は下の方にも影響するわけで、そうこうしている内に、トルーアンの船員とスペイン兵
の間で銃撃戦が起き、双方に死傷者が出ました。トルーアンはこの件でde Valdacagnas候に抗議し、これに対し
てde Valdacagnas候は、トルーアンを逮捕して投獄しました。このあたり、先に発砲したかのがどちらかで認識
の違いがあったのか、単なるイヤガラセと意地の張り合いなのか、理由は分かりません。しかし、さすがにこれに
はフランス大使が厳重に抗議したので、トルーアンはすぐに釈放され、同時にde Valdacagnas候は更迭されまし
た。
 
 トルーアンとde Valdacagnas候が意地の張り合いをやっていられたのは、この時にはスペインにおける同盟軍
の攻勢が躓いていたからでしょう。
 当時の交通/通信手段を考えれば無理からぬことかも知れませんが、東のカール大公と西のポルトガル方面
の同盟軍は連携が悪く、このもたつきが、フェリペ5世には起死回生のチャンスでした。このフェリペ5世という王
様は、一部貴族社会やカタロニア、バレンシアでは評判が悪くとも、この時にはスペイン国民からかなりな支持を
得るようになっていて、同盟軍の15000人に対して、25000人の軍勢を集める事が出来たのです。おまけに、
8月4日にはマドリードがフェリペ支持派に奪回されたので、同盟軍はしかたなくポルトガルとカタロニアへ撤退。
10月になって、フェリペ5世はマドリードへ帰還しています。
 そして、脅威は去ったということで(もしくは、それ以上もめ事を起こさないようにか?)、トルーアンはブレストへ戻
るように命じられました。帰りの航海でトルーアンは、36門フリゲート「Gaspard」に護衛された15隻からなるイギ
リスの商船隊と遭遇し、2時間の交戦の後に、「Gaspard」と商船12隻を拿捕する大戦果をあげました。

 
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