デュゲイ・トルーアンその5

デュゲイ=トルーアン、謁見を受ける 
 
 北方から戻った後、トルーアンはパリへ行きました。海軍省の命令があったとも言われていますが、どうやら、
海軍大臣ポンシャルトラン伯、およびフランス陸海軍の総司令官もトゥールーズ伯ルイ・アレクサンドル・ド・ブル
ボンに直接自分を売り込もうと、自費でパリへ向かったようです。
 
ルイ・アレクサンドル・ド・ブルボン(Louis Alexandre de Bourbon, 1678-1737)

 トゥールーズ伯、パンティエーヴル公、ランブイエ公の三つの爵位を持つ。ルイ14世と妾モンテスパン夫人の間に生まれた子で、1683年、5歳でフランス海軍総司令官(Grand Amiral de France)に、1696年、18歳でフランス陸軍元帥およびフランス陸軍総司令官(Maréchal de France)に就任。いかにもアンシャン・レジーム的貴族軍人だが、名ばかり司令官かと思いきや、実戦でもけっこう活躍している。
 
 残念ながら、トゥールーズ伯との会見は叶いませんでしたが、ポンシャルトラン伯はトルーアンの訪問に大喜び
して、ただちに国王ルイ14世との謁見を手配しました。
 トルーアンは、その後のヴェルサイユ宮殿での謁見とパーティーについて、
「偉大なる国王は、ありがたいことに私のささやかな奉公に満足してくださった。私は、国王の存在が、その性格
の心地よさとともに心の奥底にしみ込んでくるままにした。国王のほんの小さな行動にも、その高貴さが表れてい
た。私は、国王から受ける敬意に相応しいことをしたいと、前以上に強く思った。」
 と書き残しています。果たしてルイ14世が、本当にレネ・デュゲイ=トルーアンの感想通りの人物かどうかにつ
いては、ツッこまないことにしましょう。
 謁見の後でトルーアンは、ポンシャルトラン伯から、元「ノンサッチ」であるフリゲート艦「Sanspareil (50)」の船
長に任命されたので、艤装を指揮するためにポルト・ルイへ向かいました。

 1696年7月4日、トルーアンの「Sanspareil」は出港して、スペイン北部へ向かいました。そしてビーゴ(Vigo)の
近くで出遭ったフランスの漁船から、オランダの大型商船3隻がビーゴ港内に停泊中との情報を得ました。
 トルーアンは、「Sanspareil」のイギリス式の外観をあてにして、英国旗を掲げてビーゴ港に入りこもうとします
が、しかしなんたる幸運か、おりしもオランダ商船のうち2隻が出港しようとしているところでした。その2隻は、ト
ルーアンがわざわざ港に入るまでもなく、「Sanspareil」を英国からの護衛だと勘違いして、不用心に近づいてき
ます。そして、適当なところでトルーアンがフランス国旗を掲げると、ウーもスーもなく2隻とも降伏しました。
 これらのオランダ船の積荷は造船用資材であり、フランスにとって貴重な積荷だと見たトルーアンは、当時イギ
リス海軍がフランスの港湾都市への襲撃を頻繁に行っていたことから、獲物の回航の安全を考えて帰路につき
ました。
 そして7月24日朝、トルーアンが心配した通り、戦列艦2隻を含む英国艦隊が風下側に視認され、そこからフ
リゲートが向かって来ました。
 トルーアンは拿捕船にオランダ国旗を掲げさせ、さらに「Sanspareil」に7発の礼砲を撃たせることで、英蘭混成
船団と味方艦隊との遭遇を演出しようとしました。しかし、それでもフリゲートは、停船を求める空砲を撃ちながら
接近して来たので、トルーアンは仕方なく、フランス国旗を掲げてフリゲートに片舷斉射をぶちかましてから、拿
捕船とともに逃走しました。幸いにも追跡はなく、逃走には成功しました。
 英国側には、これに該当する遭遇の記録は無いということです(「Studies in Nval history」)。しかし、確かにこの
時、イギリスのジョン・バークレー(John Berkeley, 3rd Baron Berkeley of Stratton 1663-1697)率いる艦隊が
沿岸襲撃作戦のためにビスケー湾で行動中で、これと遭遇した可能性は高そうです。

関連地図 ( EURATLAS PERIODIS BASIC PERIODICAL HISTORICAL ATLAS OF EUROPE 1 - 2000 より)

 またその後、トルーアンは、ロリアン沖のグロア島(Ile de Groix 80年ほど後、ジョン・ポール・ジョーンズが基地にした
)の近くで、国旗を掲げていない不審な船に遭遇しました。
 近寄って誰何するとフランス国旗が上がり、バイヨンヌの船だと言う返答が返ってきたということです。トルーア
ンら「Sanspareil」の士官達は、その船がフランスの私掠船であろうと推測し、特に気にすることも無く、拿捕船と
の連絡のためにボートを出しました。すると、そのボートが不審船から銃撃と砲撃を受け、マストに損傷を受けま
した。しかし、それが偽装した敵国船であったかと言えばそうでは無く、不審船はやっぱりバイヨンヌの私掠船で
した。なぜ攻撃したのか問いただそうと、トルーアンは船を寄せ、向こうの船長に来船するように要求しました
が、返ってきたのは、ひどい脅迫の言葉でした。
 ヘンな連中と係り合いになりたくなかったのか、トルーアンらは反撃せずにその場を離れましたが、報告を読ん
だポンシャルトラン伯は、海軍士官(トルーアンは海軍士官では無いが、軍艦に乗っていたから)と民間の船長と
の関係がうまくいっていない証拠だと、頭を痛めました(しかし、その後も相変わらず対立は続きました)。
 
 さて、ブレストへ戻ったトルーアンは、兄リュックに対し、19歳の弟エティエンヌ(Ètienne)を、ブレストで整備中
の小型船「Leonore (16)」の船長に据えるように勧め、認められました。
 8月下旬、「Sanspareil」と「Leonore」はブレストを出港して、フィリピン帰りの商船隊を狙うため、スペイン沿岸
へと向かいました。
 しかしながら、3週間ばかりのパトロールしたものの、全く獲物に遭遇しませんでした。物資も乏しくなったので
すが、トルーアンは獲物と入れ違いになるのを恐れ、帰国しないで現地調達に踏み切りました。
 そして二隻は、ビーゴの北の小さな入江に潜り込み、トルーアンは留守中の指揮を弟に任せ、武装した水夫を
率いて上陸しました。そして川で給水をしていると、遠くから銃声が聞こえて来ました。地元民に見つかったと悟っ
たトルーアンでしたが、とりあえずは偵察のため、銃声がした丘に登ってみると、近くの村に武装した集団が集ま
りつつあるのが見えました。するとそこに、銃声を聞いたエティエンヌが150人の武装水夫を率いて現れます。
 エティエンヌは、銃声を聞いて兄一行が心配になっただけなのですが、増援を得たトルーアンは、村を襲撃して
食糧を略奪することにしました。
 エティエンヌが50人を率いて村に陽動攻撃をかけ、その間にトルーアン率いる本隊が畑に隠れて村へ接近し、
反対側から奇襲するという計画でした。そして、計画は確かにうまく行き、トルーアンの隊は完全に村人達の不意
を突き、降伏させることに成功しました。
 しかし、陽動攻撃の最中にエティエンヌが被弾していました。弟が倒れたと言う報せに、トルーアンは愕然としま
す。
 エティエンヌは直ちに「Sanspareil」に収容され、プリマスからの脱走にも参加したフランソワ・レルミット医師が
診察しましたが、致命傷で手の施しようがありませんでした。トルーアンは、食糧調達(=村の略奪)の指揮を従兄
弟ジャック・ブシェールに任せ、弟につきっきりで看病しましたが、その甲斐も無く、エティエンヌは二日後に息を
引き取りました。
 トルーアンは、弟の死に大変な衝撃と責任を感じました。彼は戦隊を中立国ポルトガルのヴィアナ・ド・カステロ
(Viana do Castelo)へ向かわせ、そこでエティエンヌの葬儀を行うと、航海は早々に打ち切ってブレストへ戻りま
した(しかし、帰りに出くわしたオランダ船はしっかり拿捕している)。そして、そのままサン・マロに帰り、1696年
中はもう海に出ませんでした。

デュゲイ=トルーアン、死闘の末に海軍士官となる

 エティエンヌの死の衝撃で、トルーアンは、一時は引退も考えるほどでした。しかし、フランスには、彼のさらな
る活躍を望む人が大勢いました。
 1697年、ブレストの海軍監督官デクルソー(Desclouzeaux)は、スペインから戻るオランダの商船隊を阻止す
べく、私財(と言っても、横領した公金の可能性大)を私掠船事業に投じて戦隊を用意して、デュゲイ=トルーアン
に指揮をとるように要請しました。ポンシャルトラン伯からの説得もあってトルーアンはこの要請を受け、コルセー
ル稼業に戻る決心をしました。
 用意されたのは、「Saint Jacques des Victries (48 長いので以下St. Jacques)」、「Sanspareil (50)」、そし
て因縁の「Leonore (16)」の3隻で、トルーアンは「St. Jacques」に乗り、「Sanspareil」の船長は従兄弟ジャック・
プシェールが務めました。
 1697年3月15日、トルーアンの指揮の下、3隻はブレストを出港しました。そして一週間後の3月22日、ウェ
サン島北西30マイル(概ねブルターニュ半島の先端沖)のところで、トルーアンの戦隊は目的のオランダ護送船
団およそ30隻と遭遇しました。
 オランダ船団を護衛していたのは、ヴィレム・ファン・ヴァッゼナール男爵率いる「Delft (54)」「Honselaarsdijk 
(54)」「Nassau (38)」の3隻で、トルーアンは、指揮下の戦力では護衛に勝てないと判断して、攻撃をためらいま
した。また、その日は荒天で、砲門が開けられないほど波が高く、おおよそ戦闘向きの天候ではなかったため、
コルセールと護送船団は、互いを視界に収めてにらみ合いながら航海を続けました。

ヴィレム・ファン・ヴァッゼナール男爵(Willem Baron van Wassenaer Starrenburgh)

 生没年不詳。第一次-第二次英蘭戦争時のオランダ本国艦隊最高司令官ヤコブ・ファン・ヴェッゼナール・ファン・オブダム(Jacob van Wassenaer van Obdam 1610 - 1665)の甥で、マース司令部(ロッテルダム)所属。スペイン継承戦争では活躍している。

 翌23日朝、トルーアンにはなんたる幸運か、サン・マロの二隻の私掠船、「Faluère(28)」と「Aigle Noire (26)」
がひょっこりと姿を現しました。トルーアンはこの二隻の船長に対して来船を要請し、その日の夕刻、天候がやや
穏やかになった時に、トルーアンは「St. Jacques」に船長達を集めて戦闘計画を話し合いました。
 この時、オランダの護衛艦3隻は、旗艦「Delft」が先頭、中央に「Nassau」、後ろが「Honselaarsdijk」の一列縦
隊であり、トルーアンの「St. Jacques」が先頭に立って真後ろから接近し、「Honselaarsdijk」に砲火を浴びせつ
つ追いぬいて敵の先頭の「Deflt」へ向かい、「Sanspareil」はトルーアンの後に続いて「Honselaarsdijk」を攻撃、
そうして列の前後を押さえこんでから、「Faluere」と「Aigle Noire」が敵戦列の中央「Nassau」を左右から挟撃。そ
して「Leonore」は、商船の方を狙う、と言う計画が立てられました。
 
 翌3月24日、砲門を開けられるくらいに波が収まったので、トルーアンは戦闘開始を命じる信号旗を掲げ、攻
撃を開始しました。
 そして、計画通りに「St. Jacques」は、「Honselaarsdijk」に片舷斉射を浴びせてすれ違おうとしますが、しか
し、そんなに上手くいくはずはなく、トルーアンの期待とは反対に、「Honselarrsdijk」は「St. Jacques」に向かって
突進して近距離から片舷斉射を浴びせ、マストと索具に重大な損傷を与えたあげく、体当たりで「St. Jacques」
の脚を止めました。さらに、「Delft」が素早く反転してきて砲撃したので、「St. Jacques」は大破します。デュゲイ=
トルーアン、大ピンチ!
 ここで、ジャック・ブシェール指揮する「Sanspareil」が、トルーアンに代わって「Delft」に立ち向かいましたが、
50門対54門で大砲の数に大差ないものの、軽量砲ばかりの「Sanspareil」は火力で劣っていました。それでもど
うにか、「Delft」への接舷に成功したかに見えたその時、「Sanspareil」は至近距離からの砲撃を受け、砲甲板の
火薬が一斉に爆発しました。メインの火薬庫は誘爆しなかったものの(既に緊急に火薬庫に注水するような設備
はありました)、この爆発で乗員80人以上が死亡し、大砲のほぼすべてが使用不能に。さらに、後部甲板がマス
トとともに完全に吹っ飛んで火災が発生したので、「Sanspareil」は戦闘から離脱して、消火に専念することを余
儀なくされました。

 さて、この時トルーアンはと言うと、先頭に立って「Honselaarsdijk」切り込みを仕かけ、奪取することに成功して
いました。さすが英雄、彼は上甲板にいる敵が意外に少ないことに気がつき、砲甲板から上がってくる敵を阻止
するため、とにもかくにもハッチの周囲を制圧しました。数で劣るフランス側でしたが、この作戦でオランダ人を分
断し、各個撃破することに成功。短時間で「Honselaarsdijk」を降伏させました。
 ここでトルーアンは、ジャック・プシェールの危機を救うべく、獲物は放置して、とにかく「Delft」の方へ船を進め
ます。この時「Delft」は、浮かぶ残骸と化した「Sanspareil」に容赦なく砲火を浴びせており、ジャック・プシェール
は降伏もやむなしと考えていたところでした。
 トルーアンの来援は、まさしくぎりぎりのタイミングでしたが、やっぱりそうそう格好良く行くはずもなく、「St.
Jacques」は、「Delft」からT字型に船首を押さえられて一方的に砲撃されました。トルーアンは、切り込みを意図
して、そのまま船を「Delft」の横っ腹に突っ込ませますが、あろうことかオランダ人の方が先に「St. Jacques」に
突入しようとします。この焦りが準備不足を招いたのか、「St. Jacques」からの3回に及ぶ切り込みは、何れも大
損害を被って失敗。さすがのデュゲイ=トルーアンも、諦めて引っかけ鉤を切り離しました。
 
 とは言え、まだまだトルーアンは幸運でした。ちょうどこの時、二隻の私掠船「Faluère」と「Aigle Noire」が、さ
したる苦労も無く「Nassau」を降伏させました。「Nassau」にフランス国旗が揚がったのを見たトルーアンは、
「Faluère」に対して、「Delft」を攻撃するように指示します。この指示に従った「Faluère」は大損害を受け、最終
的に乗員100人以上が死傷して船長も死にましたが、「Faluère」が犠牲を払っている間に、トルーアンは「St.
Jacques」の応急修理を済ませ、士気を回復させました。そして、「Faluère」とともに「Delft」を左右から挟撃して
切り込み、ついに奪取しました。まずはトルーアンの勝利です。
 この最後の切り込みについて、トルーアンの回顧録には、
「私は恐るべき男爵(=ヴァッセナール)に向かって突進した。この最後の戦闘は呵責ないもので、オランダの士官
全員が死傷し、男爵も四か所にひどい傷を負って倒れていた。彼の身柄を確保した時、男爵はまだ剣を握ってい
た。」
 と書かれています。
 
 この戦いで、トルーアンの戦隊は「St. Jacques」と「Sanspareil」が大破し、途中参加の私掠船のも含めて、乗
組員のおよそ半数を失う大損害を受けました。その一方、50門クラスとは言え戦列艦2隻を含むオランダ艦3隻
を拿捕したうえに、戦闘のどさくさの中、「Leonore」が商船12隻を拿捕していました。大勝利です。
 しかし、戦闘が終わってみると、天候が悪化しはじめ、24日の夜にはまた嵐になりました(ああ、何年か前にも
こんなことがあったような…)。
 トルーアンは、損傷の軽い私掠船2隻と「Nassau」、無傷の「Leonore」と商船12隻を先にポルト・ルイへ向か
わせますが、大破して動けない「St. Jacques」「Sanspereil」「Delft」「Honselaarsdijk」の4隻は、ただ流されるま
ま、「呉越同舟」を地で行く格好で、捕虜はもちろん、程度の軽い負傷者までも動員して、夜通し嵐と戦う破目に
なりました。
 とは言え、またまた何たる幸運か、翌朝になって見れば、そこはロリアン沖グロア島のすぐ傍でした。救援の船
がやって来たおかげで、「Sanspareil」を除く3隻は無事にポルト・ルイにたどり着いて船団に合流。また、
「Sanspareil」も、一日遅れてなんとかポルト・ルイへたどり着くことが出来ました。
  

ジャック・ブシェールが死なずに済んだのはかなりの幸運かと…

 この大勝利のニュースはすぐにルイ14世の耳に入り、トルーアンはヴェルサイユ宮へ招待されました。彼は、
ジャック・ブシェールと捕虜となったヴァッセナール男爵(=極めて丁重な待遇を受けていた)を伴ってヴェルサイユ
へ向かいます。そこでトルーアンは、ルイ14世の強い意向で反対意見を押しのけ、海軍士官に任用されて、フリ
ゲート艦艦長(Capitaine de fregate 現在の中佐相当)の階級を与えられました。

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