ジャン・バールその8

ジャン・バール、戦列艦艦長になる

 ジャン・バールは、船を失い、捕虜となったことを経歴の汚点と考え、いささか意気消沈してダンケルクへ帰りま
した。
 しかし、ダンケルクに帰って何日か経った日、セニュレー候から手紙が届き、これまでの輝かしい武勲に対する
褒章、そして「ノンサッチ」との勇敢な戦闘への褒章として、国王は推薦を受け入れて、バールを戦列艦艦長に任
命する意向であること、「ラアイユース」喪失の責任は不問に附されることを知らされます。そして1689年6月1
9日、ジャン・バールは戦列艦艦長(Capitaine de vaisseau 大佐相当)に任命されました。もっともフォルバン
は、バールの昇進には、セニュレー候の推薦だけでなく、国王に対する自分の個人的な請願も利いたのだと、著
書に書いています。
 さて、昇進と時を同じくして、セニュレー候はバールに新たな任務を与えました。階級に「戦列艦」の語があるか
らと言って、別に戦列艦の指揮を任されたわけではなく、秋にロシアから戻ってくるオランダ商船の航行を妨害す
るための私掠任務だったのですが、準備が遅れて、結局は商船の阻止には間に合わなくなりました。
 準備に手間取っていた10月13日、バールはジャクリーン・テュゲ(Jacqueline Tugghe)と言う女性と再婚しま
す。ジャクリーン夫人との間には、10人の子供をもうけました(ただし、成人まで生き延びたのは3人だけのよう
です)。

 1689年11月、「Les Jeux (36 競技、ゲームの意味)」、「L'Opiniatre (26 頑強)」「La Capricieuse (24 気ま
ぐれ、わがまま)」の三隻を率いてバールは出港しました。
 11月19日、ドッカーバンク付近でオランダのブリガンティンを拿捕。翌20日には、オランダが雇ったデンマーク
兵450人(恐らく、アイルランドに投入される予定)を乗せていたイギリス船、「Rose of the Sea」を無血で拿捕す
る大戦果を挙げました。なお、この戦果は、バールの貴族叙任にあたっての感状の中では、1690年に別の船
であげたことになっていますが、まあなんであれ、陸軍部隊を捕虜にしたのは間違いないようです。
 大勢の捕虜を抱え込むことになったバールは、パトロールを中止してダンケルクへ戻りましたが、冬休み前の
もう一仕事で、火薬を運ぶ大型輸送船二隻の護衛のため、ハンブルグへの進出を命じられました。
 ハンブルグは自由都市(Freistadt)として、神聖ローマ帝国の中でも独立性が高く、ファルツ継承戦争において
も中立を保っていたのです。バールの戦隊は、輸送船の出港までエルベ河口周辺をパトロールして、3隻のオラ
ンダ捕鯨船から3800リーブルまきあげ、さらにハンブルグからの帰路でも、木材と塩漬けの魚を運んでいたイギ
リス船「Huron」を拿捕して、ダンケルクまで回航しました。

 1690年になると、バールは私掠船稼業を離れ、フリゲート「ラルシオン L'Alcyon(カワセミ)」の艦長として、ブ
レスト艦隊に配属されました。そして、7月10日の「ビーチーヘッド沖海戦」では、主に偵察役として働き、時には
ボートで艦を離れることまでして、英蘭連合艦隊の戦力と陣形についての情報を収集しました。

ビーチーヘッド沖海戦 (Battle of Beachy Head 仏 bataille du cap Bévéziers 1690.6.30 or 7.10)
 
 大同盟戦争における二大海戦の一つで、大同盟戦争のみならず、恐らく、近世以降の長い英仏抗争(いわゆる第二次百年戦争)の中でも最大の、フランス海軍の戦術的大勝利である(と言っても、後述のように連合艦隊の被害の多くは自沈で、しかもオランダ艦です)。

 ブリテン島周辺の制海権を確保を目指すフランス海軍は、地中海艦隊とブレスト艦隊を合流させたうえで、英蘭連合艦隊に決戦を挑む構えでした。
 反対に英蘭の海軍力は、通商路の防衛(コルセール対策です)、地中海やフランドルでの海軍基地の監視、アイルランド作戦の支援(6月からウィリアム一世が親征していた)や、スペイン国王に嫁ぐファルツ選定侯女一行の護衛任務等のために分散しており、また、フランス艦隊のジブラルタル通過を阻止することにも失敗しました。
 双方の艦隊は7月5日(旧6月25日)に遭遇。この時、トリントン伯率いる英蘭連合艦隊はフリゲート以上の戦列艦56隻(英34蘭22)であるのに対し、ツールヴイル伯率いるフランス艦隊は77隻で、火船や小型艦も含めれば100隻くらい。圧倒的な敵戦力の前にトリントン伯は退却を決め(デ・ロイテルはこの比率を覆して勝っていますが…)、その旨を宮廷に進言しつつ、数日間、距離を保って接触を続けました。
 しかし、メアリ女王と側近達は進言を却下して、何があろうと交戦するように命じます。この命令に関しては、トリントン伯のライバルであるラッセル提督の思惑、アイルランド出征中の夫に良いところを見せたいメアリ女王の意志、国務大臣ノッティンガム伯の現状認識の間違い、大陸での陸戦の敗北の影響など、理由は様々取りざたされています。
 小林幸雄先生は、「イングランド海軍の歴史」の中で、海軍力の分散をウィリアム一世の国家的戦略の欠如と評していますが、しかし(いちいち噛み付くようで恐縮ですが)、アイルランドからジェームズ二世の勢力を駆逐することも、いつ国王がぶっ倒れるか分からないスペインとの関係強化に海軍力を使用することも、対仏大戦略の上では決して間違いではありません。ただ、トリントン伯の提言どおり、少なくとも、戦力が集結するまで戦闘は避けるべきでした。
  トリントン伯は7月9日に宮廷からの命令を受け取り、協議の上で、従うしかないとの結論に達しましたが、結果的には、「命令に従うふりだけした、消極的な交戦」になってしまいました。
 7月10日、英蘭艦隊は、コルネリス・エベルトセン(Cornelis Evertsen de Jongste 1642-1706 ヤン・エベルトセンの甥)率いるオランダ艦隊を先頭にして、風上からの教則通りのラインタクティクスでフランス艦隊に攻撃をかけます。先ずはオランダ艦隊が、フランス艦隊の前衛と激しく交戦を開始し、続いて後衛同士の戦闘も始まりましたが、中央隊のトリントン伯は、フランス中央の隊列が湾曲しているのを見て、接近が難しいと判断して近づかず、代わりに後衛同士の戦闘に加わろうとして、失敗。この隙にツールヴィル伯は、オランダ艦隊に攻撃を集中させたので、オランダ艦隊は見捨てられた格好となり、救援しようとした英中央隊の一部ともども、大損害を蒙りました。
 その後凪になり、フランス艦隊が潮流に流されたので連合艦隊は危機から逃れ、退却しました。英蘭連合艦隊の損害は、実数に関しては諸説あるものの、戦闘でオランダ艦1-2隻が撃沈され、さらにマストを失ったオランダ艦1隻が拿捕された上に、退却の際に損害が大きかったオランダ艦7-8隻と英艦1隻に火を放って自沈させています。さらにオランダ艦隊では、次席指揮官が戦死しました。なお、フランス側は14-15隻撃沈を主張しています。
 トリントン伯は、7月9日の時点で既に更迭されており、あまつさえメアリ女王から身柄拘束の命令も出ていたのですが、当然の責任追及と、オランダ側の激しい怒りを前に、軍法会議にかけられました。

 一方のフランス艦隊は、一隻の艦も失わなかったものの、戦列を維持して追撃しようとしたため敵を取り逃がしてしまい、また戦果を深追いすることなく、遭遇した船舶を攻撃しつつ、海峡を数日うろついてからブレストに帰投。このためツールヴィル伯は、消極的だと若干の非難を受けました。また、アイリッシュ海に艦隊を侵入させ、交通を遮断する計画もありましたが、海戦の翌日(7月11日)、ボイン河の戦いでジェームズ二世軍は敗れ、ジェームズ二世本人も逃走したため、以後の支援に意味がなくなり中止となりました。

 戦闘は、フランス艦隊の大勝利に終わりました。フランス艦隊の指揮官、ツールヴィル伯爵の報告書には、バ
ールの手柄は触れられていませんが、これが貴族階級の庶民への反発のためか、単に砲戦で派手な活躍をし
ていないからなのかは(←フリゲートでは端っから無理ですが)、わかりません。
 ただ、ツールヴィル伯が、バールを庶民の出だと軽んじていたとしても、その能力と適正を正しく評価していた
のは間違いなく、ツールビルの本隊がブレストへ帰る一方で、バールは北海での通商破壊を命じられました。
 北海では、15日間のパトロールでイギリスとオランダの商船を一隻ずつ拿捕してダンケルクへ回航したうえ
に、10隻からなるハンブルグの商船隊を襲って、31750リーブルをまきあげました(戦争当事国との通商でこの
ような目に遭うのも、自由都市であるが故です)。
 さらに、ダンケルクからブレストへの帰り道では、ドッガーバンクでオランダの漁船団を追い散らし(どうやら戦果
はなかったようです)、護衛についていたオランダのフリゲート艦と交戦しました(これも拿捕はできなかったらし
い)。
 
 その後もバールは、ツールヴィル伯の下で艦隊勤務を続けました。1691年になると、バールは別の艦「L'
Entendu (58門/400人)」の艦長に任命されています。しかし、海賊気質のバールにとっては、艦隊勤務では腕を
振るう機会が無く(北海での行動にも拘らず、少なくとも本人はそう感じた)、また例によって、貴族出身の他の士
官ともうまくゆかず、私掠船稼業に戻るか、通商破壊任務に就くことを熱望しました。しかし、前年11月にセニュ
レー候が死去していたので、またもバールは後ろ立てを失う格好となっており、1691年は艦隊勤務で過ごしまし
た。
 なお、1690年には、二番目の妻との間に息子が、1691年には娘が生まれましたが、娘マグダレーナは、生
後数ヶ月で死亡しています。

(画像はWikipediaより)
(画像はWikipediaより)
ツールヴィル伯爵 アンヌ・イラリオン・ド・コタンタン
(Anne Hilarion de Costentin, comte de Tourville 1642-1702)

 元マルタ騎士団員で、25歳の時に海軍入り。第三次英蘭戦争で
は、デュケーヌの下で頭角を現し、フランス海軍のエースと目される
ようになる。ビーチーヘッド沖海戦、ラゴス沖海戦(1693)で大勝利を
収め、コルベール父子の信頼も厚かったが、どちらかというと管理者
として有能で、軍人としてはいまいちとも評される。実際、その勝利
は圧倒的な数の力によるところが大きい。








トリントン伯爵 アーサー・ハーバート
(Arthur Herbert, 1st Earl of Torrington 1648-1716)

  イギリスの海軍軍人。反ジェームズ派で、平水夫に変装して
オランダに亡命し、ウィレム三世に即位の要請を手渡した人。名
誉革命では、侵攻艦隊の司令官を務めた(と言っても名前だけ
で、実質はコルネリス・エベルトセン)。名誉革命後、第一海軍
卿 (First Lord of the Admiralty)および本国艦隊司令長官に
就任。同年、「パントリー湾の海戦」では、フランスの船団を阻止
することに失敗したが、二倍の敵と勇戦したということで、トリント
ン伯爵に叙せられた。
 1690年12月、ビーチーヘッド沖海戦の責任を問われ、軍法会
議にかけられた。この席では、オランダ艦隊の行動を軽率とした
上で、「艦隊を持っている限り、フランスは本土侵攻を試みない」
と言う、後に「現存艦隊 Fleet-in-being」と呼ばれる理論で弁
明して無罪となった。しかし、以後は休職扱いとなって現場に復
帰することはなかった。
 
ジャン・バール、さらに大暴れする
 
 1692年になると、バールにも再び運が向いてきました。海軍大臣ポンシャルトラン伯爵(Louis Phélypeaux,
comte de Pontchartrain 1643-1727)は、以前からバールが提唱していた、軽艦艇による通商破壊専門部隊を
創設すると言うアイデアに感銘を受け、また前任者セニュレー候ほどブツ欲も強くなかったようで、自分の蓄財も
兼ねた私的な軍事作戦ではなく、純粋に国家のためにバールの構想を役立てるべく国王を説得し、予算をもぎ
取ることに成功しました。
 そしてダンケルクでは、数ヶ月かけてバールが乗り組む「ル・コント(Le Comte 伯爵 44門/480人)」以下、7隻
のフリゲートからなる戦隊の準備が整えられました。
 また1692年6月、「ラ・ホーグの海戦」と呼ばれる一連の戦闘で、フランス艦隊は、ビーチーヘッド沖海戦の戦
果を全て吹き飛ばすような大敗北を喫していたので、通商破壊以外、フランス海軍の取るべき方策が無くなった
ことも、バールの後押しをしました(実際、英蘭商船の私掠船被害は、この後で急増しています)。

ラ・ホーグの海戦 (Battle of La Hogue 仏Bataille de la Hougue/Bataille de Barfleur 1692.5.19-24 or 5.29-6.4)

 大同盟戦争における二大海戦のもう一つ。
 1692年春、ジャコバイト(英国のジェームズ二世支持派)から聞こえてくる楽観的な情報に踊らされたフランスは、ジェームズ二世を押し立ててのイングランド上陸作戦を企図しました。
 そして5月22日(旧暦12日)、英仏海峡の制海権を奪取すべく、ツールヴィル伯率いる戦列艦39隻がブレストを出港しました。ツールヴィル伯を始めフランス海軍首脳の知らぬことながら、ブレスト艦隊は、破滅への航海に乗り出していたのでした。
 ビーチー・ヘッド沖海戦の時とは反対に、地中海艦隊が大西洋に進出できず、資材不足もあって戦力が集中できなかったフランス海軍に対し、ラッセル提督(ジェームズ二世と個人的に親しかったが、現政権への忠誠を誓っていた)率いる英蘭連合艦隊は、戦列艦99隻(英63蘭36)。小型艦も含めれば130隻を超す大艦隊でした。
 5月29日早朝、両艦隊は遭遇しましたが、英蘭艦隊の合流は無いものと踏んでいたツールビル伯は、圧倒的な敵艦隊に衝撃を受けます(実際のところ、オランダ艦隊が出撃しない要素もなければ、その行動を阻止する戦力も無いので、客観的に言って、合流しないと考えた理由はさっぱりわからない)。この時のフランス艦隊の戦力は、僅かに戦列艦44隻に小型艦13隻。しかし、いつぞやの誰かのように、何が何でも交戦せよとの命令を受けていたツールヴィル伯は、勇敢に敵に立ち向かいました。
 戦闘は昼過ぎから始まり、夜10時ごろまで続きましたが、双方とも大きな被害をこうむったものの、火船以外は一隻も失うことなく、フランス艦隊は何度かピンチに陥りつつも、何とか戦場から逃れました。翌30日朝、ツールヴィル伯のもとには、海軍大臣から交戦命令を撤回する指示が届きましたが、遅すぎでした。
 
 連合艦隊は、ビーチーヘッド沖海戦のフランス艦隊と違い、損傷した旗艦のペースにあわせるミスはあったものの、追撃を行いました。さらにまた、トリントン伯が損傷艦をすっぱり切り捨てて、逃げに徹したのに対し、ツールヴィル伯は、航行不能に陥った旗艦「ソレイユ・ロワイヤル(104門 太陽王、ルイ14世のこと)」を見捨てる決心がつかず、しばらくのろのろと逃走した挙句に、各個に逃走せよと艦隊に分散を命じました。この結果、小型の艦を中心とする艦隊の半分強は、難所を通ることで追撃を振り切り、サン・マロに逃れました。
 一方、「ソレイユ・ロワイヤル」は、90門艦、76門艦各一隻とともに、コタンタン半島の先端、シェルブールに逃れましたが、6月1日に火船攻撃を受け、三隻とも炎上、撃沈されてしまいます。
 また、半島の東側にあるラ・ウーグ湾(La Hogue フランス語読み)には、海岸の要塞を宛てにして戦列艦12隻が逃げ込み、拿捕を避けるためわざと座礁しました。
 しかし、6月3日と4日の二回にわたって、イギリスのボート隊が泊地を襲撃します。おりしもこの時、ラ・ウーグ湾にはイングランド侵攻軍とその輸送船、それにジェームズ二世その人が滞在していたのですが、イギリス兵たちはその目の前で、座礁している戦列艦を乗っ取っとり、その大砲で要塞を破壊し、戦列艦と停泊中の輸送船多数に火を放ちました。
 かくして、ラ・ウーグ湾の戦列艦12隻も全滅。ジェームズ二世の王座返り咲きの夢は、戦列艦が燃える煙とともに消え失せたのでした。
 なおフランスでは、5月29日の戦闘は「バルフルール岬沖海戦」として引き分けであり、シェルブールとラ・オーグ湾の戦闘は別の敗戦として扱っており、イギリス側も近年はそれにならいつつあるようです。

 そして7月、フォルバン(「ラ・ホーグの海戦」では負傷しつつもサン・マロに逃げた)が海軍大臣に直訴してバー
ルの部下に加わり、艦隊の準備が整いました。
 しかしこの時、ダンケルクは、30隻以上の英蘭合同艦隊によって封鎖されていました。バールの動きが漏れて
いたから、とのことですが、情報漏れが無くても、ラ・オーグの海戦後で制海権が同盟側に移った状態では、いず
れダンケルクは封鎖されていたでしょう。
 そこでバールは、悪天候を衝いて封鎖線の突破を試みますが、失敗。捕捉されて、一時は3マイルくらいまで敵
が迫ってきましたが、快速フリゲートからなる戦隊の脚の早さがモノを言い、追撃を振り切って北海に出ました。
 7月26日、バールの戦隊は、フリゲートに護衛されたロシア帰りのイングランドのコンボイを襲撃すると、護衛
を追い払って商船4隻を拿捕。ダンケルクへ回航しました。さらに28日から、ドッカーバングで操業中の英蘭の
漁船団を襲撃してまわり、なんと84隻もの漁船を破壊しました。
 この一連の襲撃により、800人以上の捕虜を抱え込んだので、バールは戦隊をスコットランドへ向かわせ、人
気のない海岸で捕虜を釈放しました。そのついでに、陸地を襲撃することにしたバールは、戦隊を南下させ、イン
グランド北部タイン川河口に停泊すると、フォルバンの指揮の下、水兵の一団を上陸させました。
 タイン川を遡ったフォルバンらは、ニューカッスル近郊の村4か所を襲撃し、丸一日かけて略奪しまくったあげ
く、200軒とも300軒以上とも言われる家々と、穀物の備蓄を焼き払いました。帰り道では、フォルバンらは当然の
ごとく守備隊の追跡を受けましたが、海上からの砲撃支援により、死者一名の損害だけで脱出に成功、戦隊は
ダンケルクへ戻りました。
 後にバールが叙勲された時の感状では、この航海に触れて、拿捕船も含めて50万エキュ! (=150万リーブル)の
利益が上がったと記しています。実際には10万リーブルとも言われていますが、なんであれコルセールとは、山
賊をやっても凄まじい種族だということです。

 さて、出る杭は打たれるとはよく言われます。本当に打たれるかどうかは別としても、少なくとも、打とうとする人
間は出てくるものです。
 ジャン・バールの場合は、獲物から取った身代金を海事裁判所に過少申告して、差額を着服しているのではな
いかと言う噂が常にありました。貴族階級の悪意も背景にあったでしょうが、しかしながら、身代金をとって釈放
するというのが、本来は免許状で行動するコルセールには推奨されない行為である以上、こういう疑いもある
種、仕方が無いことであります。そして、英本土での略奪がさらなる嫉妬と反発を掻き立てたのか、海軍省の会
計検査官がダンケルクへ派遣され、バールの戦隊に同行することになりました。
 そして12月の短い航海で、バールの戦隊は、またしても大戦果をあげました。バルト海帰りのオランダのコンボ
イを襲撃し、穀物、木材等を運んでいた商船6隻(16隻とも)と、護衛についていた50門フリゲートを拿捕したので
す。Sailing warship.comによると、「Castricum」と言うアムステルダム司令部の50門艦が1692年にフランスに
拿捕されているので、この艦がバールの戦果かもしれません。
 ただ、ついでに疑いも晴れればよかったのですが、会計検査官の態度に怒ったバールは、艦長としての職権で
もって検査官を拘束して、航海中、鎖につないでいました。当然の権利として役人は激怒し、バールはその行動
に対する釈明を求められ、パリの海軍本部へと召喚されました。

 しかし、パリでのバールは、釈明を求められるどころか、ポンシャルトラン伯から大いに歓迎され、活躍をたた
えられます。そればかりか、ヴェルサイユ宮にてルイ14世に謁見することになりました。
 謁見の場では、大感激したバールが、許しも得ずにルイ14世の手の甲にキスして、無礼だと貴族達からヒンシ
ュクを買うも(映画にもありましたが、召使いが持った物は指先でつまむ、というやつです)、ルイ14世は許したと
か、ルイ14世からどうやって封鎖を突破したのかと尋ねられたので、バールは宮廷人の列を手でかきわけ、「こ
のようにして通り抜けたのでございます」とやったと言うエピソードが伝えられています(pirates and privateers from the
low contries c.1500-c.1810」より)。英語では列rowを漕ぐrowというシャレになりそうですが、フランス語ではそうはなりま
せん。ネタがスベッた可能性もありますが、なんとなく、バールの愛国心と武骨な感じの人柄が伝わってきます。

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