ジャン・バールその7

ジャン・バール、息子に厳しく接すること

 さて、預かった船を二隻とも、修理に何週間もかかるくらい派手にぶっ壊したジャン・バールでしたが、セニュレ
ー侯らスポンサーは、大戦果に満足でした。

 しかしながら、ここで貴族階級からの干渉がありました。平民の能力に対する根拠無き不審の念か、平民が名
誉を得るのはけしからんと言うさもしい心情かはさておきますが、私掠事業に出資する貴族達が増えたことによ
り、私掠船長にも貴族出身者を使おうと言う声が大きくなります。現代人から見れば、私掠行為とは、海賊まがい
で、貴族にとって不名誉な仕事に見えるかもしれませんが、海賊と違って、私掠船乗りは国王に奉仕する名誉な
職だったのです。そして何より、上手くいけば、フトコロの体感温度もぐうっ、と上昇するのです。
 そんなこんなで、「セルペント」の新しい船長として登場したのが、クロード・ド・フォルバン勲爵士。当時34才の
海軍士官で、その勇敢さは高い評価を受けていましたが、何よりも貴族出身であるということで選ばれたのでし
た。
 このフォルバンという人は、もともとの人柄か、はたまた最下級の貴族と言う生まれのせいか、ジャン・バール
その他平民出身の私掠船乗り達を軽蔑したことは無い、と著書に書いています。また、品の無さや粗暴さも目立
つ人物だったと言われ、確かにフランス貴族らしからぬ人物ではあったようです(と言っても、現代人のフィルター
を通して見れば、フランスの平均的貴族の振る舞いが名誉なものかは不明です)。

クロード・ド・フォルバン (勲爵士 後に伯爵 Claude de Forbin-Gardanne, 1656-1733)

 プロヴァンスの下級貴族(勲爵士 chevalier)の家に生まれる。叔父の伝手を頼って海軍に入り、シチリア島の反乱支援作戦(←デ・ロイテルが命を落とすことになった一連の戦い)に従軍。1678年銃士隊に入るが、決闘で同僚を殺してしまい、いったんは死刑判決を受けた挙句に放逐されたので、海軍に復帰した。
 カリブ海や地中海での軍事行動に参加した後、1685年、軍事顧問としてアユタヤ朝シャム(現タイ王国)に派遣され、ナーラーイー大王(1629-1688 在位1656-1688)の下、陸海軍の将官となるが、シャムの内部抗争やヨーロッパ諸国間の勢力争いのごたごたの末、1688年にフランスに帰国した。
 数ヶ月間ジャン・バールと行動を共にした後、戦列艦艦長に進級し、多くの海戦に参加した。
 スペイン継承戦争(1701-1714)では、ベネチアに対する作戦行動を指揮して勲功をあげ、さらに英蘭に対する通商破壊でも活躍し、1707年、海軍少将(Chef d'Escadre)に任ぜられた。
 1715年に退役し、以後は平穏に暮らした。1730年に回顧録を出版している(中身の信頼度はビミョーとの声も…)。

(画像は英国立海事博物館HP ttp://www.nmm.ac.uk/ より)

 1689年4月初頭、パールとフォルバンは航海に出ました。バールはこの航海に、長男フランソワ・コルニルを
伴っていました。
 4月25日、それぞれワインとマホガニーを運んでいた2隻のスペイン船を拿捕して、幸先の良いスタートを切り
ます。
 そして5月1日か2日、砲14門のオランダの私掠船を拿捕しました。この戦闘では、切り込み戦闘の最中に引
っかけ鉤が外れて一度逃げられ、敵船に取り残されたフランス人が皆殺しに遭うと言うことがありましたが、それ
よりも面白い出来事として、砲戦が始まると、息子フランソワ=コルニルが真っ青になっているのに気がついたバ
ールは、息子をマストに縛りつけました(人手ではなく、バールが自分でやったとも言われている)。
「戦いに慣れる必要がある」
 とはバールの言ですが、息子の生命は勿論、戦闘の最中、マストに人間を縛り付けるという余分な行為に及ん
だこと自体が、大変危険であると言えます。それとも、コルセールのトップエースの余裕なのでしょうか? フランソ
ワ=コルニルはこの戦いを生き延び、父バールも誇りに思う勇敢な海の男に育ったので、ジャン・バールは、おバ
カな虐待親の汚名をかぶるのは免れ、拿捕船を引き連れてダンケルクへ戻りました。

 その頃ダンケルクでは、通商破壊作戦に適した小型フリゲートの艦隊を整備すべき、と言うバールの提言に基
づいて、セニュレー候とその共同出資者達の意向により、パールの指揮下に置くフリゲート戦隊が用意されまし
た。セニュレー候としては、フランス海軍にフリゲート艦隊を整備したかったのですが、ドイツ方面の陸戦に予算
がさかれている当時の状況では、国王の了承を得ることができませんでした。だから、たとえダンケルクの私掠
船であっても、自費で用意したわけですから、剛毅なものです。あっぱれ愛国心なのか、単に欲の皮が突っ張り
すぎなのか…(←多分、両方だと思わます)。

ジャン・バール、立場が逆転して捕虜になること

 ダンケルクでは四隻の武装船が準備されて、パールの指揮下に置かれました。バールは戦隊指揮官兼任で引
き続き「ラアイユース」の船長を務め、フォルバンは「Les Jeux」と言う船を指揮することになりました。この二隻
に加えて、地元で建造された小型フリゲート(船名不詳)と、パールが拿捕したスペイン商船に武装を施したもの
が、バールの戦力でした。

 この新しい指揮権におけるバールの最初の任務は、私掠稼業ではなく海軍からの任務でした。バールとその戦
隊はル・アーブルへの移動を命じられると、そこからブレストへ向かう20隻(30隻?)からなる輸送船団の護衛を
命じられました。
 5月20日、パールのコンボイはル・アーブルを出港しましたが、この時すでに、フランスはイギリスと正式に戦
争状態となっており、英仏海峡はイギリス艦隊の厳重な監視下にありました。そしてル・アーブルを出て二日後、
コンボイはイギリスの砲40門以上の大型フリゲート二隻(英蘭1隻ずつとする資料もアリ)に襲われました。言っ
てみればバールは、これまで自分がやってきたことをされる側にまわってしまったのです。
 この二隻の敵は、見るからにフランスの護衛4隻よりも火力と人数で勝っていましたが、輸送船団を守るため、
バールは全力でフリゲートに向かって行きました。
 「ラアイユース」と「Jeux」は、共同で大きいほうの艦「ノンサッチ Nonsuch (48)」に切り込みをかけ、残りの二隻
は、小さいほうのフリゲート艦(艦名不詳 42門)」にかからせました。その結果コンボイは、無事にブレストへ逃れ
ることが出来ました。
 「ノンサッチ」からの強力な砲撃にもめげず、パールとフォルバンは運動性に勝る利点を活かして、切り込みに
成功しました。しかし他の二隻の護衛は、片舷斉射を一度食らっただけで降伏してしまったので、パールらは圧
倒的に不利な状況に追い込まれます。
 それでも「ノンサッチ」とバールらの戦闘は二時間続きました。不利な状況ながら、パールとフォルバンらは、自
分たちが蒙った二倍の損害を敵に与えたうえに艦長を戦死させ、さらにその他士官全員と先任下士官も死傷さ
せたので、「ノンサッチ」は、下士官でしかない甲板長(ボースン Bosun)が指揮を執る破目になります(←士官が
全員倒れても戦うところが、イギリス海軍の強さの要因と思われます)。しかし、パール自身は頭部に負傷、フォ
ルバンも何箇所もの刀傷を受けるに及んで、フランス人はついに降伏を余儀なくされ、パールはノンサッチの甲
板長に剣を差し出しました。
 パールとフォルバンは、拿捕された四隻ともどもプリマスへと連行され、海辺の城の中に拘禁されました。残り
二隻の船長達の行方ははっきりしませんが、この後で起こる事件には関わっていないので、別の場所に拘禁さ
れたのかも知れません。

関連地図(Christos Nussli, EURATLAS PERIODIS BASIC, PERIODICAL HISTORICAL ATLAS OF EUROPE 1 - 2000 PDF版を元に作図)

ジャン・バール、ゆるゆるな大脱走

 捕虜の身となったジャン・バールとフォルバンでしたが、しかし、その監視体制はぬるぬるのゆるゆるでした。
 バールとフォルバンが個人的な従者を置くことは、貴族や士官の捕虜の特権として認められていましたが、こ
の時はさらに外部との接触も許されており、呼ばれたフランドル人医師とも「Les Jeux」の船医とも言われていま
すが、医者が、負傷者の治療に必要だと言うので、好き勝手に城外を出歩いていました。そして、手荷物検査も
行われなかったらしく、パールもフォルバンも、荷物箱の中に多額の現金を隠していました(←とは言っても、当時
の階級社会においては、貴族は捕虜になっても別格であり、もし見つかったとしてもフォルバンの金は没収され
なかった可能性が高いです)。
 これほど条件が整っていて逃亡を企て無いとなれば、よほど重い負傷か病気、さもなくば無気力な人間か、亡
命希望者でしょう。

 脱走の準備は簡単で、医者がパールとフォルバンの金でこっそり漁師からボートを買いとり、水と食料、その他
道具類を調達しました。
 問題はどうやって城の外へ出るかと言うことですが、さすがに収容所の職員の買収を試みるようなことはせず
(企図がばれます)、捕まって10日ほど経った嵐の夜、監視兵がさぼっていることを従者が確認した後、パールら
ヤスリで窓の鉄格子を切り、シーツを裂いて作ったロープで城壁を降りると言う、何のヒネリも無いこてこてベタ
ベタな方法で牢獄から脱出しました。
 ジャン・パール、フォルバン、医師、従者二人からなる脱走者御一行様は、急いで買い取ったボートに乗り込
み、海へ出ました(←多分漁師は、知らんふりで盗まれたと訴えたでしょう)。
 この夜は、プリマスの沿岸警備船も海に出ないような悪天候で、無蓋ボートで海に出るのは大変危険でした
が、そこはジャン・バールが船乗りとしての手腕を存分に発揮しました。
 プリマスを脱出して二日後の6月14日、ポートは無事にサン・マロの少し西にあるエルキー(Erquy 現在も漁港
として有名)に到着しました。なおフォルバンは、軍人としての能力は高くとも、船乗りとしての実地経験に欠けて
いたので、海峡横断に当たってはてんで役に立ちませんでした。

 サン・マロの行政官は、事情聴取した後で、バールとフォルバンの奮戦と脱出、それにコンボイが無事だったこ
とを称賛し、早々に降伏した無責任な二隻の船長を非難する報告書をパリに送りました。
 ただ、その後で起こったことは、いかにも階級社会的と言うか、アンシャン・レジームなフランス的なものでし
た。フォルバンが直ちにベルサイユ宮に招待され、ルイ14世から直々に褒賞されて戦列艦艦長に昇進した一方
で、ジャン・バールはと言うと、ただダンケルクへ送り返されただけでした。

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