ジャン・バールその9 ジャン・バール、勲章を授かる 年が明けて1693年、ジャン・バールは64門戦列艦「Glourieux(栄光ある、の意味)」の艦長として、ブレスト艦 隊に配属されました。これは彼の意に沿う人事ではなかったのですが、海軍大臣ポンシャルトラン伯爵は、交戦 の機会と手柄を立てるチャンスが多い通商破壊作戦(ゲール・ド・クールス Guerre de course)に同じ人物を登 用し続けることは、やはり他の士官の反発を招くのでマズいと判断したのでした。決して間違った考えではないの ですが、戦争中にあっては適切かどうか…。ポンシャルトラン伯と言う人は、政治家であり宮廷人でした。 さて、この年の夏、イギリスとオランダでは、ラ・オーグの勝利で絶対的な制海権を確保したという考えのもと、 経済界の圧力に押される形で、地中海への貿易船団派遣が決定されました。およそ200隻の商船からなるこの 船団は、目的地であるトルコの都市にちなんで「スミルナ船団」と呼ばれ(と言っても、スペインやイタリアに行く商 船も多数含まれている)、戦列艦69隻(英45蘭24)からなる連合艦隊主力が、ブレストがあるブルターニュ半島を 越えるまで護衛して、その後は海軍少将サー・ジョージ・ルック(George Rooke 1650-1709 ラ・オーグ湾攻撃を 指揮してフランス戦列艦を全滅させた人)率いる英艦8、蘭艦5からなるスペイン派遣部隊が、地中海に入るまで 護衛する予定になっていました。 船団の安全にとって、問題となるのはフランス海軍の行動なのですが、慢心故かブレストの偵察が行われなか ったので、敵の動向について何の情報もないまま、スミルナ船団は5月末に出港することになりました。そして、 護衛する連合艦隊は、不明な敵情に船団の行く末を不安に思いつつも、フランス艦隊がまだブレストにいるとい う推測のもと、英仏海峡の守りを疎かにできないため、予定地点から二日余分に船団に同行してから引き返しま した(海軍としては、この時期の船団派遣に反対だった)。 一方のフランス海軍はと言えば、事前に貿易船団派遣の情報を得ており、ツールヴィル伯率いる艦隊が、一か 月前からスペイン南部海域で待ち伏せていました。伯爵は敵の主力艦隊との対決も想定していたので、その戦 力は、ブレスト艦隊の主力と、ツーロンからの分遣隊併せて戦列艦70隻、小型艦と火船も加えると100隻を超 す大艦隊であり、この時期のフランス海軍としては、全力出撃に近いものでした。 この待ち伏せ作戦は、ツールヴィル伯にとって大博打でした。敵は来ないかもしれないし、貿易船団が来たと しても、大艦隊を引き連れて来るかもしれない。こうなれば、自軍の基地から遠く離れた、敵国スペインのすぐ近 くの海域で強敵と遭遇する破目になります。 そして、ツールヴィル伯の賭けは大当たりでした。6月16日、ポルトガルのラゴス沖で、フランスの偵察隊がス ミルナ船団を発見。フランス艦隊は翌日まで待機して、敵の艦隊ではなく、貧弱な護衛の商船隊だとしっかり確 認してから、攻撃を開始しました。 この時、スミルナ船団を護衛していたのは、ルック提督率いるわずか13隻。フランス艦隊の圧倒的な戦力の前 にはどうしようもありません。しかし、二隻のオランダ艦「Zeeland(64門)」「Wapen van Mademblik(50- 64門)」が 大奮戦して、 船団が逃走する時間を稼ぐことに成功しました。この二隻のオランダ艦の行方は不明確ですが (「Wapen van Mademblik」に関しては、拿捕されたとする資料と、そうで無いとする資料がある)、ルック提督はも ちろん、ツールヴィル伯ですら、この二隻のオランダ艦の行動には賛辞を惜しんではいません。 この「ラゴス湾の海戦(Battle of Lagos/Bataille de Lagos)」の結果、フランス艦隊は、オランダ商船を中心と して30-40隻を拿捕する大戦果をあげました(ビーチーヘッド以来、海で犠牲を払うのは専らオランダ…なんてこ とは、言ってはいけません)。さらに、50隻ほどの商船が撃沈されるか、拿捕される前に自沈したと言われてお り、かれこれ船団の半分が失われたことになりました。またジャン・バールも、砲50門の大型商船を含む6隻の オランダ商船を拿捕する大戦果をあげています(そのうち何隻を回航し、何隻をその場で沈めたかは不明)。 そしてツールヴィル伯も、この勝利でラ・オーグの雪辱を果たすことが出来ました。この海戦は戦闘力に大差が ありすぎで、マトモに戦闘と呼べるものではなく、はっきり言って、誰が指揮しようと負けるほうが難しいのです が、何はともあれ、少なくともツールヴィル伯は本人は、ラ・オーグの汚名を雪いだと感じました(ラ・オーグの大敗 は、どちらかと言うと、楽観的な情報を信じて交戦を厳命した国王と海軍大臣の責任が大ですが…)。ただ、スミ ルナ船団の「半分をやっつけた」のか、「半分が逃げた」もしくは「救われた」のかは見る人次第であり、ツールヴ ィル伯に対してはやはり、追撃が不徹底だったという非難の声も上がりました。 また、残念なことにこの海戦は、ツールヴィル伯の軍歴における最後の輝きとなりました。この後、戦局の推移 から、フランスは前にも増して陸軍重視政策を執るようになり、フランス海軍の作戦行動は、私掠船や少数の軍 艦による通商破壊(低コストだし、個人の資金も利用可能)に主眼が置かれるようになったので、主力艦隊の活動 は極めて不活発になります。そして翌1694年には、ついに英蘭連合艦隊と対決することを諦め、ブレスト艦隊 は地中海のツーロンに移動し、戦争が終わるまでそこにとどまることになったのでした。 さて、ラゴス沖の大勝利の後、艦隊はブレストへ帰投しましたが、ジャン・バールは、ノルウェーからダンケルク へ穀物を運ぶ商船隊の護衛を命じられたので、ブレストには戻らず、「Glourieux」と6隻のフリゲートを指揮してノ ルウェーのVleker(フランスの文献にたびたび登場する名前です。恐らく、ノルウェー南部のフレッケフィヨルド Flekkefjordだと思われ、以後ここだとして扱いますが、現代のどこの都市なのか確信が持てません^-^; 誰か教 えて下さい)に向かいました。 バールはこの護衛任務を首尾良く遂行すると、再びダンケルクを基地とする通商破壊作戦を行い、11月15 日、ドッガーバンクの沖で三隻のイギリスの武装船を拿捕し、その内二隻を略奪して身代金5000リーブルを巻き 上げ、一隻はダンケルクへ回航する戦果をあげてから、冬休みに入りました。 翌1694年、ジャン・バールにとって大きな名誉となる出来事がありました。フランス国王ルイ14世は、ジャン・ バールの過去の華々しい武勲を称え、2月1日付けで、彼にサン・ルイ勲章(l'Ordre de Saint-Louis)を授与した のです。 このサン・ルイ勲章は、正式にはOrdre Royal et Militaire de Saint-Louis(日本語にすれば、「サン・ルイ王 授軍事勲章」くらいでしょうか?)と言い、士官の軍功を褒章するため1693年4月に制定された勲章でした。この 勲章には、大十字(Grand-Croix)、司令官( Commandeur)、勲爵士(Chevalier)の三つのランクがありましたが、 過去の勲章と違い、フランスで初めて、平民出身者を授与対象にしていました。 サン・ルイ勲章(l'Ordre de Saint-Louis Wikipedia仏語版より) この勲章を授けられたものは、自動的に国王を長とするサン・ルイ騎士団(Ordre de Saint-Louis)のメンバー となり、勲章のランクはすなわち、騎士団における位階です。と言っても、この騎士団は、マルタ騎士団などと違 って、メンバー表だけの表彰者名簿のような存在なので、日本語としては、騎士団ではなくサン・ルイ勲爵士団と 言った方が正しいでしょう。 バールが授かったのは勲爵士章であり、これは授勲者にイギリスのナイト(Knight)に相当する地位を与えま す。 ただ、誤解されていることが多いですが、「ナイト」は名誉称号であり、貴族の地位ではありません。そして注意しなくてはなら ないのは、フランスでもシュバリエ(Chevalier)の語は、最下級の貴族のランクであり、また(家の爵位を継げない)貴族の子弟に対 する称号としても使われるのと同じく、貴族の地位を意味しない、単に騎士団のメンバーであることを示す称号としても使われてい たことです。従って、この時点でのジャン・バールは貴族の列に加わったわけではなく、同じ「シュバリエ」でも、例えばクロード・ド・フォルバン のそれが貴族のランク(=爵位)を表すのに対して、ジャン・バールのそれは、 あくまでサン・ルイ騎士団の団員としての「シュバリエ」です。フランスの資料でもここで間違っているものが多いので、誤解なきように。 何はともあれ、ダンケルクの漁師兼コルセールの息子であったジャン・バールは、サン・ルイ勲爵士、シュバリ エ・ジャン・バールとして、フランス王国の名誉ある一員となったのでした。 ジャン・バール、フランスを飢餓から救う さて、めでたくシュバリエとなったジャン・バールですが、ダンケルクは既に英蘭連合艦隊の厳重な封鎖下にあ り、戦果をあげることなく1694年前半を過ごしました。 短期戦の目論見は大ハズレして、戦争も6年目となったこの1694年、フランス王国は重大な危機に見舞われ ていました。 今も昔もフランスは大農業国であり、当時も自給自足可能な国でしたが、1680年代末から天候不順が続いて おり、ここに戦争の長期化により、徴兵のための労働力不足と生産力の低下が加わって、小麦の収穫量は例年 の1/3から2/3と言う不作が数年続いていたのです。そして、穀物価格の高騰と投機目的の売り惜しみ、戦争に よる重税(貧者に厳しいコルベール式財政です)、それに恐らくは、ユグノーの流出による流通機構の弱体化も手 伝ったと思われますが、1692年から1694年にかけて、フランスは大規模な飢饉に見舞われました。飢餓と悪 疫で、フランス全体で死者は200万人にのぼったと推定されており、これは当時のフランスの人口の実に10%に 相当します。 このような飢饉の最中でも、周辺諸国を相手に戦争を続ける底力がフランスにあったと言うべきなのか、はた また、戦争を続けたが故に飢饉の被害が拡大したのかはわかりません。ただ、飢饉とは不思議なもので、食糧 の流通経路の問題なのでしょうが、概して農業地域の方が飢餓に陥り、包囲戦のような場合を除いて、都市部で は、穀物の価格が高騰しても食糧が不足していないことが多いです。もっとも、都市部に人が逃げ込むことで衛 生環境が悪化し、疫病が発生したりするわけなのですが。なんであれ、ルイ14世をはじめとするベルサイユ宮の フランス首脳部が、王様や貴族がもともと食べ物に困らない人々であることを差し引いても、飢饉の影響をあまり 受けていなかったのは間違いなく、これが戦争遂行に何らかの影響を与えたことは有り得ると思います。 ともあれフランスは、1693年頃から、デンマーク、スウェーデン、ポーランドなどバルト海周辺の中立国から穀 物を緊急輸入する破目になりした。 当時のバルト海沿海地域は重要な穀倉地帯でした。特に1560年代から1600年代の前半にかけて、西欧、 南欧では人口増加に穀物生産が追いつけずに自給率が低下しており、ポルトガル、スペイン、イタリア諸国、そ れにイギリス(アイルランド、スコットランドも含む)は、オランダ経由でバルト海地域から穀物を輸入しなければな れませんでした。オランダもまた穀物自給率が低く、パン用の小麦とライ麦、ビール原料の大麦をバルト海地域 から輸入していましたが、オランダの海運業界は、自国の需要分以上にバルト海地域から他地域への穀物輸送 をほぼ独占しており、ついでに東欧の農業にもかなりの投資も行っていて、繁栄の根幹を成す大きな利益を上げ ていました(このためバルト海貿易は、木材やニシンなどの産物も併せて「母なる貿易moedernegotie」と呼ばれ た)。 しかし、17世紀後半になると、オランダも含めて他地域の穀物自給率の上昇しはじめました。例えばイングラ ンドは、17世紀半ばから穀物の自給が可能になり、また大同盟戦争の頃から穀物輸出国に転じて、1700年以 降はバルト海地域全体に匹敵する穀物を輸出するようになっています。その反対にバルト海地域は、主にスウェ ーデンとポーランドの抗争による東岸〜南岸地域の荒廃によって農業生産が減少しており、その復興も遅れてい たので、大同盟戦争の時代においては、穀倉地帯としての重要性は低下していました(穀物貿易に以前ほどうま みがなくなり、オランダからの投資が減少したことも、復興の遅れを招いたようです)。 しかしそれでもなお、バルト海地域には、国外に輸出するのに十分な穀物生産がありました。従って、フランス としては他に穀物の供給源は無かったのです。 そして1694年春、ポーランド、スウェーデン、デンマークなどからの穀物を積んだフランス商船およそ130隻 は、ノルウェー(当時はデンマーク支配)のフレッケフィヨルドに集結して、フランス海軍の護衛隊を待っていまし た。なお、制海権が奪われた中で、多数のフランス商船がどうやって目的地に向かったのかについては、興味が そそられるところではありますが、これは本来の趣旨ではないので追求するのはやめておきましょう。 そして、この重要な穀物船団の護衛を命じられたのは、我らが主人公、ジャン・バールでした。 この任務のためバールに用意された戦力は、彼自身が艦長を務める大型フリゲート「モール(le Maure ムーア 人の意味 50門)」の他に、5隻の大型フリゲートと2隻の武装商船、小型艦1隻からなり、それまでジャン・バー ルが指揮した中で、最も強力な戦隊でした。 ジャン・バールの戦隊(1694.6)
しかし、封鎖でバールの戦隊が動けない間に、フランス商船隊は、デンマーク艦2隻、スウェーデン艦1隻の護 衛を受けてフレッケフィヨルド(Vleker?)から出港しました。中立国の軍艦を同伴することで、英蘭海軍の妨害を回 避できると考えたのでしょう。このあたり、穀物の購入も含め、どちらかと言うと反仏である両国(デンマークに至 ってはオランダに傭兵として兵力を提供している)と、フランスとの間にどのような交渉があったのか、非常に興味 深いところですが、これも追及しないでおきましょう。また、翌1695年より、今度は北欧が飢饉に見舞われ、ス ウェーデンでは10万人の死者が出たと言われています。フランスに売った分を「備蓄しておけば良かった」と思 ったかどうかは分かりません。 さて、フランスの穀物輸送船団は、フリースラント司令部のデ・フライゼ少将(Hyde de Frize 1645-1694 身長 2m超の大男だった)率いる8隻のオランダ艦隊に待ち伏せされており、出港して早々に、全く戦闘も無いまま船 団ごとそっくり拿捕されて、そのままオランダまで連行されました。真偽は不明ながら、船団はオランダが送った 偽の命令に従って出港したとの説もあります。また、バールの報告書には、デ・フライゼ少将の証言として、ウィ レム三世から穀物輸送船団を阻止せよと命令されていた、と書かれているので、オランダ艦隊が船団集結の情 報を得て行動していたのは間違いないでしょう(ただし、この時代でも、海上封鎖で糧道を完全に断つと言う発想 は、過度に非人道的とみなされていました)。 たった8隻の軍艦に、100隻を超す船団全体が拿捕されると言う状況はなんとなく想像しにくい気もしますが、 本稿の主人公、ジャン・バールが何度も経験しているように、私掠船に出会った商船の無抵抗さを考えれば、納 得できる気もします。またデンマークとスウェーデンの軍艦はどうしたかと言うと、勿論、オランダ艦隊と交戦する こともなく、かと言って逃げることもせず、フランスの船団に同行しました。 このニュースがダンケルクに伝わり、船団を追うことに決めたバールは、6月27日、ライトを灯した小型船を夜 間に航行させて敵の注意をひきつることで、封鎖をすり抜けることに成功しました。 そして6月29日の朝3時頃、バールの戦隊は、テクセル島の東12マイルの地点、フリーラント島との間にある 泊地に、8隻のオランダ軍艦と多数の帆船が停泊しているのを発見しました。オランダ艦隊の射程外に停船し て、ボートを出して泊地を偵察させつつ、「モール」に全艦長を集めての会議が開かれました。風は南西からで、 オランダ艦隊にとっては向かい風であり、直ちに攻撃されることは無いだろうと考えたからのようです。 バールの報告書によると、オランダ艦隊が火力で勝っていることは分かっていたが、飢餓に瀕するフランスの ため、艦長達は戦うことに同意した、と言うことです。 偵察隊は、オランダ艦隊の砲火を受けつつも任務を果たしました。偵察隊が報告するには、停泊している船団 はまさしく、ダンケルクへ向かっていた穀物輸送船団であり、オランダ艦隊は、一部の船の船長を連れ去って回 航員を乗り込ませ、船団全体にテクセル島に向かうことを強要したとのことでした。 ここでバールは、自らが「モール」で敵の旗艦と戦うと言い、各艦長達には、「大砲とマスケットは片付けろ、ピス トルとカットラス(刀身が短めの湾曲の緩い片刃の剣)で戦え、諸君らの義務を全うせよ。」と訓示したとのことで す。 またバールは、不利になるかも知れないのを承知で、商船を確保する人員として「モール」から120人を引き抜 いてボートで移動させ、副長の指揮の下に、戦列の最後尾の「Portefaixle」に配置しました。この移動には時間 がかかり、艦長達がそれぞれの艦に帰る時間も含めると、敵の面前でのこうしたバールの行動は極めて危険な ものでしたが、風向きが悪かったせいか、オランダ艦隊にとって有利になることはなかったようです。 一方のオランダ艦隊の戦力は、デ・フライゼ少将の旗艦「Prins Friso (56)」以下8隻。バールの部隊とは軍艦 の数では対等ですが、バール達が判断した通り、大砲の数はオランダ側が372門で、340門程度のバールの 戦隊に勝っていました。また、バールの戦隊のうち、小型艦は商船の確保に向かったので、実際にオランダ艦と 交戦したのは40門以上の6隻だけであり、なおさら大砲の数では不利でした。
とは言え、実際のところは、大砲の数ほどフランス側が不利だったわけではありません。上の表は、あくまで戦 闘に参加した艦の一例ですが、これだけ見ても、オランダ艦の投射重量の小ささがはっきりわかります(もっと も、軽量砲故の扱いやすさにより、より大きな大砲を持つ敵艦を発射速度で撃破することもしばしばでしたが)。 なんであれ、この時、双方の間には、大砲の数ほど火力の差が無かったのは間違いないでしょう。 乗組員の数に関しても、「モール」の定員は350人とする資料がありますが、これに対して、オランダ艦の乗員は 英仏の艦よりも少なめであり(操船に人手を要しない設計でもあったから)、この時代では大雑把に言って、70門 以上の艦では大砲一門あたり5人、40門以上の艦では大砲一門あたり4人程度の定員となっています。しがっ て、あくまで私の推測ですが「Prins de Frise」の乗員は250人を超えていなかったと思われ、例え120人引き 抜いたとしても、「モール」には十分勝ち目があったわけです。ジャン・バールは、20年前のオランダ海軍の勤務 歴は勿論のこと、優秀な海軍士官として、こうしたオランダ海軍の傾向は当然、承知していたはずであり、だから こそ自信を持って戦闘に向かうことが出来たのでしょう。 何はともあれ、午前5時ごろ、「モール」を先頭にして、バールの戦隊はオランダ艦隊に向かって行きました。バ ールは敵の旗艦を狙いますが、デ・フライゼ少将も同じく旗艦を狙う考えで、「Prins Friso」もまた戦列の先頭に 立ち、真っすぐ「モール」に向かって来ました。 そしてしばしの砲戦の後、「モール」は、航行不能になるようなダメージを索具に受けつつも、「Prins Friso」へ の切り込みに成功。30分の戦闘で「Prins Friso」は、副艦長と二人の士官が戦死し、乗員100人以上が死傷す るに及んで降伏しました。デ・フライゼ少将は、バールの報告書によると、「胸にピストル弾、左腕に切断手術を 要したマスケット弾の傷、頭部に二つのサーベルの傷」等、「六つの傷を受け、その内三つは致命傷」と言う状態 となり、その巨体は甲板に倒れました。少将と剣を交え、傷つけたのはジャン・バールその人だと言う話もあるの ですが、これは信じられません。彼自身が、報告書にそんなことは書いていないし、ピストルとマスケットとサーベ ルと言う恐るべき重装備で戦うなど、いかに英雄ジャン・バールと言えども難しいでしょう。 さて、バールが敵の旗艦と戦っている間、他のフランス艦も勇敢に戦っていました。艦長達は皆、この戦いが、 飢餓に瀕したフランス人にとって文字通り死活問題になることをよく認識していました。 「Mignon」は、「Stad en landen」に対して切り込みを試み、一度は強風で失敗するも、二度目の接近で切り込 みに成功、士官に負傷者を出しつつも、敵の艦長に重傷を負わせて降伏させ、「Stad en landen」を拿捕しまし た。 「L'adroit」は、砲戦の末に「Villsingen」に接舷することに成功して、切り込み戦に持ちこみますが、オランダ人 達は引っかけ鉤を切り離します。このため、「Villsingen」に切り込んでいた士官一名が取り残されて戦死し、他に 一人の士官が負傷しました。(当時は分からなかったのか、敵艦の名が記されていないものの)バールの報告書 には、「L'adroit」が切り込んだ時に敵艦は降伏したと書いてありますが、なんであれ「Villsingen」は逃走しまし た。「Comte」はこれを追いかけましたが、割って入ってきた「Aemilia」の攻撃を受けて、退却を余儀なくされまし た。 敵を取り逃がした「L'adroit」は、その後「Zeerijp」と「Oost-steling」から挟撃され、すぐ後ろに居た「Fortune」 に救援を求めました。「Fortune」は小さい「Zeerijp」を攻撃して切り込み、これを降伏させます。 こうして旗艦も含む三隻が降伏したのを見て、残りのオランダ艦は戦闘を打ち切って逃走を始めました。そし て、大した戦闘の機会が無かった「Jersey」とその他小型艦が、停泊中のフランス船30隻を奪回しました。 この「テクセルの海戦(Bataille du Texel)」と呼ばれる戦闘で、ジャン・バールの戦隊は、「Prins Friso」「Stad en Lande」「Zeerijp」の三隻を拿捕し、バールの報告では300人以上のオランダ兵を死傷させ(オランダの記録 では死者100、負傷129)、ド・フライゼ少将も含む450人の捕虜を得ました。そしてド・フライゼ少将は、手当ての 甲斐なく、「モール」の艦上で7月1日に亡くなります。フランス側の損害は死者16に負傷者50、その中で「モー ル」の損害は死者3、負傷27でした。ジャン・バールの大勝利です。また、この時にバールが奪回した商船の数に ついては、30隻(ダンケルク市の公式ホームページではこうなっている)、60隻程度(商船130隻の半分)、100 隻(バールへの感状にはこう書いてある)と諸説あるようですが、バールの報告書には、奪回した30隻に加えて、 泊地に残っていた商船66隻が、スウェーデンとデンマークの軍艦(戦闘は傍観していた)の援護のもとにフランス へ向かったとあるので、少なくとも合計96隻を奪回したものと考えられます。 ただ、大勝利に水を差すつもりはないのですが、この時オランダ艦隊の主力は、ブレスト攻略作戦や(フランス 艦隊は既にツーロンに退去していたが、作戦は大失敗)、地中海への艦隊派遣(スペインがカタロニアで劣勢に 立ち、単独講和をちらつかせて英蘭に支援を求めたから)のため、イギリス艦隊とともに行動中でした。そうでな ければ、オランダ海軍の大基地であるテクセル島のすぐそばでの、このような大勝利はおぼつかなかったでしょ う。 戦闘が終わると、バールらは拿捕船に回航要員を乗せ、捕虜を戦隊の艦に配分して、さらに応急修理を済ま せた後、奪回した30隻の商船を引き連れて戦隊は帰途につきました。戦隊は7月3日にダンケルクへ帰港し、 穀物輸送船ともども市民の大歓迎を受けました。 飢饉のフランスにとって、この穀物輸送船団の到着は、文字通りに乾田の慈雨となり、差し迫った危機を脱しま した。ダンケルクでの穀物価格は、1ブッシェル(=8ガロン、穀物は慣習的に容積単位だが、重量に直すと36- 37kg程度)当たり30ドゥニエ(1/8リーブル)から、一気に3ドゥニエに下落したと言われています。そして、投機目的 で退蔵されていた穀物も市場へ放出される結果となりました。 ちなみに、当時の最低辺の労働者の日給は概ね4-5ドゥニエ程度だったと思われます。前記の価格は穀粒で の卸売価格と思われ、粉なりパンなりになる頃にはまた値段が上がります。残念ながらイギリスのデータですが、 1690年の1ポンド当たり価格では、粉になれば小麦粒の3倍程度になっています(The Food timeline http:// www.foodtimeline.org/より)。また、聖書も言うように「人はパンのみで生くるにあらず」で、食生活には飲み物も おかずも必要です(違っ)。地域によってはオートミールが庶民の主食だったりもしますが、確かに原価30ドゥニエ はキビシかったでしょう。 かくしてジャン・バールは、多くのフランス人を餓死から救った国民的英雄となったのです。
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