アニー・ベサントその8

ベサント、神智学協会に入る

 さて、アニー・ベサント博士は、オルコットの後を継いで神智学協会の二代目会長を努めたことで知られていま
す。日本におけるベサント博士のわずかな知名度は、この神智学協会の会長としてのものであり、この印象が強
烈なのか、他の社会的業績が霞んでしまっています。

 ベサントと神智学協会(と言うより、ブラヴァツキー夫人)との最初の接触は、1882年のことでした。神智学協
会の幹部、シネット(Alfred Percy Sinnett 1840-1921)の著書「オカルトワールド The Occult World」がベスト
セラーになり、ブラヴァツキー夫人の名前がイギリスで有名になっていた頃のことです。インド人のセキュラリズム
協会員が、神智学協会の活動内容に関する報告書をベサントに見せて、セキュラリズム協会員の神智学協会へ
の加入、またはその逆の可否について質問しました。
 報告書を読んだベサントは、特にオルコット会長の前歴から判断して、神智学協会が、死者の霊魂の存在や物
質世界の外にある超自然的存在(=神様のようなもの)を前提とした奇妙な理論を掲げている、と理解します。そ
の結果、

「セキュラリズム協会に拒否する権利は無いが、神智学協会の神秘主義とセキュラリズム協会の唯物論には根
本的な隔たりがある。だから、セキュラリズム協会に入ろうとする神智学協会員はいないしだろう。また、セキュ
ラリズムに献身している人であれば、他の理論を受け入れる余地は無い。セキュラリストなら、その信念からして
神智学協会に入会することは出来ないだろう。」

 と、あくまで「入会する人は居ないんじゃないの」という体裁をとっていますが、その実、「神智学なんぞに関わる
な!」と言う返答を行ったのでした。
 なんと言うか、「どの口でそう言うか!」と言うカンジのお答えではありますが、時は1882年。ベサントはまだオ
カルトにも心霊主義にも興味を持っていなかったのです。
 しかし、どのようなルートでか、このベサントの返答がインドのブラヴァツキー夫人の耳に入ったようで、夫人は
機関紙「Theosophist」の1882年8月号に、ベサントへの反論を掲載しました。そこには、

「ベサント女史は誤解に基づいて判断している。(先述のように超自然の存在は想定していないので)神智学協会
は唯物論的であり、神秘主義者ではない。『自由思想』を掲げて社会の偏見と戦ってきたのに、言っていることが
矛盾してないか? 報告書が誤っていることが原因かも知れないが、持論の唯物論に反しているという考えから
ではなく、単に好き嫌いで神智学協会への加入の意志を阻もうとしているのではないか?」

 という様なことが書かれていました。まあ、もっともな反論ではあります。

 結論から言うと、ベサントは半分間違っています。先ず、ベサント自身がその一人ということをさて置いても、神
智学にはまるセキュラリストはかなり多かったと言う事実があります。セキュラリズムには、完全無神論のブラッド
ロー派と、「不可知論」で神性の存在までは否定しないホリオーク派があることは先に説明した通りですが、ホリ
オーク派のセキュラリストには、自身が感じた「信仰の危機」の答えを、神智学の理論に見出す人が多かったの
です。そして、全国セキュラリズム協会も、ブラッドロー派が優勢ではあっても、皆が皆、完全無神論者ではなか
ったのでした。
 それから、報告書の内容が不正確だったのか、ベサントは神智学協会の理論について、はっきりと誤解してい
ます。神智学協会は、基本的に死者の霊や、物質世界の外にある超自然の存在は想定していないのです。霊魂
云々は、恐らくオルコットの前歴から来る誤解でしょう。「超自然の存在」とは、恐らく「マスター」の事を指している
のでしょうが、神智学で「マスター」とは、超人的存在ではありますが、あくまで進化して超人の域に達したもの
の、進化が遅れた人類を導くために、我々の世界にとどまっている人々、という位置づけであり、あくまで彼らは
自然法則の一部で、物質世界(ただし、この世界とは違う)の住人なのです。
 とは言え、「信じない人」からすれば、神智学協会の理論は十分にぶっ飛んでおり、超自然的で、神秘主義的で
す。そしてベサントはこの時、「信じない人」だったのでした。

 ただ1882年と言えば、ブラッドローの「確約法」論争の最中であり、ブラヴァツキー夫人がブラッドロー擁護論
を唱えていたので、ベサントは夫人に対して、それほど悪印象は持たなかったようです。当時のベサントは、ブラ
ヴァツキー夫人について、神秘主義を売り物にしなくてもひとかどの人物になっていただろう、という評を下したと
いうことです(ただし、神智学協会に加盟してからの書かれた自伝の中のコメントではありますが)。


 それから時は流れて1889年の春。ナショナル・リフォーマーの事務所で仕事中のベサントに、突如、「声」が聞
こえてきました。ちなみに、マルコーニが実用的な無線通信に成功したのは、10年後の1899年です。
「真実を学ぶために、全てを投げ出す度胸はあるか? Are you willing to give up everything for the sake of
learning the truth? (「A short of biography of Annie Besant」より)」
 そしてベサントは答えました。
「はい、主よ! Yes, Lord.」
 え、Lord? 貴女は無神論者じゃなかったんかい!という突っ込みは置いておきましょう。また、自分の信じる正
義のために、夫や娘、友情までも投げ出したり、奪われたりしてきたベサントに、今更何を捨てさせようと言うの
か、との突っ込みも控えましょう。神智学協会出版の伝記に書かれていることですから、暖かく読み飛ばすべきし
ょう。

 まあ、とにかく1889年の時点でベサントは、心霊術見物とオカルティズムにハマッていました。そしてとにかく、
「声」が聞こえたすぐ後、ウィリアム・ステッドがベサントに、ブラヴァツキー夫人の最新刊「秘密教義」の、ペルメ
ル・ガゼット紙に載せるレビューを依頼しました。
「ウチの若いもんはみんなやりたがらない。しかしあなたは、こういうことについて何か書けるほどハマッている。
My young men all fight shy of them, but you are quite mad enough on these subjects to make
something of them.」
 とステッドは言いました。実際、「秘密教義」もまた上下2巻の分厚い大著であり、若い人は誰も読みたがらなか
ったのは間違いないでしょう。自分で読め、と言う突っ込みも入りそうですが、神智学協会員ではないにしても、ス
テッド自身は相当なオカルト信者なので、間違いなく読んでいたと思われます。ただ、この時は何かの事情で掲
載を急いでいたらしく、さっさと片付けてくれそうなベサントに依頼したらしいです。

 さて、ベサントは「秘密教義」を読んで、大いに感銘を受けました。と言うか、完全にハマりました。その「秘密教
義」の内容と言うのは、

『「秘密教義」は、3つの根本的な論題に基づいています。
 第一の根本的論題。唯一の編在、永遠、無際限、不変の原則。これについては、どんな推測もできない。人間
の構成概念の力を肥えており、人間によるいかなる表現も比喩もこれを限定し、小さく見せてしまうだけであるか
らである。この原則は、思想の届く範囲を越えている。
 第二の根本的論題は、無際限な広がりとしての全宇宙の永遠性です。それは「周期的に顕現と消滅を繰り返
す無数の宇宙の遊び場」です。
 第三の根本的論題は、すべての魂と普遍的最高魂と根本的同一性です。後者の普遍的最高魂は未知の根源
の一面であり、また普遍的最高魂の火花であるすべての魂による義務的な巡礼の旅は、周期の法則とカルマの
法則に従って肉体化身の転生の周期を通じて行われます。
 「秘密教義」には、多くの聖典からの引用がありますが、主にジャーンの書という大古の解釈本の原稿に基づ
いています。ジャーンの書の詩節(スタンザ)を理解することは容易ではありません。しがしジャーンの書の詩節
(スタンザ)は、学ぶ意志のある者には、休息期の後の宇宙の再覚醒といった宇宙の進化の崇高な叙述、形体
の分化、宇宙の形成の過程、地球上における人類の出現、我々人類の初期の進化などを明らかにします。
(以上 神智学協会ニッポンロッジHP より 原文ママ)

 と言うものらしいですが、ベサントは、この本の中に自分が求めていた真実を、つまり、「The Link」で主張して
いた、「それまでの神への奉仕が、人々に対する奉仕となる新しい友愛の精神」が、ブラヴァツキー夫人と神智学
が説く思想にあると考えたのでした。

 とにかく内容に感銘を受けたベサントは、ステッドに頼んで、ブラヴァツキー夫人(当時はロンドンに居を構えて
いた)に紹介してもらいました。そして、夫人から会いに来るようにと言う手紙を受け取ったベサントは、ハーバー
ト・バロウズと共にブラヴァツキー夫人の自宅を訪れました。バロウズもまた、かなりオカルティズムにハマってい
たのです。
 ベサントの自伝によると、ブラヴァツキー夫人は、
「ベサントさん、長いこと貴女に会いたいと思っていました。My dear Mrs. Besant, I have so long wished to
see you.」
 と挨拶したらしいです(バロウズにどう挨拶したのかは書かれていません)。そしてブラヴァツキー夫人はタバコ
(マリファナの可能性もあり)をすぱすぱやりつつ、それまで旅した国々の話をしましたが、特に神智学やオカルト
に関する話はせず、ベサントらも世間話だけして引き下がりました。ただ、去り際にブラヴァツキー夫人は、
「まあ、ベサント夫人、もしあなたが私達とともに来てくれさえすれば! Oh, my dear Mrs. Besant, if you
would only come among us!」
 と誘いをかけます。しかし、答えを出しかねたベサントに対し、
「あなたのプライドには困ったものだ。あなたは、ルシファーと同じくらい誇り高い。Your pride is terrible; you
are as proud as Lucifer himself.」
 と夫人は言ったらしいです。
 どうやらこの時点でベサントは、神智学協会に入会する気になっていたと思われます。とは言え、自伝には葛
藤が書き残されています。

 当時ベサントは、ロンドンの教育委員会での業績を通じて、自分に対する世間の偏見(←不信心者、社会主義
者、産児制限の猥褻な人)が払拭されつつあると感じていましたが、神智学協会に加入することで、また世間の
偏見にさらされ、自分の信じる真実のために戦う以前に偏見と戦わねばならないことを憂い、セキュラリズム協
会で唱えていた唯物論が間違っていたと、公に認めるバツの悪さを心配しました(←ブラヴァツキー夫人の反論と
の相違に注意。ベサントは、神智学をやはり神秘主義のオカルトだと認識していたようです)。
 さらに、仲間の社会主義者達が自分をどう思うか(←神智学にはまる社会主義者が案外と多いのを後で知りま
す)、既に友情は破綻していましたが、ブラッドローにどう思われるかなど(←ブラッドロー父子は、ベサントは発狂
したと結論しました)、ためらう理由はいくつもありました。

 しかし、最初の面会から一ヶ月もしないうちに、ベサントは、ブラヴァツキー夫人に再度面会し、神智学協会へ
の入会を申し込みます。それに対して夫人は、例のネタバレスキャンダルに関する心霊研究協会の報告書を読
んでからまた来い、と答えます。言われたとおり報告書を読んだベサントは、検証が公正ではないと考え、内容を
信じなかったと自伝に書き残しています。実際、調査はブラヴァツキー夫人のヨーロッパ訪問中の留守に行われ
ていたので、公正さを欠くのは確かです。

 1889年5月10日、ベサントは、ブラヴァツキー夫人と「マスター」の祝福を受けて、神智学協会に入会しまし
た。 ステッドのいらぬ依頼のために、まっとうな社会運動家だったアニー・ベサントは、あっちの世界へと旅立っ
て行ったのです(笑)。

 もっとも、最初の頃は、神智学と言うよりも、ブラヴァツキー夫人個人に傾倒していたと言った方が正確かも知
れませんが。知り合って2年後の1891年にブラヴァツキー夫人は死去しますが、ベサントの夫人に対する信頼
は揺ぎ無い物でした。
 ただ、ベサントは、ブラヴァツキー夫人の説く「マスターが人類を導く」と言う理論を完全に信じていたと言われて
いますが、本当に信じていたのか、私は疑問を持っています。と言うか、後でベサント本人が、「マハトマレター」
を持ち出していることを考えれば、答えは明らかです(笑)。
 ただ、ブラッドローの時といい、ハインドマンの演説を聴いた時といい、他人の意見に影響を受け易いベサント
には、それが仮想的演出の存在とは言え、「マスター」による導きという設定が、性格的にあっていたのかも知り
ません。
 また、心霊研究協会の報告書を読んでいたこともあり、あくまで神智学の説く思想に傾倒したのであって、夫人
の見せた「現象」がネタだと承知していた可能性は高いと思います。
 反面、確かにベサントは、透視や霊視、テレパシーと言った超能力は実在すると信じていたようであり、ヨーガ
の修行を通じて透視能力を身につけた言い出して、ヘンなことになってしまいます。私見ですが、恐らくは、神智
学協会に入会したことで、超能力など存在しない、少なくとも自分には無いと気がついたことでしょう。ただ、「人
類の友愛」のために、そうした演出も必要だと割り切ったのかも知りません。


 さて、ここで問題になるのが、何ゆえベサントが神智学協会に入会したか?ということです。コリン・ウィルソン
は、著書「オカルト」の中で、バーナード・ショーとの関係の破綻に傷ついていたからだ、としていますが、これは
信じられません。時期がかなりずれています。
 そもそも、当時にあっては、神智学協会も含めたオカルト団体に加入することが、それほど珍しいことではなか
った、という事を考慮するべきでしょう。現代でもカルトに入信する人は確かに存在します。決して数的には多くあ
りませんが、珍しいことではありません。神智学協会はカルトではありませんが、当時はオカルトブームで、誰ぞ
がオカルト系の団体に加入することは、それほど珍しいことではありませんでした。

 この背景には、ヴィクトリア朝後期に、キリスト教の権威低下に伴って、知識人の間で広まっていた「信仰の危
機」があります。心霊主義のところで説明したように、宗教の権威低下に伴い、心霊主義に神秘の世界を見出す
人が多かったわけですが、「信仰の危機」はもう少し深刻でした。
 宗派はなんであれ、キリスト教を信じてはいても、科学も含めた学問の発展に伴い、どうしても事実と信仰の間
に矛盾が生まれます。聖書の記述が歴史的に正しいのかと言う検討は基本的で、イエス・キリストは人類の罪を
背負って刑死したとは言うが、そもそも罪の無い人が他人の罪を背負えるのかという疑問、罪は「有限」なのに罪
人はどうして地獄で無限の罰を受けねばならないのか、と言う疑問など、哲学的と言うか法学的な議論もありまし
た。そんなの「悪いことはするな」という例え話なんだからいいじゃん、と言えないからこその「信仰の危機」であ
り、また、そう言ってしまえるようになったのは、セキュラリストの努力のおかげでしょう。
 それで結局、神の存在に疑問を持つものの、神秘の世界や人類を超越する存在を信じたい人々が、神智学に
傾倒する例は多々ありました。繰り返しますがセキュラリストの中でも、「不可知論」で神の存在まで否定していな
いホリオーク派では、神智学に傾倒する例は多くあったのです。さらに言うと、セキュラリズムの説く、宗教の影
響を排した「自由思想 Free Thought」は、既存の宗教融和を説く神智学の考え方と似たところがあったようです
(現在の神智学協会も、はっきりと「思想の自由 Freedom of Thought」を唱えています)。
 確かに、ベサントのような唯物論者からの転向は稀有であり、また周囲の人々にも奇異に見えました。しかし、

@子供時代は敬虔なキリスト教信者→A結婚直前に感じたキリスト教への疑問→B結婚生活でぶち切れ

と言うベサントの若い頃を見れば、明らかに「信仰の危機」を経験しており、多くの神智学徒と似たような背景を
持っていました。これを考えれば、神智学への傾倒は、それほど奇異なことではありません。そして、ブラッドロー
との対立により、本人が意識していなくても、ブラッドロー的無神論に疑問を持っていた可能性は高いと思われま
す。
 加えて、「The Link」で示した、社会主義を宗教と置き換えたような友愛思想、心霊主義とオカルトへの興味、そ
してさらに、他人の意見に影響され易いベサントの性格(多くの研究者が指摘していますが、指摘されるまでも無
く明白です)も考慮すれば、ブラヴァツキー夫人のような激烈に濃ゆ〜いキャラの人物に影響されないはずは無
く、ベサントの神智学への傾倒は当然と言えます。

 ただ、どうしても分かり易い理由を挙げなければならないとすれば、私は、「疲れていて気の迷い」からだと思い
ます。
 当時ベサントは、セキュラリズム協会、フェビアン協会、SDFと掛け持ちで、ナショナル・リフォーマーに記事を書
き、ステッドに頼まれて記事を書き、さらに、「The Link」と言う自分の新聞も持っていた。マッチメーカー組合の
役員も務めていたし、地区教育委員として、強制就学となった初等教育(1880年から)について、詰め込み教育
を批判していた(ついでに、1891年には公立小学校の授業料が廃止になりますが、これに関しても色々働いて
いたでしょう)。はっきり言って働きすぎです。気の迷いが生じても、別に不思議ではないでしょう。


オカルティストとしての業績

 神智学協会に入会したベサントは、セキュラリズムからは勿論、社会主義からも離れてゆき、1890年にはフ
ェビアン協会を脱会しました(恐らくSDFからも離党しました)。ついでに、人類が「霊的に進化」すれば、人口問題
も解決すると考えて、新マルサス主義も放棄し、「人口の法則」は絶版にしてしまいました。

 その後ベサントは、神智学協会のイギリス支部は勿論、神智学協会全体における影響力を急速に拡大しま
す。はっきり言ってしまえば、大英帝国の社会の理不尽や矛盾と戦ってきたベサントにとって、他のオカルティス
トを操ることなんぞ、赤子の手をひねるようなものだったでしょう。実際、イギリスの神智学徒の中には有名人が
多々含まれて入るものの、こういう組織運営にかけてベサントにかなう人は誰もいませんでした。
 1891年にブラヴァツキー夫人が死去すると、その後継者争いが深刻になります。会長はオルコット大佐なの
に、ブラヴァツキー夫人の後継を争うあたりが、神智学協会のリーダーが誰なのかを示しています。ただオルコッ
ト会長は、ベサントとは親しかったものの、後継者争いにはかなり無関心でした。
 ベサントは1893年、初めてインドに渡り、アディヤールの神智学協会本部内の「秘密学校 Esoteric School」
と言うグループ(ヨーガの修行のグループらしい)のリーダーとなって、ブラヴァツキー夫人の後継者としての地位
を固め、1907年にオルコット大佐が死去すると、その後を継いで、神智学協会第二代会長に就任しました。

 ただ、ベサントの影響力増大への反発は極めて強く、イギリスで神智学をメジャーにした最大の功労者である
シネットは、怒って退会。神智学協会の創設メンバーの一人で、アメリカ支部長であるウィリアム・カーン・ジャッジ
(William Quan Judge 1851-1896) は、ベサントの地位に関する「マハトマレター」がニセモノであると主張して、
オルコット、ベサントと対立したあげく、1895年に支持者を率いて分離独立してしまいました。以後、アメリカで
「神智学協会」と言えばジャッジの分派の事を指し、パサデナに「国際本部」を構えて現在も活動中です。インドの
神智学協会は「アディヤール神智学協会 Theosophical Society Adyar」と呼ばれて、区別されています。


 さて、ここまで話が来れば、オカルティストとしてのベサントの業績を紹介しないわけには行きません。ベサント
博士の他の業績と違い、知ったところで何かの足しになるとは全く思えないのですが、まあ、仕方が無いでしょ
う。
 また、現在の神智学協会は、霊性を重んじる哲学と宗教の融合体であり、ベサントの時代のようなオカルト団
体ではないこと、ベサントも、新たな「世界宗教」を目指したため、ブラヴァツキー夫人ほど「霊能力」等のオカルト
要素を重視していなかったことを最初に書いておきます。


どうせなら、アイルランドの内戦も止めてほしかった…


 1894年、ベサントは、チャールズ・ウェブスター・リードビーター(Charles Webster Leadbeater 1854-1934 
レッドビーターと言う読みが正しいようですが、神智学協会ニッポンロッジの読み方に従いました)という神智学徒
と知り合いました。ベサントとリードビーターは大いにウマが合い、この後、リードビーターは、神智学協会の活動
においてベサントの右腕となります。
 このリードビーターは元国教会の牧師でしたが、信仰に疑問を持ち、シネットの「オカルトワールド」で神智学協
会に興味を持って、1883年に神智学協会に入会しました。いわば、かなり典型的な神智学徒です。
 1884年にブラヴァツキー夫人の知遇を得た彼は、「マハトマ・レター」の指示により、ブラヴァツキー夫人ととも
にインドに渡りました。そして、修行の結果、「マスター」ご本人の直接の訪問を受けたらしいです。
 その後はスリランカに渡り、オルコット会長の設立した学校で教師をしていましたが、1889年、シネットから、
息子とジョージ・アランデール(George Sidney Arundale 1878-1945)と言う少年の指導を頼まれたので、弟子の
スリランカ人少年、ジナラジャダーサ(Curuppumullage Jinarajadasa 1875-1953)を連れてイギリスに戻りまし
た。ちなみに、アランデール博士は神智学協会第三代会長、ジナラジャダーサ氏は第四代会長であり、ベサント
/リーダビーター系の影響力の強さが伺えます。

 さて、リードビーターとジナラジャダーサは、透視もしくは霊視(Clairvoyance)の能力を持っており、人の前世
や、惑星の表面、分子構造などが「見えた」らしいです
 ベサントは、リードビーターとジナラジャダーサの透視能力を信じました。こうした超能力に関しては、ベサント
はもともと存在を信じていたことに注意すべきでしょう。そして、リードビーターの指導とヨーガの修行によって、ベ
サント自身もその能力を得た……、らしいです。本当ですか!?
 そして1895年8月、ベサントとリードビーターは、初めて霊視によって水素、酸素、窒素の原子の形や、分子
の結晶構造等を観察したらしいです。それから、長年かけて観察と実験を行い、1909年、ベサントとリードビー
ターとの共著で、「オカルトケミストリー 透視による化学物質の観察 Occult Chemistry Clairvoyant
Observations on the Chemical Elements」が出版されました。この本はその後、ベサントが死去する1933年
まで、加筆されつつ何度も版を重ねました。そこには、「透視」によって得たという様々な結果が示されています
が、それがまた何とも珍妙であり、確かにその当時は分からなかったものの、実際とは似ても似つかないもので
す。
 ぶっちゃけた話、「オカルトケミストリー」など、良く言えばリードビーターのネタ、悪く言えば詐欺的なシロモノで
す。そしてベサントは、ヨーガの瞑想中に何かが見えたのかもしれませんが、リードビーターのように、本当に「見
た」のかも疑わしい。確かに、ベサントとリードビーターは親しかったのですが、ベサントは様々な活動で多忙であ
り、ほぼオカルトだけに集中できたリードビーターと違って、「オカルトケミストリー」への実際の関与はかなり少な
かったというのが、ベサントの研究者の一般的な見解です。ただ、「オカルトケミストリー」に関係した人々の中
で、実際の科学に関するまともな知識を持っていたのはベサントただ一人であり、何らかの関与があったのは間
違いないと思われます。
 この「オカルトケミストリー」は、神智学協会の目的である「比較宗教学、哲学および科学の研究を促進するこ
と」「未知の自然の法則と人間の潜在能力を研究すること」に沿った行動ではあります。しかしベサントが、この
件に関して、リードビーターに騙されただけなのか、それとも、ありもしない「透視」で世間を騙していたのかにつ
いては、はっきりしていません。ただ、ベサントが、他人の意見に影響され易いことは、多くの研究者が指摘して
いるところであり、騙されていた可能性も無くはありませんが、ベサント自身も「見た」といっているので、僕は騙さ
れていた説は可能性が低いと見ます。
 そして、あくまで私見ながら、これは騙そうと言う意図では無く、「ネタ」だと見ます。
 ベサント自身、観察したのは自分とリードビーターの二人だけなので、誰か同じ能力を持った人に追試してもら
うのが望ましい、と書いています。そして、ベサントはインドにおいて、教育分野に多大な貢献をしますが、こうし
た神智学系の学校では、まっとうな現代科学の教育が行われていました。つまり、こうしたことは、ベサント自身
は信じておらず、あくまで神智学協会の「ネタ」であったことを示唆しているように思えるのです。
 ただ、こうしたケッタイな研究に名前を出したことは、ベサントの教育分野の活動に対し、世間から相当な偏見
をもたらしたと思われるのですが、その点に関して明確にしている資料は見当たりませんでした。案外と、誰も気
にしていなかったのかもしれませんが。

 次に、これはいかにもベサントらしいものですが、フリーメーソンに女性も加入できるようにしようと言う、「Co-
Masonic Movement」があげられます。フリーメーソンはオカルト団体では無いし、現在も外郭団体にしか女性を
受け入れてはいませんが、ジナラジャダーサ氏が、ベサントのオカルトに関する業績として、「伝記作者なら是非
とも注目すべき」としているので、ここであげておきます。
 1902年、ベサントは、フランスのフリーメーソン組織「Supreme Council of Universal Co-Masonry」に入会し
ました。この組織は、1882年に女性の受け入れを表明していたのです。その後ベサントは、英語圏の国々でフ
リーメーソンへの女性入会を運動して回りましたが、成功はしませんでした。


 三番目の業績「ワールドティーチャー World Teacher」は、オカルトケミストリーやフリーメイソンと違い、結果と
して大きな成果があがりました。ただし、ベサントの意図したところとは、全く違う形ではありましたが。

 さて、リードビーターには少年愛の傾向があり、少年に自慰をさせてそれを見物するという、素晴らしいシュミ
ありました。そしてイギリスで活動中の1906年、アメリカ神智学協会(ジャッジについて行かなかった方)の関係
者の息子である、互いに連絡の無い二人の少年から別々に、自慰行為の強要で告発されました。
 これは、リードビーターを嫌う者のイヤガラセという説もありますが(ハーバート・バロウズも候補の一人らしい)、
彼が住んでいたトロントのアパートから、簡単な暗号で書かれた少年愛体験記(タイプ打ちでリードビーター自筆
と言う証拠は無いが、当時のイギリスの法律では印刷できないほどワイセツ)が回収されており、またなんと言っ
ても、本人がベサントに対して自分の行為を告白していますから、事実とみて間違いないでしょう。
 リードピーターの行為は、当時でも刑法犯でしたが、彼が正式な告発を受けることはありませんでした。また、こ
の件に関して、アメリカ神智学協会で調査委員会が設置されましたが、実際の調査が行われる前に、リードビー
ターは自分から退会しました。
 1907年、神智学協会二代目会長に就任したベサントは、リードビーターの再加入の運動を始めます。さすが
に反発は強かったようで、ベサントは「マハトマレター」まで持ち出して、1908年末、強引にリードビーターを再加
入させました。

 1909年2月、リードビーターは、アディヤールの神智学協会本部に戻って来ました。その2ヵ月後、彼は、神
智学協会のインド人職員の息子で、その時、本部敷地内の海岸で遊んでいた兄弟に目をつけました。そして、当
時14才の兄ジドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti 1895-1986)に、「これまで見た中で最も素晴らしい
オーラ」を感じたレッドビーターは、彼こそが、この世界の来るべき精神的指導者、「ワールドティーチャー」の魂
を持った少年である(具体的には、キリストに宿っていたのと同じマスターの魂を持っている、とかなんとか)、と主
張しました。そしてベサントは、リードビーターの主張を受け入れました。これは、かねてから考えていた人類普
遍の友愛精神というアイデアに有益だと考えたからでしょう。

 実際のところ、クリシュナムルティ少年は当時、だらしない外見で、しかも表情が虚ろであんまり賢くない感じで
あり、家族や友人には、一緒に居た弟のニトヤ(Nitya)の方がずっと賢いと思われていました。さらに言うと、リー
ドビーターは以前にもアメリカ人の少年に対して似たようなことを主張し、しかも後になってその少年は、リードビ
ーターから性的虐待を受けたとベサントに訴えたりしているので、「ワールドティーチャー」は、なんともアレなアイ
デアだと思われました。

 しかし、ベサント、リーダビーターら少数の神智学協会内部のグループは大真面目であり、両親に交渉してクリ
シュナムルティとニトヤの養育権を譲り受け、二人に英才教育を施します。
 その後、リードビーターの少年愛傾向が兄弟の両親の知るところとなって、養育権を取り戻す裁判が行われま
した。ベサントらは敗訴が続きましたが、上告を繰り返して時間を稼ぎ、そのうちに兄弟が成人して養育権がうや
むやになったことで、なんとか切り抜けました。ただ、さすがにリードビーターはインドには居づらくなったのか、オ
ーストラリアの支部に移り、更にその後はイギリスに戻ります。
 裁判が続いている間、クリシュナムルティはベサントの養子となり、英才教育のおかげで有能な青年に育ちま
す。そしてベサントは、新たな教団「東方の星会 Order of the Star in the East」を設立してクリシュナムルティ
を頭首にすえ、彼こそ人類友愛の「世界宗教」の教祖、新たなるキリスト、マイトレーヤ、などと盛んに宣伝しま
す。
 しかし、この行動はまた反発を招き、もともとブラヴァツキー夫人ともそりが合わなかったドイツ支部のリーダ
ー、ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner 1861-1925)は、1913年、独自の哲学「人智学 Anthroposophy」
提唱して離反してしまいます。おかげでもって、人智学支持者の「密林の聖者」シュバイツァーなんぞは、ベサント
に対して否定的なコメントを残していますが、まあ、気にする必要は無いでしょう。

 そして1929年8月、何よりも決定的なことに、当のクリシュナムルティ氏本人が、自分の立場に疑問を感じて
「東方の星会」の解散を宣言し、以後、個人としての活動に専念するようになります(ただし、その後もベサントと
の仲は悪く無かった)。
 結局のところ、ベサントの世界宗教構想は完全に頓挫してしまったわけなのですが、その後クリシュナムルティ
氏は、20世紀インドを代表する哲学者、宗教家となって、多くの人々に深い感銘を与えます。リードビーターの目
が確かだったのか、ベサントの教育が良かったのかはわかりませんが、偉大な哲学者を生み出したと言う点で
は、確かに大成功でした。


ジドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti 1895-1986)

チャールズ・ウェブスター・リードビーター
(Charles Webster Leadbeater 1854-1934)

 本人は1847年生まれだと主張していた。父親は鉄
道会社の社員で、家族を連れてブラジルに赴任中に病
死。弟はギャングに殺害され、その後は銀行の倒産で
全財産を失うなど、不幸な幼少期を送る。叔父の影響
で聖職者の道に進むが、信仰に疑問を感じて、神智学
協会に入る。
 クリシュナムルティり養育権を巡る裁判でインドに居づ
らくなると、1916年、イギリスに戻ってキリスト教系新
興宗教、「リベラル・カソリックチャーチ」の司祭となり、
神智学協会の外郭団体として乗っ取る。







クリシュナムルティの思想
教育
・子供を理解することを重視
・教育者に対する教育の重視
・公教育の否定

社会
・ナショナリズム、宗教対立を否定

哲学
・真理は誰かに導かれて得られるものではなく、自らの思考によって到
達できる。
・個々人の生き方の中に真理はある

(参考: 図解近代魔術 新紀元社)
 

 上図にかかげるクリシュナムルティの思想には、特に教育に関してベサントの影響が大いに感じられます。そ
の一方、「真理は……」のところに、ベサントに対する批判を感じます。ベサントが他人の意見の影響を受け易か
ったのは事実ですが、自分の信じるところを貫いてきたのも事実です。しかし、「マスター」をダシにして、「マスタ
ー」と接触して真理を教えてもらうべく修行する、という神智学協会の考え方を受け入れたことで、ベサントは自ら
の人生を否定することは勿論、他人の生き方に影響を与え、自らの思考によって真理を得ようとした人々の邪魔
をしたと言えなくも無いわけです。
 もっとも、ベサント博士の、他人の意見に耳を傾け、考え方を変えることに躊躇しない姿勢こそが賢者たる所以
ではありますが。

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