アニー・ベサントその7 ベサント、オカルティズムにハマる 先を続ける前に先ず、19世紀から20世紀初頭にかけてヨーロッパで流行した、「心霊主義 spiritualism」とオ カルトについて説明します。 「心霊主義」という用語は、「非物質の霊的な世界」の存在を主張し、肉体は死んでも人の精神は生き残り、特 殊な能力を持つ「霊媒師 medium」を通じて「死者の霊と交信できる」と主張する運動です。故丹波哲郎氏の「大 霊界」を思い浮かべていただければ、結構だと思います。ヒトの人格は肉体の死後も生き残り、繊細な感覚を備 えた霊媒師を通じて生者と交信できる、という考え方のことです。 死者の霊魂との交信しようという試みは、世界の大抵の文化圏で古来から行われてきたことであり(まあ、そこ のところに霊魂の実在の傍証を感じなくも無いのですが)、こうした民間信仰と区別するため、「近代心霊主義」と 呼ばれることもありますが、要するに、コナン・ドイルの小説に出てくるような、霊媒師を囲んだ交霊会(Seance) で知られるものです。 近代心霊主義の興りは、「ラップ(音)でイェーィ!」でお馴染みの、1848年に起きたフォックス姉妹の事件です。 この事件の真相については、ココ→(「超常現象の謎解き」内ページ http://www.nazotoki.com/fox.html)を参照 していただくとしますが、要するに、発端からしてインチキだったわけですから、「近代心霊主義」とは大変にイタ イ流行でした。しかし、その当時はそんなことは分かりませんでした(加えて、この種の事象を信じる人には、無批 判で頑固に受け入れる傾向があります)。 社会学者達は、心霊主義の流行に様々な理由を見出していますが、まあ、そうした研究はここで扱うものでは ありません。こういう流行の原因としては、宗教の権威が弱まってきたことが大きいでしょう。実際ヨーロッパで は、中世ならば、交霊会なんぞやれば魔女狩りにあって死刑、理性の時代となった18世紀でも教会による反発 はかなり強かったと思われます。 また、キリスト教の権威低下に伴い、非物質のアッチの世界を、「神の世界」ではなく霊魂に求める人が増えた という背景がありました。従って、ベサントのようなセキュラリストや、基本的に無神論の社会主義者達にも、自身 が感じた信仰の危機に対する答えを心霊現象に求める人が多くいたのです。実際、キリスト教信者の心霊主義 者には、交霊による死者の声は、キリスト教の啓示に類するものであると主張する人もいました(ただし、バチカ ンは科学的研究目的以外での心霊主義的行為を有罪であると宣言しています)。 そしてまた、単純な奇心もあります。テレビもラジオもない当時、こういう交霊会はかなり面白い見世物でした。 多くの知識人、いや知識人であるからこそ、好奇心でもって心霊主義には興味を持つ人が増えます。大勢でテー ブルを囲む交霊会は、もともと知識人のサロンに通じるところがあるため、心霊主義の信奉者は主として中流階 級以上の知識人で構成されていました。 霊魂の存在を信じている人が、かつての友人知人との交流を求めるのは勿論のこと(南北戦争や第一次大戦 による大量死も背景にありました)、霊魂の存在を科学的に証明しようとする人もいました。霊魂の存在を信じて いない知識人も、霊媒師が見せる現象には、何かしら未知の科学的作用があると信じている人が多く、「心霊現 象」の真相を究明しようとしていました。 実際、コナン・ドイルや発明王エジソンが心霊主義にハマッていた(そして、結局はインチキを見抜けなかった) のは有名ですが、進化論のもう一方の立役者である生物学者アルフレッド・ウォーレス、ノーベル賞詩人ウィリア ム・イェーツ(William Butler Yeats 1865-1939 この人は真性のビリーバーでオカルト信者です)等、心霊主義信 者には結構なビッグネームが並んでいます。 とにかく、19世紀半ばから20世紀初頭にかけての時代、欧米のあちこちで、 一方、オカルトは、心霊主義よりも歴史があります。本来はオカルティズム(Occultism)であり、オカルトという言 葉は、本来はオカルティズムで扱われる内容を指す言葉ですが、日本では、「オカルティズム」の意味オカルトと いう言葉が使われているので、以後、オカルティズム=オカルトで通します。 ラテン語の「隠されたもの occultum」を語源とするこの用語は、ヨーロッパのキリスト教社会において、「正統」 ではない学問や異端とされた宗派を指しています。 この言葉が現れるのは、16世紀前半からであり、エジプトやメソポタミアの占星術、ヘブライのカバラ、古代ギ リシアの哲学等の、当時のキリスト教社会にあっては、忘れられていたか、異端とされていた古代の知識の研究 を指していました(ただし、「古代の知識」と自称しているだけで、実際に古代に行われていたものと同一かどうか は、はなはだしく怪しいです)。 まずルネサンス期に最初の流行があり、翻訳された古代ギリシアの文献類が、ルネサンス期の芸術に大きな 影響を与えました。この頃、有名な「薔薇十字団」が結成されたらしいです。また、医学、錬金術、天文学等の自 然科学の分野にもオカルティズム運動から派生しており、オカルト研究で名高いイギリスの歴史家イェーツ(1899 -1981 詩人の縁者か?)は、この時代のオカルトは、現代科学の形成に大きな役割を果たしたと評しています。 さて、18世紀後半になれば、オカルトは再び隆盛しますが、このあたりで、現代人が「オカルト」の語で思い浮 かべる、アヤシゲな世界になって行きました。催眠術の元祖として知られるメスメリズムのような重要な発見もあ りましたが、サン・ジェルマン伯爵、ジゼッペ・カリオストロなど、知っている人なら名前だけで爆笑する怪人(文字 通りにアヤシイ人)が活躍しました。 そして1888年、イギリスで「黄金の夜明け」として知られる「The Hermetic Order of the Golden Dawn」が設 立され、ここを原点に、アレイスター・クローリーを初めとする多くのオカルティストが登場し、多数のオカルト団体 が設立されました。この時代のオカルティストとは、要するに、シュリズベリイ教授やタイタス・クロウなど、クトゥル フ神話系の小説の主人公達がやってるようなことを、本気で実践していた(もしくは、実践しているように振舞って いた)人々です。そして、こういう団体の行き着く先は、ヤク中や、乱交パーティーと言う「性魔術の実践」とやらで (最近では、この流れを汲むウィッカ Wiccaという団体が1960年代から70年代にかけて問題になりました)、は っきり言えば現代のカルトと変わりません。 さて、ベサントも心霊主義流行と無縁ではありませんでした。ベサントは霊魂の存在など信じていませんでした が、しかし1886年頃から、夢や催眠術など、当時はまだ解明が十分ではなかった、人間の精神面の現象に興 味を抱くようになっていました(←まあ、現代でもすっきり解明とはいきませんが)。 そして、持論の無神論的唯物論では説明できないと感じていた時、心霊研究協会の報告書を読んで、霊魂の 存在は信じなかったものの、交霊会に見られる「心霊現象」に、精神現象の解明に通じる未知の心理学的な要 因があると考え、その真相を究明すべく、友人と共にしばしば自宅で交霊会をやっていました。 こうした友人達には、エドワード・ピースやハーバート・バロウズをはじめとするフェビアン協会のメンバーや、ウ ィリアム・スティードもいました。前述のとおり、当時の通念としてセキュラリズムや社会主義は、心霊主義とはそ れほど矛盾していなかったのです。ただ、「The Link」で表明したように、ベサントの思想がやや精神主義的にな ったのには、心霊主義の影響があったかも知れません。 「心霊現象」には何かがある、と感じ、ますますハマったベサントは、心霊現象に関しての理解を、精神面に限 定したものではなく、物理的な現象だと理解するようになりました。具体的に言うと、透視やテレパシーがホンモノ である、要するに、「心霊現象」とは、超能力であると解するようになったのです。 現代では、心霊主義もオカルティズムの範疇の一つですが、こと「心霊現象」に関する限り、19世紀において は、オカルティストと心霊主義信奉者は立場が違いました。心霊主義が、心霊現象を霊魂(幽霊)の仕業だとして いるのに対し、オカルトの世界では、心霊現象を「人間の高度な意志の力」、すなわち超能力(クローリーのような 人にとっては、魔術や、あっちの世界の存在の顕現による)によるものだと定義していたのです(19世紀前半に活 躍した著名なオカルティスト、エリアス・レヴィの提唱らしいです)。もっとも、ベサントの時代には既に、オカルトと 近代心霊主義の境界は不明瞭になってはいましたが。まあ、ぶっちゃけ、「五十歩百歩」を地で行く、どうでも良 い違いなのですが、確かに、オカルティストの説の方がちょこっと説得力は上です。従って、私見ですが、ベサン トがオカルティズムに傾斜したのは、こうした考え方の一致が背景にあったと思われるのです。 また、ベサント自身(この時は綺麗に忘れていましたが)、元々は熱烈なキリスト教信者であり、若い頃には信仰 の危機も経験しています。また、オカルトにハマッた後のコメントなのでなんとも言えませんが、自殺を試みた時 には、「声」を聞いたりもしています。ブラッドローとともに唯物論、無神論を唱えてはいても、ベサントは、多くの 心霊主義信者に共通する心理的な背景を持っていたのです。 ただ問題なのは、「心霊現象」が、かなり早い段階でインチキだと非難されていたということです。近代心霊主 義の元祖であるフォックス姉妹がインチキを告白したのは、1888年のことです。そして実際のところ、幽霊なん ぞと関係しない原因やインチキが度々証明されていました。 電磁誘導の発見で有名なファラデー(Michael Faraday, 1791−1867)が、「交霊」の手段として流行していた 「テーブルターニング(ヨーロッパ式コックリさん)」が、無意識の筋運動であることを証明したのは有名です。実在 しない人物や、まだ生きている人々の霊とだって交信できちゃったりする、とても優秀な霊媒もいたりしました。し かしまあ、この種のヘンテコを信じる人は、無批判に信じ込む傾向にあるため(こうした人々は概して、感情的に なって屁理屈をこねて議論になりません)、1920年代になり、霊媒師の手口をフーディーニなど有名な奇術師が 暴露するようになって、やっと心霊主義は下火になりました。 要するに、いかに知識人であっても、優秀な科学者であっても、マジックの専門知識が無ければ、真相を究明 することは無理だったわけです。そしてマジシャンでも「超能力者」でもないベサントには、交霊術のトリックは見 抜けかったのです。 まあ言って見れば、心霊主義の流行は、近年の「ミステリーサークル」事件とよく似ていると言えるでしょう。ミス テリーサークルについては、僕は最初から人間のイタズラだと考えていましたが、UFO説は論外としても、不思議 なことに、まっとうな科学者達がプラズマ説、つむじ風説等を持ち出して、真相究明に無駄な努力を繰り返しまし た。皆さん、人が好すぎたのです。けったいなイタズラに大変な手間ひまかける人が存在するという、厳然たる事 実に目を向けねばならないのです。 そして、このミステリーサークル事件が、実は笑い事ですまないのは、このためにまっとうな科学者(あまりまっ とうでない科学者もですが)が、無駄な資金と時間をとられてしまったと言う事です(これに関して、犯人のおじさん 達に対する賠償請求が一つも無かったのは、単に恥ずかしかったからでしょうか?)。まあ、全てをイタズラとは 決め付けず、何か大発見を求めてアヤシゲな研究をするのも、科学者の本質ではあるのですが。 つまり、「心霊主義」流行の本質的問題は、頭脳明晰で社会的地位も高いがマジシャンではない人々が、よく言 えばマジックショー、悪く言えば超能力詐欺か霊感商法に騙されたという点ではなく、知的で優秀な人材が、無駄 なエネルギーと時間を使ってしまったと言うことなのです。 コナン・ドイルやイェーツのような作家達は、作品のインスピレーションを得たから良いとしても、エジソンが霊界 通信機とやらの製作に使った時間が実用的な研究に使われていれば、何か素晴らしい発明が行われたのでは ないでしょうか? フェビアン協会のメンバー達には、他に考えることは無かったのでしょうか? ウィリアム・ステッドが心霊主義やオカルトの本を書いている時間は、本来ならばより多くの社会問題の追及に 当てられるべきではなかったのか? ベサントも、霊媒師のトリックに目を凝らしている時間があれば、救いを求める貧しい労働階級の人々の声に 耳を傾けるべきではなかったのか? ここではっきり言っておきますが、エンターテイメントとしてのオカルティズムは、僕は好きです。ラブクラフトの 小説は好きですし、この種のテーマを扱ったアニメも映画も見ます。実を言うと、TRPG「クトゥルフの呼び声」が 大好きだったりします(そもそも、アニー・ベサント博士の名前を知ったのも、ホビージャパン「クトゥルフの呼び 声」に付属していた「1920年代の資料集」からなのです)。しかし、現実のオカルト信奉者は好きではありませ ん。事の軽重を間違えているような気がしてならないのです。 オカルト信者たちは、ウィリアム・ステッドは、タイタニック号の沈没を予言していたと言います。これがウソなら 甚だしくケシカラヌ話であるし、本当に予言していたら予言していたで、ステッドは自らの信念に従い、反戦運動 のため命を懸けて渡米したのです。そして最期は救命ボートの座席を争わず、甲板で祈りを捧げつつ従容と死を 選びました。こうした行動は、「予知」や「予言」の能力を発揮するよりも立派なことではないのでしょうか? 私は、ベサントのオカルト思考にも全く賛成していません。ベサント博士は、オカルティックな超能力に高度な意 志の力を求めたようです。しかし、彼女が自殺を試みた時に聞いた声こそが、力強く生きようとするベサントの内 なる高度な意志の声に他ならないのでは(仮に事実だったとして、ですが)? 「哲学の果実」事件やその後の裁判 で見せた彼女の意志の力は、十分に高度なものではなかったか? 幾多の迫害にも屈することなく、おのれの信じるところを貫いたブラッドローの意志の強さをベサントは見てい たはずですが、それは超能力よりもずっと素晴しい物ではないのか? マッチ工場の件では、ベサントは躊躇無く女工さん達を助けました。こういう善意と行動は、魔術や超能力よりも 大切なものなのではないでしょうか? とか何とか言ってはみても、まあ、本人達が楽しんでいたのだから、それで良いのでしょう(笑)。それに、心霊主 義は勝利を収めています。今日、「幽霊を見た!」と主張すれば、信じる人は信じ、信じない人は「見間違いだ ろ」「疲れてたんだろ」と心配してくれるでしょう。しかし、「神を見た! 」と言えば、誰もが「うわ、電波!」と言うはず です。「心霊」は神の存在感を越えたのです。 ただ、霊媒師達やオカルティストは、本当に自分に特別な能力があると信じていたのか、はたまた単なるペテン 師なのか、それともデーモン小暮閣下が「悪魔」と自称するような、自身の信条を広める上での設定ネタであり、 信じた方に問題があるのか?見ている人々も、実際にネタとして割り切って交霊術なり魔術なりの儀式に参加し ていた人も多かったのではないのか?という疑問がありますが、そうした点を明確にしている研究はありません (「霊能者」としても、見ている方があまりに無批判に受け入れるため、自分には特別な能力があるのだと信じ込 むということもあるようですが)。 ただ、ペテン師型霊媒師、ペテン師型オカルティストが圧倒的に多いのは事実です。後述のブラバツキー夫人 は、私見ながらネタ型のオカルティストだと思われます。そしてベサントも、後に神智学協会での地位を固めるに 当たっては、ネタ型オカルティストに徹しました。その一方で、一時は本気で「アッチの世界」を信じていたのも間 違いなく、霊視で原子の形を見るという、さながらイージス艦のフェーズドアレイレーダーのような強力電波な研究 も行っています。 ブラヴァツキー夫人と神智学協会について またも脱線しますが、先を続ける前に、エレーナ・ペトロブナ・ブラヴァツキー(Helena Petrovna Blavatsky 1831-1891 旧姓ハーン Hahn)という人物について説明しなければなりません。 このブラヴァツキー夫人(H.P.B.の通称でも知られる。ロシアの原音に従えば"ブラヴァツカヤ"ですが、ブラヴァ ツキーの方がよく知られているので、以後このように表記)こそ、現代のオカルト思想は勿論のこと、いわゆるニ ューエイジ運動、さらに政治、教育、哲学、さらには芸術の分野にまで多大な影響をもたらした人物(どちらかと言 うと怪人)です。 ただ、ブラヴァツキー夫人の人生については、彼女自身による虚実入り組んだ話が流布しているため、どこま でが事実か分からないことを前置きしておきます。ここでは、コリン・ウィルソンの「オカルト」に記述されている夫 人の事跡を元にしてあります。 エレーナ・ペトロヴナ・ハーンは、1831年、宰相も輩出したロシアのかなり高位の貴族の家系に生まれまし た。父親は陸軍大佐、母親は人気作家で、ともに仕事が忙しく、エレーナの世話は召使に任せきりでした。彼女 は幼い頃、どうやら夢遊病だったようであり、この病気についての知識が一般的ではなかった時代なので、迷信 深い召使達は、彼女には何か神秘的な能力があると思いこんだようです。 そして召使達は、エレーナに色々な幽霊話や迷信を話して聞かせ、そして彼女はモロに影響を受けたらしく、た びたび超自然の存在を見た、と主張していました。まあ、どこまでが事実か分かりませんが、とにかく彼女が、 「あっちの世界」を信じる環境で育ったのは間違いありません。 またエレーナはノイローゼ気味であり、けっこうワガママで、非常な癇癪もちでした。不愉快な相手に対しては、 超自然の存在の怒りが下ると脅迫していたと言われますが、超自然の存在のお出ましを待つまでも無く、自分で 相手をぶちのめすのもしばしばだったようです。しかしその反面、近所の子供達を集めて色々な怪談話を聞かせ たりしており、子供達はエレーナの物語のファンになって、彼女が語るような超自然の存在を実際に見た、と言い 出したらしいです。後のブラヴァツキー夫人の活動を見る限り、確かに、ブラヴァツキー夫人は、どんなヘンテコ な言い分であっても相手に信じさせてしまう才能があるようです(実際、ノーベル賞詩人のイェーツは、そのような 証言を残しています)。 エレーナが11歳の時、母親が亡くなりました。後にブラヴァツキー夫人は、自分の母はそれより何年も前に既 に死んでいた、と主張しました。年金の詐取のため、既に死んだ人をまだ生きている、と主張する例は多々あり ますが、その逆は珍しいです。 その後、彼女は母方の祖母の家に預けられますが、16歳か17歳の時、家が決めた40歳の軍人ブラヴァツキ ー将軍との結婚話に反発して、結婚が正式なものとなる前にトルコのコンスタンティノープルに逃亡しました(←と は言え、以降はブラヴァツキーの姓を使い続けます)。 その後は、ブラヴァツキー夫人本人の弁によると、世界の秘境を渡り歩いた挙句、チベット(当時は鎖国中)で、 この世の全ての真理を知ると言う「マスター」(マハトマ、とも言う)に弟子入りし、その教えを受けたということで す。そしてこの「マスターとの接触」が、ブラヴァツキー夫人の理論的主柱、もしくは設定上のお約束となります。 で、実際のところはと言うと……、夫人がヨーロッパ各地を渡り歩いたのは事実です。これまたブラヴァツキー 夫人本人の弁ですが、サーカスの曲馬乗り、ピアノ教師、造花工場の経営などに手を出しました。そして、ここが ポイントですが、当時有名だった霊媒師、ダニエル・ダングラム・ホーム(Daniel Dunglas Home 1833-1886)の 助手も務めたらしいです(ただ、ホーム側の証言は見たことがありません)。また、夫人はちょくちょくロシアに帰国 しており、従兄弟のセルゲイ・ウィット伯爵の家に現れては、お金を無心していたようです。そして年を追うごとに どんどん肥満し、最後には体重100kg超のヘビー級になりました。つまり、夫人が生活に困っていなかったのは 間違いないと思われます。 1858年、夫人はロシアに戻って落ち着きますが、様々な心霊ショーを演じて見せて、霊能者であるともてはや されました。また、太ったとは言えブラヴァツキー夫人はもともとが美人であり、キレると凶暴凶悪な一方、普段は 開けっぴろげで寛大な性格で、ユーモアもありました。そして、ここが重要なことですが、夫人には、人を魅了する 神秘的なところがあったので、ロシアではすぐに人気者になりました。おかげでもって、彼女は様々な三角関係や 色恋沙汰に巻き込まれ、1861年頃にユーリという男の子を授かりました。 この男の子が夫人の実子なのか、それとも養子なのかは不明ですが(一説には、ブラヴァツキー夫人はサーカ スの落馬事故で子供が産めない体になっていたと言う)、ユーリはせむしであり、体が弱く、5歳頃に亡くなりまし た。夫人はユーリを世界の何よりも愛していると公言していたので、この子の死が、夫人のキリスト教に対する不 信感の原因、ひいては、アンチキリスト教としてのオカルト研究の原因になったようです。 そして、カソリックを嫌悪するようになったブラヴァツキー夫人は、なんでも、男装してガリバルディ将軍のローマ 進軍に参加したと述べています。またその時、スティレット(錐状の短剣のことですが、銃剣だと言いたかったので しょうか?)で胸を刺されて死にかけ、色々とあっちの世界を垣間見たそうです。いや、これ完全にウソでしょ? 1873年7月、ブラヴァツキー夫人はアメリカに渡り、ニューヨークのテネメント(低所得者用の安アパート)に居 を構えました。そして、ロシアからの仕送りやお針子のバイトで生計を立てる一方、何人かのジャーナリストと友 人になり、同居することになります。そして、彼女の部屋では、描きかけの絵が「霊魂」によって夜の内に完成さ せられているという「心霊現象」、実は夜中にブラバツキー夫人がこっそり描き足していただけと言う、はっきり言 って信じる方がどうかしていると思われる「心霊現象」が発生し、夫人は畏敬の念と顰蹙を買いました。 その後、ロシア人の知人と共に農場経営に手を出しますが、事業には失敗した上に、農場の競売代金も騙し取 られます。 1874年10月、ブラヴァツキー夫人は、心霊現象に関する調査がきっかけで、生涯の相棒となる陸軍の名誉 大佐のジャーナリスト、ヘンリー・スティール・オルコット(Henry Steele Olcott 1832-1907)と知り合います。最初 からウマがあった二人は、新たな心霊術研究のため、幾つかの心霊主義新聞や、有料で心霊術を見せる「奇跡 クラブ The Miracle Club」を設立しましたが、どれもあまり成功はしませんでした。 そしてこの頃から、ブラヴァツキー夫人の居る場所では、チベットで会った「マハトマ」からの手紙が、空中から いきなり降ってきたりするようになりました(郵便や電報という通常の連絡手段も使われたようです)。その手紙の 内容は概ねブラヴァツキー夫人に都合の良い内容ばかりでしたが、時には新聞の発行や、家庭的に不和だった オルコット大佐に、家族との別居を勧めたりする内容でした。 言うまでもありませんが、この「マハトマレター」はトリックです。そしてこれは、後に問題も引き起こします。た だ、オルコット大佐は当然、トリックだと承知していたでしょう。いわば「お約束」です。ブラヴァツキー夫人は、修 行したおかけでこの世の真理を知る「マスター」と接触できると自称し、弟子達にも、修行を積めばそうなれると 説いていました。ブラヴァツキー夫人に限らず、ハクをつけるため(加えて、内部からの批難の矛先を自身からそ らすため)自分の哲学や理論、さらには団体の設立などを「マスター」のような幻の人物の発案とするのは、当時 のオカルト団体にはよくある手法でした。また、夫人は何かにつけ、自信が所属している秘密結社(ルクソール同 胞団というらしいです)の指示で…、と口にしていたようですが、その秘密結社が実在している証拠はありません。 と言うか、ぶっちゃけ、「ハクづけ」のホラです。 1875年4月、ブラヴァツキー夫人は、アメリカ市民権取得のため、信奉者である年下の青年と結婚します(ア メリカ市民権を取得した三年後に離婚)。 同じ年の9月7日、夫人と大佐は、著名なオカルティスト、ジョージ・フェルトのピラミッドに関する講演に参加し て、その内容にいたく興味を抱きました(←ピラミッドの各部の数値に、いろいろな知識が隠されているというアレ です)。そして大佐が、心霊主義に絞っていた活動を離れ、もっとオカルティズムの研究をすべきだと提案したた め、ブラヴァツキー夫人は、知人のオカルティスト達を集めて、心霊主義と、伝統的オカルティズム(古代エジプト の叡智とか何とか)、そしてキリスト教を除く既存の宗教までを融合させた団体、「神智学協会 Theosophical Society」を設立します。初代会長にはオルコット大佐が就任しましたが、どう考えても真のリーダーはブラヴァツ キー夫人でした。ただ、「神智学 Theosophy」という用語は、かなり以前からあったもので、ブラヴァツキー夫人ら の創作ではありません。 1877年、ブラヴァツキー夫人は、神智学に関する最初の著作、「ヴェールを剥がれたイシス女神 Isis Unvaled (日本語タイトルは神智学協会ニッポンロッジに従いました)」を出版しました。この本は上下二巻、1000ページ以上の大 作であり、西洋のオカルティズムの源泉はエジプトにあるとした上で(←この当時、神智学協会はインドよりも古代 エジプトに重きを置いていました。)、上巻において科学の誤りを、下巻においてキリスト教の誤りを指摘している 内容で(参考 「秘密結社」 新紀元社)、現代人が忘れた古代の知識の存在を主張し、「諸宗教の文献における神話 の叙述、魔術の諸相、古代エジプトの著作、古典哲学、世界宗教、その他の多くの主題について議論を提示(神 智学協会ニッポンロッジHPより)」し、「古代の普遍的宗教であるヘルメス哲学の認識を請願するものである(神智学協会 ニッポンロッジHPより)」と序文で述べているように、「ごった煮的」(by コリン・ウィルソン)ではあったものの、既存の 宗教の融合を説きました。 「ヴェールを剥がれたイシス女神」は、オカルト信奉者以外にも概ね好評であり、神智学協会は順調に発展しま す。また、多くのオカルト団体が秘密結社だったのに対し、神智学協会は公開団体としておおっぴらに活動してい たことも、発展の要因でした。 1878年から、ブラヴァツキー夫人はインドへと興味を示すようになりました。どうやら、ルイ・ジャコリオなる小 説家の、インドの神秘について書いた本を読んだのがきっかけらしいです。同じ時期、オルコット大佐が、インド 人の知り合いに神智学協会の活動内容について書いた手紙を送ったところ、そのインド人は、当時、インドの宗 教界で大きな波紋を呼んでいた、スワミ・ダヤナンダ・サラスヴァティという人物によるヒンズー教改革運動、「ア ーリア・サマージ(原点回帰を訴え、聖典ベーダの原本を尊重して後から付け加えられた部分を排除し、カースト 差別を撤廃しようとする運動)」について書いて寄越しました。 そしてオルコット大佐は、サラスバティに神智学協会とアーリア・サマージ運動の提携を提案して、受け入れら れました。その結果、オルコットとブラヴァツキーは、二人の神智学協会員を連れてインドへ向かいました。 ただ、大洋をはさんだ伝言ゲームでかなりの誤解があったらしく、実のところ、ヒンズー教原点主義であるアー リア・サマージ運動と、神智学協会の説く宗教融和思想に共通点は何もありませんでした。また、メンバーのオカ ルト思想はインド人の目から見てもかなり異様なものでした。さらに、インドへの旅費の支払いで、アーリア・サマ ージのボンベイ支部とトラブルになりました。要するに、アーリア・サマージからの招聘か、自費での渡航かという 基本的な部分にもすれ違いがあったわけなのですが、それでも神智学協会とアーリア・サマージ運動は提携する ことになりました。 ブラヴァツキー夫人ら神智学協会一行は、ボンベイに拠点を置いて活動を開始しました。そして、神智学協会 は、インドでは概ね歓迎されました。そろそろイギリスの支配にうんざりし始めていたインドの知識人達にとって は、ヨーロッパの思想よりヒンズー教の哲学を学ぼうとするヨーロッパ人(ブラヴァツキー夫人は国を捨てたロシア 人、オルコット大佐はアメリカ人で、インドの政治問題とは全く関係ないですが)は、好ましい存在だったのでし た。 そして1882年、ブラヴァツキー夫人の弁によれば、クート・フーミ、もしくは「マハトマ」なる謎の霊的指導者(マ スター)の指示により、神智学協会は、マドラス(現チェンナイ)の南にある町、アディヤール(Adyar もしくは Adayar)に本部を移し、同時に活動の中心もアメリカからインドに移すと、それから大いに繁栄しました。実際の ところ、本部の移転は、アーリア・サマージとの対立が深刻になったため、ボンベイに居づらくなったというのが真 相のようです。 その後、オカルト志向やオルコット会長の仏教入信がサラスバティの顰蹙を買い、アーリア・サマージ運動との 提携は解消されますが、神智学協会は急速に発展して、1885年までにインドと欧米に11の支部が設立されま した。有名な神智学徒の中には、鳥類学者でインド国民議会の創設者であるアラン・オクタヴィアン・ヒューム (Allan Octavian Hume 1829-1912)、詩人イェーツ(←この人はあちこちに顔を突っ込んでいます)、生物学者の ウォーレスなどが居ます。 ブラヴァツキー夫人は、インドでもいろいろな「霊能力」を発揮しました。彼女は、天井からバラの花を降らせた り、品物を「物質化」する能力、失せ物探し等で人々に感銘を与え、新会員の獲得に励みました。もっとも、こうし た現象は自身の力ではなく、「マスター」が自分を通じての発揮しているものである、と言っていましたが。 「マハトマ」からの手紙(マハトマレター)も相変わらずで、クート・フーミ・ラル・シンなるマスターからの手紙が夫 人の自宅の天井から降り続け、ブラヴァツキー夫人に提出された、「マスター」に対する会員からの質問への答 えや、協会の方針について指示が「マスター」から送られてきました。実際のところ、「マハトマレター」はみんなブ ラヴァツキー夫人の手になるものであり、その内容も夫人の理念や哲学そのものに他なりません。しかし、ブラヴ ァツキー夫人は、修行を積むことにより、この世の真理を知るマスターと接触できるようになる、と主張していた ので、こういう「設定」は当然のことでした。この「幻の幹部」という手法は、映画の中の悪の秘密結社にも見られ たりしますが、前述のとおり、超人やら悪魔やらを持ち出して「ハクをつける」のは、当時のオカルト団体にはよく ある手法だったのです。 問題は、そうした「幻の首領」を本気で信じるか、「設定」として割り切るかどうかですが、当然ながら、おバカに も盲信していた人もいて、ヒュームなどは、自分でマスターと接触したいと言い出して、夫人とトラブルになりまし た(その後、ヒュームはインド国民会議で忙しくなり、神智学への関心が少なくなります)。 また、当然ながら、こうした「霊能力」は疑惑の的となります。特に、亡くした指輪を発見する話など、明らかに、 目的のものを盗んで予め隠していたとしか思えないものもありました。そして1884年、解雇された家政婦の腹い せによる内部告発でトリックがバレ、1885年、イギリスの心霊研究協会は、ブラヴァツキー夫人の「霊能力」は インチキだと結論する報告書を発表しました。 ただ、勿論確証は無いのですが、ブラヴァツキー夫人のユーモアにあふれる性格からして、「マハトマレター」や その他は、意図的にダマそうとしていたわけではなく、ブラヴァツキー夫人からしてみれば、いわば映画やアニメ のお約束のようなものだと考えていたのではないのでしょうか?実際、内部告発した家政婦は、トリックのタネを 知っていたわけです。加えて、ブラヴァツキー夫人に、自分の言葉を相手に信じ込ませてしまう能力、それも、ヒ ュームのような賢明な人物ですら盲信させてしまうほどの能力があったのが、問題なのでしょう。 それはともかく、「マハトマレター」は、天井のスリットを通して落としたり、細工された二重壁に隠していたりした ことがバレ、「マスター」と接触していることを演出するため、人形を担いで歩き回っていたという、お茶目なことを していたこともバレました。そして、このことは当然大スキャンダルとなり、批難の声にブラヴァツキー夫人は激怒 しましたが(←確かに、どちらかと言うと信じ込むほうが悪いかも)、オルコット大佐ら神智学協会の幹部は、組織 を守るため、インドに帰らないよう夫人を説得したので(←内部告発は、夫人のヨーロッパ旅行中を狙ったものだ った)、結局1886年、ブラヴァツキー夫人はドイツに移り、1887年にはロンドンに住み着きました。 実際のところ、ネタバレスキャンダルは、ヨーロッパにおいてはブラヴァツキー夫人の名声を何ら傷つけてはい ませんでした。オカルト信者というのは概して、何でも無批判に受け入れる傾向がありますが、まあ、そういう傾 向に加えて、神智学協会の哲学に引かれる人々は、案外とブラヴァツキー夫人の「マスター」や「霊能力」を、演 出や設定として割り切って見ていたのかも知れません。 ヨーロッパに戻ったブラヴァツキー夫人は、かなり健康を損ねてはいましたが、寧ろインドに居た時よりも活動 的になります。1888年、もう一つの代表作である大著、「秘密教義 The Secret Doctrine」を(恐らく、弟子の手 も借りてですが)書き上げて出版しました。そして、この種の書物としてはベストセラーになります。 そして、雑誌「ルシファー Lucifer」を創刊し、ロンドンには自身の団体「ブラヴァツキー・ロッジ」を設立して、芸 術家や知識人のサロンも主催しました。さらに1889年、「神智学へのカギ The Key to Theosophy」と「沈黙の 声 The Voice of Silence」を出版しますが、1891年5月8日、風邪をこじらせて死亡しました。
端的に言ってしまうと、ブラヴァツキー夫人の思想は、19世紀当時にあっても異様なものであり、アトランティス 人、ムー大陸(痛っ!)、レムリア大陸(大根おろしで手を擦ったくらい痛っ!)等、現代人の目から見ればむちゃく ちゃなことを言っています。アトランティスもムー大陸も完全な創作、レムリア大陸は、キツネザルの分布を説明 するための仮説に過ぎません。 また、ベサント博士がオカルト色をかなり薄めてしまったため、現在の神智学協会の理念は、ブラヴァツキー夫 人の理念を全部反映しているものでもありません。しかし、数多居る19世紀のオカルティストの中で、ブラヴァツ キー夫人は現代に至るも最大の影響力を残しています。そして、同時代に乱立したオカルト団体の大方が消滅し ているのに対し、神智学協会は現在でも盛んに活動しています。これはやはり、その思想が現代にも通じる立派 なものであるからこそでしょう。 僕は残念ながら、「クトゥルフの呼び声」RPGのキーパーに必要な以上のオカルト知識は持ち合わせていませ んし、そもそも信じてもいませんが、神智学協会の現在の思想は、宗教対立のこの時代では大変素晴らしいもの であると考えています。
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