アニー・ベサントその9

アニー・ベサント、インド人となる

 1893年11月16日、ベサントはボンベイ(現ムンバイ)の港に降り立ちました。ベサントは、1875年にインド
政策を批判する「イングランド、インド、アフガニスタン」と言うパンフレットを書いていましたが、インド訪問は初め
てでした。そして、この瞬間からベサントは、インドが自らの祖国だと思い定めるようになり、インドにおいては常
に白いサリーを着用して、万事、インドの風習に従って行動するようになりました(ただし、インドの外ではヨーロッ
パ式でした)。

 神智学協会本部のあるアディヤールに活動拠点を置いたベサントは、インドの方々を旅行して、インド人達の
生の声を聞きました。そして、イギリスによるインド支配とイギリス式の教育システム(←これに関しては好意的な
インド人も多かったのですが)によって大きな影響を受けている、中流階級の人々の生の声を聞きました。
 そしてベサントは、こうした教育のある階層のインド人たちが、インドの歴史と伝統の価値に気がついていない
と考えました。インド政庁は、決して伝統文化を弾圧するようなことは無かったのですが、これは確かに事実でし
た(もっとも、自国の文化に誇りを持てと言ったところで、そういうことは近代市民社会でこその話であり、ムガー
ル帝国のような体制では無理だったでしょう)。

 ベサントはインド各地で多くの講演を行い、ヒンズー教の伝統文化や哲学の持つ知恵の価値について熱弁を振
るいました。ベサントの運動は、同時期のインドの民族主義運動と同じく、インドの教育のある若者達に大きな感
銘を与えました。伝統を重んじる階層の人々は、インドに昔日の栄光を取り戻すべし、と言うベサントの演説に涙
したと言われます。
 ただ、これはジナラジャダーサ氏も認めることですが、白いサリーを着用して、ヒンズー教文化の価値について
語ったとしても、1893年のベサントはあくまで外国人であり、サンスクリット語は読めず、インドの哲学も深く理
解していたわけでもありませんでした。
 要するに、まだ勉強中だったわけであり、神智学協会の仕事でヨーロッパやアメリカ、オーストラリア等とインド
を往来する日々ではありましたが、ベサントはサンスクリット語をマスターして、聖典「バハーバガット・ギータ
Bhagavad Gita」とウパニシャッドの教義を学び、1905年には、バハーバガット・ギータを英訳して出版します。
 また、講演会以外にもベサントは、サンスクリット学者の会合(←サンスクリット語だけで会話する)にも数多く参
加しますが、たとえヒンズー教哲学は勉強中であっても、無神論から現代科学までの幅広い知識と、その雄弁さ
で学者達に強い感銘を与え、誰言うともなしに、芸術と学問の女神サラスヴァティーの化身(Saraswati 弁財天で
す)とまで呼ばれました。当時のインドでは、女性でありながら、主にバラモン階級出身の人々からなるこうした集
会に参加することだけでも大変なことだと思われます。

 そして1898年、ベサントは、インド人の民族意識を高め、民族の誇りを取り戻す一助となりつつ、将来のイン
ドを背負う人材を育成するという目的のため、ヒンズー教の聖地ベナレス(現バルナシ)に、セントラル・ヒンズーカ
レッジ(Central Hindu College, CHC)を設立しました。
 このカレッジは、いわばヒンズー教僧の修行課程とイギリスのカレッジとの融合体であり、毎日90分の祈りと修
行の他に、インドの伝統哲学は勿論、ヨーロッパの哲学と科学も教えられました。また、全寮制としたこと(インド
ではなかなかに画期的なことでした)、そして在学中の結婚を禁止することによって、学生達を、当時のインドの
上流家庭にありがちな、理不尽な「家庭の事情」から守ろうとしました。
 ちなみに、TVシリーズ、「ヤングインディジョーンズ」に、若きインディアナ・ジョーンズがCHCに滞在して、ベサン
ト、クリシュナムルティ、リードビーター(←ベサントをだまくらかす悪質な人物として描かれたらしい)と会見すると
いうエピソードがあるそうです。

 CHC設立時の人員と資金は、イギリスとアメリカ(ジャッジについていかなかった方)の神智学協会から集めら
れ、ベサントも自ら教鞭をとります。しかし、すぐにインドのリベラルなバラモンや藩王達の支援も得ることが出来
たので、運営資金に困ることはありませんでした(と言うか、アニー・ベサントはその生涯を通じて、生活費に困っ
たことはあっても、活動資金に困ったことはあまり無いです)。
 さて、CHCは男子校であり、ベサントの性格からして当然、男子のみの教育と言う訳ではなかったのですが、当
時は、ぼつぼつと女子を受け入れる大学が増えつつあったものの、まだまだ女性が大学に行くのは珍しい時代
で(ベサントの場合、ロンドン大学が女性を受け入れるようになった一年後のことでした)、19世紀のインドで、女
子専門のカレッジを作ると言うのは、さすがのベサントにとっても難しかったようです。しかし、やはりベナレスに
も女学校を設立しており、こちらはフランチェスカ・アランデールと言う人物(アランデール博士の叔母さん)の指導
に任されました(←カレッジになったのはベサントの死後だった)。

 そして1907年、 オルコット大佐が亡くなると、ベサントはその後を継いで、二代目神智学協会会長に選出され
ました。会長職は、一応任期7年ですが、ベサントもそれ以降の会長も死ぬまで在任しています。この後、ベサン
トの指導力で神智学協会はさらに発展して、オルコットが死去した時に11箇所だった支部は、ベサントの死去の
年には47にまで増えました。またベサントは、神智学協会の教育に関する方針そのものを、インド亜大陸におけ
るヒンズー教の民族教育へと転換しました。これは、それまでのオルコットの方針、すなわちスリランカおよびイン
ド亜大陸における仏教復興に反するものと見られたので、仏教徒からの反発もありました。しかし、大きな問題と
はならず、インドではオルコットの時代よりもさらに大きな支持を得ることになりました(その結果、アディヤールの
本部の敷地面積は10倍に増えました)。

 また、この頃にはCHCの運営が順調になっていたので、ベサントは大学の運営から離れることが出来るように
なり、神智学協会全体を動かせるようにもなったので、新たな計画に着手しました。
 まず、インドの神智学系のカレッジや各種学校を統合して「神智学教育財団 The Theosophical Education
Trust」を設立します。さらに、インドの政治的指導者達も交えて、「民族教育促進協会(Society for the
promotion of national education)」を設立し、イギリスの教育制度から独立した、インド独自の教育制度の確立
を目指しました。もっともこの試みは、著名人を集めたが故の反動なのか、意見がまとまらず、まともな成果はあ
がりませんでした(笑)。
 また神智学協会は、ベサントの指導の下、もっと基本的なところで、インドの初等教育の充実を目指す「インド
の子供達 Sons and Daughters of India」運動、将来を担う人材を育成を目指す「インド青年連盟 Young Men'
s Indian Association」等の教育運動も展開しました。また、インドだけに限らず、初等教育の充実を目指す「金
の鎖 Golden Chain (←子供と社会の結びつきの比喩)」運動を、英語圏諸国、スペイン、南米の神智学協会の
ネットワークを通じて展開しました。

 ベサントが書いた神智学協会の教育活動のパンフレットには、彼女の教育に関する考え方が現れています。長
文なので大雑把に内容を要約すれば、

「子供と言えども、その魂は転生を繰り返したものなので、過去の人生の経験によって才能や能力が形成されて
いる。だから、年長者の指導でも、子供はそれほど大きく変化するものではない。年長者は、子供を指導する前
に、子供をよく研究して理解すべきである。」

 とあります。現在の視点から見れば少々電波が含まれて居ますし、当時にあっても、神智学徒以外の人には電
波でした。しかし、子供の部屋は綺麗にしなさい、良い物を食べさせてあげなさいなどと、細かい事ですがまっとう
な事も書いています(もっとも、当時にあっては、実行には生活条件の改善から必要なケースもあったでしょう)。
曲解も覚悟で解釈すれば、要するに、
「教師や親は、教育に当たってはまず子供を理解せよ、そして子供の個性を伸ばせ」
 と、非常にもっともなことをベサントは言っている訳です(先述したクリシュナムルティの教育に関する考え方と
の類似に注意してください)。
 なんでまた、普通に「子供の個性を重視した教育」を訴えられないのかと言うと、そこのところがオカルティスト
の本性なのかも知れません。また、現在でも初等教育は学力重視の詰め込み教育なので、20世紀初頭の世界
では、子供の個性を重視、などど普通に言ったところでマトモに相手にされなかったのは間違いないでしょう。も
っとも、ベサントのパンフレットではもっと相手にされなさそうですが……。

 しかし、ベサントのリーダーシップで、神智学協会は「両親と教師連盟 League of Parents and Teachers」と
言う、名は体を現すそのまんまの運動も展開しており、真剣だったのは間違いないです。
 ただ、電波な故か、ベサントの運動はインド以外ではそれほど成功はしませんでしたし、インドにおいても、初
等教育に関する運動は、CHCほど成功したとは言えません(しかし、独立インドの初代首相となるネルーは、神智
学系の学校に通っていました)。 

 とは言えベサントは、イギリスの教育制度から独立したインド独自の教育制度を確立する努力を続けます。ベ
サントは、CHCをいわばインドの国立大学と言うべき、「インド大学 The University of India」にすべく活動して
いましたが、1911年4月、同じくベナレスで大学設立を計画していたインド独立の志士で、最高位のバラモンを
示す「Pandit」の称号を持つ教育者、マラーヴィア(Pandit Madan Mohan Malaviya 1861-1946)と知り合い、共
同で大学を設立することに合意しました。
 政庁への運動の結果、1915年10月に大学の設置を許可する法案が採択され、1916年2月4日、ベナレス
ヒンズー大学(Banaras Hindu University, BHU)が設立、マラーヴィアが学長に就任しました。この大学は、独立
インドの大学制度の核となることを期待され、ベナレスの藩王に寄付された広大な土地に建設されました。CHC
は、この大学の一部門として統合されます。勿論、現在もBHUは健在であり、今ではヒンズー教の寺院から滑走
路まで備えた総合大学として、インドでは名門大学中の名門大学となっています。そして1921年、ベサントは、
インド教育界に対する多大な功績により、BHUから名誉博士号を与えられました。
 勿論、こうした民族教育の推進という動きは、ベサントや神智学協会だけのものではありません。
「日本が朝鮮でやったみたいに、イギリスはインドに国費で学校を作らなかった」とか言う日本人がいます。公立
学校の設立はインド政庁の所管事項で、イギリス本国の所管ではないという根本的な問題や、そもそもイギリス
における国公立大学とは、有志がまず大学を設立し、その後で公立大学なり国立大学なりと認可されるもので、
日本とは考え方が違うという問題はさておいても、インドでは、イギリス式の公教育を拒否し、独自の教育を推進
する人々が多かったのです。
 後述するティラクも含め、ベサントらと同様の運動を推進するインド人有志は多く居ました。まあ、ベサントには
神智学協会と言う大きな組織があり、自分の新聞も持っていて宣伝にも不自由しないので、いささか活躍ぶりに
は誇張があるかも知れません。しかし、そうは言っても、ベサントの教育に対する貢献が大きかったのは間違い
ありません。当時、南アフリカで活動していた、あのマハトマ・ガンジーも、
「眠っていたインド人を目覚めさせた人」
 としてベサントを大いに尊敬して、事務所にはベサントの写真を飾っていました(他にトルストイの写真も飾って
いました)。


 ただ、こうしたヒンズー教に傾斜した民族教育は、なんとなく、クリシュナムルティを押し立てた「世界宗教」構想
との矛盾を感じなくもありません。しかしまあ、この程度の矛盾、アニー・ベサント博士にとっては何でもないので
しょう(笑)。

マダン・モーハン・マラーヴィア
(Pandit Madan Mohan Malaviya 1861-1946)
 1884年にカルカッタ大学を卒業し、以後、教師として働く。ヒン
ズー語の週間新聞「Hindustan」新聞、英字新聞「Indian Union」
を発行した。
 1909、18、32年と三度インド国民会議議長を務めるが、32年に
は逮捕されている。1939年以降、BHUの終身学長

 さて、インドにおけるベサントの活動は、教育とオカルトだけではありませんでした。
 1918年には、インドで初めてボーイスカウトを設立しました。このためベサントは、ボーイスカウト運動の創設
者であるベーデン=パウエル卿(Robert Stephenson Smyth Baden-Powell 1847-1941)から名誉スカウトコミッ
ショナーに任じられました。スカウトリーダーとしてベサントが目をつけた少年の中には、独立インドの国防大臣も
います。

 ベサントは、ヒンズー教の文化に染まってはいましたが、やはり改めるべきところは改めるべきと考え、女性の
地位向上を訴え続けました。また、家の都合で勝手に決められる少女婚も非難し(実体験しているからか、ブラヴ
ァツキー夫人も強烈な嫌悪感を抱いていた)、16歳になるまでは娘を結婚させないことを誓約する「Stalwarts」と
言う運動を開始しました。これらはほとんど空振りでしたが、インド人女性からの支持はあり、「マザー」と呼ばれ
て慕われ、裕福な女性達から活動資金の寄付を得ることが出来ました(笑)。ベサントの立場や、故インディラ・ガ
ンジー首相、パキスタンのブット元首相のような人のことを考えれば、なんだか奇妙に思えるのですが、未亡人を
夫とともに生きたまま火葬するサティー(Sati 「80日間世界一周」で、アウーダ夫人が危うく殺られそうになったア
レです)や、赤子殺しに代表されるように、女性の地位は高くありません。

 ただ、インド以外では悪名高い、ヒンズー教のカースト制度に関しては、「人には定めがある」と言う、運命論的
な考えからかなり好意的で、ヨーロッパの階級の差と比べて、ヒンズー教のカースト制度は「自然な分類に基づい
ている」と1895年に書いていますし、インドでも、カースト制度に関する批判は全く行っていません。これは神智
学協会の理念に反しているように見えます。
 しかし1899年の著書では、
「今日では、貧しくとも賢明なバラモンではなく、金持ちでバカなバラモンがやたらと目に付く。today we too
often find the man who bears the Brahmana name not poor and wise but wealthy and ignorant. (The
Path of Discipleship 1899)」
 と、カースト制度の頂点に立つバラモン層の堕落を批難しています。
 現実の問題として、ベサントの様々な運動は、バラモンその他の上級カーストの支持によって成り立っていると
言う事実があるため、何か言いたいことがあっても、苦い思いで口をつぐんでいたようです。それに、1899年に
は知り合っていませんでしたが、マラーヴィアを代表格として、尊敬すべきバラモン達もまたベサントの周囲には
多かったので、あんまり大きな声で非難もしにくかったのでしょう。もっとも、この人の性格からして、先ずは女性
の地位向上であり、カースト差別への攻撃は後回し、ということも大いにありえたと思いますが。

 神智学協会の機関紙「ルシファー」の2006年7月号では、ベサントが当初はカースト制度に共感していたこと
をはっきり認めた上で、クリシュナムルティ(家は貧しかったのですがバラモン階級出身です)を養子にしたのは、
カースト制度の外で彼を育てたかったからだ、と、彼女なりのカースト制度への反発だったと結論しています。誤
解を承知で私見を述べさせてもらいますと、カースト制度は容認してもカースト差別には反対、という立場だった
のではないでしょうか? 
  イギリス支配下において、インドは人種差別的な扱いを受けたと言う主張もあります。イギリス本国にも見られる階級差別と混同しているような事例もありますが、確かにそれは事実だったでしょう。しかし、いかに民族の伝統とは言え、人種と同様に一生固定されているカーストの差別を保持していれば、人種差別を批難しても、タチの悪い冗談では無いでしょうか?

 それから、しばしば伝染病に見舞われているインドの状況を憂い、衛生環境の向上を盛んに訴えました。た
だ、人間生来の抵抗力を低下させる、と予防接種には反対しています(笑)。第一次大戦後には、国際連盟の外
郭団体で、連盟の理念の普及を目指す「国際連盟ユニオン The League of Nations Union」のインドでの活動
も支援しました。


19世紀末からのインドの状況

 インドのベサントは、教育分野と並んで、政治面でも功績絶大ですが、そこへ進む前に、当時のインドの状況を
簡単に説明しておかねばなりません。

 いわゆる「セポイの反乱」が終わると、インドでは中央集権化が進み、また反乱の反省もあって、インド人の政
府職員に占める割合が増加して、種々の行政改革、司法改革が行われました。
 また1867年、飢餓防止委員会が発足し、インドではほぼ慢性化していた飢餓への対策が積極的に行われる
ようになりました(ただし、どうにもならない飢饉もありました)。
 労働時間制限の工場法の施行、反乱以来続いていた現地語の出版禁止の廃止(1878年)が行われ、82年に
はより一層の地方自治の促進、83年には、インド人の判事がイギリス人被告を裁くという法律も制定されます
(←これはさすがに反発が強く、あまり守られなかった。まっとうな人間なら、裁かれる心配そのものが無いので
誰に裁かれようと気にしないものですが)。

 それから、中央集権化と通信手段の発達は、インド人を統合する方向に動かしました。イギリスの教育制度の
導入によって英語が普及しはじめます。このことは後で反発も買いますが、当初は、共通語が出来たと概ね歓迎
されました。しかし、この英語の普及によって、知識人層がヨーロッパの文化や政治哲学、勃興しつつあったナシ
ョナリズムや民族主義の影響を受け始めました。
 まず、ヒンズー教で宗教改革運動が起こりはじめます(結果的に言うと、一過性のブームに終わりましたが)。有
名な宗教改革運動としては、キリスト教の影響を受けて、ヴェーダの権威を容認せず、カルマや転生を信じない
と言うブラーフモ・サマージ Brahmo Samaj教団と、サラスヴァティのアーリヤ・サマージ運動が挙げられます。
 そしてサラスヴァティの名前が挙がっている以上、こうした宗教改革運動の発展には、神智学協会の影響は無
視できません。
 神智学協会の功績として、インド在住のイギリス人達に、インドの伝統文化に対する尊敬の念(神智学協会の
説く内容が、厳密に正しいかどうかは別として)を植えつけた点は無視できないでしょう。
 またこの時代、インドの伝統文化の偉大さが、教育を受けたインド人の間で見直されるようになり、インド人とし
ての民族意識と誇りが育まれていくことになりますが、この過程においても、神智学協会とベサントの功績は大き
いです(繰り返しますが、一般庶民レベルでの民族意識とか民族の誇りと言うものは、自由な市民社会でこそ育
つものであり、例えばムガール帝国の支配体制の中で生まれたかは、はなはだ疑問です)。

 政治面でも、インド人による権利主張の動きが大きくなり、1876年、官僚出身のインド人、スレンドラナート・
バネルジーが、政治問題を討論するため「インド人協会」を設立します。それから1885年12月、鳥類学者で、
インド政庁の元行政官でもあったアラン・オクタヴィアン・ヒューム(1829-1912)が、インド政庁に対してインド人の
不満を訴えるための会合として、インド国民会議(Indian National Congress)を開催しました。これこそ、現代イ
ンドの最大政党で、中国共産党に次いで世界で二番目に大きい政党でもある「国民会議派」の前身です。しかし
この頃は、毎年一回、年末に4日ほど会合を持って政治的問題を話し合うだけの存在でしかありませんでした
が、インド政庁は、これが苦情処理機関として働くことを期待しました。
 第一回会合の参加者は72人しかおらず、ヒンズー教徒とイギリス人の弁護士、教育者、新聞の発行人が中心
であり、イスラム教徒は二人しかいませんでした。これは、当時のイスラム教徒達のリーダーがサイード・アフマッ
ド・ハーンが、なぜかイスラム教徒の出席を嫌がったためです。86年の第二回大会の出席者は440人に激増し
ましたが、イスラム教徒の参加者は33人しかいませんでした。結局、インド国民議会とイスラム教徒のミゾは埋
まることなく、最終的にはインド対パキスタンの現在の図式に至ります。

 これをイギリスの「分割統治」の成果であると批難する向きもありますが、しかし、イギリスによるインド支配が
完成するまで、ヒンズー教とイスラム教の対立が全く無かったとでも言うのでしょうか?互いに平等に扱われるこ
とを望んでいない二つのコミュニティを、いったいどう扱えば良かったのでしょうか?

 1899年から1905年までのインド総督であるカーゾン卿は、アフガニスタン戦争でしこたま失敗を繰り返しま
したが、内政面では、土地を担保とする高利貸しからインドの自作農を保護し、信用組合や農業銀行の設立(←
ヒュームが官僚時代に訴えていたことです)、農業技術改良のための農務省設立、商工省の設立、犯罪捜査部
門の強化、教育、飢饉などの調査委員会の設立、さらにインドの史跡保護(←正直言って、当時のインド人の多く
は気にしていた様子がない)等の、インドにとって有益な改革を行いました。
 しかし、カーゾン卿という人物は、どうやらあまりまっとうな人物ではなかったようです。インド人だけを蔑視して
いたのではなさそうですが、なんと言うか、かなりイヤなタイプの上流階級の人間で、高慢で鼻持ちならないタイ
プで、インド人には勿論、イギリス人にも不人気でした。
 そして1905年、本来はベンガル州の行政の効率化を目指していた「ベンガル分割案」が、インドにおける反英
運動の中心だったベンガル人を地方選挙区で少数派にするため、分割したベンガル州の断片を他の州に編入し
ようという陰謀に発展したため、大騒動になります。そして、バール・ガンガーダル・ティラク(Bal Gangadhar
Tilak 1856-1920)を中心とする過激派が台頭し、「スワラージ Swaraj (自治)」「スワデーシ Swadeshi (国産品
愛用)」、イギリス製品のボイコット、民族教育の4つの目標が採択されました。
 この不満増大に対抗すべく、1906年、政庁の御用団体として、イスラム教徒の「ムスリム連盟 Muslim
League」が設立されます(ベンガル分割案に賛成でした)。しかしこの団体も1913年に親英派が追い出され、パ
キスタン建国の父、ジンナーを中心とする自治主義者が主導権を掌握して、インド国民会議と協力してゆくことに
なります。 

 とは言え、こうした不満に対し、新任の総督ミントー伯爵(在任1905-1910)は、インド担当国務大臣モーレー
卿と共に、インド人の要求にこたえる制度改革を行い、立法参事会の定数増員と権限強化が行われ、イギリス本
国のインド担当国務大臣の参事会にもインド人が採用されました。また、イスラム教徒の要求に従い、宗教間の
代表制の原則が制度化されます。
 ただ、参事会はあくまで諮問機関であり、議会の代わりになるものではなく、全体的に見て、改革はインドの社
会不安の増大を阻止できませんでしたが、モーレーとミントーの改革後、インド人の不満は和らぎました。

 しかしその間、インド国民会議では、ラール・バール・パールと呼ばれるティラク一派の過激派三人組(Lala
Lajpat Rai 1865-1928, Bipin Chandra Pal 1858-1932, とティラク名前の語呂合わせ)と、ゴパール・クリシュ
ナ・ゴーカレー(Gopal Krishna Gokhale 1866-1915)の穏健派の対立が深刻になります。ティラクの暴力的傾向
が明らかになったことと、なんだかんだ言いつつ、ゴーカレー一派が親英的だったというのが対立の背景です
が、1907年、議長の選任を巡って過激派と穏健派はついに激突し、警官隊も出動する壮絶な喧嘩騒ぎになり
ました。このため、過激派はインド国民会議から事実上、締め出しを食うことになりました。
 この後、全般的にインドとイギリスの関係は良好となります。1910年度のインド国民会議では、創設以来初め
て、次期総督ハーディング卿に対して歓迎の辞が述べられました。また、1911年末、イギリス国王(兼インド皇
帝)がインドを訪問し、ベンガル分割令の撤回を宣言したため、社会不安は和らぎました。

 そして第一次世界大戦が始まると、極少数の過激な、そしてドイツ帝国の支援を受けた暴力主義者を除いて、
インドは国を挙げてイギリスに協力しました。まあ、イギリスの統治下に留まることはそれほど悪いことでは無い
ように思われたし、また、「エイモン・デ・ヴァレラ」の項でも説明したとおり、ドイツ帝国が、シュリーフェンプランに
基づいて、単にフランスへの通り道である、と言うだけで小国ベルギーを踏みにじったのを見れば、イギリスのよ
うな大国の庇護の下にあるのも悪くないと考えられたのでした。しかしまあ、早い話が、戦争で手一杯のイギリス
に、せいぜい協力して恩を売る、という考えもあったのです(笑)。
 そして1916年には、インドをオーストラリアやカナダのような自治領にすることを最終目的とする「自治連盟
Home Rule League」が設立され、犬猿の仲だったインド国民会議とムスリム連盟も、「ラクノー協定」で共闘する
ことになり、戦争が終わった後の自治を求めて活動しはじめました。


 しかし、どんな場所、どんな時にも必ず困った人々は居るものです。1890年代以降、インドでは過激な暴力主
義も台頭していました。あくまで、ごくごく少数の血の気の多い人々の運動ではありましたが、こうした暴力主義の
中心人物がティラクでした。このティラクと言う人は、後に「ローカーマニヤ(民衆の尊敬の的)」と呼ばれるように
なりますが、19世紀末から20世紀初頭の時期では、ただのアナーキストの暴力主義者でした。しかもティラク
は、マイケル・コリンズなどと違い、ただ扇動するだけで実際のテロ行為には計画にすら関わらないと言う、最悪
な部類の暴力主義者でした。勿論、彼がインドを愛し、インドの為を思って行動したのは間違いないのですが、彼
が「スワラージ」を唱えても、穏健派が受け入れなかったのは、至極当然のことと言えます。

 ティラクは、バラモン階級の教師の家庭に生まれ、天文学からサンスクリット語まで幅広い教養を持ち、プーナ
市で私塾を経営しつつ、現地マラティー語の新聞「ケーサリー kesari (ライオン)」を発行して、青年層の政治意
識と民族意識の覚醒に務めていました。しかし、1896年から99年にかけてデカン地方を襲った、飢饉と疫病へ
の政府の無策(手の打ちようがあったかどうかは別として)に対する反発から、イギリス人官僚の暗殺を呼びかけ
ます(その結果、防疫担当のイギリス人も殺されました)。
 このため、ティラクは扇動罪で重禁固18ヶ月の刑を受けますが、その後も、ティラクの影響を受けたバラモン
達がアナーキスト運動(と言うかテロ集団)を組織し、ロンドン、パリ、サンフランシスコにまで拠点を置いたテロ活
動が繰り返されました。また、ベンガル分割案への不満により、ベンガル州でもアナーキズムが広がり、イギリス
系の中等学校と大学の出身者を中心とするベンガル人が多数、テロ組織に参加しました。

 1908年にはテロ集団が摘発され、35人が逮捕されます。しかし、口を割った仲間が獄中で暗殺されたため、
有罪判決を受けたのは15人だけでした。しかも、裁判中に検察官や警察署長が暗殺されています。こういうこと
をやる連中には、もはやいかなる弁護も出来ません。ティラクも、「ケーサリー」に掲載した暴力的な記事がテロ
を扇動したと言うので、今度は6年の刑に処されました。
 しかし、1909年から1914年までの間に、テロリズムはイギリス本土にまで拡大しました。1909年7月、イン
ドの政務次官ウィリー・カーゾンがロンドンで暗殺されました。1910年には、アーメターバードでミントー伯爵夫
妻の暗殺未遂事件が発生し、ナシクの県治安判事が射殺されるなど、テロや暗殺が続発しました。1912年に
は、総督ハーディング卿が爆弾テロで重傷を負ってしまいます。
 第一次大戦の間も、あからさまにドイツ帝国の支援を受けた、パンジャブ州のガダル党(Ghadr Party 叛乱の
意味)や、ベンガルのテロリズムがありました。
 ベサントがインドの政治問題に積極的に関与するようになったのは、こうした暴力主義が蔓延することに危機
感を抱いたからでした。

アラン・オクタヴィアン・ヒューム
(Allan Octavian Hume 1829-1912)
 
  ケント州出身。1849年からインドで公務員となる。役人生活の傍ら、インドに生息する
の鳥類の研究を続け、インドでは「鳥類学の父」として知られている。セポイの乱鎮圧に従
軍した功績で、1860年にバス勲章授賞。
 1863年から教育行政に携わり、任地のインド北部イターワ市周辺に、非行少年の更生
施設を含めて200近い学校を設立している。また、農民を守るための政府運営の農業銀
行の設立や信用組合の設立を訴えた。上司や政府への批判を恐れない人物であったため
に左遷され、1882年に公務員から引退した。1885年、インド国民議会を設立。
 シネットの「オカルトワールド」を読んで神智学協会に入会したが、1885年以降は、イン
ド国民会議が忙しくなったので、協会の運営には関与していない。
 
 
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