アニー・ベサントその6

ベサント、宗教を起こそうとする

 1888年、ベサントはSDFに加入して、フェビアン協会との掛け持ちで著述や講演活動を行うようになりました。
最初は嫌悪感すら抱いていたSDFに加わったのは、前述のとおり、ウィリアム・モリスの影響でマルクス主義に理
解を持つようになったからのようですが、どうしてモリスのSLに入らなかったのかはよく分かりません。ただ、ベサ
ントという人は、加わったいかなる組織においてもすぐに頭株にのし上がるのですが、SDFではそうはしていませ
ん。恐らくは片手間だったのでしょう。

 さて、この頃になるとベサントは、社会主義研究で独自の境地に立ち至ったようです。ベサントは、社会主義が
解く平等主義と、そこから来る相互扶助の精神こそが、旧来の宗教(と言うか、はっきりキリスト教)に代わる新た
な宗教に相応しいと考えるようになっていました。ベサント自身、経済学をあまり勉強していないと述べています
が、恐らくはそのためか、社会主義の経済的側面には、実のところあんまり期待はしていなかったようです。それ
よりもベサントは、社会主義運動とは単なる労働階級への搾取を終わらせる経済運動ではなく、「無欲な兄弟愛
unselfish brotherhood」から来る「深遠からの道徳的な衝動 a profound moral impulse」だと考えるようになり
ました。

 1888年2月、ベサントはナショナル・リフォーマーの自分の連載記事「Our Corner」で、仲間たちと語らったと
言う、「社会的義務を教え、高潔さを維持し、真の民主国家を建設する」ための新しい教会、「それまでの神への
奉仕が、人々に対する奉仕となる」 新しい友愛の精神(Brotherhood 教団と言う意味で使っているのか?)を創
設すべきだという意見を掲載しました。
 電波が入っているように聞こえるかもしれませんが、イギリスには「キリスト教社会主義」と呼ばれる、キリスト教
精神でもって理想社会を実現しようとする社会主義思想が一時流行していたことがありました。ベサントの思想
は、まあ、アプローチが反対のキリスト教社会主義だと考えれば良いのでしょう。キリスト教社会主義はあまり盛
り上がらず、60年代にはいったん消滅していたのですが、1880年代に入ると、社会主義全般の盛り上がりと
共には復活の兆しを見せていました(ただし、マルクス主義と対立していたし、左右両方からの良いとこ取りのい
い加減なところがあって、やっぱりあまり盛り上がらなかった)。
 まあ、ベサントは時流に乗ったということかも知れません。そして、ベサントの思想も全く支持を集めることはあ
りませんでしたが、要は、ベサントがあくまで善意を持って行動したということです。この後、ベサントは労働組合
運動に関わっていきますが、それまでの労働組合が主として賃金の問題を目標としていたのに対し、ベサント
は、賃金は経済全般に関わる問題なので労働組合がコントロールできるものではないと考えており、労働組合
は、相互扶助による「新しい友愛の精神」を実践するのに有効だと考えていました。

 ヴィクトリア朝の時代、中流階級以上では「自助 self help」の精神がもてはやされていました。しかし、この「自
助」にはある程度の資産が必要ではあり、これが貧しい労働階級への蔑視につながったと思われるのですが、
ベサントの発想は、こうした時代の精神の先を行く、社会福祉の思想だといえるでしょう。
 また、ベサントの宗教に関する考え方が変わっているのがわかります。キリスト教の神に限らず、宗教そのもの
が害悪だというブラッドローの主張にベサントは賛同していたわけですが、どうやら「理性と科学に基づいた新た
な信仰」というホリオークの主張に宗旨替えしたようです。
 で、ベサントが語らった仲間と言うのは、キリスト教社会主義復活のパイオニアと見なされていたスチュワート・
ヘッドラム牧師(Stewart Duckworth Headlam 1847-1924)と、ウイリアム・ステッドというジャーナリストです。そ
してベサントは、ステッドとともに「連携 -人類に仕える者へのジャーナル- "The Link -A Journal for the
Servants of Man-"」という新聞を主催して、自らの主張を展開するようになります。ナショナル・リフォーマーの
編集を辞めたのはこのためか! と思わなくもないのですが、その後もナショナル・リフォーマーでの連載「Our
Corner」も続けています。
 
 さて、ここで登場したウィリアム・ステッド(William Thomas Stead 1849-1912)とは、当時ペルメル・ガゼット紙
(←ハインドマンやバーナード・ショーもお世話になった新聞です)の編集長を務めていた、大物ジャーナリストで
す。彼は社会主義者ではなく(やや社会主義者的ではありますが)、SDFともフェビアン協会とも関係していなかっ
たのですが、労働問題や女性の権利擁護に熱心に活動していたので、それが縁でベサントと親しくなったようで
す(ステッドは「女性にも男性と同じ給料が支払われるべきだと主張した最初の男性新聞人」であることを誇りにし
ていました)。
 また、ステッドは牧師の息子で熱心なピューリタンだったのですが、これが恐らく、ベサントの主張に賛同した要
因なのでしょう。ついでに言うと、ステッド本人にその気は無かったのですが、彼はある意味、ブラッドローと同じく
らいの影響をベサントに残した人物であります。ただし、ブラッドローと違ってかなりな悪影響を、いや、はっきりと
ベサントの人生を歪めてしまった気もするのですが、これに関しては後述します。

 創刊のすぐ後、「The Link」の編集にはもう一人、ヘンリー・ハイド・チャンピオン(Henry Hyde Champion 
1859-1928)という大物ジャーナリストが加わりました。彼はハインドマンに大枚2000ポンドもポンと寄付した
SDFの創設メンバーであり、SDFの機関紙「ジャスティス」の編集主幹(つまりブラッドローの悪口を書いていた人)
だったのですが、まず、ハインドマンと共謀して保守党から裏金を取ったことで、SDF内の信頼を失っていまし
た。
 保守党はSDFの候補者に金を出すことで自由党と競わせ、リベラル派の票を割ろうと考えたのですが、問題と
なった二つの選挙区両方でSDFが勝っています。しかし、「見事な勝利」とは誰も思ってくれなかったのでした。お
まけに、彼はキリスト教社会主義に賛同する熱心なキリスト教徒だったので、実はブラッドロー的無神論者だった
ハインドマンと意見が合わず、またハインドマンの暴力革命論には最初からついていけなかったので、1887年
にSDFを離脱してフェビアン協会に加入し、自分が創刊した新聞で八時間労働キャンペーンを行っていたところ
でした。

 なお、チャンピオンは、ベサントには敬意を払いつつも、彼女が労働者の政治参加推進に熱心ではない(←ベ
サントは、そもそも女性の参政権から考えなきゃいけないので男性と立場が違うのですが)と不満を抱き、後に袂
を分かちます。
      
ウイリアム・トーマス・ステッド 
(William Thomas Stead 1849-1912)

 牧師の息子で厳格なピューリタンだった。若い頃からジャーナリストを志し、1871年、ノーザン・エコーという新聞の編集者となる。1880年、ペルメル・ガゼットに移り、1883年から編集長となり、自由党や救世軍を支持し、公教育の充実、女性の投票権、アイルランド自治法成立などを訴え続けた。
 女性の人権の擁護者であり、ベサントを初めとする女権運動のリーダー達とも親しかった。
 19世紀後半の知識人に良くあることだが、心霊主義に興味を持っていた。そして、ビリーバーだったのでその方面の著作もいくつかあり、心霊主義に懐疑的だったベサントに影響を与えている。加えてステッドは、ベサントが神智学協会に入会するきっかけも作っている。

  19世紀末より反戦運動に身を投じるようになり、1912年に反戦運動の国際会議での講演でニューヨークに招かれるが、アメリカに到着することも、イギリスに帰って来ることも無かった。タイタニック号の乗客だったからである(泣)。
       ヘンリー・ハイド・チャンピオン
(Henry Hyde Champion 1859-1928)

 インド出身のジャーナリスト。陸軍の将軍の息子であり、軍人の道を進んで、砲兵将校として第二次アフガン戦争に従軍した。腸チフスの療養中に何かを悟って社会主義者になり、1882年、エジプトでの任務に疑問を感じて軍を辞めて、ジャーナリストとなる。そして、キリスト教社会主義者の信奉者となり、新聞「Christian Socialist」の編集者となる。その後、ハインドマンに賛同してSDFに入り、機関紙「ジャスティス」の編集主幹となるが、1887年、SDFを離脱してフェビアン協会に加わった。
  後に独立労働党の創設メンバーとなる。











 

マッチ工場のストライキ

 1888年6月、ベサントは、「マッチガールストライキ Matchgirls Strike」と呼ばれる労働運動を指導し、イギリ
ス社会に多大な影響を残しました。マッチガールと言っても、過酷な労働の果て、寒さでトリップ楽しい夢を見ながら死んだ少女でもなければ、「一箱ン万円」のマッチを売る少女でもありません。本物のマッチを製造する女工さん達です。どうして「一箱ン万円」に線を引かないかと言うと、貧しさゆえ、当時の女性労働者には冗談ではすまない事実だからです。売春行為の実態を調査したステッドは、煙突掃除が本業の13歳の女の子(コラ!)が5ポンドで買えたと嘆いています。もっとも、5ポンドとは現代日本の感覚では10万円を越す大金であり、身持ちが固くても、貧しければグラつく金額だと思いますが…。さらに言うと、「切り裂きジャック」事件がおきたのは、1888年9月から11月にかけてのことです。

で、話がそれたので元に戻します。
 1888年6月15日のフェビアン協会の会合で、クレメンティナ・ブラック(Clementina Black 1854-1922)という
女性が、女性労働者の賃金の不公平について演説し、消費者の組織を作って、そうした不公平な賃金を支払う
企業の製品に対する不買運動を起こすべきだと演説しました。
 すると、それならばと、チャンピオンとハーバート・バロウズ(Herbert Burrows 1845-1921 当時、ベサントの
恋人だったらしい)が、イギリスにおけるマッチの最大手、ブライアント・アンド・メイ社(Bryant & May)は、株主
達に20%を超える配当金を支払っている一方、主として若い女性からなる工場の労働者に対しては、マッチ箱1グ
ロスごとに2.25ペンスしか払っていないことを報告し、そこのマッチに対する不買運動を起こそうと提案しました。
 で、この提案は満場一致で受け入れられましたが、ベサントはブライアント・アンド・メイ社について大いに興味
を持ち、バロウズとともにそこの女性労働者達と面談して実態調査を行い、その結果を「ロンドンの白人奴隷」と
題する記事にまとめて、「The Link」に掲載しました。

「ブライアント・アンド・メイ社、現在はlimited liability companyだが、この会社は昨年、株主に23%の配当金を支
払った。2年前は25%だった。そして、元は5ポンドだった株価は、現在18ポンド7シリング6ペンスである。過去に
支払われた最高の配当は38%だった。では、どのようにこのモンスター的な配当を支払う金が生まれてくるのか
お見せしましょう。(White slavery in London 1888.6.23 The Link)」
 との一文で始まるこの記事で、ベサントは、ブライアント・アンド・メイ社の工場で働く若い女性達の労働条件に
ついて告発しました。

 労働時間は夏は朝6時半、冬は朝8時から夕方6時まで(記事には書かれていませんが、実際には常に14時
間ほど働かされていたらしい)、給料は主に歩合給で、部門によって少々差はあるものの、平均して週4シリン
グ、つまり年12ポンドくらいしかなく、労働者の年収が20-50ポンドだったこの時代、かなりの安月給だと言えま
す。ベサントは、典型的な例として妹とともに働く16歳の少女を紹介し、姉妹の収入は週8シリング、しかしアパ
ートの家賃が週2シリングで、生活はカツカツだと述べています。なお、公平を期すためか、主として既婚女性か
らなる日給制の職員は週10-13シリングの給料をもらっていると書いていますが、ほんの数人しかいなかったよう
です。
 そして、この安い給料に対し、作業上のミス、私語、マッチの発火(危険ですが、後述のように黄燐マッチなので
全てを作業員の責任にするのは酷)等、なにかにつけて3ペンスの罰金を取られ、遅刻すれば半日分の給料が没
収されました。まあ、こういう罰金制度は当時としては仕方の無いことなのかも知れませんが、運用が公平ではな
く、3ペンスが6ペンスになったりしていたようです。また、危険な機械(何の機械かはわかりませんが)に指を挟ま
ないように、回りのネットを張った少女は、「お前の指なんか気にするな」と1シリングの罰金をとられ、しかも、実
際に指を切断する事故が発生すると、被害者は、何の補償も無しに解雇されました。そして、全て男性である現
場監督達の、女性労働者への暴力も日常的でした。
 さらに、社長であるセオドア・ブライアントの悪行も続きます。先ず彼は、「休みを与える」と言って、工場を週に
一日閉鎖しました。勿論、有給休暇ではなく、その分収入は減ってしまうわけで、工員達は「休みは要らない、仕
事と給料をくれ」と不満を述べています。まあ、ここまでは勘違いの善意かも知れませんが、グラッドストーンの業
績を記念する銅像と公園を作るための資金、として工員達の給料から週1シリングずつ天引きし、しかも、銅像と
公園が完成した後でも、1シリングの徴収を続けていたりしているので、セオドア・ブライアントはやはり、あくどい
人間だと言わざるを得ないようです。

 さて、この「ロンドンの白人奴隷」が「The Link」に掲載されると、ベサントは脅迫を受けたと言っています。やは
り、そういうことをやる連中にはいかがわしさを感じずに居られません。そして数日後、「The Link」の事務所に、
ブライアント・アンド・メイの女工さんたちが集団で押しかけてきました。
 何事かと尋ねるベサントに対し、女工さんたちが言うには、会社は女性達に対して、記事の内容は誤りであり、
自分達は待遇に満足している、という内容の書類への署名を強要しようとしたのでした。こういうことをやる人々
には、やはり、いかがわしさを感じずには居られません。しかし女工さんたちは、
「あなた(ベサント)は、私たちのために堂々と真実を述べてくれた。だから、私たちはあなたを裏切らなかった。」
 と文書への署名を拒否しました。そのため、署名拒否を呼びかけた少女が解雇されたので、皆でストライキに
打って出たのです。しかし、その後どうすべきか分からなかったため、ベサントのところに何とかしてくれと押しか
けてきたのでした。つまり、誤解も多いですが、このストライキはベサントが扇動したものではないのです。
 当のベサントも、ストライキの指導者なんてやったことは無いのですが、頼まれてイヤとは言えない人なので、
なし崩し的に担ぎ出され、バロウズにも手伝ってもらって、急遽、イギリスで最大の女性の労働組合「マッチメーカ
ー組合 Matchmakers Union」を結成すると、ブライアント・アンド・メイの1400人の女性労働者を率いるストライ
キの指導者となったのでした。

 ベサントはこのストライキに関して、
「それまで生きてきた中で、この時ほど働いたことは無かった」
 と述懐しています。
 バロウズと共に、新聞に記事を書いたり、集会を開いたりと言うよくある手段だけでなく、ブライアント・アンド・メ
イのマッチの不買運動を呼びかけたり、さすがはベサント博士と言うべきか、ブライアント・アンド・メイの株を持っ
ている議員の選挙区で会社の非道を訴え、議会を動かしました。また、慈善団体を通じて、ストライキ中の女性
たちの生活費を確保することも忘れませんでした。
 「タイムス」などの保守的な大新聞はベサントを扇動者と非難し、またブライアント・アンド・メイも、ストライキ参
加者について「くだらぬ話に毒された」連中だとコメントしたのですが、ベサントとマッチメーカー組合は、フェビア
ン協会やSDF、既存の労働組合は勿論のこと、非社会主義者のリベラルや救世軍などからも強い共感を得まし
た。
 そして、ブラッドローが議会でこの件を取り上げ(←ベサントと仲が悪くなっても、やはり正義の人だった)、また、
シドニー・ウェッブがリベラルクラブを通じて議会を動かしたので、下院によるブライアント・アンド・メイの労働条
件に関する調査も実現しました。
 三週間のストライキの後、ブライアント・アンド・メイは降参し、労働時間短縮、賃上げ、罰金制度の廃止、解雇
した女性の再雇用を約束しました。女工さん達の勝利です。

 ベサントの自伝によると、取材中、インタビューしたブライアト・アンド・メイで働く二人の少女が、
「誰かが私たちを助けてくれるときが来た」
 と言ったのに対して、ベサントは「いったい誰が?」と、多くの人々は善行を成したいと思っているが、実際にそ
のために努力する人間なんてほとんど居ない、とイヤなことを言い、
「誰かが何とかすべきだ。しかし、なんで私が? Some one ought to do it, but why should I ?」と「誰かが何と
かすべきだ。だから、なんで私じゃない?Some one ought to do it, so why not I ?」の二つのフレーズの間に
は、何世紀分ものモラルの進化の隔たりがあると言ったらしいです。
 そして、女性労働者達とベサント、そしてバロウズも、「なんで私じゃない?」の精神で行動したわけです。こうい
う人々に対しては常に、「偽善」とか「施しの精神で人を見下している」とか、さらに現代では「プロ市民」とかいう
批難が付きまといますが、偽善だろうが施しだろうがプロ市民だろうが、何も行動しないよりはマシです。ベサント
の言葉は、なかなか耳にイタイです。

 
マッチガールストライキ委員会の人々

ハーレム状態(爆)の男性がハーバート・バロウズで、その右側の黒い襟の女性がベサント。

ハーバート・バロウズ(Herbert Burrows 1845-1921)
 セキュラリズム協会員で、ベサントとは古い知り合いだったが、根っからの社会主義者だっ
たため、最初は仲が悪かった。しかし、産業教育の重要性を訴えてロンドンの教育委員に立
候補したのを機にベサントと親しくなり、後には彼女のオカルト趣味にまで付き合った。ニュー
ユニオニズムの立役者の一人。

 さて、ここでベサントは、黄燐がもたらす健康被害の恐怖を知ることになります。

 現在のマッチは、マッチの頭の部分(頭薬)の塩素酸カリが、箱の部分(側薬)にこすられる摩擦によって、頭薬
の塩素酸カリが分解される化学反応がおき、側薬の赤燐から火花が出て、これがマッチ棒に含まれて居るパラ
フィンに燃え移ります。つまり、燐そのものが燃えているわけではありません。そして、このタイプのマッチは、18
27年に、イギリスの化学者ジョン・ウォーカーによって発明されていましたが、火付きが悪くて実用になりません
でした。その後、1830年にフランスで頭薬に黄燐を使った、どこにこすりつけても簡単に発火するマッチが発明
されたので、これが主流になります。
 黄燐とは、燐の同素体であり、本来は白燐なのですが、表面に赤燐の皮膜が出来て黄色っぽく見えるので、黄
燐と呼ばれます。問題は、この白燐もしくは黄燐が猛毒であることで、急性中毒による致死量は0.02gから0.05g
しかなく、まあ、黄燐マッチの頭薬を自殺に使うのは自分の責任だとしても、幼児が舐めて死んだり、毒殺するの
に使われたりしました。
 また、黄燐は簡単に自然発火します。さらに、自然発火でなくても、どこにこすり付けても発火するぶん、ちょっ
としたことで燃え出すので、それで火事になることも多々ありました。かなり問題ありです。

 当然、製造に携わる人々も危険でした。黄燐は水やエタノールにほとんど溶けないため、皮膚についたら洗っ
ても落ちず、それどころか簡単に内部に浸透して、骨に化学熱傷を負わせます。夜になると燐光を発する人まで
居たそうですが、なんであれ、19世紀の医療技術では治療不可能です。さらに、黄燐はにんにくのような臭いが
します。つまり、よろしくない成分として気化しているわけであり、黄燐マッチ製造に関わる労働者には、脱毛や黄
疸などの慢性中毒が多々見られました。そしてさらに、気化した黄燐を口の粘膜を通して吸収することにより、
「フォッシージョーPhossy jaw」と呼ばれる、顎の骨が壊死脱落して膿が溜まり、最終的に死に至る病気が多発し
て、多くの死者を出しました(もちろん、日本でも多数の死者が出ています)。
 こういう職場なら、再雇用はありがた迷惑な気もしますが、当時、女性の間で工場勤めは結構人気があったよ
うなのです。新紀元社の「メイド」には、雇用層が労働階級にまで拡大した結果、社会的地位が低下し、常にお仕
着せ着せられ、かつ家事の手伝いと言う性質上、労働時間が長くて外出がままなら無いメイドに比べて、工場労
働は人気があったとあります。工場勤めも楽ではありませんが、まあ確かに、毎日工場帰りにちょっと寄り道、は
可能です。

 で、話がそれ始めたので本題に戻しますが、「ロンドンの白人奴隷」の中で、ベサントは黄燐の健康被害につい
ては触れていません。どうやら、この時は知らなかったようです。黄燐の毒性はこの時既に社会問題化していた
し、またベサント自身も、鉛を扱う労働者の健康について意見していたりして、労働衛生について無関心だったわ
けではないようなので、これは奇妙なことであり、ベサントもその事を恥じるコメントを残しています。しかし、知っ
てしまった以上ベサントは行動し、救世軍が主導していた黄燐規制のキャンペーンに加わりました。

 1891年、救世軍はイーストロンドンに工場を立て、頭薬に毒性の無い赤燐を使ったマッチの製造を始めまし
た。このマッチは、「暗黒のイングランドの灯り Lights in Darkest England」というイヤな商品名でしたが、よく売
れて、年間600万箱製造されました。英国のマッチの頭薬が今でも赤く着色されているのは、このマッチの名残
らしいです。ちなみに、救世軍の給料は1グロス当たり4ペンスで、ブライアント・アンド・メイよりも高給でした。

 とは言え、黄燐マッチの規制には、「自由貿易」とか「競争力の維持」の観点から産業界からの反発が強く、黄
燐マッチの製造が禁止されたのは20世紀になってからでした。1855年に、スウェーデンマッチ社(名前のとおり
スウェーデンの会社)が、現代のものとほぼ同じマッチを商品化していましたが、スウェーデンマッチ社は自社の
製法を秘密にして、それをタテにマッチ業界の世界制覇を企んだりしたモノですから、ややこしくなります(なお、
実際にスウェーデンマッチ社は世界制覇を達成しました。一時の勢いは無いものの、現在もマッチ製造の一大コ
ングロマリットです)。
 ようやく1904年に、スイスのベルンで、黄燐マッチの製造禁止に関する国際条約が締結され、イギリスでは1
908年に黄燐マッチの製造が禁止されました。ちなみに日本では、マッチが輸出に占める割合が大きかったた
めベルン条約には参加せず、1921年まで黄燐マッチの製造が続けられました。

 なお、ブライアント・アンド・メイは1901年に黄燐マッチの製造を止め、その後も長くイギリスにおけるマッチの
名門として君臨しましたが、ライターの普及とスウェーデン製マッチには勝てず、外国産マッチに保護関税までか
けてもらって頑張っていましたが、1995年、ついにスウェーデンマッチ社に吸収されてしまいました。
(参考: 田中マッチの燐寸博物館 ttp://www.tanaka-match.co.jp/ マッチの世界 ttp://www.match.or.jp/)


 それから、マッチガールストライキの成功と、マッチメーカー組合の結成は、現代イギリス社会の形成に極めて
大きな影響を残しました。

 1888年ごろ、労働組合に加盟していたのは、いわゆる知的労働者や、織物工業の職人、炭鉱夫のような基
幹産業に従事する人など熟練労働者中心で、労働人口の5%程度でした。しかも、こうした人々は、イギリスの階
級社会では、中流階級もしくは中流階級に近い労働階級に属していたので、労働組合運動とは、社会主義者の
間でも階級運動的だと見なされていました。
 ヴィクトリア朝のよくある論法に、「無知な○○には、××なんて出来はしない」と言うのがあります。例えば、労
働階級の人が誰かを毒殺したりすると、「無知な労働者に、毒物の知識なんてあるはずが無い」というのが必ず
弁護側から出ました。まあ、現代でも同じような論法を使う人が居ますが。
 で、どうして貧しい非熟練労働者に労働組合がなかったのかと言うと、圧倒的に数が多く、かつ貧しくて労働時
間が長いため、組合活動に時間が持てないという理由の他に、概して中流以上の出身である労働運動のリーダ
ー達に、「非熟練労働者に組合運動なんて出来ない」という思い込み(←偏見と言うほど悪質なものではないでし
ょう)があったからだと思われます。

 しかし、ベサントとバロウズのマッチメーカー組合は、非熟練労働者によるイギリスで最初の労働組合でした(女
性による労働組合は既にありました)。これで、非熟練労働者の労働組合結成もやれば出来ると分かったので、
これに追随する動きが出ます。
 翌1889年、マッチガールストライキにヒントを得たベン・ティレット(Ben Tillet 1860-1943 フェビアン協会員で
SDFの党員)、ジョン・バーンズ(John Burns 1858-1943 SDFの党員)、トム・マン(Tom Mann1856-1941 この人
もSDF)などの労働組合運動家が中心となり、当時は、安い賃金の時給制だったロンドン港の港湾労働者を組織
化し、最低時給6ペンス、および最低4時間の連続勤務を求めたストライキを起こしました。このストライキにはお
よそ一万人の港湾労働者が参加します。
 雇用側は、労働者達が飢えて仕事に戻ると考えていましたが、ティレットらはベサントの方法に習って、救世軍
やオーストラリアの労働組合(←なんと三万ポンドも寄付してくれた)から、労働者達のストライキ中の生活費を調
達します。また、貧困問題と併せて世論に訴えかけることで、中流階級の世論を味方につけ、5週間のストライキ
の後、カソリック教会の仲介により、労働者の要求は全面的に認められました。

  この「ロンドンドックストライキ」の成功後、ティレットは二万人の港湾労働者が加盟する組合を結成しました。
これにはベサントも協力し、この組合の規約のいくつかはベサントが書いたということです。
 その後、ティレットとトム・マンは、「ニューユニオニズム New Unionism」と称する、非熟練労働者が職種毎に
団結するという、大型労働組合結成の運動を推進し、1892年には、非熟練労働者の労働組合加入者は150
万人に達しました。
 そして、これは当然大きな政治運動となり、1893年、ニューユニオニズムのリーダー達により、ジェームズ・ケ
ア・ハーディを党首とする独立労働党(Independent Labour Party)が結成されました。さらに1900年、独立労
働党は、SDF、フェビアン協会と共に「労働代表委員会」を結成しました。そして労働代表委員会は1906年に
「労働党」と改称し、イギリスの二大政党の一つとして現代に至るのです。
 チャンピオンは、ベサントが労働者の政治参加の推進に熱心ではないと不満を述べていましたが、どうしてどう
して、ベサントの残した影響は大したものです。

ジェームズ・ケア・ハーディ(James Keir Hardie 1856-1915)

 元炭鉱夫。労働組合運動を通じて頭角を現し、自由党所属の下院議員となる。1888年、スコットランド労働党に移る。1893年、独立労働党を結成して党首に選ばれ、1906年の労働党成立後も党首を務めた。

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