アニー・ベサントその5 ベサント、フェビアン協会に入る 本題に入る前に、先ずはフェビアン協会について説明を。 1883年、ロンドンにおいて、清貧を旨とする社会生活を目指す「新生活組合 The Fellowship of the New Life」と言う知識人からなる団体が設立されました。そして、組合の方針を政治活動まで広げようとしたメンバー の一部が、1884年1月4日、暴力革命を否定する漸進主義的な社会主義を掲げて、新生活組合の分派を設立 しました(新生活組合とは掛け持ち自由)。ポエニ戦争で「チャンスを待って一撃」の戦術で名を馳せたローマのフ ァビウス将軍にちなんで、「フェビアン協会 Febian Society」と名づけられ、エドワード・ピース(Edward Reynolds Pease 1857-1955)が初代会長に就任しました。その後フェビアン協会は、 (1)民主主義性−民主国家化、立憲的・平和的改革を重ねての社会主義の達成 (2)漸進主義性−既成制度から連続して徐々に計画的に拡張 (3)不労所得(地代・利潤・利子)の漸次公有化と再分配 (4)ナショナル・ミニマムの確保−余暇,教育,慈善の国家的規制または援助 (5)行政国家化の強化−専門家的地方、中央官僚行政による改革の推進 (旅研 http://www.tabiken.com/ 世界歴史デ ータベースより) を骨子とする独特の「フェビアン社会主義」を掲げて支持を集め、イギリス労働党が設立されると、その思想的バ ックボーンとして政策立案に貢献して行きます。その一方、労働者の自治管理の否認、エリート主義の官僚主義 的な国家構想、帝国主義容認(←イギリスの領土が広がれば、一度に多くの場所で改革が進むから、という理 由)等が批判を受け、第二次世界大戦後は一時衰退しましたが、福祉国家思想の普及に努め、現在も労働党と 密接な関係を持ちつつ活動しています。 本稿で言及されない会員の中にも、作家H.G.ウェルズ(1866-1946 別にSF小説だけでなく、歴史家としても有 名)、哲学者バートランド・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell, 1872-1970 1950年ノーベル文学賞受賞) と言った著名人がおり、また、当然のことながら、労働党の首相経験者である、ラムゼイ・マクドナルド、クレメン ト・アトリー、それにトニー・ブレア前首相などもフェビアン協会員です。
さて、ハインドマンとブラッドローの討論会で社会主義に傾倒し、バーナード・ショーとも出会ったベサントでした が、いきなり社会主義者として活動するようになったわけではありません。やはりブラッドローその他の友人達へ の遠慮があったようで(自伝にはかなりの逡巡があったことが書かれています)、討論会から二ヶ月ほど後の188 4年6月の講演「社会改革か社会主義か Social reform or Socialism」でも、労働者の搾取の上に成り立つ資 本の蓄積には反対しつつも、社会主義運動への賛同は口にしていません。 ブラッドローも含むセキュラリズム協会のベサントの友人達は、個人主義を信条としていて社会主義を個人の 自由への脅威と見なしており(←フェビアン協会が唱えるような「社会民主主義」への理解は無かった)、また社会 主義者達もブラッドローに対して激しい攻撃を繰り返していました(なお、ベサントの影響で社会主義者になったと 言われるエイブリングですが、ベサントのように遠慮する必要が無かったのか、すぐにSDFに加盟して、ベサント よりも先に社会主義者として活動を始めています)。 どうやら決意が固まったのは1885年の1月になってからで、そうなるまでは、ナショナル・リフォーマーのスタッ フの中の社会主義者から話を聞いたり、自分で勉強したりしていたようです。そしてベサントは、イギリスが世界 最大の大国(工業の分野ではアメリカやドイツに劣後しつつありましたが)でありながら何故に労働者達が貧しい のか、と言う点について、社会主義者の主張に回答を見出したようです。反共主義者達はいささか違ったことを 言いますが、それでも、当時のイギリスでは、労働条件に比して賃金は安すぎ、労働者が搾取されていたことは 否定できません。ただ、大英帝国の広大な植民地が、富の源泉どころか逆に大英帝国の重しになっており、それ が貧しさの一因であることまでは気がつかなかったようですが(ベサントは常に植民地主義には反対しています が、あくまで自由主義的な観点からのようです)。 また自伝によると、この1885年1月に一部の社会主義者が(誰だか分かりませんが、SDFでは無さそうです)、 欠食児童対象の学校給食導入を主張したことに感動し(←これは1889年にベサントが実現させますが)、ナショ ナル・リフォーマーにそれに賛同する記事を書いたところ、とあるセキュラリズム協会員から「社会主義者的」で あると最初の攻撃を受けたということです。私見ですが、これはベサントにとってなかなか決定的だったでしょう。 この時ベサントは、社会主義については反論せず、学校給食の有効性について反論しただけのようですが、誰 が主張していようとも、どう考えても悪い制度ではなく、また間違いなく貧しい子供達の役に立つ学校給食に関す る主張に賛同して、それを攻撃されたりすれば、仲間に失望を感じても不思議ではないでしょう。そして結局ベサ ントは、セキュラリズム協会員達との個人的友情の破綻も覚悟の上で、社会主義者としての活動に全力を注ぐこ とを表明しました。 右翼、左翼に関わらず、とにかくナントカ主義者達と自称する人々は、自分達だけが正しいと思うのは良いと思 うのですが、多くの場合、目的が同じでも考え方が違うと協力しようとしないし、場合によっては、考え方が違う集 団の主張は、例えそれが客観的に正しいことであっても、また自分達の目的と似ていたとしても、自分達以外に はその達成を許さずに相手を攻撃し、ひどい場合には目的の達成を忘れて考え方の違う相手への攻撃が活動 のメインになったりします。安彦良和氏が「虹色のトロツキー」の中で「正義の独占」と言っていた現象ですが、ベ サントもその被害に遭う時が来たのでした。 実際、社会主義者になったことで、ベサントは多くの友人を失ったと思われます。ただ、ブラッドローは寛大であ り、社会主義者になっても個人的な友情は変わらなかった、とベサントは自伝で述べていますが、その後には、 ブラッドローはベサントの判断に信頼を置かなくなったし、また方針についてベサントに相談しなくなった、と続け られています。 社会主義者たることを決意したベサントは、バーナード・ショーの紹介で、1885年1月中にフェビアン協会に入 会しました。ハインドマンの影響を受けたと言うのに、どうしてSDFに入らなかったのかと言うと、 SDFは、1884年末の理事会で不信任を突きつけられたハインドマンが辞任を拒否したため、改名して一年も 経たないのに早くも分裂しており、有力メンバーの多くが逃げ出していました。そして、エイブリングやエレノア・マ ルクスも含む逃げ出したメンバー達は、ウイリアム・モリス(1834-1896)を中心に新たなマルクス主義結社「社会 主義者連盟 Socialist League, SL」を結成していました。さらに、バーナード・ショーも彼らに続きます。しかし、 社会主義者連盟はハインドマンよりも穏健とは言え、やはりベサントの基準からすれば過激だったようです。そし て、社会主義者の団体の中で、議会制民主主義のみを手段としているのはフェビアン協会だけでした。また、ブ ラッドローやセキュラリズム協会への遠慮があったのか、フェビアン協会は急進主義への敵意が少なくかったか らだと自伝で述べています。 後にベサントは、ウイリアム・モリスの影響でマルクス主義にも理解を示すようになりますが、いかにもこの人ら しいと言うべきか、1888年にもなってベサントは、社会主義者連盟ではなくSDFに加入します。ベサントと親しい 社会主義者の大方が、ハインドマンに嫌気がさしてSDFから逃げ出した後のことです(勿論、単なる人と違った行 動、と言うわけではなく、SLの変質を見越していたのかも知れませんし、各組織の橋渡し役を考えたのかも知れ ません)。 それからはフェビアン協会と掛け持ちで、SDFでも講演や著述で活動しました。従って、自伝に書かれているハ インドマンやSDFへの好意的な印象には、仲間への遠慮が多分にある可能性があります(その反面、アニー・ベ サントと言う人は、そうそう他人に遠慮する人でもない気がします)。
ブラッドローとの決別 フェビアン協会に入ったベサントは、バーナード・ショーや、エイブリング以外にも、ウェッブ夫妻(Sidney Webb 1859-1947, Beatrice Webb 1858-1943)、ウォルター・クレーン(Walter Crane 1845-1915 芸術家としても有 名)、シドニー・オリバー(Sydney Olivier 1859-1943、ジャマイカ総督、インド国務大臣等を歴任)、グラハム・ウ ォーラス(Graham Wallas 1858-1932 社会学者、教育学者)等と言った、当代イギリスを代表する社会主義者達 と知り合います。政治の分野以外でも大きな業績を残している人も多く、いずれも現代社会の形成にあたって大 きな役割を果たした人々であり、少なくとも、先進国に生きる人々ならば、大なり小なり彼らのアイデアの恩恵を こうむっているのは間違いないでしょう。 社会主義の経済理論やマルクス主義は間違いだらけだとか、産業を国有化すれば必ず悲惨なことになると か、別に後知恵でなくても彼らの理論を批難することは出来ます。しかし、彼らの考え方は批難できても、これら の人々の行動や業績までは批難すべきではないし、批難できないと思います。彼らから後の世では、社会主義 者を自称する人々ほど凄惨な戦争を引き起こす傾向が出てきますが、これは彼らの責任ではないです。もっと も、別に僕は社会主義者も共産主義者でもないですが(ただ、右に翼が生えた人々よりも、左翼の方が社会に役 立っているような気がするのは、僕が自分で思っているよりも左寄りだからでしょうか。少なくとも僕は、黒塗り街 宣車が、薬害事件、公害裁判、環境保護等の人を救うメッセージを訴えているのは聞いたことがありません。街 宣車の活動そのものは別に良いと思うのですが)。 それに、間違いを言うなら、現代の視点からすれば昔の著名人の多くは間違ったことを言っています。ダーウィ ンの「進化論」ですら、生物の種は進化する、という大枠以外、現代の分子生物学からすれば間違いなのです。 しかしそれでも、ヘンテコな半分宗教の理論を盲信せず、客観的な証拠に基づいて生物の世界を解明しようとし てダーウィンの研究活動までは、批難すべきではないはずです。ウェッブ夫妻のスターリン礼賛は厳しい非難を 受けました。バーナード・ショーの女漁りはご愛嬌ですが、帝国主義容認やファシズム容認にもつながりかねない 度の過ぎた反戦主義は「ご愛嬌」ではすまされないレベルです(これらに比べれば、ベサントのオカルト趣味はか なり愛嬌があります)。しかし、これらの奇行でもって、彼らの全ての業績は否定できないのです。
で、話がそれたので元に戻しますが、ベサントは、フェビアン協会での講演や著述等の活動に加えて、1885 年中にロシアから追放者された政治犯を支援する組織に参加しています(これにはブラッドローも参加)。また、イ ギリス政府が社会主義者への弾圧を強めていたため、逮捕された社会主義者達の保釈保証運動や法的支援組 織を立ち上げたりもしています。 さらにベサントは、ナショナル・リフォーマーで「Our Corner」と題する連載記事を書き、社会主義とダーウィニ ズムを結びつけ、急進主義から社会主義への「進化」を説き、自身が社会主義者として「進化」したと宣言しまし た。急進主義者や個人主義者には勿論、社会主義者に対しても、互いの敵意を捨てて労働者達のために手を 組んで戦うべきだと説きました(もっとも、急進主義者は「進化していない社会主義者」ではなく、単なる「アンチ社 会主義者」とも語っています)。そして、労働者は、その労働力を需要と供給の法則に則って適切な対価で売るべ きだと説き、社会主義の普及と宣伝に努めました。当然、セキュラリズム協会内部も含めて様々な非難や中傷も 受けますが、ベサントは概して無視しています(ベサントは、反論が時間の無駄だと考えたからではなく、非難を 無視するほど愚かだったからだ、というような事を言っています)。これらの活動に加えて、選挙の応援や、スラム 街の実態調査などなかなか忙しい。また、この頃はセキュラリズム協会の活動で、大衆向け公開講座の講師も やっていたので、ベサントはかなり多忙だったはずです。 さて1886年、元々不況気味だったイギリス経済でしたが、失業者の増大や給与のカットへの不満がこの年に なって極限に達し、同時にSDFや社会主義者連盟のアジテーションが増えました。しかしイギリス政府は社会主 義者の公共の場での演説を禁止したので(急進主義者や自由主義者は禁止されていなかった)、必然、逮捕者が 増えたわけで、ベサントらの支援組織が活躍するのですが、ベサントは、元々法律が専門のブラッドローに盛ん に法律に関する助言を求めました。ブラッドローは、社会主義活動に苦言を呈しつつもベサントに助言を与えて おり、まだこの時点では二人の友情は続いていたようです。 しかし1887年になると、ブラッドローとベサントの路線対立は深刻になります。そしてベサントは、13年に渡っ てブラッドローと共同で続けていたナショナル・リフォーマーの編集長の座から退きました。 ナショナル・リフォーマー1887年10月23日号に掲載された辞任の挨拶で、ベサントは、 「私が共同編集長になった時、私は社会主義者ではなかった。しかし、私は社会主義が、長年ナショナル・リフォ ーマーが説いてきた急進主義の必然的、論理的結果だと考えるようになった。そして、私は社会主義者だと自認 するが故に別の手段をとるが、私の労働者問題に関するポリシーが同僚(ブラッドロー)と部分的に隔絶したのは 私の問題であり、彼(ブラッドロー)の問題ではない。だから私は、編集の場から去ることにした。活動の大部分に おいては、我々(ブラッドローとベサント)は概ね同じ考え方なので、出来れば私は編集の場に残りたい。しかし、 社会主義がますます現実の政治論(practical politics)となり、理論の違いが運営方針の違いを生むようになっ た。政治問題を扱う新聞は、現実政治論的単一の編集方針を持たねばならないが、そうなるには私が共同編集 者であることが最も不都合なのは明らかである。そこで私は、以前の寄稿者としての立場に戻ることにする。そう すれば、ナショナル・リフォーマーから私の見解は一掃されるだろう。」(Annie Besant 「An Autobiography」 1893より) と書いています。ブラッドローも、ベサントの辞職を惜しみ、そのナショナル・リフォーマーへの貢献を讃える文 章を掲載していますが、二人の路線対立は明らかです。「哲学の果実」の前書きで「進歩は議論を通して達成で きる」と書いていたベサントですが、ナショナル・リフォーマーの中で議論する気にはならなかったようで…。この 決定に関してベサントは「苦しかったが、正しい painful but just」と述べています。しかし、これでもまだベサント とブラッドローの個人的な友情はまだ続いていたようですが、この直後に発生した事件によって、二人の友情は ついに破綻してしまいます。 ベサントがナショナル・リフォーマーの編集長を辞めた少し後のこと、急進主義連盟(Radical Federation)の音 頭で、逮捕されたアイルランドの下院議員、ウイリアム・オブライエンの釈放を求めるトラファルガ広場での集会 が11月13日に予定されていました。これに関しては、内務大臣ヘンリー・マシューズが、合法的な政治集会なら 妨害しない、と発言していました。しかし、ロンドン警視庁警視総監サー・チャールズ・ワレンは、11月9日の時点 でトラファルガ広場でのいかなる集会も禁止すると警告を発していましたが、急進主義者達は、内務大臣の言葉 を信用して警告は無視し、集会が開かれることになりました。そして、この急進主義者の集会に社会主義者も急 遽相乗りし、集会の自由と失業対策を訴えるため、SDFが音頭を取って、SLやフェビアン協会の一部メンバーも 加わって、失業者のデモ行進とトラファルガ広場での集会が行われることになりました。 そして1887年11月13日、馬車に乗って参加したベサント本人も含む、およそ10,000人が参加するデモ行進 が行われましたが、デモ隊がそろそろトラファルガ広場に入ろうかと言う時、騎馬および徒歩の警官達が警棒を 振り回してデモ隊の列に乱入し、大混乱になりました。 列の後ろの方にいたらしいベサントは、逃げ出そうとした馬車から飛び降りて混乱の現場に向かい、怪我人が 「九柱戯のピンのように like ninepins」のように倒れている凄惨な場面や、発砲はしませんでしたが、スコットラン ド連隊が人々に銃を向けたり、近衛騎兵連隊が、騒動を広げることなくうまくデモ隊を掻き分けて行進し、トラファ ルガ広場を制圧する様子なとを自伝に書き残しています。 この騒動の結果、デモ参加者二人が重傷を負って後日死亡、約二百人が怪我をしました。また、デモ隊のリー ダー格だったSDFのジョン・バーンズ(John Burns 1858-1943)と自由党の下院議員ロバート・カニンガム=グラ ハム(Robert Bontine Cunninghame-Graham 1852-1936)を初めとする数百人が逮捕されました。 この事件は「血の日曜日(Bloody Sunday)」事件として、イギリス社会に大きな衝撃を与えました(そして、数あ る「血の日曜日」事件の最古のものでもあります)。この事件では、デモ参加者はひたすら殴られる一方、軍隊は さすがのプロフェッショナリズムと言うべきか、威嚇だけで暴力行為には及んでおらず、結局、暴れていたのはも っぱら警官だけだったようなのですが、社会主義者に扇動された「暴動 Riot」と言うことになってしまい、社会主 義者達は厳しい世論の非難にさらされました。社会主義者の間でも、事の是非について論争が起こり、フリードリ ヒ・エンゲルスは、ドサクサにまぎれて暴力革命を起こそうとしたのではないか、とハインドマンとSDFを批判し(エ ンゲルスは、イギリスでは暴力革命どうこうという段階では無いと考えていたようです)、ウイリアム・モリスも、こう した大規模な集会の企画は躊躇するようになります。 この「血の日曜日」事件、軍隊が出動しているため、警視総監サー・チャールズ・ワレンの一存でデモが鎮圧さ れたのでないことは明らかです。しかし、社会主義者の集会だけが禁止という不公平はさておいて、内務大臣は 「合法的なら妨害しない」としていたので、まあ、内務大臣はウソはついていないことになります。ここで問題とな るのは、デモ隊は非武装で暴力的な行動は取っていなかったこと、トラファルガ広場での集会が禁止と警告され ていたとは言え、デモ隊がまだ広場に入っていないのに警察が無警告で攻撃した、バーンズとカニンガム=グラ ハムは後に六週間の禁固刑に処されましたが、首謀者と目された人物ですら、たかだか六週間の禁固刑にしか 相当しない違反行為に対する措置として、2000人の警官と400人の軍隊を投入して死傷者を出したのは適切 だったかどうか、等の点だと考えられます。 しかしまあ、「血の日曜日」事件の検証は、ここで扱う問題ではないのでこれ以上は突っ込みませんが、ベサン トにとって重要なことは、この「血の日曜日」事件によってブラッドローとの友情が破綻したらしいということです。 逮捕されなかったベサントは、早速にフェビアン協会の人々と共に、「社会主義者防衛協会 Socialist Defence Association」などの支援団体を組織して、逮捕者達の法的支援に乗り出しました。実はベサントも事 件の後で警察に出頭し、自分も逮捕するように申し出たのですが、ベサントを逮捕して敵に回そうと考える酔狂な 警察関係者はいませんでした。ブラッドローもベサントの要請を受け、「血の日曜日」事件の逮捕者達の法的支 援に協力します。 しかしブラッドローは、進主義者の集会に相乗りして墓穴を掘ったということに怒りを感じたのか、社会主義者 の集会を企画するにあたってベサントが自分に相談しなかったため、彼女のことをもはや信用できないと感じた ようです。 まあ、ベサントのために弁護しておくと、自伝を読む限り、前日の夕方まで準備でバタバタしていたようであり、 相談する時間がなかっただけと思われるのですが、ナショナル・リフォーマーの編集長職を辞した直後という時期 もタイミングが悪かったのでしょう。 その後もベサントはナショナル・リフォーマーに記事を書き、またセキュラリズム協会の活動も続けるのですが、 もはやベサントとブラッドロー(それにブラッドローの娘とも)の関係は修復されることはありませんでした。
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