アニー・ベサントその3 ベサント、苦闘する さて、ベサントの「人口の法則」もまた、「哲学の果実」と同じく何度か問題にされたようですが、起訴には至りま せんでした。しかし、ここで夫フランク・ベサント師が再登場します。 ベサントの自伝によれば、1875年の夏、娘メイベルが父親の元を訪問して、そのまま帰してもらえないという 事件がありました。その時は、娘が不当に監禁されていると裁判所に訴えるぞと脅して取り戻したとのことです が、ベサント師は、娘を取り戻す、もしくは奪う機会をずっと狙っていたようです。 1878年1月、ベサントは、夫フランク・ベサント師が高等法院(High Court)にメイベルの養育権回復の訴えを 起こしたことを知らされます。4月になると、アニー・ベサントは無神論者で「神を恐れぬ大罪人」であり、そして産 児制限に関する「不道徳な考え方の持ち主」だから、「親として相応しくない」とするベサント師の訴状が届けられ ます。この時、争点の娘メイベルはしょう紅熱で危篤だったとのことで、「不道徳な考え方の持ち主」と、看病中の 母親を裁判に引っぱりだした男の、どちらが親として相応しくないのか、裁判するまでも無いと思うのですが、ま あ、近代的な法治国家に住む以上、我慢しなければならないのでしょう。 ベサントはまたも、弁護士を雇わずに自身で裁判に臨むことにしました。今度もまた、法律論ではなく、自身の 行動や考え方の正当性で勝負するつもりだったようで、「哲学の果実」裁判に続いて、ベサントが弁護士を雇わ ず本人出廷したことは新聞にも大きく取り上げられます。しかし、裁判長はどうやら先を危ぶんだようで、ベサント に弁護士を雇うように強く忠告(自伝によるとベサントは、自分の主張を封じるための「威嚇」と受け取っているよ うですが)しますが、ベサントは無視します。 んでもって、無神論が糾弾され、また、「哲学の果実」裁判ではとりあえず猥褻罪で有罪になっていたこともあっ て、裁判に敗訴。ベサントはメイベルの養育権を奪われてしまいます。 もっとも、この養育権の裁判に関してはベサント寄りの世論も強かったようで、子供を取り上げた事が残酷だと いう意見から、「新手の異端審問」という一部宗教関係者からの批判、判事達が争点の一つであるマルサス主義 について参照せず、自分たちの宗教的見解にのみ基づいて判決を下したという裁判の公平性への疑念もあり、 いろいろと支援者も現れて、その後どうにか、ベサントは子供達と会う権利を確保できました。 しかし、さすがのアニー・ベサントもかなり応えたようであり、「心臓の病気」と本人は言っていますが、どうやら ストレスか過労で倒れ、何ヶ月も療養する破目になったようです。 やがて健康を回復したベサントは、子供を奪われた悲しみを仕事への情熱に変えて(「仕事の中にだけ慰めが あった」と本人は語っています)、この頃、色々な主張を取り込んだ結果、内容の濃さで人気は出たものの、ぱっ と見にはもはや何のための新聞か分からなくなっていた「ナショナル・リフォーマー」の編集や、セキュラリズムの 講演活動、それにマルサス主義の研究にと、以前に増して精力的に活動しました。そして、以前にも増してキリス ト教に対しての攻撃を強めます。自伝の中では、 「キリスト教は私の子供を奪ったので、私はお返しに無慈悲に攻撃した。"for it was Christianity that had robbed me of my child, and I struck mercilessly at it in return. "」 とキリスト教への怨念が述べられています。 また、キリスト教への攻撃だけではなく、インドの自由主義運動擁護や、第二次アフガニスタン戦争(1878- 1880)反対の論陣を張り、この当時頂点に達していた英国の植民地主義を攻撃しました。 ベサント、理系へ進む さて1878年頃からベサントは科学に興味を抱くようになりました。 ここで先ずセキュラリズムと科学の関係について説明しておくべきでしょう。 まず、ホリオークを創始者とするセキュラリズムは、元来、唯物論を根拠とする「不可知論」で、神の存在までは 否定していませんでした。しかし、1870年代に入ると、ブラッドローの影響力増大に伴うものなのか、イギリスの セキュラリズムでは、完全な無神論が主流となって行きます。で、神の存在を否定する理論的根拠として、唯物 論に代わって科学が、ブラッドロー派セキュラリストに大いに注目されることになりました。 当時既に、キリスト教の宇宙観が間違っていることを地動説が証明して久しかったのですが、この頃、天文学 はどうやらあまり人気の無い分野だったようで、これはそれほど社会に大きな影響を与えては居なかったようで す。そして、宇宙の権威の座から転落したキリスト教は、生物学に目を移しており、その結果として、「創世記」に 基づくキリスト教神学と博物学の奇怪な落とし子である「自然神学」が誕生していました。要するに、生物の種は 不変であり、化石は神の創り損じとか(全能の神も失敗するのか?)、バチ当てられて滅ぼされた連中の残骸と か、単に偶然そういう形になった石材とか言う理論です。 宗教の存在意義とは人々の救済であって、自然科学の研究では無いはずなのですが、狂信者にはなかなか分 からないらしい(と言うか、聖職者が社会的地位を失うことを恐れただけでしょうか?)。別に創造論なんてでっち 上げなくても、キリスト教が説く精神それ自体、人々の信仰を集めるに足る立派なものだと思うのですが…。ほと んどの人が生まれながらのセキュラリストである日本では、なかなか理解しがたい問題ではあります。 しかし1859年、チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を発表して、生物の多様性を自然選択と適者生存に求 める「進化論(ダーウィニズム)」を世に問うと、自然神学の地位も危うくなります。そして1870年代、攻撃的な無 神論を唱えるブラッドローの一派が台頭すると、当然、ダーウィニズムに目をつけました。 ダーウィニズムが既に英国に科学と宗教の対決の象徴となっていたこと、創造論を前提とする「自然神学」に対 し、神の存在を否定する有力な根拠となる、と言うまっとうな理由に加え、「宗教のセンチメンタリズムは人類を退 歩させるが、理性と科学は人類を進化させる」という、まあ、後半部分は当たっているとは思いますが、奇怪さで は自然神学にも劣らない独自の無神論的進化論を見出す人もいたようです(所謂、「社会的ダーウィニズム」の 一つでしょう)。 ダーウィニズムは、セキュラリズムが従来根拠としてきた唯物論よりも市井の人々に理解しやすいため(ぶっち ゃけ、哲学よりも生物学の勉強の方が面白いのです)、ブラッドローの無神論セキュラリズムは大きな支持を集め るようになります。また、セキュラリスト達は自身の主張の正当性を証明するため、生物系の科学者の取り込み も図りました(ただし、存命中だったダーウィン本人は、神の存在を疑いつつも信心深く、セキュラリズム運動には 参加していません)。 ベサントが科学に興味を抱くようになったのには、こうしたセキュラリズムの背景は当然あったでしょう(実際、 科学知識の不足を感じたと述べています)。加えて、子供を取られて悲しんでいたベサントが、更なる気晴らしを 求めたということもありました(これも本人がはっきりそう言っている)。 そして1879年1月、ベサントと、ブラッドローの二人の娘(Alice 1856-1888, Hypatia 1858-1934)は、全国セ キュラリズム協会員でロンドンカレッジの経済学者Joseph Hiam Levy (1838-1913)の紹介により、ロンドン大学 附属病院の比較解剖学教室の講師エドワード・B・エイブリング博士(1849-1898)と出会い、彼から基礎科学や 生物学に関する個人授業を受けられるようになりました。 このエイブリングという人物は、一般的には熱心な(そしてちょっとヘンな)社会主義者で、あのカール・マルクス の娘エレノア(Eleanor Marx 1855-1898)の内縁の夫としてしか認識されていない人物ですが、現代で言う「ポピ ュラーサイエンス」の創始者として、科学知識の教育と普及に絶大な功績がある人物と考えられています(参考: Edward B. Aveling: The People's Daewin, Suzanne Paylor, 2005)。ベサントはエイブリングを評して、 「頭脳明晰、知識は正確で、説明の上手さに稀に見る天賦の才がある。科学を熱烈に愛していて、知識を与える ことに大きな喜びを感じている理想的な教師だった。」 と語っていますが、事実、その通りの人物でした。 もっとも、エイブリングが熱烈に愛していたのは科学と教育だけではなかったようで、エレノア・マルクスを自殺 に追いやったほど女漁りが激しく(当然、後でベサントとの関係もウワサになりました)、しかも、エレノアの自殺に 当たっては、毒物を入手して当人に渡したと言われていたりするのですが、まあ、それはソレです。後には、ベサ ントの影響で社会主義も愛するようになりましたが、女漁りの激しさ故にほとんどの社会主義者達からは全く愛さ れませんでした。しかしまあ、それもソレです。 エイブリングの教育の才能を見込んだベサントは、彼を講師とする日曜講座を企画します。そして1879年8月 10日、ベサントの司会で、エイブリングは全国セキュラリズム協会のホール・オブ・サイエンス(Hall of Science) において最初の講演を行いますが、これは1870年に制定された教育法(Education Act)の元で、政府の補助 金を受ける正式な大衆向けの公開講座となって、多くの人々が受講しました。 さて、またも脱線しますが、エイブリング博士は非常に興味深い人物なので、彼について簡単に触れておきた いと思います。 エイブリングは牧師の家の子でしたが、ロンドン大学で科学と医学を学び、その過程で科学者としての合理的 な無神論に染まったと思われます。そしてエイブリングはセキュラリズムの影響をモロに受け、すぐにナショナル・ リフォーマーに寄稿するようになり、1879年7月には全国セキュラリズム協会に加盟しました(そして、すぐに副 会長を務めるようになります)。 それからエイブリングは、セキュラリズム協会主宰の公開講座で講師を努め、最初の年(1879年)は動物生理 学と基礎化学の講義を行いました。この年、15人の女性を含む100人がエイブリングの講座を受講しますが、そ のうち11人は、学力試験で文部省(Department of Science and Art)から表彰されています。その後、エイブリ ングの講座の受講者は年を追うごとに倍加して行き、講義内容も大学受験準備講座から、数学や文学も含めた 13の内容に拡大しました。生徒の多くは非セキュラリストであり、エイブリングの評判を聞いて集まってきた人々 でした。そして、エイブリングの受講生達の学力試験の成績は、はっきりと全国平均を上回っており、そこから多 くの教育者や研究者が育って行きます。エイブリングは、この公開講座に関しては純粋に科学教育のためを思っ て活動していたので、自身の講座がセキュラリズム協会と非セキュラリストの両方から、セキュラリズムの単なる 宣伝活動とみなされていることを苦々しく感じていたようです(もっとも、エイブリングは1881年に無神論を公言 してロンドン大学付属病院をクビになり、政府の補助金も危うく打ち切られるところでした)。 また、エイブリングは多くの科学に関する著作を著します。特に、ダーウィンの理論を解説した「The People's Darwin」「The Student's Darwin」「Darwin Made Easy」の三作は進化論の大衆化に大きく貢献しました。また1 881年には、チャールズ・ダーウィンその人との間の科学、及び宗教に関する討論集「The Religious Views of Charles Darwin」を出版しまています(ただし、この本の中でダーウィンを「無神論者」と決め付けて、怒りを買っ たようです)。その他にも、「1ペニーから5シリングまでの間の小さくて安い(Edward B. Aveling: The People's Daewin, Suzanne Paylor, 2005)」科学書を多数出版しています。現代の感覚では、1ペニー=200円 1シリング=2400円程度 であり(参考: コインの散歩道 http://www1.u-netsurf.ne.jp/~sirakawa/)、5シリングはさすがに高いと思うのですが、ま あ、それは置いといて、これらの本はイラストや図を多用し、平易な言葉遣いで科学的素養の無い人々にも非常 に分かりやすいものであったため、よく売れました(社会主義に傾倒した後の科学書でも、政治色は無いらしい)。 エイブリングが「ポピュラーサイエンスの創始者」と呼ばれる所以であります。
さて、エイブリングの指導の効果は絶大であり、1879年6月、ベサントとハイパチアはロンドン大学に入学しま した。ベサントは大学の勉強は良い気晴らしになり、子供と会う権利を確保する裁判を起こす元気を取り戻せた と言うようなことを述べています。また、エイブリングの才能を目の当たりにした全国セキュラリズム協会は、それ までの哲学的な無神論や政治宣伝の講演活動に代えて、無神論の根拠としての科学知識普及を目指す、大衆 向け教育講座に力を入れるようになります。そのため、エイブリングの指導の下、協会員に教員資格を取得させ ることにしたので、ベサント自身や、ブラッドローの娘達も教員資格を取得しました。 とは言え、この動きは当然、宗教的保守派の強い反発を招きました。結局は受け入れられ無かったのですが、 特に下院議員のサー・ヘンリー・テイラーと言う人物が、ベサントらセキュラリストへの教員資格発行に関して文 部省に強硬に抗議し、エイブリングの講座への補助金も打ち切らせようとしています。このサー・ヘンリーという 男は、ブラッドローの活動を妨害しようと、己の政治力を行使してブラッドローと無関係な人間を逮捕させ、その 人の釈放と引き換えにブラッドローから著作の版権を取り上げることまでした悪人です。なんと言うか、宗教的保 守派の代表者のやることがこのレベルだったとすれば、セキュラリズムが盛り上がりを見せたのもけだし当然で しょう。 またこの時期、ベサントは理学士および理学修士の学位を取得しますが、理学士の試験では、彼女の産児制 限に関する考え方を嫌う教授の妨害により、三回試験に落とされました。この時ベサントは既に教員資格試験に 合格しており、それよりも簡単だった学位試験に合格しないはずは無いと憤慨しています。また彼女は植物学を 専攻して、1881年には試験で優等を取ったのですが、王立植物園を見学しようとした時、「自分の娘が研究し ている」という理由で、学芸員に見学を拒否されたりもしています(結局はうまく潜り込みましたが)。 セキュラリズム協会による大衆向け教育講座は、1880年代いっぱい行われます。この期間、セキュラリズム 運動は空前絶後の盛り上がりを見せ、全国セキュラリズム協会の会員が激増したのは、決して教育講座と無関 係ではないでしょう。もっとも、あくまで私見ですが、皮肉なことにこの盛り上がりこそ、常に貧しい人々(=当時は 主として労働階級)の生活改善を念頭にしていたベサントに違和感を生じさせ、新たな苦悩と、ブラッドローとの間 の深刻な対立をもたらした一因になったと思われるのです。しかしまあ、それは後で解説するとして、そんなこん なでベサントは公教育に大いに関心を持ちます。 1870年に施行された教育法(Education Act)では、全英は2500の学区(School District)に分けられ、それ ぞれの地域には、その地区の地方税納付者による選挙で選ばれる、初等教育全般の監督責任を持つ教育委員 会(School Board)が置かれていました。この教育委員は、当時としては画期的なことですが、女性にも投票権と 立候補権があったので、1889年、ベサントはロンドン地区の教育委員に立候補し、圧倒的得票数でトップ当選 を果たします(ちなみに、エイブリングも1882年に教育委員を務めています)。任期中ベサントは、一部で慈善事 業として行われていた無料の学校給食を、制度として小学校に導入しました。さらに、小学校での無料の定期健 康診断も導入しています。イギリスでは、サッチャー政権下で無料の学校給食は原則廃止となっていますが、教 育現場におけるこの制度の意義は、現代でも大きいです。
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