アニー・ベサントその2

ナショナル・リフォーマー

 ロンドンに戻ったアニーは貧乏暮らしを強いられていましたが、それでもトーマス・スコットの家に出入りし、彼の
蔵書を借りて無神論の研究を続けていました。そして、創造主としての神の存在に疑問を呈する論文を書きまし
た。ただ、まだ完全な無神論者になったわけでは無く、どちらかと言うと、既存の教会の、神を信じる方法論につ
いて反対するスタンスだったようです。
 アニーの主張していたような姿勢は、当時ではけっこう過激な部類でしたが、現代では信仰心と矛盾するもので
はないと認識されている類のものです(少なくとも、僕はそう思いますが…)。しかし、21世紀の今でも、「聖書」の
内容が一字一句正しいと信じている人々が居ることには驚かされます。

 1874年7月、アニーは友人の口から、再びチャールズ・ブラッドローの名を聞きました。そして、彼の活動と、
「自由思想(神様やら運命やらは無視するという、無神論的な考え方)」に興味を惹かれたアニーは、まずナショナ
ル・リフォーマーを買い、匿名で編集部宛に手紙を書いて、全国セキュラリズム協会に加入したいが、加入するに
は無神論者であると表明しなければならないのか、と質問しました。こういう質問をするあたり、アニーはまだ、神
を見捨てる覚悟が出来ていなかったようです。それからしばらくして、ナショナル・リフォーマーの紙面に、協会に
加入するには別に無神論者である必要は無い、協会はローマカソリックにも極端な無神論にも与しない、という
アニー宛の返答が掲載されました。
 その返答を見てアニーは、全国セキュラリズム協会に加入します。そして1874年8月2日、ブラッドローの講
演会に参加したアニーは初めてブラッドローと会見しました。

 自伝によると、講演が終わった後、ブラッドローはまっすぐアニーに近づいてきて、「ベサントさん」と声をかける
と、講演の元ネタである著書を進呈しようと申し出たということです。どこかで私と会っているのか、と問うアニー
に対し、ブラッドローは、
「全然知らなかった。でも、貴女がアニー・ベサント夫人だと確信していた」
 と答えたということです。アニーはひどく感激し、ブラッドローとの間には、本能に根ざした友情があったと述べ
ています。もっとも、当時の社会通年からして、セキュラリズムのような社会運動の支持者に女性がどの程度含
まれていたのか(恐らく10%程度)、さらに、その中にアニー・ベサントのような美人がどれだけ居たかと考えれ
ば、新顔ということでもあり、単純に目立っていたのでしょう。

 何であれ、アニーとブラッドローは意気投合しました。そして出会った二日後、アニーがブラッドローに、執筆中
の論文の原稿を見せて意見を聞いたところ、
「貴女は無神論について何も知らずに、無神論について書いている。神など存在しない。」
 と、厳しい意見を言われてしまいます。ブラッドローのこういう姿勢は、「不可知論」で神の存在までは全否定し
ていないセキュラリズムの中ではいささか浮いたものだったのですが、アニーはほとんどブラッドローのこの一言
により、神の存在を否定する完全な無神論者と化したのでした。ただ、後年のアニー・ベサントが、「アッチの世
界」に新たな神を探求することになることを考えると、かなりの違和感があります。実際、周囲の人々だけでなく
本人も違和感は感じていたようで、彼女自身も自伝の中でその事を認めています。アニー・ベサント博士という人
は、かなり他人に影響力を及ぼす人である反面、他人の考え方に影響され易いところがあるようです。

 もっとも彼女は、
「私は現在の考え方で、自分の過去を否定したりはしない」
 と述べていて、あまり気にしてはいない様子です。実はこの思考の柔軟さこそが、アニー・ベサント博士が賢者
たる所以かも知れません。少なくとも、「信念」とか言って実は何も考えていない人よりは賢明だと思われます。
 ブラッドローは、保守的な人々からひどく評判が悪く、ちょくちょく暴力行為も受けていたので(ブラッドローは兵
隊出身でガタイの良い人でしたが、1870年以降、健康状態が悪かった)、アニーに迷惑が及ぶことを恐れて最
初は私的な付き合いは躊躇していたようですが、「本能に根ざした友情」と言うだけあって、アニーの強引なアピ
ールもあって、すぐに親しくなりました。

 そして、出会って数日後、ブラッドローはアニーに、ナショナル・リフォーマーの編集部で働かないかと持ちかけ
ました。週給は1ギニー、つまりは月給4ポンド4シリングで安月給だとアニーは言っていますが、当時の工場労
働者の年収が20-50ポンドだったことを考えると、とりあえずは娘とともに生活出来るレベルだったと思われます
(参考 コインの散歩道 ttp://www1.u-netsurf.ne.jp/~sirakawa/)。しかし、女性が差別されていたこの時代、女性の思
想家や社会活動家は、単に「女性である」という理由だけで、本の出版や論文の掲載が出来ないことが多々あっ
たのですが、アニーは小さいとは言え書きたい事を自由に書ける新聞を得て、セキュラリズム協会の活動メンバ
ーとしての講演活動が出来たので、これは安い給料を補って余りある大きなメリットとなります。
 
 1874年8月30日号のナショナル・リフォーマーに、アニーの筆になる最初の記事が掲載されました。ただ、そ
れまでは常に本名で文章を書いていたアニーでしたが、ナショナル・リフォーマーでは、知人に迷惑が及ぶのを恐
れて、「エイジャックス "Ajax"」のペンネームを使いました(でもバレバレだったらしい)。その後アニーは、女性
の人権や産児制限(ずばり避妊法)に関する記事をナショナル・リフォーマーに書き、その他出版や、全国セキュ
ラリズム協会での講演活動を通じて、社会活動家として働きます。1877年からは、ブラッドローと共同でナショ
ナル・リフォーマーの編集長を務めるようになりました。


「哲学の果実」

 ナショナル・リフォーマーのスタッフとなったアニー・ベサントは、労働階級の貧困、女性の人権、そして貧困や
女性の人権と絡む問題としての産児制限等の問題に取り組みました。ブラッドローがそうだったように、ナショナ
ル・リフォーマーやセキュラリズム協会の本来の目的だった、無神論や自由思考の普及よりも、そうした社会問
題の追及に熱心になります。

 さて、ブラッドローが周囲のヒンシュクを買いつつも産児制限に力を入れていたことは前述しましたが、アニーも
やはり、産児制限が貧困解消に大いに寄与するのではないかと考えます。彼女は自伝の中で、「労働者の賃金
は4人分の生活には充分だが、8人から10人の子供の生活は維持できない」と書いています。

 19世紀半ばのイギリスでは、平均的な既婚女性は6人の子供を産んでいて (と言っても、全員が成人出来る
わけではありませんでしたが)、既婚女性の35%は、8人以上の子供を生んでいたということであり、「貧乏人の子
沢山」というイヤな言葉があるように、労働者階級の女性は、はっきりと中流以上の階級の妻女よりも多くの子供
が産まれる傾向にありました。欧米では18世紀末頃から、母親は子供を生むのみならず、乳母のではなく自分
の母乳を与えるということも含めて、自ら子育てするという意識が一般化し始め、上流階級の奥様達は、責任が
持てる以上に子供の数を増やしたがらない傾向が出始めていたようです。しかし貧困層の場合、果たして「子作
りの他に楽しみが無い」との説が正しいのかどうかは別として、子沢山が明らかに労働者階級の生活水準を低
下させていました。
 余談ながら、農村部では労働力確保の為に子供をたくさん作る、というのは迷信のようで…。実際には、まさし
く避妊の知識が無いことに起因する現象であり、日本を例に出せば、生活水準を落とさないため、家系の維持に
必要でない子供の「間引き」は頻繁に行われていたようです。柳田国男先生の研究には、全ての家族がきっちり
一男一女の村、という恐るべき報告もあったりします。19世紀のイギリスの都市労働者の家庭で、「間引き」がど
れほど行われていたかは分かりませんが、「間引き」が無くとも、貧困に起因する様々な問題で、子供達の死亡
率がかなり高かったのは、間違いありません。

 ブラッドローとアニーは、イギリスの経済学者トマス・ロバート・マルサス (Thomas Robert Malthus 1766-
1834)の有名な「人口論」に影響を受けていました。
 マルサスの「人口論 An essay on theprinciple of population(初版1798年)」とは、人口の増大は必ずそれ
を養う手段の成長を上回る。しかし、実際の人口は、飢餓、病気等による死亡率上昇や、晩婚化などによる出生
率の低下によって食料生産と歩調をあわせて抑制されるが、この抑制手段はどちらも「悲惨と悪徳」に特徴づけ
られている。従って、「道徳的な抑制」によって人口の増大を抑えねばならず、その手段として、貧困層に道徳を
教えるための国営教育、生活水準を向上させるための普通選挙制度や貧民救済法を導入しよう、というもので
す(この項、THE HISTORY OF ECONOMIC THOUGHT WEBSITE ttp://cepa.newschool.edu/~het/を参考にさせていただきまし
)。悪意は無いのでしょうが、貧乏人もひとたび贅沢を味わえば、家族を作る前にまず生活水準向上を要求す
るだろう、などと言っているところが前近代的ですが、とにかく、貧困層の生活改善を目指した研究の走りとのこ
とです。そして実際の人口抑制の手段として、マルサスは早婚を戒め(独身中にお金が貯まるのに加え、結婚期
間が短い分だけ子供の数が減るという考え)、独身者、既婚者問わず性的な節制を求める「道徳的抑制」を提唱
しました。

 しかし、「人口論」の理論が多くの社会科学者に受け入れられた反面、実際の人口抑制の手段に関しては、
「道徳的抑制」に賛成せず、受胎調節を推進する人々もいました。19世紀末からそうした一派が台頭し始め、後
に新マルサス主義(neo-Malthusianism)と呼ばれるようになりますが、ベサントもその創始者の一人とされていま
す(僕的には、そろそろ「アニー」とファーストネームで呼ぶには失礼な名声を持つ時期にさしかかって来たので、
以後は「ベサント」で統一します)。

 実のところ、ブラッドローとアニー・ベサント以前にも、新マルサス主義的な主張をした人がいました。アメリカの
内科医チャールズ・ノールトンは、マルサスの理論に共感した反面、「道徳的抑制」など不可能、もし家庭内で実
行すれば売春業が盛んになるだけ、とミもフタもないことを言ってのけ、それよりも「社会の貞節」を維持するため
に早婚を奨励する一方、子供を産み、育てるに当たっての両親の責任を重視し、責任が持てる以上の数の子供
を作らないよう医学的に受胎調節を行い、産児制限を実行するという、「妊娠しないようにヤりまくれ」 「非道徳的抑制」を提唱しました。

 そして1832年、ノールトン医師は自身の産児制限に関する意見を、「哲学の果実 Fruits of Philosophy」
言うパンフレットにまとめて出版しました。どのへんが哲学なのかは不明ですが、要は受胎調節と避妊法の解説
書です(ただし、現代的な観点からは効果は疑わしいです)。
 しかし、ワイセツなブツを出版したということでノールトン医師は逮捕され、重労働三ヶ月の刑を喰らいました。1
9世紀当時(今でもですが)、キリスト教会は宗派に関わらず「非道徳的抑制」には反対であり、司法もその影響を
受けていたので、これ以降、ノールトン医師に限らず、受胎調節を口に出した者の多くは刑務所に送られること
になります。

 その後、「哲学の果実」は、何度か出版→警察沙汰→絶版のサイクルを繰り返しますが、産児制限に関する斬
新な視点と、コワイもの見たさの好奇心(←どちらかと言うと、こっちが主と思われますが)でよく知られた書物とな
っていました。
 さて、イギリスでは1876年、ブリストルの出版社(ブラッドローとは無関係)が「哲学の果実」を再版しました。し
かしこのブリストル版「哲学の果実」は、ベサントも認めるように図版がかなりイカガワしかった。んでもって、あっ
という間に出版社は摘発され、直ちにパンフレットは絶版となりました。この件を知ったブラッドローとアニーは、
翌1877年、受胎調節による産児制限普及のため、ロンドンでこの「哲学の果実」の出版を企図します。
 で、先ずはナショナル・リフォーマーの版元に出版を依頼したのですが、ワイセツな本を売ったということで、発
売とほぼ同時にこの業者は摘発され、有罪判決を受けてしまいました。
 ブラッドローとベサントは、他人に迷惑をかけた事にひどく困惑しました。そして、イギリスには既に出版の自由
を認める法律があったにも拘わらず(そして、いかがわしい図版も無かったようです)、警察沙汰になったのを見
て、自分達の活動に対する旧社会や公権力からの重大な挑戦とだ受け取り、どうやら意地になったようです。ベ
サント博士の自伝を読んだところ、「哲学の果実」の出版にこだわった理由がはっきり書かれていないのですが、
その後の行動を見ると、そうとしか思えません。


 ブラッドローとアニーは、他人に迷惑をかけずに「哲学の果実」を出版するため、自分達の手で印刷を行い、小
さな書店まで開設しました。それから、全国セキュラリズム協会に迷惑をかけないように、協会の役職(ブラッドロ
ーは会長で、アニーは副会長だった)を辞任しようとしました。もっとも、協会の幹部達は二人の辞表を受け入れ
ませんでしたが。
 実際、ブラッドローもベサントも、「哲学の果実」を出版で逮捕されることは覚悟していたようです。しかしそれで
もベサントは、自分とブラッドローの名誉が傷つけられ、不当な中傷を受ける可能性への逡巡を自伝に書き残し
ています。
 当時ブラッドローは政界進出を考えていたし、ベサントも、女性としてシモネタで自分の悪名が高まることを恐れ
ていました。また、当時のイギリスの労働者階級の人々の中に、「哲学の果実」を買う余裕と、読んで内容を理解
する学力がある人は多く無かったでしょう。従って、「哲学の果実」出版は、寧ろ中流以上の人々への啓蒙と世論
喚起が目的だったと思われるのですが、受胎調節は微妙な問題であり、セキュラリズム支持者やナショナル・リ
フォーマーのスタッフの間にも、産児制限には賛成でも、「非道徳的抑制」については反対する人が多くいまし
た。
 また、ベサントと同じく、女性の人権向上を目指す女性達の間でも、「非道徳的抑制」が普及したりすれば、女
性は単なる性欲のはけ口に貶められると拒否反応を示す人もかなりいたので、支持が得られるかどうかは判断
しづらいところがありました。しかしブラッドローとベサントは、貧しい人々の生活改善の一助になれるなら、自分
達の名誉など大した問題ではないと決意を固めます。

 ベサントは、「哲学の果実」新版の前書きにこう書いています。
「我々がこのパンフレットを再版したのは、人々の幸福に寄与できる問題、神学的な問題であれ、政治的、社会
的な問題であれ、それを自由に議論する権利を何としてでも維持しなければならないと信じているからだ。個人
的に我々は、ノールトン医師の意見に全面的に賛成してはいない。彼の『哲学的な前書き』は、哲学的には間違
いだらけに思えるし、私達は二人とも医師ではないので、彼の医学的見解が正しいかどうかも分からない。しか
し、進歩とは議論を通してのみ達成できる。そして、異なった意見が抑圧される場所では、どんな議論も出来な
い。我々は、どんな意見でも出版できる権利を要求する。人々が疑問に思うことを全ての方向から考えて、正し
い判断を下す材料を持てるように、どんな意見でも出版できる権利を要求する。」

 そして1877年3月24日、いよいよ「哲学の果実」発売となりましたが、ブラッドローとベサントは、その前日、
権力への挑戦のつもりか、ロンドンの市役所と警察、それから用意周到にも事務弁護士に「哲学の果実」を送っ
て再版の意図を通知するとともに、もし逮捕するつもりなら、自分達は10時から11時までの間は店にいるから、
いつでも来い!とタンカを切りました。

 んでもって二人は、猥褻な本を出版した罪で4月6日に逮捕され、予審で起訴されることが決定した後、17日
には保釈されました。ブラッドローとベサントが逮捕されたニュースはすぐに全英に広まりますが、ベサントの自
伝によると、ベサントとブラッドローの元には、著名なフランスの経済学者Yves Guyot (1843-1928)、同じくフラ
ンスの法律家Emile Acollas (1820 - 1891)、さらにイタリア統一の大英雄ジゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe
Garibaldi 1807-1882 ベサントの自伝にはGeneral Garibaldiとしか書かれていないので確信はもてませんが、
多分)等の有名人から激励の手紙が届きました。どうしてイギリスの有名人の名前が無いのかは気になります。
ただベサントは、それら有名人からの手紙にも増して、様々な宗派の聖職者の妻達からの励ましの手紙に感激
したと述べています。

 さて、裁判は6月から始まりました。ブラッドローとベサントは、法廷戦術では無く、自分達の主張の正当性で勝
負するという考えのもとで、弁護士を雇わずに法廷闘争を行います。ここでベサントは、「もし法律家になれば凄
腕の弁護士か検事になれた(『A Short Biography of Annie Besant』より)」という才能を見せ付けました。
「生まれた子供達を、食料や、空気、衣服の欠乏で殺すよりも、受胎調節はずっと倫理的である。“we think it
more moral to prevent conception of children than, after they are born, to murder them by want of
food, air and clothing.” 」
 と、マルサスの人口論にのっとった主張を行いました。空気が欠乏する状況と言うのは想像できないですが、
恐らく、当時既に問題になっていたロンドンのスモッグのことを言っているのでしょう。加えて、パンフレットの前書
きにもあるように、出版の自由を侵害してはならないと主張することで、自由主義的な知識人達を味方につけま
した。




 まあしかし、避妊や産児制限には、現代でも宗教的観点から反対する人が多く、場合によっては、今でも刑法
に問われることがあるくらいです。反対の理由を極言すれば、「妊娠の心配も無くズコバコやりまくれば風紀が乱
れる」ということだと思いますが、まあ、これは確かに一面真実ではあるでしょう。そして、21世紀の世界よりも保
守的で非論理的な1870年代では言うまでも無いことですが、二人とも有罪を宣告され、それぞれ禁固6ヶ月に
罰金200ポンド、加えて、この種の活動を行わないという誓約保証金500ポンドの支払い(つまり計1400ポンド)を
命じられました。
 しかし、出版の自由を侵害していると支持者達が抗議し、裁判所もそれを認識していたので、すぐに判決は撤
回されました。まあ、ブラッドローとベサントの勝訴と言って良いわけであり、この一件により、ブラッドローととも
にアニー・ベサントの名は全国的に有名になりました。保守的な大新聞にはひどいことを書かれましたが、ブラッ
ドロー・ベサント版「哲学の果実」の売れ行きは好調で、40,000部売れたと言う事です。

 その後ベサントは、人口抑制に関する自論を「人口の法則 Law of Population」という著書にまとめ、非道徳
的抑制による産児制限理論を提唱しました。内容としては、「哲学の果実」の主張を踏襲する他に、人口過剰に
よって労働力が過剰になり、雇用側の買い手市場となって賃金レベルが下がり、そして子沢山が生活苦にさらに
拍車をかけてしまう。従って、産児制限を実行することにより、生活水準の向上と、将来的な賃金レベルの上昇
が望めるとの自説を展開しています。
 「人口の法則」は、恐らくは女性による産児制限の主張として最初のものだと思われ、「The Times」のような保
守的な大新聞は、「人口の法則」を「下品(incident)、俗悪(lewd)、不潔(filthy)、淫猥(bawdy)、ワイセツ
(obscene)」と口を極めて罵りましたが、産児制限を推進する知識人層には強い影響を与えました。アニー・ベサ
ントが新マルサス主義の創始者と言われるゆえんと思われます(実際、ベサント自身も、自伝の中で「新マルサス
主義」の語を使っています)。
 その後、「哲学の果実」がまた問題になったり、売れ行きが落ちたりすると、「哲学の果実」を引っ込めて「人口
の法則」を売ると言う、ナカナカにセコい商売をしています。

 ただ、ブラッドローとベサントの活動が、肝心の貧困層の産児制限に直ちに役立ったかと言うと、いささかギモ
ンです。と言うか、この問題は未だに解決していません。
 19世紀当時、既に現代と同じ避妊具はありましたが、かなり高価であり、人口抑制が必要であると考えられて
いた貧しい労働者階級が、気軽に買えるものでは無く、また、値段に対して信頼性がギモンでした(高価な割りに
効果は無い、と書きたかったのですが、寒いので止めときます)。
 21世紀の現代でも、特にカソリック圏では産児制限の普及に問題は多く、宗教界が避妊具の使用に反対する
くらいならまだしも、法的に規制されていたりもします。宗教界が反対する理由はここでは詳しく述べませんが、
僕のような不信心者の目から見れば、大して理論的とは思えません。それが正しいものでなくても、「聖書に書い
てある」とか「伝統だから」と言う理由だけを持ち出す愚かな人々が、未だに居ることには驚かされます。
 産児制限は、現代のアフリカの貧困問題に一つの解決策を与えるでしょうし、避妊具の使用と言う点では、アフ
リカで貧困と同じく深刻なエイズ感染の抑制にも役立つはずです。しかし、普及度はあまり高くない。産児制限論
者の戦いは、まだまだ続きそうです。




マーガレット・サンガー(Margaret Sanger 1879-1966)

 受胎調節による産児制限と言えば、普通はこの人の名前が出てくる。
 
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