アニー・ベサントその4

ブラッドロー、下院議員になる

 1880年1月、二度の落選を経てチャールズ・ブラッドローは、ノーザンプトン選出の下院議員に当選しました。
宗教界は、無神論者でバチあたりな産児制限論者である彼の当選に強く抗議します。選挙法すら理解していな
いのだから、この時期にセキュラリズムが盛り上がったのはけだし当然です。もっとも、現代でも保守派の政治
家は、カソリックの教区司祭を通じて票の取りまとめをやったりするらしいですが。
 そしてブラッドローは無神論者としての信念に従い、議員活動の開始にあたっての神への宣誓(Oath)を拒否
し、それに代わって国家や王室への忠誠を確約(affirmation 法的には宣誓 Oathとは別のものとして扱われる)
することを申し出ます(宣誓に関しては、キリスト教以外の宗教への配慮はありましたが、無神論者は想定されて
いませんでした)。
 当時は自由党政権で、グラッドストーン首相( William Gladstone 1809-1898)はブラッドローの考え方を支持し
ましたが、ブラッドローの無神論や産児制限の考え方への反発は強く、英国国教会、カソリック、保守党が束にな
ってブラッドローの敵に回りました。また、過去に共和主義に肩入れしていたことを持ち出し、君主制支持の立場
から反発する議員も居り、自由党も必ずしも全体がブラッドローを支持しているわけではなかったようで、結局ブ
ラッドローは議会から除名されました。グラッドストーンは、ブラッドローのために宣誓を国家への忠誠の表明に
代える「確約法案 Affirmation Bill」を提出しましたが、これは何度も否決されます。

 その後ブラッドローは、@除名→A再選挙→B当選→C宣誓を拒否し確約も認められない→@に戻る、のサ
イクルを4回繰り返し、その間、強引に登壇しようとして逮捕され、ロンドン塔に監禁されるという事件まで起こし
ます。しかし、セキュラリストは勿論、非国教徒の支持も得ることが出来ました。また、ブラッドローの議会復帰を
求める署名は24万人分に登りました。
 その後、すったもんだの末、1886年からブラッドローは議員活動を開始することが出来て、1888年には確
約法案も通過しました。ブラッドローの不屈の精神には敵対者ですら敬意を抱かざるを得なかったようであり、死
去する直前の1891年1月30日、ブラッドローの過去の議会追放が取り消されました。ブラッドローは大いに男
を上げたわけですが、もっとも、1884年の選挙では、ブラッドロー本人の知らないところで、不正な集票工作に
セキュラリズム協会が1500ポンドばら撒いたらしいです。ダメじゃん……。

 その頃ベサントは、ブラッドローの擁護と同時に、ナショナル・リフォーマー紙上でアイルランドの自治運動を擁
護する論陣を張っていました。そして、「ボイコット」の語源にもなった「土地戦争」のリーダーであるマイケル・ダ
ビットとも知り合いになっています。この当時、アイルランドの愛国者達は、イギリスのリベラルや急進主義者達と
連携しようとしていたのです。
 1882年5月6日、新任のアイルランド総督(Chief Secretary for Ireland)フレデリック・キャベンディッシュ卿
および副総督(Permanent Under Secretary)のトーマス・ヘンリー・バーク氏が、宣誓式の直後、アイルランドの
過激派に暗殺されました(フェニックスパーク事件)。ベサントは、アイルランド問題に関する講演中に知らせを受
け、大きな衝撃を受けました。キャベンディッシュ卿は、アイルランドの諸問題に関するグラッドストーンの宥和政
策の実行のために選ばれた人物だったため、政府も議会も態度は一変し、強硬で抑圧的な刑罰法案
(Coercion Bill)が可決されました。陰謀論者なら、イギリス政府の雇った殺し屋の仕業だ、とか言うのでしょう
が、テロリストの行動のタイミングの悪さは時代を問わないです。
 ベサントは、政府の対応を評して、
「『何かしなくてはならない』と感じて政府の行動を支持したが、『何か』をすることが賢明なのかを問うのを忘れ
た。」(Annie Besant 「An Autobiography」 1893より)
 とコメントし、
「私は、犯罪の処罰を、政治的矯正や煽動と混同させるパニックに抗議する。」
 と政府の方針に強く抗議していますが、その反面、暗殺の実行犯に対しても、
「率直な事実として、殺人者達は成功した。彼らは、イングランドとアイルランドを和解させる新しい政策を見た。
彼らは、正義の後に二国間の友情がついてくるのを知った。歴史上初めて、握手しようとした。これを阻止するた
め、連中は新たな亀裂を作った。彼らは、イギリス国家が架け橋をかけないように望んでいた。彼らは、友情の
道を血の川の向こうに押しやった。そして二つの死体を、和解と平和への開きかけた門に投げつけて閂にした。
彼らは成功したのだ。」
 と言って強い嫌悪感を示しています。ベサントは、この後も暴力的な政治活動に反対する強い姿勢を貫きまし
た。そして、この姿勢が失言を招き、インドにおけるリーダーシップを失う結果となるのですが、まあ、それは後の
話。
 1933年まで生きたベサントは、コリンズ一派の苛烈なテロ活動を経てアイルランドが自由を達成するのと、そ
の勝ち取ったばかりの自由国政府を打倒しようと、デ・ヴァレラ一派が反乱を起こすのとを目の当たりにしたわけ
ですが、終生、アイルランド人としての自覚を持ち続けていたベサントの胸中は、果たしてどんなもんだったので
しょうか? 


社会主義への傾倒

 さて、本題に入る前に、先ずヘンリー・ハインドマンという人物について説明しなければなりません。ベサントが
活躍していた時代、社会主義と言えばほぼマルクス主義ですが、イギリスにおいては、1881年にこのヘンリー・
ハインドマンが、最初のマルクス主義政党である民主連盟(Democratic Federation)を創設しました。

 このハインドマンと言う人は、富豪の家に生まれ、社会主義者的に言うと、そのために考え方が歪んでいたらし
いです。実際、若い頃は帝国主義万歳、民主主義反対で、当然、社会主義も敵視するジャーナリストとして活動
していました。1880年には無所属で下院議員に立候補しましたが(←考え方がエキセントリック過ぎて保守勢力
も彼を受け入れなかった)、落選して、かなり落ち込みました。
 そして、ここでハインドマンは何か悟りを開いたようです。パリ・コミューンの話に感銘を受けたからとも、マルク
スの後援者だったフェルディナンド・ラサール(Ferdinand Lassalle 1825-1864)の、恋のライバルと決闘して殺さ
れた人生に範を取った小説に感激したからとも言われていますが、とにかく急にマルクス主義者になったハイン
ドマンは、その有り余る行動力でもって、1881年6月7日、イギリス最初のマルクス主義政党「民主連盟」を設
立しました。
 この転換ぶりの理由が何であれ、議席を獲得出来なかった時に「国民がアホや!」と言う某国に多い人々と違
って、ハインドマンは、少なくとも選挙民のではなく自分の考え方がおかしいということを理解したようです。なお、
ずっと後に第一次世界大戦が始まると、ハインドマンは、労働者の国際的な連帯を謳うマルクス主義とは相容れ
ないはずの国粋主義を唱えます。柔軟な考え方の持ち主なのか、単に変わった人だったのか、判断しづらいで
す。

 その一方で社会主義者達は、ハインドマンが社会主義を嫌っていたことを忘れておらず、当初は民主連盟への
参加を拒否し、あのフリードリッヒ・エンゲルスも協力を拒みました。そのためハインドマンは、社会主義色を薄め
た綱領を掲げることで、社会主義者以外の支持を得ることに成功し、さらに、ハインドマンは持ち前の行動力と雄
弁さで何人かの大物社会主義者を引き込むことに成功したので、なんだかんだ言いつつ、民主連盟はかなりの
支持を集めました。
 1884年、民主連盟は「社会民主連盟(Social Democratic Federation, SDF)」と名を代え、マルクス主義的な
綱領を掲げて再出発しますが、この頃になると、ハインドマンの独裁的な組織運営、暴力的な発言、内輪の討論
会の内容ですら制限するマルクス主義盲信、その一方で労働組合を軽視し、労働条件や生活条件の改善をなお
ざりにする方針が反発を買います。そして、1884年末のSDFの理事会ではハインドマンの信任投票が行われま
すが、十数人中、ハインドマンへの信任はわずか二票…。それでも彼は辞任を拒否したので、多くのメンバーが
SDFを離脱しました(その中にはエイブリング夫妻やバーナード・ショーも居ます。ベサントもSDFに加入していま
したが、深入りはしませんでした)。

ヘンリー・メイヤーズ・ハインドマン
(Henry Mayers Hyndman 1842-1922)

 イギリスにおけるマルクス主義運動の先駆者である
が、独裁的な組織運営で多くの離反者を生み、結局は
離反者達の運動の方が強力になった。なお、カール・マ
ルクスの相棒エンゲルスは、ハインドマンを支持したこ
とは一度も無い。一応は善意の人のようですが、かなり
変わっています。




 当初、ベサントは社会主義に興味を抱いては居なかったようです。パリ・コミューンの闘士として有名だったルイ
ーズ・ミッシェル(Louise Michel 1830-1905)の社会主義に関する講演会に参加し、ナショナル・リフォーマーにも
取り上げていますが、ルイーズ・ミッシェルという人は本来アナーキストであり、その本質を見抜いたのか、全く感
銘は受けなかったようで…。
 ただ、社会主義者が説く、土地や生産手段の公有化という手段については、貧困の解消になるかも知れないと
いう理解を示しています。そもそもイギリスでは、不動産を所有している人間なんて戦間期になるまではほとんど
居なかったので、こういう手段を行使しても、損をする人間はほとんど居なかったと思われたのでしょう。しかし、
すっからかんになるまで金持ちをムシッて貧者にばら撒いたところで、良くて元金持ちが貧乏人の列に加わるだ
けという事実は理解していたようですし、革命だの何だのと言う暴力的な主張にはついていけないと考えていまし
た。

 また、全国セキュラリズム協会は政治団体では無いし、「自由思想(宗教関連の言葉ですが)」を掲げてもいる
ので、協会員やナショナル・リフォーマーのスタッフの中には社会主義の信奉者もいたのですが、社会主義者達
がブラッドローを敵視して色々と誹謗していたので、ベサントも含め、概してブラッドローと個人的に親しい全国セ
キュラリズム協会の大物達は、社会主義者達を(そして当然、社会主義そのものも)嫌っていました。
 穏健な急進主義者と見られていたブラッドローは、急進主義を「プチブルの革命ごっこ」と見る社会主義者(と言
うかマルキスト)とはもともと相性が悪かったようです。ブラッドロー自身も、「個人主義(Individualism)」を信条とし
ており、かけ離れたところにある社会主義に不信感を抱いていました。

 ベサントがハインドマンについて興味を持ったのは、自伝によると、民主連盟(←SDFに改称する直前)の機関
紙「ジャスティス Justice」の1884年2月3日号に掲載されていた、ブラッドローを攻撃する記事を読んだ時の
ようです。これたけでもベサントが腹を立てるのに十分でしたが、そればかりでなく、ハインドマンの、フランス革
命よりも「血ぃパッパな革命 Bloodier revolution」の予言と、「目的のためには手段を選ばず」の暴力的主張が
書かれていました。ハインドマンは、ジャーナリスト時代にイタリアとオーストリアの戦争を前線取材し、その悲惨
さにショックを受けて体調を崩してしまったらしいのですが、それでも尚且つ暴力革命を唱えている。これもある
種の信念でしょう。
 ベサントはこれで社会主義にかなりの嫌悪感を抱き、暴力的手段を行使する者こそが、社会の最大の敵であ
る、と反論しました。その後「ジャスティス」には、一転して暴力の行使を非難する記事が掲載されたらしいです
(これはベサントの反論が効いたと言うよりも、既にしてハインドマンの主張について行く者が少なかったと見るべ
きでしょう)。

 そして4月17日、ロンドンでハインドマンとブラッドローの公開討論会が開かれましたが、そこでハインドマンの
演説を聴いたベサントは、労働階級の生活条件の改善に関しては、社会主義者の主張が実践的で分があると考
えます。また、ハインドマンもさすがにこの場では血ぃパッパな話はしなかったようで、ベサントは、ハインドマンに
ついてかなり好意的な印象を書き残しており、
「イングランドには、ハインドマン以上に献身的で自己犠牲的な社会主義者は居ない」
と、褒めています。
 またブラッドローへの攻撃も、悪意から出たものではないと理解を示しました。だだし、軽率さ(hasty)と偏見の
ある主張(prejudiced assertion)のせいだと言っている。また、皆若いうえに、安月給の厳しい労働条件の下で
乏しい余暇しか学習に当てられないから、との理解は示しているのですが、社会主義者全般に対しては、
「議論の中での抑制し難い暴力性、反対者の演説中の絶え間ないヤジ、事実認識の不正確さ」
 と結構辛い批評をしています。別にこれは社会主義者だけに当てはまることではありません。保守派にだって
当てはまる。ハインドマンなんて、全人生を通じてこの調子です。なんと言うか、左側にであれ右側にであれ、翼
の生えている人々の性質は昔も今も変わらないようです。いや、もしかしたら、こういうのが伝統になっているの
かもしれません。

 ま、それはともかくとして、ベサントはハインドマンの演説を聴いて、社会主義に共感を抱きます。そして、社会
主義者達が労働階級の権利のために奮闘しているのに対し、ベサントは、現在の自身の活動が、イギリスにあ
またいる貧しい人々の役に立っているのかどうか疑問に感じます。確かに、当時セキュラリズムは空前絶後の盛
り上がりを見せており、全国セキュラリズム協会の幹部としてベサントは忙しい日々を送っていました。しかし、セ
キュラリズム協会は大衆向け教育講座に重点を置いていました(←と言うか、もともと政治団体では無い)。
 ベサントもまた、講演会や教育講座で活動していました(←当時、講演会は一種のエンターテイメントでした)。
「ナショナル・リフォーマー」におけるジャーナリストとしての活動でも、イギリスの対外政策批判やアイルランド問
題がメインになっていたようです。どれも意義ある立派な仕事ですが、確かに、貧しい人々を直接救うものではな
いかもしれません。

 また、当時は労働時間の制限が問題になっていましたが、議会では一日の労働時間は12時間との議論がなさ
れていました。もちろん、当時既に労働時間を制限する法律はありましたが、対象は少年と女性であり(しかも、
あんまり守られていない)、成人男性の労働時間に関する規制はなかったのです。
 まあ、12時間で制限したつもりのあたりに、当時の労働条件の恐ろしさが垣間見えますが、ベサントは12時
間労働を残酷だとして、週休一日、ウィークデーは8時間、週末は6時間と提言していました。その一方ブラッドロ
ーは、恐らく、個人主義者としての信条から雇用側の啓蒙を待つべきと考えたのか、労働時間問題に政府が介
入するのに反対でした。
 これでは、かつて「貧乏人の子沢山」を改善すべく、ブラッドローとともに「哲学の果実」裁判に臨んだ事を思い
出し、ベサントが、ブラッドローに(そしてセキュラリズムや、ナショナル・リフォーマーが説く急進主義に)淡い失望
を感じたとしても、それは仕方が無いでしょう。
 実際ベサントは、ブラッドローについて「世論の変化に気づかず、手法を変えようとしなかった」と、やんわりと非
難しています。とは言え、こういう非難はいささか公正さを欠くように私には思えます。いかなる迫害にも負けず無
神論を貫いた信念の人、チャールズ・ブラッドローと、過去の考え方には囚われず、何が最適なのかを考え続け
るベサント博士とは、そもそもの生き方が違ったのではないでしょうか。


 社会主義に興味を抱き始めたのと同時期、ベサントは、かのノーベル賞劇作家バーナード・ショーと出会います
(←当時はまだSDFのメンバーだった)。講演会の最中にばったり出くわして話をしたらしい(当時は、どちらかと言
うとベサントの方が有名人でした)。この時、ウケを狙おうとしたのか、ショーは自分のことを「loafer (怠け者)」と
言ったため、「怠け者は大嫌い」と言うベサントは怒りのツボを刺激され、どうやらショーをナショナル・リフォーマ
ーの事務所に連れ込んで、ガミガミと説教に及んだようです。

 ベサントはショーについて、
「最も輝かしい社会主義の文筆家の一人で、最も腹立たしい男だ。人をかなり本気で『イライラ』させる天才で、な
らず者だと自称することに情熱を感じている人 one of the most brilliant of Socialist writers and most
provoking of men; a man with perfect genius for "aggravating" the enthusiastically earnest, and with a
passion for representing himself as a scoundrel.」(Annie Besant 「An Autobiography」 1893より)
 と評しています。確かに、バーナード・ショーは毒舌でも有名です。

 一方、バーナード・ショーはベサントについて、
「遠征軍のように、いつも前へ出ていた。どこからか我々の支持者を集め、支部も作った。そして大抵、誰かと喧
嘩していた。 "a sort of expeditionary force, always to front…, carrying away audiences for us…,
founding branch…, and generally…taking on the fighting…"」
 と、褒めている(多分、フェビアン協会での活動に関してでしょう)。しかし、コリン・ウイルソンの「オカルト」による
と、ずっと後になって、ショーはベサントについて、昔から物事を首尾一貫して考ていない、とも評しているようで
す。はっきり言って、僕はバーナード・ショーの毒舌は好きではないのですが、これらのベサント評は、なかなか
当たっていると思います。

ジョージ・バーナード・ショー
(George Bernard Shaw 1856-1950)

 1925年ノーベル文学賞受賞。有名なの
で説明は要らない人。どうしても説明、と言
うならば、ミュージカル「マイ・フェア・レデ
ィ」 の原作「ピグマリオン」を書いた人。








ベサントの男性関係について

 さて、ベサントは、バーナード・ショーの愛人とか情婦とか言われていますけど、場面がベサントとバーナード・シ
ョーの出会いになったので、ここは一つ、ベサント博士の男性関係に関する話を。
 
 1880年代まで、結婚したフランク師以外にベサントが関係したと噂されているのは、ブラッドロー、エイブリン
グ、そしてバーナード・ショーです。ベサント博士は、フランク師と正式に離婚していないので、どれもこれも不倫
みなされます。

 まずブラッドローですが、彼は一時、都合で夫人と別居していた時があり、その時ベサントは、娘とともに彼の
家に転がり込んでいたと言われています。また、これは中傷の類ですが、セキュラリズムに敵対的な人々は、ブ
ラッドローとベサントの関係を色々と取り沙汰していたらしいですが、一般には恋愛関係ではなかった、とされて
います。ただ、私見では、何か色恋沙汰があったとすれば、相手はこの人かと。

 で、次にエイブリングですが、ベサントは確かに彼に好意を持っていたようですが、エイブリングがベサントに好
意を持っていたかははっきりしていません。しかしエイブリングは、一時ベサントの家に転がり込んでいたことが
あります(←エイブリングとは、確かにこういうズーズーしいことが臆面も無く出来る人です)。また、エイブリングが
セキュラリズムや社会主義に染まったのは、ベサントの影響によるものと考えられており、少なくとも、エイブリン
グはベサントに敬意は抱いていたでしょう。ただ、これをもって二人が愛人関係にあったとする確定的な証拠は
無い。それに、ベサントがエイブリングを高評価しているのは、あくまで彼の才能を評価してであって、ベサントの
性格からして浪費癖や女癖には呆れたはずです。
 ただ、エレノア・マルクスを巻き込んで一時三角関係のようになり、エレノアとベサントは仲が悪かったと言われ
ています。

エレノア・マルクス
(Eleanor Marx 1855-1898)
カール・マルクスの末娘。ロンドン出身。16歳の時から、父の秘書役を務
めていた。1885年から考え方が似ていたエイブリングと付き合い始め、
以後、不幸な人生を送ることになる。

 
 で、最後にバーナード・ショーですが、相手が相手だけにこれが一番有名です。
 コリン・ウイルソンは、著書「オカルト」の中で、ベサントはバーナード・ショーの愛人として浮名を流していたが、
ショーとの関係の破局に傷ついてオカルトにはまった、と書いています。コリン・ウイルソンの説が妥当かどうか
はともかく、この話はわりと有名なのですが、資料は少ないです(まあ、ブラッドローやエイブリングとの関係にして
もそうですが)。
 そこで、日本バーナード・ショー協会にベサントとの関係について質問したところ、この時期のショーの私生活に
関しては不明な点が多く、協会として公式見解は持っていないが、個人としての意見なら、と言うことで、和歌山
工業高等専門学校一般科目教授、森川寿先生よりご返事をいただきました。森川先生、ありがとうございまし
た。「ナンセン」の項で、バーナード・ショーのことを口ばかりのバカではないか、などと書いていることを黙ってい
たことも、併せてお詫びいたしますm(_ _)m。
 
 森川先生のメールを要約すると、ショーは女たらしとして有名だった(エイブリングとどこが違うのかと言うと、ま
あ、何かが違ったのでしょう。いわゆる「人徳の差」かも知れません)。そして彼の29歳の誕生日である1885年
7月26日、ジェニー・パターソンという女性と関係を持ったことが日記に記されているそうですが、このパターソン
嬢がストーカー化して後々までショーに付きまとったようです。1880年代後半より、ベサントとショーはかなり親
密に付き合っており、パターソンが二人の関係を疑って揉め事になったらしいです。ただ、ショーの研究家A. M.
Gibbs教授は、ベサントとの関係は肉体関係までは無かったのではないか、と言っており、愛人とか情婦とかは
言い過ぎであろうとのことです。しかし1887年初め、ベサントがショーに結婚を求め、ショーが拒否したので二人
の関係は冷えました。そしてこの時、お互いに書簡類を破棄したので、ベサントとショーの付き合いの詳細は不
明ということです。

 僕にしてみれば、ベサント博士がだれぞと肉体関係になるのは勿論、結婚にかなり痛い目を見た後で、自分か
ら結婚を申し出ることすらも信じ難いのですが、まあなんと言うか、「友達でいましょう」の場面だったのでしょう。
また、誰かが騒いでウワサが一人歩き…と言うのは、確かにありでしょう。僕も、いささか『冷静さ』を欠いている
奥さんが浮気を騒ぎ立て、無実の善良な旦那さんと、その受け持ち学生全てに迷惑がかかった例を知っていま
す。と言うか、迷惑がかかった一人だったりします。

 ただ、ブラッドローに対する友情が自伝の中ではっきりと書かれているのに対し、エイブリングやバーナード・シ
ョーとの関係については触れられていないので、既に故人だったブラッドローにはあまり遠慮せず、存命中の二
人には遠慮したのではないか、と言う憶測以上のイカガワしさを感じなくも無いです。

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