トロンプその3
アルマダの来襲

 「第二のアルマダ」来襲に、オランダは重大な脅威にさらされました。スペイン海軍、ポルトガル海軍(当時、同君
連合でスペインの支配下にあった)、ダンケルクの私掠船の混成部隊からなるド・オクゥエンドの艦隊は、ポルトガ
ルの「Santa Tereza (70門 乗員1000人)」以下、グレートシップ(←「戦列艦 Ship of the line」という言葉はま
だなかった)多数を含む大艦隊なのに対し、トロンプ指揮下の兵力はと言うと、わずか13隻。どれも小型で火力も
貧弱であり(←詳しくはこちらを参照)、最大の軍艦であるトロンプの旗艦「エーミリア」ですら、40門艦です。他に、
ドーバー海峡をパトロールしているヴィッテ・デ・ウィトの戦隊が5−6隻あり、ダンケルク封鎖中のヨースト・バンケ
ルト中将(Joost Banckert 1599-1647) の艦隊が12隻ありましたが、この併せて30隻少々と2500人ほどの水
兵が、当時のオランダ海軍の稼動兵力の全てでありました。
  
 そして1639年9月15日、イギリス南部、ビーチーヘッドの沖で、トロンプはスペイン艦隊を視認しました。白い
帆が水平線一杯に延々と広がる大艦隊(←単にまとまった隊形を取っていないだけか?)であり、さすがのトロンプ
も手が出せず、一隻をヴイッテ・デ・ウィトのもとに、もう一隻をバンケルトのところに連絡に出して集合を命じつ
つ、距離をとって接触を保つにとどめました。
 16日早朝、ヴィッテ・デ・ウィトの戦隊が合流すると、トロンプは、デ・ウィトと全艦長を旗艦に集め、会議を開きま
した。
 ここでトロンプは、待機してチャンスを待つべきだと言いました。水先案内人であるダンケルクの私掠船が脱出し
たと知った時、トロンプはさほど気にしておらず、
「戻って来れないようにするさ!」
とかうそぶいていたらしいのですが、スペインの大艦隊を目の当たりにして、トロンプはすっかり弱気になっていま
した。また、常識的に考えれば、トロンプの戦力でスペインの大艦隊に勝てるはずはないし、自分達が敗れれば、
もはや連邦共和国の海の防衛が無いも同然であることもよく認識していました。
 ところが、ここでデ・ウィトがトロンプに異を唱えます。何か策があったのかと言うとそうではなく、連邦共和国が危
機さらされている今、何であれ戦うのが海軍軍人の任務である!という無茶苦茶な理屈でした。しかし、温厚なトロ
ンプは、尊大な性格で押しの強いデ・ウィトとは口では勝負にならず、あっさり押し切られてしまい、急遽、攻撃開
始が決定しました(爆!)。世の中、善人は損をするというスネた人間も居ますが、決してそうではありません。ここ
でデ・ウィトに押し切られたからこそ、トロンプは大英雄となるのです。
 
 かくして、急遽戦いを挑むことになったオランダ艦隊でしたが、ここでトロンプとその部下達の素晴らしいシーマン
シップが発揮され、ちっぽけなオランダ艦隊が唯一勝っている要素である運動性を十分に活かすと、敵に接近しす
ぎないように、かつ、オランダの貧弱な大砲の射程内に敵を捉えながら、一日中砲撃を続けました。
 この意外な抵抗にド・オクゥエンド提督は混乱し、また、兵士を乗せた多数の輸送船を守らねばならないこともあ
って、戦闘を避けてオランダ艦隊を振り切ろうと、イギリスの海岸に向かいました。
 翌17日は風が無くなり、靄も立ち込めたので、戦闘は発生しませんでしたが、18日には風が強まり、天候も回
復。さらにはバンケルトの艦隊が合流したので、トロンプはさらに戦闘を続行します。一方、スペイン艦隊はさらに
逃げ続け(二隻が脱落したと言われるが不明)、ついにはドーバーの少し北にあるダウンズ泊地に逃げ込みまし
た。
 このダウンズ泊地は、陸地とグッドウィン砂洲にはさまれた狭い水路であり(下図参照)、確かにオランダ艦隊の
攻撃をかわせる天然の要害でした。また、時のイングランド国王チャールズ一世が親スペインだったため、保護が
受けられると期待したのです。
 一方、弾薬切れとなったトロンプは、ここで攻撃を打ち切りました。新来のバンケルトの戦隊を水路の南北に配
置して泊地を封鎖する一方、連絡がてらに損傷の酷い艦をデ・ウィトの指揮で本国へ帰投させ、自身は弾薬の買
い付けのためにフランスのカレーに入港しました。
 さて、スペイン艦隊のド・オクゥエンド提督はと言うと、水路を塞がれたので今度はダウンズ泊地から出られなくな
ってしまいます。



ダウンズの海戦

 さて、トロンプがダウンズに戻ってみると、サー・ジョン・ペニントン提督率いる25隻(34隻?)のイギリス艦隊が
到着していました。トロンプはペニントンと会見し、ダウンズ泊地内では交戦しないように求められます。
 事は一転、外交問題になりました。イングランド国王は、オランダにもそれなりに好意的ではありましたが、それ
以上に親スペインでした。しかし、当時はいわゆる「三十年戦争」の真っ最中で、スペインはあちこちで泥沼にはま
っており、ロコツにスペインに肩入れすることで、フランスなど反スペイン諸国と戦争になる危険は冒せませんでし
た。オランダとしても、イギリスとの戦争は避けねばならず、かといって、ド・オクゥエンド提督の艦隊を見逃すこと
は出来ません。そう言う訳で、外交も暗礁に乗り上げます。

 とは言え、連邦共和国はここが正念場だと分かっており、トロンプの増援要請にこたえて、損傷艦の修理を急
ぎ、使えそうな商船を片っ端から徴用して武装すると、逐次ダウンズ泊地に送り出しました。日を追うごとにトロン
プの戦力は強化されていきます。その一方、外交問題になったことを認識しているトロンプは、なんとかスペイン艦
隊をダウンズ泊地から引きずり出そうと、ペニントン提督を通じてド・オクゥエンドと連絡を取り、外洋へ出て戦えと
挑戦します。
 しかしこの時、スペイン艦隊のコンディションは最悪でした。追い込まれて士気は低下しており、弾薬は消耗して
いて、日を追うごとに食料も無くなっていきます。イギリスからまわしてもらえた補給もわずかで、助けにはなりませ
んでした。しかも、伝染病まで発生しはじめたので、ド・オクゥエンド提督は動くに動けない状態でした。9月27日、
ミシェル・ドーン率いる4隻のダンケルクの私掠船が、イギリスがこっそり手配した水先案内人の手引きにより、グ
ッドウィン砂洲を越えて合流しましたが、そのまま閉じ込められました。そして、トロンプの封鎖態勢が整っていない
間に、ダンケルク船14隻が母港に向かって脱走したので、差し引き−10隻です。
 反対に、オランダ艦隊の数は増え続け、10月半ばには軍艦95−96隻、火船10−11隻の大艦隊になりまし
た。トロンプは痺れを切らし、ペニントン提督と会見して攻撃の許可を求めますが、
「自分は最初に発砲した側を攻撃するように命じられている。」
と言われます。それなら、とトロンプは、小船をダウンズ泊地に侵入させて、スペイン側を挑発する作戦に出まし
た。すると案の定、スペイン艦隊は小船に発砲!
「どうじゃ、先に攻撃してきたのはスペイン側だ!」
と、ペニントンは黙らざるを得ませんでした。後は攻撃に都合の良い風を待つのみとなりました。

 10月20日の夜半、東風が吹き始めました。ダウンズ泊地を攻撃するには、絶好の条件です。そして21日朝、
トロンプは攻撃を開始しました。艦隊は6つの戦隊に分け、万一の場合に備えて一隊はイギリス艦隊の監視に残
し、二隊で南北の出口を塞ぎ、それぞれ、トロンプ、デ・ウィト、ヤン・エベルトセン(Johan Evertsen 1600-1666)
が指揮する三つの戦隊が、火船を先頭に立てて、北側の水路からダウンズ泊地に突入しました。
 不意を討たれたスペイン艦隊は大混乱。座礁したくらいならまだ良いのですが、海に飛び込んで泳いで逃げる者
も出ます(←次席指揮官のカスティーリャ提督はまさにこういう行動に出た)。そして、少なくとも10隻が戦わずして
降伏しました。
 トロンプは、ド・オクゥエンド提督の旗艦とその護衛を狙いました。トロンプはたちまち三隻を拿捕します。ド・オク
ゥエンド提督はピンチに陥りましたが、そこに現れたミシェル・ドーンが奮戦したおかげで窮地を逃れ、なんとかダ
ウンズ泊地から脱出することに成功しました。デ・ウィトは次席指揮官の戦隊を狙い、砂州に追い込んでほとんど
全部の艦を座礁させました。エベルトセンはポルトガルの艦隊に襲い掛かり、最大の「Santa Tereza」を火船攻撃
で爆沈させます。
 そんなこんなで、「第二のアルマダ」は壊滅。この戦場から逃れたのは僅かに4−8隻だけで、以前に脱出してい
た14隻を除き、実数に関しては諸説あるものの、オランダ艦隊は、40隻から70隻の艦船を拿捕、もしくは撃沈し
ました。以後何日も、イギリスとフランスの海岸には船の破片が打ち上げられたということです。スペイン側の戦死
者は少なくとも5200人。そして1800人が捕虜となりました。疫病による死者も数千人に上ったと思われます。そ
の一方、オランダ艦隊の損害は僅かに一隻(火船は損失にカウントしない)。死傷者100人程度であり、まさに圧
勝です。
 
 この「ダウンズの海戦 Zeeslag bij Duins」の結果、スペインの海軍力は壊滅しました。以後スペインは、オラン
ダに対する海上からの軍事作戦を諦めてしまいます。ダンケルクの私掠船も大きな損害を受け、意気阻喪して活
動は低下しました。また、スペインが受けた打撃は軍事的なものに留まりませんでした。翌年12月、リスボンでク
ーデターが発生し、ポルトガルはスペインから独立しましたが、このクーデターは、ダウンズの海戦で提供した艦船
が全滅して、いいかげん悪化していたポルトガルの対スペイン感情がさらに悪化したことが原因の一つです。
 反対に、オランダはその国際的地位を大いに高めました。デンマーク、スウェーデンその他の新教国が続々と同
盟を申し出て、オランダは一躍、反スペイン諸国の旗頭格となります。1641年には、親スペインだったはずのイ
ングランド国王チャールズ1世の娘メアリーと、次期オランニェ家当主であるウィレム二世が結婚することになった
のも、ダウンズの海戦が影響しているということです。
 勿論、マールテン・トロンプもオランダの大英雄となり、その勇名は全ヨーロッパにとどろきました。もっとも、イギ
リスでは、トロンプがダウンズで強引に戦闘に持ち込んだことにかなりの反発があり、その手腕は大いに認められ
たものの、評判は良くなかったようです。そしてこれは、最終的に第一次英蘭戦争に至る反オランダ感情の一つと
もなったようです。

  
ダウンズの海戦     トロンプの旗艦「エーミリア Aemilia」
1632年に就役し、1636年からトロンプの旗艦。

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