トロンプその4
栄光と暗雲

 スペイン艦隊を完膚なきまで叩き潰したトロンプは、押しも押されもせぬオランダの大英雄となり、その後十数年
にわたってオランダ海軍の最高司令官を務めます。また、いつの頃からかはっきりしませんが、トロンプは、水兵
達から「じいさん Bestevaer」と呼ばれるようになり、士官達もそう呼ぶようになって、いつしかオランダ海軍全体に
その呼び名が定着しました。そして、名指揮官に部下から与えられる非公式の称号となって、オランダ海軍に受け
継がれていきます。
 この「Bestevaer」という呼び名は、トロンプの戦術家としての才能よりも、むしろ善良で温厚な性格に対する賛辞
だと思われるのですが、士官も水兵も皆、トロンプを慕いました。ただ、こういう人望絶大なのは度が過ぎると良い
ことばかりではなかったようで、ヴイッテ・デ・ウィトはひどい目に遭ったりするのですが、まあ、これは後の話。
 1640年、トロンプは、今度はダウンズの戦いの功績を称えられ、フランス国王ルイ13世から勲爵士に叙されま
した。また同じ年、裕福な家の娘、Cornelia Teding van Berckhoutと結婚し、16000フルデンもかけた豪華な結婚
式を挙げました(銀の含有量で換算すると1フルデン=0.5-0.6英シリングであり、友清理士先生の著書「イギリス革
命史」にあるように、1英ポンド=2万円と計算すると、2500-2600万円になる。大英雄としての体面を保つのは大変
です)。
 ちなみに、1642年から息子コルネリス・トロンプが海軍入りしていますが、彼は身びいきを嫌い、息子と一緒に
勤務することを避けています。

 さて、1640年以降、連邦共和国では内部抗争が表面化しました。
 もともとオランダと言う国は、スペインの圧制に対して各州の議会が団結して独立を目指すという形で発生したた
め、共和制国家を目指していました。そして、ウィレム一世以来、代々のオランニェ家当主が独立運動を主導しま
すが、その地位は陸軍総司令官(Kapitien-generaal)、海軍総司令官(Admiraal-generaal)、そして各州の総督(=
連邦全体の総督職はまだ無く、それぞれの州の総督職の兼任)であり、あくまで連邦議会の承認の下での行政官
に過ぎません。しかし、市民や軍部のオランニェ家に対する信望は絶大であり、代々の当主もその信望に応えた
ので、それらの職には常にオランニェ家当主が指名されるようになったのです。
 しかし、次第にオランニェ家が事実上の王家となって行くに連れて(例えば、君主の一人称である「We」を用いる
ようになったこと)、連邦共和国の中心であるホラント州の、裕福な商人や貴族などの門閥市民からなる執政層(レ
ヘンテン regenten)と呼ばれる人々を主とした共和制を目指す勢力の反発が強まりました。1640年にオランニェ
家の次期当主ウィレム二世が、イングランド国王チャールズ二世の娘メアリーと結婚したことで、いよいよこれはオ
ランニェ家の王政を画策しているというので共和派は反発を強めており、どうやらスペインには勝てそうで外敵の
憂いも小さくなったこともあって、今後の国の行く末を巡っての争いが表面化したのでした。

 当時のオランダの体制では、連邦議会が外交と軍事に関する問題を管轄しており、内政に関してはそれぞれの
州の議会が担当していました。しかしながら、ホラント州は連邦共和国全体の人口の4割を占め、経済力の6−7
割を掌握しているため、連邦議会と言えどもホラント州の意に反する行動を取ることは出来ませんでした。
 また、軍事に関する問題、特にオランダの盾でもあり剣でもある海軍に関して言うと、海軍司令部はホラント州の
アムステルダム、ロッテルダム、ノールトカター(北西部担当の意味で都市名ではない)の三つと、ゼーラント州とフ
リースラント州に一つずつの五つあって、それぞれ独自の予算で運営されていました。従って、地元の経済力から
言っても、単純に三つが集中していることからしても、海軍内でホラント州の意向が優先されるのが当然でした。実
際、艦隊の最高司令官はアムステルダム司令部から出すことになっています。また、それぞれの海軍司令部の運
営にあたっては、一応は地元出身者以外の委員が加わることになってはいましたが、あんまり役には立っていま
せんでした。 
 それぞれ州議会はと言うと、主要都市のそれぞれと、門閥貴族がグループとして一票を持つ形式で運営されて
いましたが、都市の政治、特にホラント州の都市はレヘンテン(=つまりは共和派)が掌握していたので、例えオラン
ニェ家と言えども、なかなか対抗しづらいものがありました(オランニェ家は主にゼーラント州が地盤でした)。
 ただし、言っておかねばならないのは、共和派という人々は、確かに純粋な考えで共和制を目指していた人も居
るには居ましたが、大体においては自分達の利益と権勢のため、オランニェ家の強大化を避けたいというのがホ
ンネだったということです。また、オランニェ家に対する市民や軍部の支持は絶大であり、共和派とは、市民の支
持の無い少数派に過ぎなかったのです。

 で、トロンプはどちら側かと言うと、彼は熱烈なオランニェ家支持者でした。そのため、この頃から共和派とトロン
プの間にも軋轢が目立ち始めます。海軍における共和派支持者(海軍に限らず、軍部は大勢がオランニェ家支持
だったのですが)の代表がヴィッテ・デ・ウィトであり、彼との仲もしっくりいかなくなります。また更に、どうやらスペイ
ンに勝てそうだということが分かってきたので、連邦議会が艦隊を縮小しました。そのため、1642年ごろからまた
ダンケルクの私掠船の活動が活発化し、回り道であるスコットランド北方海域ですら私掠船との交戦が発生するよ
うになります。以前にも増してオランダ商船が私掠船の脅威にさらされる中、トロンプは艦隊の増強を求めて、連
邦議会と衝突しました。しかし、艦隊が増強されることは無く、結局、1646年に、トロンプが海上から支援する
中、フランス陸軍がダンケルクを占領するまで私掠船の脅威は続いたのでした。
 さて、そうこうしている間に時は流れ、スペインとの和平交渉も進展し、1648年1月30日、スペインとの間で「ミ
ュンスターの和約(Vrede van Munster)が締結され、連邦共和国は、スペインから独立承認を勝ち取りました。ち
なみに、このミュンスターの和約は、ウエストファリア条約に付属しているフランスと神聖ローマ帝国間の講和であ
る「ミュンスターの和約」とはまた別物です。
 かくして、平和到来、となったのですが、4年後に再びオランダは戦争に直面することになり、トロンプの運命も、
ここを境に暗転していくのです。


戦争の序曲
 さて、1640年代に入ると、イングランドではいわゆる「清教徒革命」の内戦へとつながる議会と国王の対立が深
まっていました。
 1642年2月、クーデターの雰囲気を感じ取った国王チャールズ一世は、王妃ヘンリエッタ・マリアと、皇太子(後
のチャールズ2世)、第二王子ジェームズを連れてドーバーへ移動します。そして、娘婿の父親であるオレンジ公フ
レデリク・ヘンドリクの支援を得るべく、先ずは王妃をオランダへ送り出すことにします。そして、この時の王妃の船
を護衛したのが、トロンプが指揮する艦隊でした。
 この時、ドーバーに上陸したトロンプはチャールズ一世と面会し、そこで海軍士官としての手腕を称えられて、イ
ングランドのナイトに叙任されました。素直にチャールズ一世のトロンプに対する敬意の表れでもあるのですが、イ
ングランド側の意向に反して、一般にイングランドの「領海」と見なされているダウンズ泊地に暴れこんで大破壊を
やらかしたトロンプは、イギリスではかなり評判が悪く、トロンプ自身も、その辺のことは認識していたらしい。チャ
ールズ一世としては、来るべき内戦でオランダの支援を得ようと考えて、オランダの大英雄であるトロンプに良い
顔をしたのでしょう。また、王妃のオランダ亡命を護衛してもらわねばならないという事情があったのも間違いない
でしょう。
 そしてこの年の8月、オランダから送られてきた武器弾薬も大いに利用して、チャールズ一世は議会派攻撃のた
めの兵を起こしました。イングランド内戦の始まりです。このイングランド内戦の経過については、ここで扱う事柄
ではないので省略しますが、結局、チャールズ一世は逮捕されて処刑され、内戦はクロムウェル率いる議会派の
勝利に終わりました。
 この内戦の間、トロンプはたびたび、王党派を支援する作戦行動に出動しました。武器弾薬を輸送する船団を護
衛したり、議会派の船舶を攻撃したりして何度もイギリスの沿岸に侵入し、最後には、脱出する王党派の亡命船団
をシリー諸島からオランダまで護衛したりしました。当然、イングランドの新政府(コモンウェルス)のトロンプに対す
る不信感は、彼がオランダ艦隊の最高司令官であることが外交問題になるほど強いものとなりました。
 
 オランダ国内でも、トロンプに対する逆風が吹いていました。1647年、総督フレデリク・ヘンドリクは死去し、そ
の息子で弱冠21歳のウィレム二世がその後を継ぎました。ウィレム二世は、妻がチャールズ1世の娘だということ
もあり、イングランドの王党派を支援するため、単なる物質的な支援にとどまらず、直接的な軍事介入まで計画し
はじめました。これはさすがに、オランニェ家支持者の間でも反対意見が多くあったのですが、このウィレム二世、
自分が王様だと勘違いするミスをついにやらかしてしまったようであり、1650年、ホラント州の反対派の一掃を企
図してクーデターに打って出たのですが、失敗。そしてこの年の11月6日に、24歳の若さで天然痘で急死しまし
た。その後の詳細は、「デ・ロイテルその2」の項を参照していただくとして、これを機会に、連邦共和国の内政はヨ
ハン・デ・ウィットを中心とする共和派が掌握することになります。このため、オランニェ家支持者であるトロンプを、
最高司令官の座から引き摺り下ろそうとする動きが明白になりました。


オレンジ公ウィレム二世(Willem II van Oranje-Nassau 1626-1650)
結局のところ、彼の最大の功績は、息子ウィレム三世を作ったことだった。


 さて、王政が打倒されたイングランドは、「コモンウェルス」として共和国となりました。そのため、同じプロテスタ
ントの共和制国家というので、コモンウェルスの楽天主義的な勢力はオランダに同盟(というか、ほとんど合邦)を
申し出たりします。
 ところが、オランダの市民も軍部も(後にオランダが遭遇する事態から考えればヘンな話ですが)、スチュアート王
家の方に親近感を持っており、コモンウェルスの外交団がハーグで暴徒に襲われる事件も発生します。この時点
で、当時のオランダが共和制国家に向かないことが分かります。
 オランダを牛耳る共和派にしてみれば、コモンウェルスとの関係上、負けた側である王党派との関係を断たざる
を得ませんでした。結局、これがまた怨念となって、スチュアート王家はオランダに刃を向けることになるのです(失
敗しましたが)。しかしながら、コモンウェルスとオランダはあくまで表面的に類似していただけであり、商業上の対
立、双方が互いに抱く不審感、フランスとの関係等々の事情により、イギリスとオランダは対立を深めていきます。
と言うか、最初からどうがんばっても仲良くできそうにはなかったのでした。
 で、詳細は「デ・ロイテルその2」の項を参照していただくとして、イギリスでは有名な「航海条例」が発令され、イ
ギリス軍艦によるオランダ商船への強引な臨検や拿捕が頻発したため、1652年、連邦議会は、それまでは縮小
していた海軍兵力を急いで増強するとともに、オランダ海軍とトロンプに対して実力で商船を守るように命じたので
した。英蘭間の緊張は一気に高まります。

 ただし、連邦議会も、長かったスペインとの戦争も終わってわずか4年のこの時点では、コモンウェルスと戦争す
る気はありませんでした。また、実際的にもまだ海軍の準備は整っていませんでした。
 こうしたあいまいな連邦議会の姿勢は、トロンプに与えられていた命令にも現れていて、コモンウェルスによる臨
検を阻止し、「いかなる無礼や妨害行為」に対しても抵抗せよ、との命令と同時に、決して先に攻撃してはならない
と厳命されてもいました。また、航海条例の争点の一つが、コモンウェルスの一方的な英仏海峡の主権主張と、そ
の海域におけるイギリス船に対する敬礼(←これ以前は、王族が乗っている船に出くわしでもしない限り、敬礼する
のは出入港時や港の中くらいでした)の義務だったのですが、トロンプは、敬礼するかどうかは彼の「常識と自由裁
量」に任せるとされていました。内戦中は、王党派の船に対してのみ敬礼せよ、と明確な命令を受けていたのとは
対照的です。加えて、「平和を維持するため、イングランドが王政時代だった時との同様の慣習に従え」というよく
分からぬ指示も付け加えられていました。

 そして1652年4月、オランダ商船の保護のため、トロンプは旗艦「Brederode」以下50隻弱の艦隊を率いて英
仏海峡のパトロールに出港しました。しかし5月22日、3隻のイギリス艦が、3隻の軍艦が護衛についたオランダ
のコンボイ(商船6−9隻。護衛が2隻とする資料もあり)と交戦するという事件が発生しました。商船の一隻はどう
やら金塊か何かを輸送していたらしく、敬礼を拒否した上に、荷物を守らんと断固として臨検も拒んだのが原因だ
と言われています。
 この事件では、双方に大した損害は無く、オランダのコンボイは無事に逃げ切りましたが、英蘭間の緊張は極限
に達しました。この時、トロンプの艦隊はダンケルクの近くに停泊中でしたが、本国より交戦の報せを受け、併せ
て、余計なゴタゴタを起こさないためにも、イギリスの海岸には近づくなという命令が与えられました。
 しかし、えてしてこういう時にこそ不運は重なるものであり、トロンプは大嵐に遭遇してしまいます。そしてトロンプ
の艦隊は、海峡をイギリス側へと流されて行き、仕方なくドーバーの沖に仮泊する破目に陥ったのでした。


De Brederode
800t、56門。1644年にロッテルダムで建造された、当時オランダ最大の軍艦。
最初はヴィッテ・デ・ウィトの旗艦だったが、1647年以降はトロンプの旗艦となった。
なお、それ以前の旗艦「エーミリア」の1647年以降の経歴は不明です。
 

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