トロンプその2
マールテン・トロンプ、最高司令官になる

 さて、トロンプは、ピート・ヘインの旗艦「Groene Draeck」の指揮を執ることになりました。トロンプはピート・ヘイ
ンに多大な敬意を抱いており、ピート・ヘインもまたトロンプの能力を認めていたので、二人の関係は非常に良好
だったのですが、その関係は長くは続きませんでした。
 ピート・ヘインの戦隊がダンケルク封鎖中の1629年6月17日、10隻のダンケルクの私掠船と遭遇し、戦闘中
にピート・ヘインは戦死してしまったのです。最高司令官就任からわずか五ヶ月後の悲劇でした。
 この時、トロンプとピート・ヘインは並んで甲板に立って、共に戦闘を指揮していましたが、ヘインは肩に致命傷を
受けて倒れ、トロンプに抱きかかえられながら息を引き取った……と、「Great Dutch Admiral」のトロンプの章に
は書いてあるのですが、同じ本のピート・ヘインの章では、ヘインは砲弾の直撃で体を真っ二つにされて即死した、
と書いてあるので、これは信用できません。しかしまあ、ヘインが旗艦であるトロンプの艦に乗船していたのは確実
なので、トロンプの目の前でピート・ヘインが落命したのは、まあ間違いないでしょう。
 ピート・ヘインの死後、恐らくは彼の遺志を継いだものと思われますが、トロンプは、海軍本部に対して色々と意
見を述べ始めました。兵員の規律を維持するためには、厳罰による威嚇では無く、先ずは給料と食料であること、
後方支援体制の改善、専門の海軍士官の養成等の、まことにもっともな意見でした。
 ただし、ピート・ヘインやトロンプのオリジナルな発想かと言うと、そうでもないでしょう。この時は既に死去してい
ましたが、先代の連邦共和国総督マウリッツ公は、陸軍において、まさしくこうした点の改革を行っていました。そ
のため、オランダ陸軍兵士の士気は極めて高く(←オランニェ家の信望は絶大であり、必ずしも給料のせいばかり
ではない)、強靭な戦闘力を発揮したおかげで、スペインの大軍を打ち破ることが出来たわけですが、ピート・ヘイ
ンは、陸軍と同じことを海軍でもやろうとしたのかもしれません。オランダ海軍の組織運営は、五つある海軍司令
部の連合体ということもあって、地元の意見や州間の軋轢に左右されやすく、また、マウリッツ公に限ったことでは
なく、オランニェ家は代々陸軍重視で、海軍には関心が無いと言うか知識が無いため、陸軍と比べて制度的に遅
れていたようです。
 ただ、こうしたトロンプの態度は、保守的な海軍司令部の委員達には不評でした(←オランダ海軍が強力で、十
分に任務を果たしていたことが、却って欠陥を目立たなくしていたのでしょう)。しかしそれでもなお海軍士官として
のトロンプの手腕を認めざるを得ず、ピート・ヘインの戦死後、トロンプは戦隊司令官となり、ダンケルク封鎖を続
行しました。また1630年、連邦共和国総督フレデリク・ヘンドリクの強い要望により、トロンプは終身の艦長ポスト
という名誉を得ました。当時のオランダ海軍における常設の艦長ポストは60人しかなく、それ以上は必要に応じて
商船の士官を軍務に就かせる体制をとっていたのです。 60人とは明らかに少なすぎで、このことをとっても、専
門の海軍士官が少ないという当時のオランダ海軍の組織的な欠陥がよく分かります。商船の船長や、西インド会
社で私掠船に乗っていたほうが稼げるので、よほどの危機的な状況ではともかく、軍艦艦長は貧乏くじと見られて
いたのかもしれません。

 1633年11月20日、トロンプは妻Brielseの死という不幸に見舞われました。さらに翌1634年5月30日、彼は
海軍を辞職して陸に上がりました。どうやらトロンプは海軍司令部の委員達に嫌われすぎたようであり、人事異動
の時に指揮する艦を与えられませんでした。温厚なトロンプもさすがに腹を立てたようで、提督や艦長達はトロンプ
をかばい、慰留に務めたにも関わらず、辞職してしまいます。
 その後、ブリエル出身の婦人、Alyth Jacobsdochter Arkenboudtと再婚し、しばらくぶらぶらとしていましたが、
幸か不幸か、スペインとの戦争が激化の一途をたどったため、さしもの海軍委員達も個人的な諍いにかまってい
られなくなりました。早くも1635年にトロンプに復職の要請があり、海軍中将(vice-admiraal)に任命しようという
申し出を受けたのですが、意地になっていたのか、トロンプは要請を拒絶します。しかし、友人の士官達の推薦も
あって、補給監督官(Directeur van 's Lants Equipagie)に就任し、欠陥だらけだったオランダ海軍の後方支援体
制の改善に尽力しましたが、保守的な海軍委員の非協力のため、なかなか思う通りにはならなかったようです。
 そして、補給体制の不備のおかげでついにオランダ艦隊は大失敗をしでかすのですが、皮肉なことに、これがト
ロンプの大出世のきっかけともなりました。
 トロンプが陸に上がっていた当時、オランダ艦隊の最高司令官を務めていたのはフィリップス・ファン・ドープ
(Philips van Dorp 1587-1652)大将というゼーラント州司令部所属の士官でしたが、1637年、ダンケルクへ向か
っているスペインのコンボイを待ち伏せすべく出撃したはいいものの、食糧不足により、コンボイを待つことなく帰
投を余儀なくされました。そして、艦隊がマース河口の泊地にたどり着いたちょうどその時、スペインのコンボイが
ダンケルクに入港し、補給物資やら増援の兵士やらを陸揚げしたのでした。おまけに、これに勢いづいたダンケル
クの私掠船が大挙出撃し、多数のオランダ商船が拿捕されてしまいます。
 さすがにこれは大問題となり、連邦議会はドープ以下の提督達を厳しく非難し、提督達は提督達で責任を擦り付
け合いました。そして、補給担当という職務上、トロンプはドープ提督から非難されましたが(ただし、ドープ提督は
トロンプの手腕を大いに買っていたようです)、ここは人望の差か、クビが飛んだのはドープの方でした。ドープぱ
かりでなく、オランダ海軍の上級将官の大方は解任されます。
 そしてフレデリク・ヘンドリク総督(←もともとトロンプを高く買っていた)はトロンプに対し、ホラント州および西フリ
ースラントの海軍大将(luitenant-admiraal van Holland en West-Friesland。ドイツのフリースラント地域と区別
するため、オランダのフリースラントは特に西フリースラントと呼ばれていた)として、オランダ本国艦隊の最高司令
官(opperbevelhebber)に就任するように要請します。トロンプ本人は、自分が最高司令官として海に出ることによ
り、後方支援体制の改善が遅れるのではないかという危惧(←正しかった)を持ったのですが、この要請を受け、1
637年10月18日、最高司令官に就任しました。また、トロンプの同郷の幼馴染で、同じく海軍の問題点を指摘し
たために冷や飯を食っていた(そして、性格の悪さ故にかばってくれる友人も居なかった)ヴィッテ・デ・ウィトが、海
軍中将(vice-admiraal)として次席指揮官に就任しました。
 この二人は総督の期待に応え、1637年から1638年にかけて、効果的にダンケルクを封鎖することに成功し
ました。

フレデリク・ヘンデリク総督
(Frederik Hendrik 1584-1647)
ヴィッテ・デ・ウィト
(Witte de With 1599-1658)
 トロンプの幼馴染で、優秀な海軍士官だったが、
厳格で尊大な性格故に人気は全く無かった。

ダンケルクの海戦

 1638年末、スペインは、北部ネーデルラントに対する海からの大規模な侵攻作戦を計画し、艦隊の準備を始め
ました。しかし、スパイ活動によりこの作戦はオランダ側に察知されることとなり、艦隊はスペイン北部、ラ・コルニ
ャに集結中、そして、浅瀬が多くて危険なネーデルラント沿岸での行動に備えて、水先案内のためのダンケルクの
私掠船とはビスケー湾で合流予定との情報がもたらされます。これは、オランダにとっては「第二のアルマダ」の来
襲であり、大変な脅威です。
 1639年初頭、ダンケルクを封鎖中のトロンプはこの情報を受け取り、一隻の船もダンケルクから出してはなら
ないとの命令を受けました。この時、トロンプの手元には旗艦「エーミリアAemilia」以下11隻(12隻?)の戦力し
かなく、増援を要請しました。
 しかし、増援が到着する前の2月18日、ミシェル・ドーン(Michiel Dorne)という人物に率いられた18隻の私掠船
艦隊(戦闘艦15輸送船5? 軍艦22隻? 軍艦16隻武装商船7隻?)が、封鎖を突破すべくダンケルクから出港し
ます。
 トロンプの戦力はかなり劣っていましたが、彼は敵艦隊の接近を冷静に待ち受け、迅速な艦隊運動で敵の戦列
を分断することに成功しました。その一方、旗艦「エーミリア」も本隊から分離してしまい、5隻の敵から三時間に渡
って砲撃を受けるなどピンチに陥ったりしましたが、最終的に私掠船艦隊の中の大型艦2隻(5隻説あり)を拿捕
し、敵を撃退します。私掠船艦隊は、拿捕された2隻に加えて、座礁した1隻を焼き捨てるとダンケルクに逃げ帰り
ました。
 この「ダンケルクの海戦Slag bij Duinkerken」では、トロンプは1隻の艦も失わず、人員の損失も少ないものでし
たが、スペイン側は3隻の船と1800人の人員を失いました。まさしくトロンプの大勝利です。これでトロンプの勇
名はいよいよ高まり、同盟国だったフランスの国王ルイ13世もトロンプの功績を称えて、彼にサント・ミカエル勲章
(Orde van St. Michel 後にデ・ロイテルもルイ14世から貰う)を授与しました。
 トロンプは最高司令官に就任して以来、戦闘中の艦隊行動の改良に着手しました。それまでは、艦長が個々の
判断で戦うことが多かったのですが、トロンプは、艦長達は提督からの指示に厳密に従うように求めました。これ
によって、個々の軍艦がばらばらに戦うのではなく、艦隊全体が相互支援しながら戦えるようになり、この「ダンケ
ルクの海戦」では、優勢な敵を見事に打ち負かしました。
 また、当時は無線機なんてものは無いわけで、提督が艦長達に指示を伝えるには、旗やランプの光、信号砲と
言った手段しかなく、望遠鏡を使っても信号を判読できる距離はそう大きくはありません。必然、艦隊に属する艦
船はごく狭い範囲に集まらねばなりません。これから20年ばかり後、縦列隊形を基本とする「ライン・タクティクス」
がイギリスで誕生し、帆船時代を通じての基本戦術となるのですが、「ライン・タクティクス」の先鞭を着けたのがト
ロンプであると言われる所以です。もっとも、トロンプは「ライン・タクティクス」のような戦術理論まで発展させること
はありませんでした。また、後に「ライン・タクティクス」で苦杯を舐めることになったのは、皮肉な話です。

ダンケルクの海戦

 さて、ダンケルクの海戦後、一隻の船もダンケルクから出してはならないという命令をトロンプは忠実に実行し、
艦隊のほとんど全戦力でダンケルクの封鎖にあたりました。このため、商船や漁船の護衛にまわす戦力が足りな
くなります。その結果、護衛無しでは出港を見合わせる船が急増したため、経済界からの圧力により、トロンプは
封鎖部隊の戦力を引き抜かざるを得なくなりました。そして、ダンケルクの私掠船はまさしくこの隙を突き、封鎖を
すり抜けてしまいました。まあ何と言うか、ダンケルクの封鎖はもともと根本的な解決ではなく、「第二のアルマダ」
の脅威を取り除くには、ラ・コルニャを強襲するくらいしか手は無かったのですが…。
 それはともかく1639年9月6日、アントニオ・ド・オクゥエンド提督(Antonio de O'quendo 1577-1640)率いる、
軍艦55隻(40隻? 45隻? 67隻?)、13000人の兵士を乗せた輸送船50隻(30隻?)のスペイン艦隊は、ラ・
コルニャを出港しました。連邦共和国の独立と生存は大きな危機に直面したのです。

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