デ・ロイテルその4
帰りは悪い・・・「ポートランド沖海戦」

 ダンジュネスの海戦の後、イギリス(コモンウェルス)は海軍政策の見直しを行いました。
 まず、いいかげん不満が高まっていた水兵の給与が引き上げられ、有能水夫(able seaman)は月24シリン
グ、一般水夫(ordinary seaman)は月19シリングとされました(ただし、これ以降はなんと1797年まで賃上げ無
し)。とは言え、相変わらず給与は遅配、と言うか、水兵の給与は現金払いではなく金券(Wedge Ticket 艦内に
現金を置くのはいろいろと不都合があるため)で行われており、政府は歳入の3/4を軍事費に投じながらも、金券
を現金化する予算が無かったのです。結局、水兵達は金券を質屋や金融業者に持ち込み、1/4くらい割り引か
れて現金にする他無かったのです。そんなわけで、この1653年には、4000人の水兵がホワイトホール宮殿に
乱入し、なんとオリバー・クロムウェルその人に銃を向けて未払い給与の清算を要求して、鎮圧のために陸軍が
四個連隊も出動すると言う大騒動が起きています。また、どうにか艦隊を動かす財源を確保しましたが、それや
これやで海軍の抱える負債は急増し、1660年には150万ポンド(半分は未払い給与)に達しました。なおオラン
ダ海軍では、時代によって幅はあるものの、水兵の給与は12−18フルデン(24−36シリング)で、時には遅配
もありましたが、常にきっちりと現金で支払われました。

 英海軍の首脳部人事も刷新されました。敗戦の責任を取って辞任しようとしたブレーク提督は慰留される一
方、ジョージ・モンク、およびサー・リチャード・ディーンの二人の将軍が新たに海軍大将(General-at-Sea)に任
命され、ブレークを補佐することになりました。
 また、ブレーク提督の進言により、商船の徴用が減少します(開戦後に建造した軍艦がぼつぼつ就役しはじめ
たので、この動きは英蘭両国であった)。こうした徴用商船は、船長(艦長)の自前であったり、船主の意向があっ
たりする上に、損傷の修理が自腹であることも多々あったため、とにかく損傷を恐れ、戦闘で積極的な働きは期
待できませんでした。お気づきの方も多いと思いますが、第一次英蘭戦争に限らず、17世紀の海戦で参加艦艇
が異常に多いのはこのような商船の徴用も原因の一つです。しかしブレークは、艦隊行動の統制上も、専門の
軍艦からなる小さな艦隊の方が、雑多な船からなる大艦隊よりも有効であると認識していたのです(以後、次第に
「大海戦」の参加艦艇は減少してゆきます)。さらに、徴用された商船でも、軍務に就く限り艦長と士官は国家から
の任命制とされ、船主の意向が排除されました。

 艦隊の編成も、慣習的な漠然としたものから改変されました。艦隊は赤、白、青の三つの分艦隊(Squadron)と
して編成され、赤色艦隊は最上席で大将(Admiral in chief ただし、1653年当時はGeneral-at-Sea)が指揮
し、青色艦隊は中将(Vice-admiral)、白色艦隊は少将(Rear-admiral)が指揮するものとされました。また、艦隊
全体で行動する場合は、白色艦隊が前衛、赤色艦隊が中央にあって全体の総指揮にあたり、青色艦隊が後衛
として配置されることになりました。なお、白と青の序列は王政復古後には反対になっているので注意して下さ
い。

 さて、トロンプ提督とオランダ艦隊は、往航の任務は完璧に遂行しました。しかし、「行きは良い良い帰りは悪
い」を地で行く形で、地中海、スペイン、カリブ海、アジアなど、色々な地域から帰ってくる商船の集結を待ってレ
島に滞在すればするほど、イギリス艦隊は整備と補給を受けてより強力になり、英仏海峡の通行は困難になると
いう戦略的劣勢が明らかになりました。トロンプの艦隊はと言うと、いかに友好的中立国の領土とは言え、外国で
は補給や整備もままならず、乗組員も疲労してゆきます。おまけにこの時、ビスケー湾周辺では、いわゆる「フロ
ンドの乱」の戦闘が発生しており、とても陸からの補給を期待できる状況ではありませんでした。
 そこでトロンプは、1月30日には出港するという決断を下し、期限に間に合わない商船は取り残されることにな
ったので、商船隊は最初の予定からかなり少なくなりました。

 一方、ブレーク提督は2月20日にテームズ河口から出撃しました。2月23日には、トロンプの護送船団がウェ
サン島沖を航行中との情報を得ました(しかし、付近を航行していた別のオランダの商船隊を見落としてしまっ
た)。ブレーク提督は部下に対し、戦いの第一目的は商船隊の捕獲ではなく、トロンプの艦隊の撃滅であると強調
しました。また、敵艦が航行不能になった場合でも、乗り込んだり捕獲しようとしたりせず、さっさと撃沈する(もし
くは放っておく)ようにとも指示しました。ブレークは、オランダの海軍力に打撃を与えれば、オランダ側は守勢に
回らざるを得ず、護衛無しでは商船隊を運航できないので、経済的にも打撃を与えられると考えていました(もっ
とも、多くの商船が拿捕されているので、この方針はあまり守ってもらえなかったようです)。

 2月28日の夜明け、イギリス艦隊82隻(77隻?70隻?)と、150隻−200隻のオランダ商船とその護衛80
隻はポートランドの南約20マイル沖で遭遇しました。軍艦の数ではどっこいどっこいですが、オランダ艦隊の人
員8600人に対してイギリス艦隊は12000人。砲の数はオランダ艦隊2450門に対し、イギリス艦隊は約280
0門(しかも、オランダの大砲よりも強力である)と、オランダ側は劣勢でした。
 オランダの護衛艦隊は、それぞれトロンプ、デ・ロイテル、エベルトセン、フローリスゾーン指揮の4つの戦隊に
分かれていて、商船隊の前方に固まって行動していました。一方のイギリス艦隊は、どういうわけかばらけてしま
っていて、ペン中将の前衛艦隊はオランダ艦隊を通り過ぎており、風上に間切って戻らなくてはならず、後衛のロ
ーソン少将の艦隊は遅れており、モンクの艦隊はさらに遅れていました(なお、この海戦にリチャード・ディーンも
参加していたのは間違いないようですが、彼がどの位置に居たのか明確にしている資料が見当たりませんでし
た)。その結果、ブレーク提督の艦隊(4−5隻のグレートシップを中心に、フリゲートと少数の武装商船併せて20
隻)だけが、オランダ艦隊の真正面に立つことになりました。

 トロンプは商船隊を退避させ、ブレークの艦隊に攻撃を集中しました。しかし、接近して切り込みを試みるも、例
によって大火力にさらされ、ブレークの艦隊の緊密な一列縦隊の防御を崩すことができなかったばかりか、水線
部を狙った砲撃で大被害を被りました。
 それでも、オランダ艦隊の戦いぶりも勇敢であり、ブレークの旗艦「トライアンフ」は三度の片舷斉射を食らい、
ダンジュネスに続いてまたもボコボコにされ、死傷者は100人以上に達し、ブレーク自身も腹部に重傷を負って
しまいます。そうこうしている内に、イギリスの前衛艦隊が戻って来るわ、後衛のローソン艦隊がブレークの艦隊
の脇を抜けて風上から攻撃するわ、モンクの艦隊が追いついて来るわで大混戦となりました。
 デ・ロイテルも奮戦し、44門搭載の大型武装商船「プロスペロス Prosperous」に二回の切り込み攻撃をかけて
制圧しました。もっとも、そのために主力から分離してしまい、エベルトセンの援護でどうにかピンチをしのぐ破目
となり、「プロスペラス」もイギリス軍に回収されてしまいました。
 そのうち、イギリスのフリゲートが商船団の方に向かっていったため、トロンプは戦闘を打ち切って商船隊の援
護に向かわねばならなくなりました。そして、トロンプがフリゲートを追い払ったところで一日目の戦いは終了しま
した。この戦いで、トロンプの艦隊は少なくとも8隻を失いました。イギリス艦隊の損害は、フリゲート「サムソン
Samson」が沈没、他に4隻が大破しただけでしたが、人員に損失が大きく、ブレーク自身の負傷や、モンクの旗
艦「ヴァンガードVanguard」でもミルドメイ艦長が戦死するなど、多くの士官を失いました。

 その後、28日の夜から3月1日にかけて、トロンプは残っていた軍艦と商船隊を再編成しました。イギリス艦隊
の優勢を認識したトロンプは、敵への再攻撃へ賢明ではないと判断すると、護衛艦隊を商船隊の後方に半月形
に配置して、追撃してくるであろうイギリス艦隊と商船隊との間に入りました。
 日が昇ると、動きの鈍い商船の足に併せた航海ではあるので、イギリス艦隊はあっさりと追いついてきました
が、トロンプとデ・ロイテルの奮戦により、イギリス艦隊は6回の突撃にもオランダ艦隊の戦列を突破する事は出
来ず、日没により再び戦闘は中断しました。この2日目の戦いのオランダ艦隊の損害は二隻だけでしたが、多く
の艦が、弾薬切れになりました。デ・ロイテルの艦もマストが折れ、曳航される破目となります。

 そして翌3月2日、オランダ艦隊は重大な危機に陥りました。弾薬切れになった軍艦は艦隊を離れてオランダ
に向かったため、その場に残った軍艦は僅か30−35隻。商船隊も一部が勝手にフランス領に逃走していて10
0隻ほどに減っており(逃げた商船の殆どは拿捕された)、残った商船でも、船足を早くするために積荷を投棄す
る船があって、大混乱になっていました。
 そこに再び、イギリス艦隊は攻撃をかけてきます。オランダ側にとって状況は著しく危険でしたが、ここはトロン
プの船乗りとしての手腕が勝ちました。トロンプは艦隊をグリ・ネ岬の沖合いの浅瀬に持ち込んだので、浅い海で
の座礁を恐れたイギリス艦隊は午後になって戦闘を打ち切り、翌日の戦いに備えて投錨したのです。オランダ艦
隊にとってはまさにぎりぎりのタイミングでした。残っていたオランダ艦の弾薬もまた欠乏しており、30分ともたな
かったからです。一方のブレークは、自身の重傷を押してまだ攻撃を続けるつもりでいましたが、トロンプは夜の
闇にまぎれて艦隊を出帆させ、折からの強風にも助けられてイギリス艦隊の追跡をかわすことに成功しました。

 こうして、三日間に及んだ「ポートランド沖海戦」はオランダ艦隊の大敗北に終わりました。実数に関しては諸説
ありますが、オランダ艦隊は軍艦8−12隻(4隻拿捕 5隻沈没 3隻焼失?)を失い、50隻(30−100隻)の商
船を拿捕されました。人的損害も大きく、死者だけで2000人に達し、1500人以上が捕虜になっています。一
方のイギリス艦隊の損害は、死傷者1000人(死者は300人?)、軍艦の損失1隻(多くても2−3隻)と軽微なも
のでした。少なくとも、英仏海峡の制海権を奪回した代償としては、小さなものでした。


ポートランド沖海戦(Battle of Portland もしくは Battle of Portland Bill) 1653.2.28の図
オランダ名「三日間海戦Driedaagse Zeeslag」

ジョージ・モンク(George Monck 1608-1670)

元々は陸軍の軍人であり、海軍に入ったのは1652年末から。162
9年にはオランダ陸軍に勤務していた。王党派支持者であったが、16
44年に議会派軍の捕虜となり、二年の幽閉の後に議会派軍に寝返
り、アイルランド侵攻やスコットランド侵攻でクロムウェルに認められ
る。1659年には王政復古を指導し、その功によりアルベマール公爵
に叙せられた。
サー・リチャード・ディーン(Sir Richard Dean 1610-1653)

清教徒の家庭に生まれる。若い頃は軍艦に乗っていたようだが、内戦
中は砲兵であり、海軍に戻ったのは1649年から。ちなみに、息子の
サー・アンソニーは著名な造船技術者であり、軍艦の倉庫スペースに
関する再設計を提言し、平均10週間程度だった洋上活動を、6ヶ月ま
で可能にしたと言う。

教訓

 「ポートランド沖海戦」の結果、トロンプ提督が大部分の軍艦と商船の半分を救った事で、オランダ政府一般と
しては、破滅的敗北は避けられたと考えたようです。しかし、オランダ商船は英仏海峡を航行出来なくなり、スコ
ットランドの北方を通過する大回りのルートを使わざるを得ず、貿易は、平時の50%以下に落ち込み、連邦議会
は和平を検討し始めます。
 そして、何度も繰り返し警告されていたことですが、堅牢で大火力のイギリスの軍艦は、オランダ艦隊には手に
余る敵だと言うことがまた証明されたので、さすがの連邦議会も慌てだし、30隻の新型艦建造プログラムを承認
しました。5つの海軍本部では無く、連邦議会の予算で建造が行われることになり、オランダ海軍史上、なかなか
に画期的な決定でしたが、イギリス風のグレートシップの建造を求めるトロンプの要請は却下され、スペインとの
戦争中、トロンプの旗艦だった44門艦「エーミリアAemilia」を改良した艦となりました。
 この決定には、浅海での行動の問題、士官や船員の習熟度、比較的安価で工期も短い、などの理由があった
と考えられますが、はっきり言って、これではただ損失を補填するだけで、オランダ海軍の体質改善には何の役
にも立っていません。おまけに、連邦議会の予算を使うというアイデアがヨハン・デ・ウィットとアムステルダム司
令部(この時代のオランダ海軍の新機軸は全て、ヨハン・デ・ウィットとアムステルダム司令部から出た)の発案で
あったため、他の4つの海軍司令部は、自分達の地位を低下させる策略だと考えました。さらに、建造プログラ
ムの内容に失望したアムステルダム司令部が、独自にイギリス式グレートシップの建造に着手したため、元々、
それほど協調しているとは言えなかった各海軍司令部の足並みはさらに乱れました。
 
 一方イギリスでは、「ポートランド沖海戦」の大勝利を、一気に戦争そのものの勝利に持っていこうという機運が
高まりました。しかし、4月20日、何を思ったかクロムウェルは、戦争の山場だと言うのに議会を解散し、夏の
間、連邦議会から送られた使節と会見して、和平の可能性を探り始めました。このためクロムウェルは、オラン
ダへの軍事的圧迫を怠ったと非難にさらされることになります。
 またイギリス海軍では、ブレーク、モンク、ディーンらの手により、これまでの経験を元に、3月、最初の「戦闘教
則(Fighting InstructionもしくはInstructions for ordering the fleet)」が発行されました。この戦闘教則には、
艦隊の火力を最大限に発揮するための理想的な隊形として、一列縦隊の「戦列 line」(←これ以前にも時々使わ
れていましたが)を、標準の艦隊の隊形に採用しました。先にも述べたように、艦隊を前衛(青)、中央(赤)、後衛
(白)の三つの分艦隊もしくは戦隊(Squadron)で構成され、それぞれの分艦隊の指揮官は列の先頭艦に座乗し、
他の艦はその後ろに縦列を作ることと定められていました。
 そして、理想的な戦闘態勢として、それぞれの分艦隊が横一列になって敵に接近し、提督が赤旗を掲げる、も
しくは信号砲を二発撃つのを合図に、各艦が一斉に90度回頭して縦列になり、その縦列を維持したまま敵と並行
して攻撃するという手順、「ラインタクティクス Line Tactics」が採用されました(←ただし、このような想定通りに
なった事例は少ないです)。
 このように隊形を維持したまま行動するのなら、運動性能が似通った船で艦隊が構成されるべきであり、それ
には、軍艦の系列的な建造が必要です。こうした考えも漠然とした形で以前から存在しましたが、「戦闘教則」に
も取り入れられ、軍艦は、搭載する砲の数(船体のサイズに比例する)によって6つの等級(Rating)に分けられま
した。また、ここで初めて「戦列艦 Ship of the line」という用語が登場して(ただし、「グレートシップ」の語に取っ
て代わるのは18世紀から)、戦列の弱点にならないよう、戦列に加わって敵と交戦するのは三等級以上の軍艦
のみとされました(ただし、第一次英蘭戦争中はまだ曖昧だった)。
 戦列にある艦長達は、指揮官の命令に無条件で従う事を求められました。しかし、当時はまだ信号法が未熟で
あり、それぞれ意味を持つ複数の小旗で複雑な信号を送る方法はまだ開発されておらず、マストの天辺に掲げ
た大きな一枚の信号旗で、単純で基本的な命令を送ることしか出来ませんでした。このため、複雑な指示が必要
な時は、戦闘中でもボートで艦長を旗艦に呼びつけるという恐ろしいことも行われていました。また敵手たるオラ
ンダ艦隊が、きっちりとした陣形を組んでいなかったことも手伝って、英蘭戦争当時はまだ、艦長の才覚と自己
の判断でどうにかしなければならないことが多かったし、またそうすることが認められていたようです。
 当時の信号法の限界のため、英蘭戦争の時代にはまだ曖昧な部分が残ってはいましたが、火力を最大限に
発揮できるこの「ラインタクティクス」は、非常に効果的な戦術であり、すぐに他国の海軍も真似をするようになり
ました。18世紀になって信号法が改良され、提督が個々の艦長の行動を指揮できるようになると、艦長達は厳
密に縦列を守ることを求められ、ラインタクティクスはイギリス海軍の金科玉条とされました。

 しかし、この縦列隊形は分断されるともろいうえに、戦列を維持するのに汲々として敵を取り逃がすということも
ありました。おまけに、組織の硬直化が進んだイギリス海軍では、戦果を上げても戦列を離れた艦長は処罰さ
れ、戦列にくっついてさえいれば、どんな大ポカでも許されるという事態も生じています。このため、少数意見なが
ら、このラインタクティクスは間違いであったという人も居ます。実際、七年戦争(1756-1763)以降、イギリス海軍
では戦列を崩して戦う例が増えました。ま、何事もほどほどに、ということでしょうか。

イギリス海軍の艦船等級(Rating) 1651年

一等: 砲60門以上←グレートシップ
二等: 50門以上
三等: 40門以上 ←フリゲート。当時は三等艦で、戦列に加えられていた。
四等: 30−40門 偵察、護衛用
五等: 20-30門 偵察用
六等: 6門以上 沿岸監視用

 時代が下るに連れて、等級の定義は変化していきます。例えば、1680年代では一等艦は80門以上でした。
また、当時はまだ定義が曖昧だったのか、資料によって砲の数に微妙に違いがあります。

目次へ
inserted by FC2 system