デ・ロイテルその3
英蘭開戦

  歴史の教科書では、イギリスの航海条例の施行が英蘭開戦の原因であるとされています。これはこれで正しい
のですが、航海条例が原因の全てではありません。

 イギリスで清教徒革命に続く内戦が始まると、議会派は「共和国」を名乗っていたオランダに対して支援を求め
ましたが、スチュアート朝支持のオランニェ家がオランダを支配している以上、支援してもらえるはずはなく、逆に
オランダは王党派に対して武器援助を行い、議会派が内戦に勝利しても、軍艦を送って亡命する王党派の人々
を護衛したりしました。従って、議会派支持者に反オランダ感情が高まるのは当然のことです。
 1650年11月にウィレム二世が急死し、デ・ウィットら共和派がオランダの実権を握るに至ったため、1651年
3月、「コモンウェルス」として共和制を確立していたイギリスは、オランダに再度の同盟の要請を行いました。イ
ギリスの一部政治家達はオランダを伝統的な友好国とみなしていたし、「共和国」を名乗っていて、しかも「真の
自由」を求める共和派とほとんど君主制に近い政治体制を求めるオランニェ家支持者とが対立するオランダの
内情に、自国の経験と通じるものを感じていたようです。
 しかしオランダは、この要請を拒否しました。現実には、オランダとイギリスの間には様々な対立があったので
す。

 オランダの宗教界やオランニェ家支持者は、国王の処刑に強く反発していたましたし、共和派主導の政府内部
でも、コモンウェルスの、スコットランドおよびアイルランドへの侵攻に対する強い警戒感がありました。
 また、一方のイギリス側(コモンウェルス)はと言うと、王党派を支援してきたオランダに対する反発があるのは
当然として、以前からあるオランダの海運業に対する反感と、内戦で疲弊した経済を速やかに回復させるために
は保護貿易主義を採らざるを得ない(←17世紀的経済理論)という事情が重なって、世界最大の海運国であるオ
ランダとの対立は避けられそうにありませんでした。
 1650年に、既にオランダの業者によってかなり侵食されていたカリブ海―イングランド本土間の貿易を許可
制にする法案(デ・ロイテルはこの許可を貰っていた)が制定されたのを手始めにして、1651年10月、ついに
「航海条例」の施行となったわけです。なお、英語では「航海法Navigation Act」と称されていますが、実質は条
例Ordinanceに属するものであるため、日本語では「航海条例」となります。

 国際関係の中でも、対立の火種がありました。当時、オランダにははっきりとした敵国は存在しませんでした
が、コモンウェルスの方はというと、ルイ14世治下ではっきりスチュアート家支持のフランスとの間で、宣戦布告
なき戦争の状態にありました。そのフランスの海外貿易は、オランダの海運業者に依存する割合が大きかったた
め、イギリス軍艦がフランスとの貿易に従事するオランダ船を臨検し、フランス製品を没収したり、船そのものを
拿捕するという事件が頻発しました(ビスケー湾で拿捕されたオランダ船は、1648年に12隻、49年22隻、50
年50隻と増加の一途をたどり、51年には126隻と急増し、開戦となる1652年には、年の前半だけで106隻
が拿捕された)。
 つまるところ、1650年の時点で戦争の火種は十分にあったわけで、イギリスの同盟の申し出こそ、最後の和
解のチャンスだったのではないでしょうか。

 イギリス軍艦によるオランダ商船への臨検や航海条例に対し、オランダ政府は当然、抗議します。しかし、交渉
は失敗(航海条例の撤廃を要求するだけで、何の付帯条件も申し出なかったから)。そのため連邦議会は実力で
商船を守ることにして、1652年4月1日までに150隻の艦隊を整備することを決定しました。
 イギリス側は、これを重大な挑発行為とみました。さらに、商船を守るためには当然、オランダの艦隊は、航海
条例でイギリス領と宣言されている英仏海峡をパトロールしなければならないのですが、このことがまた、コモン
ウェルスの主権に対する挑戦だとみなされました。さらにさらに、オランダ艦隊の最高司令官がマールテン・トロ
ンプであることが、イギリス側の不審をいっそう深めます。トロンプ提督はオランニェ家の信奉者である上に、16
39年にはダウンズ沖のスペイン艦隊を壊滅させ、1642年にはスペイン領ネーデルラント行きのイギリス商船を
拿捕し、1648年には脱出する王党派の船を護衛するなど、度々イギリスの「領海(=イギリス人が自国の領分で
あると考える海域)」を侵犯する常習者だったからです。
 連邦議会はトロンプに対し、イギリスの海岸には近づき過ぎるな、航海条例が要求しているイギリス国旗に対す
る敬礼を行うかどうかは、自由裁量に任せる(=イギリスとの対決を避けるためには明確に「やるな」とは言えず、
オランダの体面からも「やれ」とは言えなかった)、と指示していました。しかしながら、1652年5月22−23日に
かけて(イギリスの日付ではユリウス暦で-10日。イギリスの日付を使っている資料も多いので注意)、敬礼を要求
するイギリスの小艦隊と、敬礼を拒否したオランダの小艦隊との間で最初の戦闘が発生しました。
 続く5月28日、トロンプ提督率いる42隻の艦隊は、折からの嵐を避けるために、何を思ったか、イギリスはド
ーバーの近くの泊地に逃げ込みました。折りしも、少し北のダウンズ泊地には、ネヘミア・ボーン海軍少将率いる
9隻からなる戦隊が停泊中でしたが、ボーン少将は、トロンプの行動を一時的な避難として認めました。
 しかし、ドーバーの少し南、ライの泊地には、コモンウェルス海軍の総司令官、ロバート・ブレーク提督(正しくは
「将軍General at Sea」ですが、面倒なので提督とします)率いる12隻の艦隊が停泊中であり、こっちの方は、オ
ランダ艦隊ドーバーに現るのニュースに、直ちに出撃します。

 翌日、トロンプの艦隊はフランスのカレーに向けて出発していましたが、午後になってブレーク提督の艦隊に遭
遇しました。ここでブレーク提督は、三度の警告射撃を行って敬礼を求めるも、トロンプ提督は敬礼を拒否。あま
つさえ、旗艦「De Brederode」から実弾で片舷斉射をぶち込んだ(らしい)のでした。その後、5時間に及ぶ戦闘で
トロンプ提督の艦隊は2隻を失ってフランスの海岸に向けて撤退しました(ドーバーの海戦)。
 この後、事件の報復としてブレーク提督の艦隊は北上し、シェットランド諸島の近海で操業中のオランダの漁船
団を攻撃、護衛についていた軍艦12隻を拿捕し、漁船100隻以上を撃沈もしくは拿捕しました。ロンドンでは、
オランダの大使が戦争を避けようと交渉を求めていましたが、トロンプ提督の行動が問題となって最初から望み
は無く、オランダはイギリスに宣戦布告、7月8日、正式に戦争状態となりました。

 さて、戦争が始まったものの、オランダ海軍の態勢はかなりお粗末でした。5つの海軍司令部は、1652年4月
1日までに150隻の艦隊を準備することになってはいました。しかし、スペインとの和平が成立した後、どこも艦
隊を縮小していたので、開戦時の実質的な兵力は、小型艦や商船からの転用中心の70−80隻ほどでした。お
まけに、席次が高くて顔が広く、ツケ払いも利くロッテルダム司令部と、もともと財政的に裕福で、ヨハン・デ・ウィ
ットとも個人的なコネがあるアムステルダム以外の司令部は、艦隊の整備に十分な予算がありませんでした。オ
ランダという国家に金が無い訳ではありません。オランダという国家が州の緩やかな連合体であったことと、経済
力の大半をホラント州が掌握していたことに起因する格差です。また、50門以上の砲を装備していた艦がオラン
ダ艦隊には2隻しかなかったのに対し、イギリス海軍には、100門搭載の「ソブリン」を中心に21隻もありまし
た。
 1652年7月29日、デ・ロイテルは連邦議会よりVice-commandeur、 日本語では副戦隊司令官とでもすべき
役職、に任官するように要請されました。おそらく、海軍少将のやや下の地位だと思われます。デ・ロイテルにと
っては、海上生活からの引退を決めて一年もしないうちの出来事だったのですが、愛国心からその要請を受諾し
ます。で、彼に与えられた任務は、地中海通いの商船団が英仏海峡を通過する間を護衛することでした。いくら
護衛付きとは言え、確実に迎撃されるであろう英仏海峡に商船隊を送るなど、どう考えても無謀で危険ですが、
連邦議会はそうは考えなかったのでした。

 8月6日、デ・ロイテルは艦隊の集結地であるテキセル島に到着しました。この時、ブレーク提督率いる主力艦
隊が南下して帰途についており、出港した場合には、これと遭遇する危険は多分にありました。英仏海峡にはサ
ー・ジョージ・アイスキュー(Sir George Ayscue 1615-1672)率いる艦隊がプリマスにあるのみで、これはスパイと
して雇われたフランス人の監視下にありました。しかし、行動中のトロンプ提督の艦隊はと言うと、ブレークの追
跡は悪天候に阻まれて失敗していたうえに、北から逃げてくるオランダ船を護衛しなければならないので、アイス
キュー提督の艦隊に対する阻止行動が行えな無い状況であり、実際に、海峡を航行中のオランダ商船が何隻か
拿捕されているので、船団がこの艦隊に迎撃されるのは、ほぼ確実でした。
 このように、かなりの危険が予想されたにもかかわらず、デ・ロイテルに与えられた兵力は、小型艦ばかりが2
2隻と人員3300人。ほとんどが商船からの転用で、頑丈でもないし運動性も劣っていました。火力も低く、30門
以上の砲を搭載していたのは2隻だけ。人員や士官の数も不十分でした。旗艦となった「De Neptunus」も砲28
門、134人乗り組みで、商船の護衛には十分なように見えますが、イギリスの軍艦がオランダのものよりも大型
で火力も大きいことを考えると、はなはだしく弱体です。これを見たデ・ロイテルは、連邦議会に対してさらに10
隻の軍艦を要求します。そのため、最終的に艦隊は30隻(36隻との資料もある)に増えはしたものの、相変わら
ず戦力的には不十分でした。
 しかし8月21日、デ・ロイテルは不十分な戦力のまま、地中海行きの70隻(最初の予定では60隻だったが、
出撃前に増えたらしい)の商船を護衛して出撃しました。
 

ロバート・ブレーク
(Robert Blake 1599-1657)
 イギリスの海軍軍人。内戦中は陸軍を指揮しており、海軍
の将官に任命されたのは1649年から。しかし、帆船時代を
通じて使われるイギリス海軍の戦則や戦術ドクトリンの作成
に多大な貢献があり、また、第一次英蘭戦争、スペインとの
戦争、チュニスの海賊退治などで幾度も勝利を収め、イギリ
スにおける17世紀最高の海軍軍人とされている。

マールテン・トロンプ
(Maarten Harpertsz Tromp 1598-1653)

ブリエル出身。オランダ海軍の名将。幼い頃から商船に乗り、1637年に
海軍少将となる。1639年、ダウンズの海戦でスペイン艦隊を壊滅させ、
以後、オランダ海軍の至宝として絶大な信望を得た。1652年、ドーバー
の泊地でイギリス艦隊に対する敬礼を拒否し、第一次英蘭戦争の発端とな
ってしまう。ケンティシュ・ノックの戦いの後、オランダ海軍の最高司令官に
復帰するも、その戦いぶりは精彩を欠き、何度もイギリス艦隊に敗れた挙
句、1653年8月、狙撃を受けて戦死した。

プリマス沖海戦

 1652年8月26日、デ・ロイテル率いる30隻(36隻?)の軍艦と地中海航路の商船70隻は、プリマス沖でつ
いにサー・ジョージ・アイスキュー提督率いる38隻(40隻? 45隻?)の艦隊と遭遇し、「プリマス沖海戦(アイスキ
ューの戦い Ayscue's fightという皮肉っぽい名前で呼ばれることもある)」が発生しました。
 デ・ロイテルの艦隊は、船の大きさ、数、火力の全てに劣っていましたが、彼は交戦を避けようとはせずに突撃
します。一方、アイスキュー提督の行動は優柔不断であり、乱戦の末、デ・ロイテルの艦隊はアイスキュー艦隊の
二つの戦列を突破することに成功、アイスキュー提督は、夜の闇にまぎれてプリマス港に撤退しました。デ ・ロイ
テルの報告によれば、オランダ艦隊の損害は死者50人強を含む死傷90-110人。イギリス側の損害は定かでは
ありませんが、オランダ側よりもかなり大きかったのは間違いありません。双方とも、沈没した軍艦は無く、オラン
ダの商船隊は全くの無傷で英仏海峡を突破することに成功しました。デ・ロイテルはさらに、アイスキューの艦隊
を追撃し、火船攻撃でプリマス港を強襲する計画を立てていましたが、風が逆風になったので諦めています。そ
の後、往路の船団と別れ、当初の予定通り、地中海からの戻りの別の船団と会合すると、フランス沿岸を通過し
てブレークの艦隊を回避し、無事にオランダへ帰還しました。
 アイスキュー提督はオランダ艦隊に与えた損害を過大評価していて、彼も勝ち名乗りを上げはしたのですが、
商船隊に手を出せなかったことを考えると、明らかに戦略的敗北です。一方のデ・ロイテルはと言うと、ささやか
な勝利と言うことで本人はかなり控えめでしたが、優勢な敵艦隊を撃退して英仏海峡の強行突破に成功し、それ
でいて船団を完璧に守り抜いたことで大いに勇名を馳せ、ようやく内外でその名が知られるようになりました。

 しかし、一方で困った事態も発生しました。この勝利の結果、連邦議会はイギリス海軍の実力を完全に見くびり
ました。海軍関係者の中には当然、イギリスの軍艦が大型で火力も勝っていることを指摘し、イギリス式の大型、
大火力の軍艦の建造を求める声もあったのですが、デ・ロイテルの勝利の前に結論は棚上げにされました。さら
に、護衛さえつければ英仏海峡経由の西方への貿易ルートは安全であるという結論にも達したので、後に大きな
災厄を招くことになります。

サー・ジョージ・アイスキュー (Sir George Ayscue, 1615-1672)
 
 イギリスの海軍軍人。プリマス沖海戦でデ・ロイテルに敗れてイギリス海軍を追われ、スウェーデン海軍の軍事顧問となる。王政復古後、イギリス海軍に復帰して第二次英蘭戦争に参加するが、またしてもデ・ロイテルに敗れ、旗艦ごと捕虜となった。何かとデ・ロイテルには縁のある人だが、デ・ロイテルには遠く及ばない人物だったらしい。
 
ケンティシュ・ノックの海戦
 
 プリマス沖海戦で一躍、勇名を馳せたデ・ロイテルでしたが、これで昇進したわけではなく、相変わらずVice-
commandeurで、将官としては一番下っ端のままでした。デ・ロイテルは第一次英蘭戦争の主要な大戦闘全てに
参加していますが、現場の最高指揮官として戦いに望んだのはプリマス沖海戦だけであり、他は全て、他の提督
の指揮下に入っており、そんなに目立った活躍はしていません。とは言え、彼が参加した戦闘を紹介しないわけ
にも行かないので、このまま第一次英蘭戦争の話を続けます。

 さて、マールテン・トロンプ提督は相変わらずオランダ随一の名海将でしたが、戦争の発端を作ったドーバー沖
での行動が、過度に好戦的であったと厳しい批難を受けました(←これは正しい)。また、オランダの外務当局者
は、全面戦争を回避するためにも、責任を全てトロンプ一人に押し付けようとしました(←これは不当。外交的不
手際も多かった)。さらに、共和派の政治家達は、オランニェ家支持者の著名人であるトロンプを排除する機会で
あるとも考えました。一応、アイスキューの艦隊を抑止できなかったことが理由となりましたが、これらの事情でト
ロンプ提督は更迭され、代わってヴィッテ・デ・ウィト(Witte de With 1599-1658)が最高司令官に就任しました。
 デ・ウィトは、当時のオランダ海軍の英雄の一人で、海軍内部ではトロンプ提督に次ぐ重鎮でしたが、非情で厳
格な性格のため、およそ人望というものが全くありませんでした。この時も、旗艦「Brederode」に乗り込もうとし
て、乗組員から乗艦を拒否されるという事件が発生しています。これは、トロンプが水兵達から「Bestevaer(オラ
ンダ語で、じいさん、の意味)」と呼ばれて、絶大な人気があったのとは対照的です。ちなみに、「Bestevaer」と
は、当時のオランダ海軍の習慣として、水兵達が指揮官に送る非公式な称号のようなものとなり、大変な名誉だ
ったらしいです(なお、デ・ロイテルも後にこの名誉を受けています)。
 また、デ・ウィトは共和派の熱烈なシンパでした。まあ、そこのところが選ばれた理由でもあるのですが、人望の
無さに加えて、オランニェ家支持者が多い海軍士官の中で孤立していました(奇妙なことに、ウィレム一世以来、
オランニェ家は陸軍重視で海軍にあまり関心を抱いていなかった。反対に、共和派の急先鋒であるヨハン・デ・ヴ
ィットは海軍重視の政策をとっていた)。なお、デ・ロイテルは政治にとんと関心が無い完全な中立派でした。従っ
て、デ・ロイテルも海軍では少数派に属していましたが、ヨハン・デ・ウィットは、彼のそうした姿勢を好ましいもの
と考えていました。
 
 帰国したデ・ロイテルは、10月2日、旗艦を「Neptunus」から「Louise」という船に移し、デ・ウィト提督の指揮下
に編入されました。この統合によってデ・ウィト提督の艦隊は62隻、人員7千人となりました。一方、デ・ウィト提
督が対決しなければならないブレーク提督の艦隊は、いずれもオランダ艦より大型の68隻、人員一万人以上を
擁しており、オランダ艦隊の不利は免れ得なかったのですが、オランダの政治家達はまだイギリス海軍の戦闘能
力を過小評価していました。また、デ・ロイテルがアイスキュー提督の艦隊を行動不能なまでに撃破したものと頑
なに信じ込んでんており、行動可能なイギリス艦の数が少なく見積られていました。さらには、イギリスの海軍士
官達は、政治的な意見対立や個人的な遺恨で分裂しているという間違った観測もありました(←どちらかと言う
と、これはオランダ海軍の方に当てはまります)。

 しかし、さすがに現場の士官たちは問題点を認識しており、デ・ロイテルも、「グレート・シップ」がやってくるまで
もなく、イギリス艦が火力で勝っているのをはっきりと見ていました。オランダ海軍はそれまで、接舷切り込みを基
本戦術ドクトリンとしており、火砲はあくまで相手の運動性を削ぐためにマストや索具を破壊するための道具であ
って、船体を破壊して撃沈するような火力を求められていなかったのです。そして当然、砲術の研究や訓練は重
視されていませんでした。その一方、イギリス海軍は敵艦の船体を狙って砲撃する戦術を基本としてました。そこ
にもってきて、平均的に大砲はオランダのものよりも大きく、軍艦もより大型で、その分さらに大きな砲も搭載で
きるとくれば、商船からの転用で頑丈でない艦が多いオランダ艦隊が大きな被害を受けるのは確実でした。
 ニワトリが先か、タマゴが先かという感じの話ですが、小さめの軍艦で大きな砲を使用できないというオランダ
海軍の事情から脆弱なマストを狙うようになったのか、それともマスト狙いの戦術に満足して、大砲や砲術の改
良を怠ったのかは分かりません。実際、スペイン海軍相手にはたいてい勝ってきました。多分、その両方ではな
いかと思うのですが、何にせよ、このマスト狙いの砲術が、船体を狙うイギリス式の砲術に勝てないことは、後の
世のイギリス海軍とフランス海軍の対決の行方がはっきり示しています。

 とは言え、こうした事は一朝一夕で変えられるものでは無いので、手早い対応が必要なのですが、連邦議会や
海軍本部を運営する政治家達は、そうした点を認識していませんでした。当時のオランダの指導者達の中で問
題を認識していたのは、恐らく、ヨハン・デ・ヴィットとごく少数の彼の身内だけだったようです。
 デ・ウィトはと言うと、新規に徴兵された水兵達とそうでないものとの給与の差や、給与の未払い(と言っても、イ
ギリス海軍に比べると給料は高く、未払いもたいした遅れではない)から来る、指揮下の部隊の士気の低さを心
配していました。トロンプの下では士気が非常に旺盛だったことを忘れています(笑)。また、船員が不足気味な反
面、切り込み戦闘中心の戦術ドクトリンのため、艦艇の増加とともに、海上経験の無い陸軍兵士の艦隊勤務が
急増したこともデ・ウィトの悩みの種でしたが、それでも連邦議会は、ブレーク率いるイギリス海軍の主力艦隊を
探し出し、撃破することを命じていたので、不安を抱えたまま、不十分な戦力でデ・ウィト提督の艦隊は出撃しま
す。

 そして10月5日、ノースフォアランド岬の沖合いで、デ・ウィト率いるオランダ艦隊と、ブレーク提督率いるイギリ
ス艦隊は遭遇しました。ところが、強風のために両者の接近は阻まれ、ブレークは攻撃して来ず、デ・ウィト提督
も無理に攻撃しようとはしませんでした。ここでデ・ロイテルは、素早く大胆な行動こそが肝心だと攻撃を主張した
ということなのですが、海軍軍人としてはほとんど新人のデ・ロイテルが、マーテル・トロンプに次ぐ重鎮であるデ・
ウィトを説得できるはずはなく、実際に戦闘になったのは三日後でした。
 10月8日の午後四時頃、ノースフォアランド岬の北、ケンティシュ・ノック砂洲の近くでいよいよ交戦とあいなっ
たのですが、増援を得ていたイギリス艦隊は84隻に増えており、デ・ウィト提督は、デ・ロイテルの意見が正しか
ったことを悟ります。

 遭遇時、両国の艦隊はかなり混乱していたと言うことですが、オランダ艦隊はどうにか一列の隊形を保ってお
り、デ・ウィト提督直卒の戦隊が前衛を務め、デ・ロイテルの戦隊は中央、De Wildt海軍中将の指揮する戦隊が
後衛にあたっていました。イギリス艦隊は三つに分散しており、後衛のボーン少将率いる戦隊がオランダ艦隊の
正面に立ち塞がる一方、ペン中将率いる前衛、および総司令官ロバート・ブレーク提督直卒の中央隊はオランダ
艦隊の側面に回りました。
 ペン中将の戦隊はケンティシュ・ノック砂洲寄りを航行していたため、旗艦「ジェームス(James)」および100門
艦「ソブリン(Sovereign 前出ソブリン・オブ・ザ・シーズの改名)」が座礁して派手につまづきましたが、ブレーク提
督の戦隊はオランダ艦隊に砲火を浴びせつつすれ違い、旋回してオランダ艦隊の後衛を攻撃しました。
 かくして、オランダ艦隊は前後から挟撃されます。さらに、ブレーク戦隊がすれ違っている間、20隻程の小型艦
が無断で戦列を離脱してしまい(←艦長達は後で、死刑も含めた厳しい処分を下されましたが、執行はされなか
ったようです)、オランダ艦隊は49隻に減ってしまいました。さらに、どうにか砂洲から離脱したペン中将の戦隊も
側面から突入してきます。
 しかし、オランダ艦隊は壊滅を免れました。これは、一にも二にも、戦闘開始の時刻が遅く、すぐに日没が来た
からです。それと、艦艇が小型で喫水が浅かった事も幸いしました。4時間の交戦の後、生き残ったオランダ艦
隊は、砂洲に座礁することも無く、夜の闇にまぎれてイギリス艦隊の追撃をかわすと、からくもオランダに逃げ帰
ることに成功しました。
  オランダ艦隊の損害は大きく、特に後衛の戦隊は大損害を受けており、どれも沈没寸前の状態でしたが、最後
には、オランダ人達の船乗りとしての手腕が勝ったようで、艦艇の損失は2隻が拿捕されただけで済みました(他
に一隻が沈没したようですが、不明)。しかしながら、死傷者は2000人に及びました。切り込み重視で兵士を多
く乗せていたことが、オランダ艦隊の人的損害を大きくした要因です。一方、イギリス艦隊の損害は、軍艦の損失
無し(座礁した二隻も離礁に成功した)、死傷者数百人であり、戦いの結果は、明らかにオランダ艦隊の大敗でし
た。 

 この「ケンティシュ・ノックの海戦」では、増援が来る前に攻撃していたとしても、オランダ艦隊が勝てたかどうか
は不明ですが、攻撃をためらった結果、より多くの敵と戦う破目となったわけで、結果としてデ・ロイテルの意見が
正しかったのでした。これがきっかけで、デ・ロイテルとデ・ウィト提督との仲は険悪になったようです。デ・ロイテ
ルは、「(指揮官が)賢明で、愛国心と同じくらい大胆さもあったら、艦隊はもっと強力になるだろうに」と嘆いてい
ます。また、小型艦が戦闘から逃げ出したことにも怒りと失望を感じたようであり、海軍に嫌気がさしたデ・ロイテ
ルは、辞職を考えるようになりました。
 

ケンティシュ・ノックの海戦(Battle of the Kentish Knock)。1653.10.8
別名、ノースフォアランド海戦(Battle of the North Foreland)、オランダ名ホーフデンの戦い(Slag in de Hoofden)。なお、ホーフデン
とはカレーの古名。

ヴィッテ・デ・ウィト(Witte Cornelis de With 1599-1658)

オランダの海軍軍人。1620年に海軍入りし、急速に昇進して1637年に海軍少将となる。マストや索具を効果的に破壊するための「鎖付き弾」を考案した人物らしいが、確認は出来ない。第一次英蘭戦争では当初、オランダ海軍の最高司令官を務めるが、ケンティシュ・ノックの海戦での敗戦により更迭された。厳格な性格で人望は全く無く、熱心な共和派であったため、オランニェ家支持者の多い海軍内部では受けが悪かった。1658年、デンマークに出動してスウェーデン艦隊と戦い、旗艦に切り込まれて戦死した。余談ながら、海外の資料にはWittやWitteという誤記が異常に多い。ひどいのになると、ヨハン・デ・ウィットの兄、コルネリウス・デ・ウィットと混同しているのもあるので注意が必要です。

行きは良い良い・・・ 「ダンジュネスの戦い」

 ケンティシュ・ノックの海戦の結果、オランダの軍艦の火力の劣勢が誰の目にも明らかになりました。接舷、切
り込みを基本戦術としているにも関わらず、イギリス艦隊の優勢な火力に完全にアウトレンジされて、接近するこ
とが出来なかったのです。連邦議会もさすがに事態を悟り、ヨハン・デ・ウィットの熱心な勧告もあって、より大型
の軍艦の建造と艦艇の武装強化に関する議論が始まりました。しかし、政治家達はなかなかに頑迷であり、そう
簡単にコトは運びませんでした。また、敗戦に懲りた連邦議会は、海軍力運用に関して、敵艦隊の撃滅ではなく
貿易の維持に重点を置く方針に切り替え、自ら戦略的に守勢に立ってしまいました。
 また、オランニェ家支持者の暗躍もあったと思われますが、デ・ウィト提督の不手際が敗戦を招いたという意見
も多くあり、彼は更迭されました。デ・ウィトの不手際で負けたのはあながち間違いではありませんが、それが原
因の全てではありません。しかし、どちらにせよヴィッテ・デ・ウィトという人は、乗組員から乗艦を拒否されたり、
戦闘中に部下から逃げられたりするくらいで、人望の無さはもはや絶望の域に達しており、最高司令官の職に相
応しくないのは明らかでした。で、後任にデ・ロイテルを推す声も無くは無かったのですが、ここはやはり、名将マ
ールテン・トロンプ提督が復帰します。
 一方のイギリス海軍は、財政難と資材不足、限界に達しつつあった水兵の給与未払い、そして、荒天の多い冬
季は軍艦を海に出さないと言う、17世紀ヨーロッパの通例のようなものがあって(この時期の商船は人手が要る
ので、水兵を民間に戻せという各国共通の海運業界の圧力が原因らしいです)、軍艦の半分をドック入りさせ、さ
らに、艦隊の一部を地中海に派遣したので、本国海域の稼動兵力は大幅に減少していました。しかし、そんなと
ころへ、400隻もの商船がオランダ各地の港で待機中であり、それらを護衛するためのトロンプ提督の艦隊も出
動準備中であるとの情報がもたらされました。時は11月の末であり、これらの商船の行き先が流氷だらけのバ
ルト海である事は考えられず、どこへ行くにせよ、英仏海峡を通過するのは確実でしたが、ブレーク提督の手元
に残っていたのは弱体な戦力でした。
  
 さて、デ・ロイテルはというと、ケンティシュ・ノックの戦いで海軍に嫌気が差し、辞職を試みていたのですが、戦
争真っ只中に辞めさせてもらえるはずも無く、トロンプ提督の指揮の下、新たな旗艦「Het Witte Lam(34門)」に
座乗し、1652年11月30日、再び航海に出ました(ちなみに、12月1日にデ・ロイテルには娘が生まれていま
す)。
 トロンプには90隻の軍艦があり、彼が受けた命令は、商船隊を護衛しつつ英仏海峡を突破してビスケー湾の
レ島まで行き、その後、オランダへ帰る商船団が集結するまでレ島で待機して、また英仏海峡を通ってオランダ
まで護衛して帰るというものでした。艦隊は例によって人員不足気味であり、長期の冬の航海に耐えられるかが
トロンプの悩みのタネでしたが(このためか、トロンプは用心深くも英雄特権を利用し、作戦の結果がどうなっても
軍法会議にはかけられないという連邦議会の誓約を取っていた)、しかし、トロンプはブレークの戦力と位置の正
確な情報を得ていたので、あくまで商船隊の護衛が第一目的ながら、ブレークの艦隊が弱体だという情報が正し
いと確認できた場合にのみ、という条件つきで、イギリス艦隊を攻撃する許可も与えられていました。

 そして12月9日、コンボイから先行していたトロンプ提督直卒の78隻は、ドーバー沖でブレーク提督の47隻
の艦隊と遭遇しました。しかし、強風で航行の安全すらままならない状況のため、両艦隊はその夜、ダンジュネス
沖に投錨します。
 翌日、オランダ艦隊が先に抜錨して行動に移りますが、ブレーク提督は、ポーツマスから来る増援(ただし、徴
用された武装商船からなる艦隊で、合同してもトロンプに勝てたかどうかは不明)と会合しようと、戦闘を避けて西
に向かいました。その結果、二つの艦隊はケント州の沿岸を平行して進むことになりましたが、やがて、ブレーク
の艦隊の前方にはダンジュネスの岬が現れ、どうしてもオランダ艦隊の側に舵を切らねばならなくなりました。ブ
レークは、トロンプの仕掛けた罠にはまっていたのでした。

 ブレークの旗艦「トライアンフTriumph(42門)」と前衛戦隊はオランダ艦隊に突っ込み、ひとしきりの砲戦の後、
トロンプ提督直卒の戦隊とブレーク提督の戦隊との間で激しい切り込み戦闘になりました。トロンプの旗艦
「Brederode」は二隻の敵艦に切り込まれ、危地に陥ったかに見えましたが、トロンプ自身の指揮で一隻を拿捕
し、もう一隻は、駆けつけた次席指揮官のヤン・エベルトセン中将(Jan Evertsen 1600-1666)が拿捕しました。
部下に逃げられたヴィッテ・デ・ウィトとはなんという違いでしょう…。
 ま、それはともかくとして、戦闘が始まったのを見た後続のイギリス艦は、無断で減速して距離を開けると、勝
手に離脱してしまいました(戦力不足の中で駆り出された私掠船が多く含まれていたためと思われますが、彼らも
また死刑も含む厳しい罰を受けた)。かくして、デ・ロイテルが活躍する間も無く、戦いはオランダ艦隊の勝利に終
わり、トロンプは見事にドーバー沖海戦の雪辱を果たしました。オランダ艦隊は、失火か敵の砲火によるものか、
よく分からぬ原因の火災で一隻が沈没しましたが、敵艦2隻を撃沈し、3隻を拿捕しました(資料によっては、撃
沈2隻のみ、撃沈3隻、撃沈/拿捕あわせて4隻等いろいろあります。恐らく、拿捕した艦を使用せずに沈めたこ
とに起因する混乱でしょう)。ブレークの旗艦「トライアンフ」は、包囲攻撃を受けて大破しましたが、辛くも脱出に
成功し、艦隊の残りと共にテームズ河口の泊地に逃げ帰りました。

 この「ダンジュネスの戦い(オランダ語ではSlag bij Dungeness)」の後、トロンプ提督は旗艦「Brederode」のマ
ストにほうきを掲げ、イギリス艦隊を一掃した、と勝利を宣言したとされていますが、オランダの歴史家は「反オラ
ンダ感情をあおるためのプロパガンダ」であり、そんな事実は無いとしています。また、同じくイギリス側の記録に
よると、トロンプはテームズ川に突入するつもりでいたが、水先案内人が居なかったために諦めた、という事にな
っています。しかし実際は、護衛任務優先のため、連邦議会は最初からテームズ河口まで追撃することを禁じて
いたからです。
 ともあれ、これで英仏海峡の制海権はオランダの手に落ち、オランダの商船は全く妨害を受けずに英仏海峡を
航行できるようになりました。戦術的にも戦略的にもオランダの勝利ですが、問題が無かったわけでもありませ
ん。ブレークを罠にはめたところまでは良かったのですが、名将マールテン・トロンプにとっては不本意なことに、
彼の旗艦「Brederode」も含めて、単独でイギリスのグレートシップを撃破できる火力を持つ艦は無く、後続が逃
げ出したおかげの「質より量」を地で行く、数の力の勝利でした。実際、圧倒的に有利な態勢にありながら、敵艦
は2隻しか撃沈していません。その上さらに、この勝利にまたも連邦議会は判断を狂わせ、大型艦建造と武装強
化に関する議論は棚上げとなったのでした。

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