デ・ロイテルその5
連戦連敗
 
 ポートランド沖海戦の多大な損失にもかかわらず、トロンプ、それにヨハン・デ・ウィットは、相変わらず索敵と撃
滅こそが最高の海軍戦略だと考えていました。しかし、オランダの経済を維持するためにも、まずは商船の護衛
を優先しなくてはなりません。
 1653年4月、オランダ艦隊は200隻の商船を護衛して北西に向かい、ドッガーバンクで暫く待機した後、復航
の商船150隻(主としてフランスに取り残してきた船)を護衛してオランダに戻りました。
 1653年5月14日、トロンプは、デ・ウィト、デ・ロイテルを伴い、再び商船を護衛して出動しました。その翌朝、
テキセル島沖にイギリス艦隊が現れたという漁師からの目撃情報を得ました。どのような根拠があったのかは不
明ですが、トロンプはそれがテームズ河口を防衛していた艦隊だと判断し、ダンジュネスの時に見送らねばなら
なかったチャンスが再び訪れたと考え、商船隊と分かれた後、ダウンズ泊地に向かいました。

 すると、確かに防衛している艦隊は居なかったのですが、攻撃すべき艦船の姿も無かったので、6月4日、ドー
バー市を砲撃しました。しかし、大したダメージは与えられなかったばかりか、不注意にも、危険なまでに弾薬を
消費してしまいます。 勿論、これで無事に済んだはずは無く、この時イギリス艦隊がトロンプの艦隊に接近して
いたのです。そして6月11日の明け方、ガッバード砂洲(Gabbard = はしけ)を挟んで両国の艦隊は遭遇しまし
た。オランダ艦隊はトロンプ提督以下98隻の軍艦(例によってイギリス艦よりも小型で火力も弱い)と6隻の火船
からなり、一方のイギリス艦隊の戦力は、ジョージ・モンク、サー・リチャード・ディーン両提督指揮下の軍艦100
隻、火船5隻でした。

 トロンプは最初、全艦隊を率いてイギリスの前衛艦隊を集中攻撃しようとしましたが、しかし、風が弱まったこと
でトロンプの計画は挫折、それどころか、トロンプは突出して、艦隊の主力と切り離されてしまいました。
 一方のイギリス艦隊にとっては、風が弱まったのは幸いでした。イギリス艦隊は最初、半月陣形を取っていたよ
うですが、風が弱まったおかげで、まだ縦列隊形に不慣れな艦長達も、うまく一列縦隊を形成できたのです。そし
て午前11時頃、いよいよ新機軸「ラインタクティクス」を実戦で試す機会が訪れました。
 モンクの艦隊は、中射程から(と言っても、オランダ艦隊の射程外)砲撃を開始します。戦闘開始直後、敵に近
づきすぎていたサー・リチャード・ディーンが砲撃を受けて戦死してしまいましたが、一列縦隊を形成したイギリス
艦隊に対し、オランダ艦隊は、自らT字型に頭を抑えられながら突進する格好となりました。戦闘はイギリスの完
全なワンサイドゲームとなります。オランダ艦隊は3隻を失い、多くの艦が損傷して、夜8時頃に撤退しました。

 翌日、トロンプは撤退を円滑に進めるため、と再度の攻撃を企図しましたが、オランダ艦隊は既に弾薬切れで
あり、大災厄を招いてしまいます。ドーバー砲撃で弾薬を無駄使いしたことと言い、この時と言い、トロンプの指
揮は精細を欠きました。
 一方のイギリス艦隊は、ブレーク率いる17隻(18隻?)の増援を得ていました。トロンプの旗艦「Brederode」は
孤立し、一時は13隻の敵艦に包囲されて猛攻撃を受けましたが、デ・ウィトとデ・ロイテルが指揮下の軍艦を率
いて駆けつけ、どうにか旗艦ごと救い出しました。しかしオランダ艦隊は総崩れになり、各艦ばらばらに、それで
いて船乗りとしての判断は維持しつつ、例によってイギリスの大型艦が追ってこられない浅瀬伝いに移動して、ス
ヘルデ河口の泊地に逃げ込みました。
 旗艦「Brederode」は、激しい浸水で沈没寸前ながらどうにか持ちこたえましたが、オランダ艦隊は、11日の損
害と併せて6隻を撃沈され、2隻を焼失(沈没、焼失併せて7隻、および11隻という資料もあり)、11隻を拿捕(捕
虜1350人)されました。一方のイギリス艦隊は軍艦の喪失は無く、サー・リチャード・ディーンの戦死は痛手だっ
たものの、人的被害も少くて済みました。「ラインタクティクス」は、接舷、切り込みを図ってばらばらに突進するオ
ランダ艦隊に対して完璧に機能し、オランダ艦隊を全く寄せ付けなかったのです。効果的であることが証明され
たこの戦術は、以後、イギリス海軍において継続的に採用されることになりました。

 この「ガッバードの海戦(Battle of the Gabbard 別名第二次ノースフォアランド海戦)」、オランダ名「ニューポ
ート沖海戦(Zeeslag bij Nieuwpoort)」は、イギリス艦隊の大勝利に終わりました。この戦勝の結果、モンクの艦
隊はオランダの沿岸を封鎖して100隻以上の商船や漁船を拿捕し、オランダの海外貿易を完全に途絶させまし
た。この海戦ののち、デ・ウィトは連邦議会に対してこう報告しています。
「今やイギリス艦隊は、海と我々の支配者である。」

 オランダ艦隊の士気は大敗北で粉々に打ち砕かれ、名将マールテン・トロンプの信望をもってしてもどうしようも
ない状態となりました。このため、水兵の集団脱走を恐れたトロンプは損傷艦の入港禁止という非常手段に出な
ければならず、さらに、水兵を補充するための商船の出港禁止措置(どちらにせよ、封鎖で出港できなかった)を
要請しました。連邦議会はオランダの国際的な地位低下を食い止めようと、各国でオランダ艦隊勝利のプロパガ
ンダ活動を行いました。しかし、モンクの艦隊が沿岸を封鎖して貿易は途絶しており、さらには、沿岸部にイギリ
ス軍の上陸作戦への不安が広がっている以上、全くの無駄でした。
 そして当然、なんとかしろと言う圧力は、海軍とトロンプ提督にのしかかります。トロンプとしても、オランダの経
済を維持し、検討中の和平交渉を有利に進めるためには戦闘が必要なことは認識していましたが、自分の手腕
をもってしても、彼我の軍艦の性能の差がどうにもならない事も悟っていました。

 当時、オランダ海軍にはようやく二隻のグレートシップ、「Huis te Swieten」と「Huis te Kruningen」が就役して
いましたが、これだけでは焼け石に水です。この二隻は、ジェノバ共和国からの注文で建造されていた艦でした
が、つまりは、当時のオランダの政治家達は、自国に「グレートシップ」を建造する技術はあったにもかかわら
ず、自国の海軍のためには用意していなかった途方も無いマヌケ揃いだったのでした。ポートランド沖海戦の後
に着工した40隻ばかりの新型艦もまだ建造中で、それも資金や資材の不足で工事は遅れており、1653年中
に完成しそうな艦はありませんでした(結局、これらの軍艦が完成したのは戦後の事で、おまけに第二次英蘭戦
争の時には旧式化してあまり役に立たなかった)。
 また、モンクの封鎖線でスウェーデンからの輸送船が拿捕され、火力強化策の一環として搭載するはずだった
400門以上の12ポンド砲や18ポンド砲が手に入らなくなりました。

 余談ながら、当時のスウェーデンはヨーロッパ随一の鋳鉄製大砲の輸出国でした(C.M.チポラ著「大砲と帆船」
によると、1650年頃の鋳鉄製砲のヨーロッパの推定生産量5000tの内、スウェーデンは1500-2000t分を生産
していたと言う)。これはもともと、ネーデルラント地方の大砲産業が南部に集中していたため、南部ネーデルラン
トが離反した後、スペインとの戦争に必要な大砲の需要を満たす能力が無いオランダ共和国が、大砲の入手先
の一つとしてスウェーデンの大砲産業に資金援助を行った結果です。なお、青銅製の大砲は日本から輸入した
銅を使って、オランダ国内で製造されていたようです。

 ま、そんなこんなで藁にもすがる思いのトロンプは、友好国であるデンマーク(当時は結構な海軍国でした)に対
し、1650年に就役したデンマーク海軍の86門搭載グレートシップ「ソフィア・エーミリアSophia Amalia」(就役直
後は頑張って100門搭載)を初めとして、十数隻の軍艦をリースで借りられないかと持ちかけました。そもそも、
借りた軍艦がオランダにたどり着くにはまず、モンクの封鎖線を突破しなくてはならないという問題はさておき、デ
ンマーク側は、損失が出た場合の補償と、リースした船と同程度のオランダ艦隊をコペンハーゲン防衛のために
派遣すること、という条件をつけました。
 損失の補償は当然ですが、二番目の条件はリースされる意味がありません(←デンマークはイギリスとの戦争
に巻き込まれたくは無かった)。また、人員もこみでリースを受けるか、オランダ側が人手を用意するのかという
問題ですれ違い、さらに、これは最初から分かっていた筈なのですが、デンマーク艦は喫水が深くてオランダ沿
岸での行動には不向きで、特に「ソフィア・エーミリア」の喫水は20フィート以上あって、浅いオランダ海軍の基地
や泊地にはどう頑張っても入れませんでした。喫水を浅くするには大砲を軽量化するしか方法がないとのことで
あり(「浮き箱」という必殺技もありますが、おおよそ戦闘時には使えない手法です)、火力の低さに悩んでいると
言うのに、これでは外国から軍艦を借りる意味がありません。
 かくして、なかなかの解決策のように見えたこの話も流れてしまいました(ちなみに、「ソフィア・エーミリア」は運
用に人手と経費がかかりすぎるため、途中でスウェーデンとの戦争があったにもかかわらず、港からほとんど出
ることなく生涯を閉じました)。
 こうなると連邦議会は、大日本帝国やナチと同じくスーパーウエポン妄想に行き着いたようで、某フランス人が
発明したと言う、15ノットで走る動力源は不明の機械式の軍艦、一説によるとでっかいゼンマイで駆動する潜水
艦という、誰がどう考えてもバッタもんの怪しいシロモノの建造に実際に着手し(←バカ)、しかも、機密保持のた
めということで、ドックの周囲にタバコで山を作り、その濛々たる煙でドックを覆い隠したそうです。はっきり言っ
て、そこに重要な秘密があると声高に触れ回っているようなものです(←封鎖で再輸出できなくなったタバコの有
効活用でもあったのでしょうが、大バカ)。

 
 結局1653年8月4日、世論の圧力に押され、何ら問題点が改善されていない82隻の艦隊を率いたトロンプ
はスヘルデ河口を出撃しました。彼の当面の目標は、テキセル島に封鎖されているヴィッテ・デ・ウィトの軍艦27
隻と火船10隻(軍艦24隻?)からなる艦隊との合流でした。
 一方、モンクが指揮するイギリスの封鎖艦隊は、大型艦の多くを再補給の為に撤退させていました。主力艦隊
は陸から見えない所に待機し、沿岸部分のパトロールは少数のフリゲートが行うという態勢をとっていたため、オ
ランダ側は大型艦が引き上げていることを知りませんでした。

 8月8日、モンク率いる120隻のイギリス艦隊は、トロンプの艦隊を視認します。トロンプの意図を見抜いてい
たモンクは、デ・ウィトの艦隊との合流を阻止すべく攻撃をかけました。しかし、トロンプは巧みに攻撃をかわして
モンクを外洋におびき出します。こういう艦船運用術の戦いとなると、陸軍出身のモンクが根っからの海の男のト
ロンプに勝てるはずは無く、オランダ艦隊はモンクの追撃をかわし、8月9日の午後、ハーグの少し北にある都市
スヘーヴェニンゲンの沖で、デ・ウィトの艦隊と合流しました。
 そして翌8月10日、海岸で大勢の野次馬が見守る中、追いついてきたイギリス艦隊との間で戦闘になりました
(スヘーヴェニンゲンの戦いBattle of Scheveningen オランダ名テルヘイデの戦いSlag bij Ter Heide。Ter
Heideとは野次馬が居た海岸の地名)。トロンプのシーマンシップはここでもまたモンクに勝り、風上に向かって敵
艦隊に後を追わせ、イギリス艦隊が向かい風で失速しているのを尻目にすばやく方向転換すると、砲火を浴びせ
ながらすれ違いました。
 と、ここまでは良かったのですが、ここでオランダ海軍、いや連邦共和国全体にとって驚天動地の一大事件が
発生しました。なんとマールテン・トロンプ提督が、敵艦「Tulip」からの狙撃を受け、戦死してしまったのです。
 「Brederode」のコルテノール艦長(Egbert Meussen Kortenaer 1604-1665)は、将官旗を降ろさず、トロンプ
の死を隠して戦い続けました。この行動については、士気の粗相を防いだ適切な行動だったのか、すぐに別の将
官に指揮権を渡さなかったのは不適切だったのか、評価が分かれるところです。
 このオランダ艦隊の最初の攻撃で、イギリス艦隊は4隻を撃沈され、火船攻撃で3隻を焼失しました。しかし、
ここでもまたイギリス艦隊の「ラインタクティクス」は効果を発揮し、オランダ艦隊の方も、ヤン・エベルトセン中将
が旗艦を撃沈されてしまいました。
 こうして指揮系統が混乱したオランダ艦隊に対し、モンクは一列縦隊を維持したまま三回も突入して、オランダ
艦隊を分断してしまい、またも完全なワンサイドゲームとなりました。
 さらに悪いことに、艦長達がトロンプの戦死を察して、士気を粗相します。指揮を引き継いだのがヴィッテ・デ・
ウィトだった事もそれに輪をかけたのか、勝手に戦列を離脱して逃走する者も現れました。デ・ウィトは「最後の
一弾まで戦わないものは絞首刑に処す」と脅しましたが(実際、後に何人か処刑されたらしいです)、一切が無駄
であり、デ・ウィトは残っていた艦をまとめてテキセル島に撤退しました。
 デ・ロイテルの旗艦「Het Witte Lam」は、マストを失って航行不能となり、曳航されてテキセル島に戻りました。
後に、誰だか分かりませんがバカな男から、航行不能になった時になぜ他の艦に移動しなかったのかと質問され
たので、
「完全に包囲されていて、移動するには敵艦を選ぶしかなかったからだ」
 と答えています。デ・ロイテルが捕虜にならなかったのは、イギリスの艦長達が戦列の維持を厳命されていて、
戦闘中に拿捕しようとしなかったからです(ラインタクティクスの弊害の前兆と言えるでしょう)。

 詳細ははっきりしませんが、オランダ艦隊の損害は沈没、大破併せて30隻(それぞれ15隻ずつ?)。そして名
将マールテン・トロンプの戦死は、取り返しのつかない大きな痛手でした。一方のイギリス艦隊も1000人以上の
死傷者を出し、艦のほとんどがマストと索具に損傷を受けていたので、封鎖を中止して本国に戻りました。
 戦術的に言えば、戦いは明らかにオランダ海軍の敗北でした。しかしオランダ艦隊は、多大な代償を支払って
どうにか封鎖を打破することには成功しました。また、交代でオランダ沿岸の封鎖任務に就いたローソン少将の
艦隊も、艦艇と資材の不足で効果的な封鎖が出来なかったので、オランダの海外貿易は回復しました。


1. ドーバーの海戦 (1652.5.22-23)
2. プリマス沖海戦 (1652.8.26)
3. ケンティシュ・ノックの戦い (1652.10.8)
4. ダンジュネスの戦い (1652.12.10)
5. ポートランド沖海戦 (1653.2.28-3.2)
6. ガッバードの戦い (1653.6.12-13)
7. スヘーヴェニンゲンの戦い (1653.8.10)
 当時のイギリスの日付は10日遅れなので注意して下さい

Brederode

800t 56門搭載。第一次英蘭戦争を通
じてのマールテン・トロンプ提督の旗
艦。164 4年にアムステルダムで建造
される。艦名は、フレデリク・ヘンドリク
総督の義弟で、当時のアムステルダム
海軍司令部の長官だった人物から取ら
れた。大きさから言ってフリゲートクラス
だが、これでもオランダ海軍で最大の
軍艦。1647年まではヴィッテ・デ・ウィ
トの旗艦だった(←乗員に追い出された
のは余計に間抜けである)。1658年、
北方戦争に出動中に失われた。

敗戦

 マールテン・トロンプ提督が戦死したため、ヴィッテ・デ・ウィトがオランダ海軍最高司令官を代行することになり
ました。デ ・ロイテルは彼の指揮の下で、9月から11月にかけて商船隊を護衛してスカンジナヴィアとバルト海に
出動しました。この航海中、戦闘は発生しませんでしたが、大嵐に遭遇して大損害を出しています。

 結局、スヘーヴェニンゲンの戦い以降は大きな海戦は発生しませんでした。オランダは戦争に疲弊していたし、
クロムウェルも、同じプロテスタントの共和制国家と長々と争うことを好まなかったため、和平交渉は進展し、16
54年、ウエストミンスター条約が締結されました。
 この条約により、オランダは賠償金の支払いと航海条例の承認、英仏海峡においてイギリス国旗に敬礼する義
務が課せられました。またクロムウェルは、スチュアート朝復活を阻止するため、総督を初めとするオランダの内
政の要職にオランニェ家の者を就けない事を要求しました。
 これはとんでもない内政干渉でしたが、1653年7月にホラント州の法律顧問(raadpensionaris)に就任し、法
的な権限を越えてホラント州の指導者として活動していたヨハン・デ・ウィットは、これを受け入れるようにホラント
州議会を説得したので、ホラント州議会は1654年5月4日、「引き離し法(Act of Seclusion)」を発令して、オラ
ンニェ家を公職から排除しました。実際の所、「真の自由」を目指す共和派筆頭のデ・ウィットにとっては、屈辱的
な内政干渉どころか、オランニェ家の排除と言う、非常にやりにくいことをイギリスがやってくれた、好都合この上
ない申し入れだったわけです。事実、イギリスで王政復古後があった後も、「引き離し法」は廃止されませんでし
た。
 当然「引き離し法」は、オランニェ家支持者や他の州の大反対に遭いますが、オランダの経済力の60-70%を掌
握しているホラント州の力でゴリ押ししました(←オランニェ家支持派の英雄、トロンプが戦死してオランニェ家支
持者の士気が低下していたという背景もあった)。

 かくして第一次英蘭戦争は、オランダの大敗に終わりました。最大の敗因は、どう考えてもオランダの軍艦がイ
ギリスの軍艦よりも小さくて脆弱で、火力が弱かったからです。奇妙な事に、日本の資料や教科書では、海軍組
織の不統一、連邦内の内部抗争などを敗因に挙げていて、軍艦の性能差という単純な要因を挙げているものが
少ないのですが、この第一次英蘭戦争は、戦艦に軽巡洋艦が喧嘩を売ったようなもので、イギリスの提督達に勝
るマールテン・トロンプのシーマンシップをもってしても、彼我の軍艦の性能差、つまり大きさ(=堅牢さ)や、戦闘専
門の軍艦として設計されたイギリス艦と、商船からの転用が多いオランダ艦との速度や運動性の差、そして搭載
された火砲の威力の差、はどうしようもなかったのです。
 こうした差が生じたのは、オランダ海軍が自国の沿岸の浅い海で行動しなければならない関係上、どうしても喫
水が深くなる大型艦が運用しにくいという事情は仕方ないとして、常設の艦隊を小規模にして、有事には武装商
船をかき集めるという、海軍司令部や連邦議会の方針(スペイン相手には通用していましたが…)に問題がありま
した。また、オランダ海軍が接舷、切り込みの戦術ドクトリンを採用していたことも問題でした。この切り込み戦術
が、火力重視戦術に勝てない事は、後世のフランス海軍がイギリス海軍に勝てなかったことでも証明されていま
す。そして、海軍司令部が本職の海軍軍人ではなく、頑迷な政治家達によって運営されていたことも、問題点の
改善を遅らせました。
 当時、軍事、経済、政治の全てでオランダの中心であったホラント州は共和派の支配下にありました。「真の自
由」を目指す共和派、と言うと、何となく進取の気性に富んだ人々を連想してしまいますが、デ・ウィットとその少
数の身内や友人以外の政治家はとかく頑迷で、とにかく海軍の足を引っ張りました。元々の発端はウィレム二世
の強権主義への反発ではあったのですが、実を言うと、「共和派」の実態とは、独立戦争以来の名望家で市民の
絶大な支持の元に権力を掌握していたオランニェ家から、自己の利益の為に権勢を奪わんとする執政層(レヘン
テンregenten ホラント州の大商人や門閥市民を意味するregentの複数形)と呼ばれる、どちらかと言うと市民や
軍部の支持が無い連中の集まりでしかなかったのです(総督制を維持していたフリースラントとフロニンゲンはこ
の戦争に一切協力しなかった)。オランニェ家支持者の多い海軍の現場からの声、特にマールテン・トロンプ提督
の意見に耳を貸さないのは当然と言えば当然でした。もっとも、共和派支持者のデ・ウィトの意見も無視されてい
るので、単なる頑迷さも多分にあったと思われます。

 しかし、政治家の全てが認識を新たにしたかどうかはともかく、少なくともヨハン・デ・ウィットは問題点に気がつ
き、彼のリーダーシップによって、コネのあるアムステルダム司令部(親戚のダビットとヨブの父子が書記を務め
ていた)を通じ、常設艦隊の拡大、グレートシップの建造、火力の強化、そして切り込みから火力重視への戦術ド
クトリンの変更、専門の海軍士官の養成などの改革が行われたのでした。
 ただし、海軍組織が五つあるという点は変わりませんでした。各海軍司令部には、必ず何人か地元出身でない
委員を加えることになっていたので(そうしたよそ者は失敗の責任を押し付けられ、内部抗争の元になった)、各
州のバランスをとるためには意義があると考えられていたこともありますが、デ・ウィットが、ここが彼の限界でも
あったのですが、彼があくまでホラント州人であり、当人は立派な人物で、オランダ共和国全体にも多大な貢献を
してはいますが、結局のところはレヘンテンの代表者でしかなく、ホラント州の利益優先で、他の州やアムステル
ダム以外の司令部との対立があったからでしょう。また、この海軍本部が五つあるという点は、敗因として認識さ
れていなかったのかも知れません。


 さて、ここで話をいったん、1653年の11月に戻します。嵐でふらふらになったオランダ艦隊がバルト海から帰
還すると、トロンプ提督の後任人事が問題になりました。
 順当に行けば、いかに人望が皆無とは言え、経験と武勲から言ってヴィッテ・デ・ウィト提督がそのまま最高司
令官になるはずでした。しかし彼は、前述のガッバードの海戦後の発言で連邦議会の顰蹙を買っていました。ま
た、彼個人もガッバードの敗戦で戦意を喪失しており、おまけに、熱心な共和派である彼に強大な兵力を与える
ことには、オランニェ家支持者がこぞって反対しました。で、次に候補に上がったのは、ミッデルブルグ(ゼーラン
ト州司令部)の海軍大将に昇進していたヤン・エベルトセン。しかし、彼がこちこちのゼーラント州人だったため、
ホラント州議会が反対します。ヨハン・デ・ヴィットも、(恐らく不当な中傷によると考えられますが)エベルトセンを
最高司令官の器ではないと考えました。

 ここでヨハン・デ・ウィットは、デ・ロイテルに白羽の矢を立てました。デ・ロイテルならば政治的に完全中立なの
で(と言うか、政治には全く興味が無い)、共和派とオランニェ家支持者の対立も、ゼーラント州出身であることも
関係ないし、能力的にも申し分無いと考えたからです。デ・ロイテルは当時、まだ下っ端の戦隊司令官でしかな
く、トロンプの後継者に相応しいとは誰も考えていませんでしたが、この点、デ・ウィットの目は確かであり、デ・ロ
イテルに対し、オランダ艦隊の最高司令官(Opperbevelhebber)として、アムステルダム司令部の海軍大将
(Luitenant-admiraal)に就任するように要請しました。
 並み居る先輩を追い抜いての大抜擢です。しかしデ・ロイテルは、この要請をあっさり拒否しました。引退を決
めたところに戦争で引っ張り出されたことに加え、彼はもう海軍組織の保守的な体質(←少し後には改革が始ま
りますが)にもうんざりしていたのです。また、デ・ロイテルに限ったことではありませんが、敗戦の責任の押し付け
合いで、将官達は中傷や謂れの無い批難を浴びていたこともあったと思われます。

 そういう訳で、本命のデ・ロイテルに断られたデ・ウィットが最高司令官に選んだのは、ヤコブ・ファン・ヴェッゼ
ナー・ファン・オブダム大佐(Jacob van Wassenaer van Obdam 1610-1665)。本職は騎兵で、海上経験は全く
無しという人物です。ただし、父親はアムステルダム司令部の海軍大将を勤めた人物であったし、当時はまだ海
上経験が海軍軍人の絶対条件とは考えられておらず、選んだ側としてもブレーク、モンク、ディーンら陸軍出身の
敵の提督達の活躍が念頭にあったものと思われます。しかし、それ以上に政治的な妥協の人事でした。オブダ
ムは共和派に属しており、オランニェ家支持者が最高司令官職に就くのを阻止するのが目的でした。また、オブ
ダム大佐の事情として、当時は貧乏だったため、専門外の仕事でも官職につく必要に迫られていたようです。
 このあからさまなオランニェ家支持者排除の動きに対し、ホラント州各地でオランニェ家支持者の暴動が発生
する騒ぎとなったのですが、結局、ヨハン・デ・ウィットの人間的な限界がまたも露呈された形で、これ以降も、
だ海軍のトップからオランニェ家支持者を排除するためだけに、オブダム提督本人はあまり乗り気でなかったり、
健康を損ねたりしても、デ・ウィットはオブダム提督を起用し続けるのでした。
 
 ま、何はともあれ、最高司令官の人事はこれで片がつきましたが、オブダムの経験不足をカバーするため、デ・
ウィットは再びデ・ロイテルに対し、アムステルダム海軍司令部の海軍中将(Vice-admiraal)に就任するように要
請しました。最高司令官ほどではありませんが、これもやはり大抜擢です。デ・ロイテルは今度は断ったりせず、
熟慮の末に要請を受け、1653年11月11日、海軍中将としてアムステルダム海軍司令部に転属しました。以
後、デ・ウィットは海軍に関しては何かとデ・ロイテルの助言を求めるようになります。おかげでデ・ロイテルは、す
っかりデ・ウィット派とみなされるようになり、このために災難に遭うのですが、これはまた後の話。
 ただ、デ・ウィットは、デ・ロイテルの州間の対立にとらわれない共和国全体への愛国心や、政治的中立(と言う
か完全な無関心)を好ましい、もっとはっきり言えば御しやすいと考えていたフシがあるので、二人の関係が友情
と言うほどのものだったかは疑問です。

 この後デ・ウィットとデ・ロイテルは、オランダ海軍の改革、大型軍艦の建造、火力の強化、基地の整備、イギリ
ス式の火力重視の戦術ドクトリンの採用などのオランダ海軍の改革に貢献しました。と言っても、デ・ロイテルは
海に出ていることが多かったので、連邦議会や各司令部を説得して実際に新機軸を導入していったのはデ・ウィ
ットであり、残念ながら、この点のデ・ロイテルの貢献度はやや低いと言えるでしょう。
 しかし、そんなこんなで、1655年、デ・ロイテルは故郷、ゼーラント州フリシンゲンを離れ、家族(本人も含めて
この時10人ほどか?)を引き連れてアムステルダムに引っ越します。彼はかなり裕福であり、また、海軍軍人とし
ての確固たる名声も築きつつありましたが、質素な倹約家であるため、市内に邸宅を構えたりはせず、エイ湾(Ij
アムステルダム港がある入り江)沿いの倉庫と造船所の間に、質素な家を買って住み着きました(お隣の倉庫は
海事博物館として現存しています)。

ヤコブ・ファン・ヴェッゼナー・ファン・オブダム
(Jacob van Wassenaer van Obdam 1610 - 1665)
父親は海軍大将だった(Jacob van Wassenaer - Duvenvoorde 1574-1624)が、1631年に陸軍に入って騎兵となる。艦隊の最高司
令官になったのは完全な政治的人事の結果で、海軍に関しては完全な素人で海軍関係者には不評だったが、1650年代後半の実戦で
は特に大きな失敗もしていない。しかし、第二次英蘭戦争のローストフト沖海戦での旗艦の爆発により戦死した。

目次へ
inserted by FC2 system