デ・ロイテルその2 デ・ロイテルの冒険と引退 セント・ビンセント岬の戦いの後、デ・ロイテルの残留を望む海軍関係者の失望をよそに、彼は海運業界に戻り ました。そしてしばらくLampsins家の持ち船を指揮していましたが、1644年には独立し、「サラマンダー(De Salamander 400トン 乗員40-50人)」という船の共同船主兼船長(ちなみに、共同船主の相方はやはり Lampsins家)となりました。彼はその後8年間、「サラマンダー」でバーバリ海岸(エジプトを除く北アフリカ海岸。 海賊の巣窟、と言うか海賊国家の集合体として有名)と西インド諸島を航海しました。海軍を去ったとはいえ、「サ ラマンダー」の航海はなかなか、波乱に富んでいたようです。 「サラマンダー」での最初の航海はモロッコでした。この最初の航海は、デ・ロイテルがイスラム教徒との交渉に 慣れていなかったためか、あんまり儲からなかったようです。モロッコのサレから、アカディア(当時はの呼称はサ ンタ・クルスSanta Cruz)へ貨物を運んだ後、現地の商人の仲介で、デ・ロイテル自ら馬で三日間内陸へ旅して、 当地の政教両面の指導者、シディ・テリ・ベン・モハンマド・ベン・モーザ(Sidi Ali ben Mohammed ben Moussa)と いう人物と会見しました。デ・ロイテルは非常に敬虔なキリスト教信者なので、いかにもそれらしいと言うか、イス ラム教徒に対して失礼と言うかはともかく、彼はベン・モーザに対して、「聖者(Sant)」というあだ名を奉りました。 さて、その「聖者」はデ・ロイテルを暖かく歓迎しましたが、積荷のタバコ、綿花、火薬の値段のことで「聖者」を 怒らせてしまい、「てめぇの船を攻撃するぞ!」と脅迫されてしまいました。デ・ロイテルは、「そんなことをすれ ば、オランダの商人はあんたと取引しなくなるぞ」と言い返し、何とか命は助かりましたが、結局、取引での損失 は我慢しなくてはなりませんでした。しかし去り際にデ・ロイテルは、「聖者」に対して、「俺の船の上では、あんた は俺を脅せなかっただろう」と言ってのけたため、またも「聖者」は激怒し、今度こそ本当に命が危ないと思われ ました。しかしこの後、どういうわけかデ・ロイテルと「聖者」はすっかり仲良くなってしまいます。その後、二人の 友情は長く続き、デ・ロイテルがモロッコを訪れる度に、「聖者」は、友情の証として、オランダ人の捕虜(バーバリ 海賊はヨーロッパ船を襲撃して乗組員を奴隷にしていた)を安く売っていたとのことです。デ・ロイテルは、穏やか な態度ながら自信にあふれた話し方をする人で、非常に手ごわい交渉相手だったようです。 「サラマンダー」はその航海の中で、何度も海賊や私掠船に遭遇しました。 カリブ海では、まだスペインとの戦争が続いていた中ではあり、追跡してきたスペインの軍艦を返り討ちにして 撃沈しています。英仏海峡でダンケルクの私掠船に遭遇した時は、マストにあらんかぎりの旗を掲げて、将官が 座乗している軍艦のフリをして切り抜けました(私掠船が拿捕船を捨てて逃げたので、そいつを横取りしたという 話もありますが、定かではありません)。 また、アイルランドからバターを運ぶ航海の時、私掠船に追跡されて逃げ切れぬと悟ったデ・ロイテルは、舷側 と索具にバターを塗りたくって敵を待ち受け、乗り込みを試みてバターで滑る海賊達を白兵戦で撃退した、という 話もあります。 アルジェリア沖を航行していた時、デ・ロイテルは、「フランスの敵国と違法な取引をしている」と言いがかりをつ けられ、ランデ侯爵という人物が指揮するフランスの私掠船に拿捕されました。相手の船に連行されたデ・ロイテ ルはランデ侯爵と口論になり、侯爵から乱暴にワインか水でもどうだ、と勧められたところ、「俺を捕虜にするなら 水を、自由にするならワインだ」と怒鳴りつけました。結局、デ・ロイテルはワインを貰って無事に釈放されまし た。しかしこの話には続きがあって、1657年、今度はデ・ロイテルが、ランデ侯爵の私掠船を拿捕しました。デ・ ロイテルは、ランデ侯爵本人を暖かく歓迎はしたものの、彼の船はスペインで売り飛ばし、身柄は容赦なくアムス テルダムに連行します。そしてどうやら、ランデは海賊行為の罪で処刑されたらしく、フランスとの外交問題になり ました。 さらに、モロッコの沿岸で5隻のアルジェ太守国の海賊船と遭遇した時、艦隊の中に少将旗と中将旗を掲げた 旗艦を見つけたデ・ロイテルは、夜の闇にまぎれて「サラマンダー」を接近させると、旗艦に至近距離から片舷斉 射をぶち込みました。不意打ちは完璧で、アルジェの艦隊は大混乱、同士討ちまではじめる有様となり、その間 に「サラマンダー」は旗艦を撃破しました。しかし、残りの船に追撃されたため、デ・ロイテルはサレの港に逃げ込 まなくてはなりませんでした。 ですが、この頃既にデ・ロイテルは、サレではおなじみの顔となっており、戦闘の様子もサレから見えていたの で、デ・ロイテルは勝利者として大歓迎を受け、市内を凱旋行進しました。このエピソードでは、商人であるデ・ロ イテルが、何ゆえ5隻もの海賊船に喧嘩を売る気になったのかがはなはだギモンではありますが、これが、当時 のオランダの武装商船の性格だったのかも知れません。 1648年、デ・ロイテルは、カリブ海、小アンティル諸島を航海中に、祖国オランダが大国スペインを打ち破った ことを知りました。さて、小アンティル諸島のシント・マールテン島(Sant Maartenフランス語読みのサンマルタン 島の方が有名か?)という島があります。このシント・マールテン島は、1621年、塩田の開発のためオランダ人 が入植した島ですが、1633年にスペインに占領されていました。しかし、1648年の講和条約により、スペイン が島の領有権を放棄したことを知ったデ・ロイテルは、これを大きなビジネスチャンスと見て、共和国の代表達 (自称)とともに、シント・マールテン島の、オランダ共和国の領有宣言に加わりました。しかし、似たような考えを 持ったフランスの艦隊も現れたので、結局、島は蘭仏両国に分割されることになりました。それ以来、島の北半 分はフランス領、南半分はオランダ領として現代に至ります(←ただ、このシント・マールテン島とデ・ロイテルとの 関わりについては、今ひとつ確認がとれません)。 1651年4月8日、「サラマンダー」は最後の航海に出ました。デ・ロイテルは、イギリス領アンティル諸島での貿 易の許可を貰っていました(航海法を待つまでも無く、イギリスの貿易法は既に排他的でした)。この時、イギリス はクロムウェルの議会派が支配するところとなっていましたが、西インド諸島はまだ王党派が優勢であり、議会 は政府の許可証は受け付けてもらえない可能性があったので、デ・ロイテルは、西インド諸島討伐の任を帯びた サー・ジョージ・アイスキュー海軍中将(1615-1672)と裏取引しました。アイスキュー中将は、デ・ロイテルのカリブ 海に関する知識は勿論、多分、賄賂やリベートも目当てだったのではないでしょうか。 アイスキューの艦隊と「サラマンダー」は、ベルデ岬諸島で会合する手筈となりました。デ・ロイテルは、しばらく モロッコをうろついた後、5月24日、約束のベルデ岬諸島に到着しましたが、アイスキューの艦隊は現れず、デ・ ロイテルは翌月初めまで待った後、怒って帰国しました。ちなみに、アイスキューの艦隊がイギリスを出発したの は9月になってからです。 しかし、デ・ロイテルが「サラマンダー」で航海している1650年9月25日、妻Neeltje Engelsが4人の子供を残 して死去しました。デ・ロイテルはこの時44歳。もう中年ですが、子供はまだみんな未成年でした。また、既に十 分な資産を築いてもいたので、妻の死を潮時と考えた彼は、海上生活から足を洗う決意をします。そして、無駄 足に終わった最後の航海から帰ると海上生活から足を洗いました。1652年1月8日には、Lampsins家の船長 の未亡人、Anna van Gelder(連れ子二人)と結婚します。 ところが、数ヵ月後にイギリスとの間に戦争が勃発しました。所謂、第一次英蘭戦争であり、デ・ロイテルは再 び、海へ出ることとなるのでありました。 開戦前夜の英蘭両国 17世紀初頭、オランダ共和国は、海運業によって隆盛を極めていました。誰が言い出したのかはわかりませ んが(←当時のフランスの財務総監コルベールと言われている)、ヨーロッパには約二万隻の船があり、その内、 15000-16000隻がオランダ船だと言われていました。ただ、これはいくらなんでも大袈裟であり、Ronald Hope氏 の著書「A NEW HISTORY OF BRITISH SHIPPING」によれば、オランダの保有船舶は、1610年時点で漁船も 含めて7000隻ということらしいです。イギリスの海上覇権が確定した1760年の時点でも、イギリスの保有する 商船が8000隻だったと言いますから、恐らく、7000隻と言う数が適切でしょう。また、当時に活躍していたイギ リスの経済学者ウィリアム・ペティ(1623−1687年)によれば、ヨーロッパの全船腹推定200万トンのうち、オ ランダは90万トンを保有していたとのことです(ちなみにイギリス50万トン、フランスは10万トン)。 ま、それはともかく、17世紀を通じて、オランダの海運業は隆盛を極めていました。オランダの強みは、低コス トで建造/運用できる商船でした。イギリス船の三分の一の価格で建造される、貨物輸送に特化したオランダ船 (フリーブートvlieboatやフライトFluteと呼ばれた平底低喫水の船)に対して、諸般の事情で武装商船中心のイギ リス海運業界はどうしても効率が悪く、しかも、オランダ船は他国の1/2から1/3という安い運賃で貨物を運んで いました。後の世のイギリスが「世界の工場」なら、当世のオランダは「世界の運送屋」でした。 オランダ海運業の二本柱は、北海のニシンやタラ漁業と、バルト海地域からの穀物や、木材、ピッチ、タールな どの造船材料の輸送でした。オランダというと、どうも東インド会社によるアジアとの貿易が中心というイメージが 強いですが、バルト海における海運をほぼ独占していたので、実際のところ、17世紀後半になっても、アムステ ルダムの株式市場で取引される資金の2/3はバルト海関連でした(前出「A NEW HISTORY OF BRITISH SHIPPING」より)。また、南西地中海地域の穀物自給率が低かったため、オランダの業者によるバルト海周辺地 域産の穀物の輸出が盛んに行われ、最盛期には年20万トンに及びました。北極海での捕鯨もオランダのシェア が多くを占めていました。東洋やアメリカ、地中海との交易ルートも言わずもがなです。 さて1647年、連邦共和国総督フレデリク・ヘンドリクは死去し、後を継いだオランニェ公ウィレム二世は、80 年戦争を最終的な勝利に導きました。このまま行けば、彼はヒーローで居られたかも知れませんが、その頃、北 海を隔てた隣国イギリスでは、清教徒革命による議会派と王党派による内戦の真っ最中でした。 ウィレム二世はチャールズ王支持を明言し、内戦への軍事介入まで計画しました。ホラント州議会は内戦への 干渉に反対で、ウィレム二世と激しく対立します。ウィレム二世の方も、反対派の一掃を企図して1650年にクー デター未遂事件まで起こしましたが、結局、その年の11月に、24歳の若さで天然痘でぽっくり逝ってしまいまし た。後継者たるウィレム三世は、ウィレム二世の死後8日目にしてようやく誕生したような状態で、とても総督職を 継ぐわけには行きませんでした。 そんなわけで、ヨハン・デ・ウィット(Johan De Witt 1625-1672)らの主導により、フリースラントとフロニンゲン を除く五州は、本来は軍隊の統率者である総督は平時には不要との法的根拠から、ウイレム二世の後継者を指 名しませんでした。以後、1672年までを第一次総督空位時代と呼びます。
1651年より、ホラント州は各州の代表者による議会制国家の建設を目指すのですが、ホラント州はもともとオ ランダの経済力の7割くらいを掌握しており、他の州との確執もあって支持は得られませんでした。また、オラン ニェ公家を支持する一派と議会支持者との対立も続きます。そのため、1653年、ホラント州の都市執政層(レ ヘンテン Regenten)の支持を受けたデ・ウィットが、ホラント州の法律顧問(Raadspensionaris)という形で、事実 上の共和国の指導者として活動するようになるまでリーダー不在の状態が続きました。 一方、隣国イギリスでは、オリバー・クロムウェル率いる議会派が内戦に勝利を収め、国王チャールズ一世は 処刑されました。このイギリスの内戦こそは、オランダの最大の禍根となります。 皇太子チャールズ二世は一族郎党を引き連れ、オランニェ家支持者を頼ってオランダに亡命しました。このた め、チャールズ王の専制に辟易していたイギリスの民衆は、ウイレム二世がチャールズ家支持を明言していたこ ともあって、オランダに対して強い反感を抱くようになります。イギリス人にとって、オランダを指導しているのがオ ランニェ家ではなく、デ・ウィットら議会派だということなど感知しないことであり、この反感も、第一次英蘭戦争の 原因の一つとなります。 一方、亡命したチャールズ二世も、オランダの国内事情が分かっていなかったのか、議会派のオランダ政府に 冷遇されたのを恨み、これが後で第二次英蘭戦争の原因となるのです。 また、エリザベス一世の時代以来、海洋国家を目指していたイギリスは、オランダ海運業の隆盛を苦々しく眺 めていました。そして共和国(コモンウェルス)が成立したこの時、オランダの海運業の締め出しを企図した、165 1年の「航海条例Navigation Act」の発令に至るわけです。これは、かなり昔からあった貿易保護政策(1563年 の時点で、イギリスの沿岸航路から外国船を締め出している)を包括、強化したものなのですが、この基本法令 のほとんどが、1849年に廃止されるまで有効となったのでした。クロムウェルは、同じ新教系の共和国であるオ ランダとの抗争は望んでおらず、航海条例の強化には反対だったようですが、彼の欠席中に議会を通過してしま ったのです。 1651年の航海条例は、イングランドへの輸入品はその原産地から直接持ち込まれるか、あるいはイングラン ド船(←スコットランドとアイルランドは外国扱い。イングランド船とは、1660年の追加条項では、船長がイングラ ンド人で、乗組員の3/4がイングランド人である船のこと)、もしくは原産国の船によって持ち込まれなければな らない、またヨーロッパ以外の国々からの商品は、イングランド船によってイングランドに持ち込まれなければな らないと規定し、違反した貨物はすべて没収としていました。また更に、英仏海峡を一方的にイングランドの領海 と宣言し、他国の艦船に対し、海峡内でのイングランド国旗に対する敬礼(自分の船の旗、もしくはトプスルを少し 下げる、礼砲を撃つなど)を義務付けていました。 開戦前夜の英蘭海軍 1650年初頭のオランダ政府の内部抗争は、当然ながら海軍にも波及します。おかげで、海軍組織の統一な ど全く行われておらず、相変わらず五つの海軍本部が、それぞれ独自予算で艦船と人員を用意する状態で、し かも、互いにとても協調しているとは言いがたい態勢でした。しかしそれでも、第一次英蘭戦争勃発時のオランダ 海軍には、軍艦、軍務に就いている武装商船併せて、書類上は150隻ほどの兵力がありました。 しかし、非常に浅いオランダの沿岸で行動しなければならない関係上、大型艦が運用しづらいため、軍艦の喫 水は概ね15フィート以下に限定されていました(でないとアムステルダムには出入りできない)。オランダの造船 技術は非常に優秀であり、同じ喫水の諸外国製の船よりも大くはありましたが、それでも軍艦としてはサイズが 小さく、50門以上の砲を搭載した艦は、英雄マールテン・トロンプ提督の旗艦「De Brederode(56門搭載)」と他 一隻しかありませんでした。それに、大砲は12ポンド砲が平均的だったので(←小型艦が多いので、大きな砲は 搭載しにくい)、火力もそう大きくはありませんでした。 またオランダの造船技術は、船の操作性と建造/運用の低コスト化に重点が置かれていたので、オランダの軍 艦には、速度と頑丈さに欠けるところがありました。また、オランダは当時、世界最大の商船隊を保有しており、 戦時にはこれらの商船のうち大型の物は軍務に就く事になっていましたが、こうした商船は大きさの割には砲は 多く積めず、頑丈でもなかったので、戦闘となると被害が集中することになりました。 さて、一方のイギリス海軍はと言うと、オランダ海軍とは対照的に、1630年代から、「グレートシップ Great Ship」(戦列艦Ship of the lineと言う呼称が誕生するのは1653年から)と呼ばれる、前世紀のガレオンを改良し た大型艦を建造に着手しており、最大級の「ソブリン・オブ・ザ・シーズ Sovereign of the Seas」は、102門の砲 を備えていました(ただし、この時はまだ最大の砲でも24ポンド砲クラスで、18世紀以降の戦列艦に比べて火力 は小さく、船体も1000トン程度だった)。 さらに内戦の時代、王党派やその支援国の武器密輸船に対抗するため、ある程度の運動性と火力を備えた排 水量600-800トン程度の中型艦、「フリゲート Frigate」が誕生していました。拿捕したダンケルクの私掠船の 設計を参考に、1645年に最初のフリゲート艦が就役しています(ただし、他は拿捕した商船を改装して間に合わ せた)。なお、この当時のフリゲートは、偵察、護衛用の18世紀以降のフリゲートとは違い、言わば中型の「グレ ートシップ」として、主力艦扱いをされています。 内戦が終わると、イギリスはオリバー・クロムウェル率いる議会派政府が支配するところとなりました。内戦中 のイギリス海軍は、無敵艦隊を打ち破ったのは今は昔、すっかり弱体化して沿岸防衛すらままならないほどに落 ちぶれましたが、海軍士官達が概ね議会派支持にまわったので、内戦後は予算面で優遇されました(再建のた めには、いやでも優遇しなくてはならなかった)。その結果、1652年時点で、100門搭載艦を中心に154隻の 艦艇を整備していました。数の上ではオランダ海軍と同程度ですが、オランダ海軍と違って、全てが戦闘専門に 作られた本物の軍艦で構成されており、しかも、それらはオランダ海軍の艦よりも大きめで、火力も上回っていま した(平均18ポンド砲)。 イギリス人の歴史家は当然、この違いがイギリスに勝利をもたらしたとしています。第一次英蘭戦争では(17世 紀の三度に渡る英蘭戦争で、イギリスが軍事的に勝ったのは第一次英蘭戦争だけです)、オランダ艦隊もしばし ば、イギリス艦隊を撃破しているので、こうした要素は決して決定的なものではなかったとも思われますが、負け た場合でもイギリス艦隊の損害はそう大きくはなく、やはりオランダ海軍はパンチ力不足だったようです。
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