ミヒール・アドリアンスゾーン "デ・ロイテル" 
(1607-1676) 
                 
+:名将

-:特に無し。 
 デ・ロイテルde Ruyterの呼び名で知られるこのMichiel Adriaenszoonは、海洋国家オランダが生んだ最大の
名将です。本来ならば、ネルソン、東郷、ジョン・ポール・ジョーンズと並ぶ大提督なのですが、何故か知名度は
今ひとつ。やはり、小国に落ちぶれたオランダに生まれたのが災いしたのか、それとも、大英帝国の海軍を徹底
的に撃破して恨まれたのか。ただ、彼と李瞬臣も加えて、無理やり「世界五大提督」を提唱する人も居るようで
す。
 なお、彼の名前については、本人はゼーラントなまりで「マヘイル・アドリアンソーン Machgyel Adriensoon」と
綴っていたのですが、ここは標準オランダ語に準じた日本語表記「ミヒール・アドリアンスゾーン」を使用します。
独立までのオランダ史概略
 
 現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルグのいわゆるベネルクス諸国は、かつてはスペイン領ネーデルラント
としてハプスブルグ家の支配下にありました。
 1556年、スペインの新国王フェリペ二世は、カルバン派の影響が強いネーデルラントで信教の自由を抑圧
し、カソリックによる絶対王政を確立しようとしたため、ネーデルラントの人々は、「沈黙公」として知られるオラン
ニェ公ウィレム一世(William I, Prins van Oranje,1533-1584 本当はぺらぺらとよく喋る人だが、口は堅かった)
を中心に、スペイン支配に反抗します。反スペイン派も、最初は強圧的な政策の撤廃を求めていただけでした
が、結局1568年から独立戦争になってしまいます。
 戦争は長く続きました。1584年、独立運動の指導者ウィレム一世が、カソリックの狂信者に暗殺されました。
1585年8月には、現在のベルギーにあたる南部ネーデルラント十州がスペインに制圧されます。旗色悪しと見
たオランダ側はイギリスに援助を求め(元々はウィレム一世の政策であった)、その結果、イギリスからレスター伯
ロバート・ダドリーと6000人の陸軍が派遣されてきました。レスター伯はとりあえず連邦総督に任命されました
が、自由主義的なオランダの各州とは折り合いが悪く、87年末には解任され、イギリスに帰国しました。
 この後、1588年4月、ヘルデルラント、ホラント、ゼーラント、ユトレヒト、フリースラント、オベライセル、フロー
ニンヘンの北部七州が連邦議会を結成して、外国の援助は受けず、君主制を取らないことを宣言して、七州の
緩やかな連合体からなる共和制国家ネーデルラント七州連合共和国 Republiek der Zeven Verenigde
Nederlandenを確立しました。なお、国家の呼称に関しては、単に共和国(de Republiek )、七州共和国
(Republiek der Zeven Provincien)、州連合共和国(Republiek der Verenigde Provincien)等々、オランダ語で
も何種類もあり、 面倒なのでこの先はオランダ、もしくは、一般的な日本語訳である連邦共和国(←私的に語感
がカッコいい)とします。

 さて、各州の議会はそれぞれ州総督(Stadhouder)を任命しますが、ホラント、およびゼーラント州は常にオラン
ニェ家当主を総督に任命し、他の州も概ねオランニェ家当主を州総督に任命しようとしました。その結果、暗殺さ
れた父の後を継ぎ、1585年に弱冠17歳でホラント、ゼーラント州総督に任命されていたウィレム一世の次男、
マウリッツ公(Maurits van Nassau-Siegen, Prins van Oranje 1567-1625)がヘルダーラント、ユトレヒト、オベラ
イセルの総督も兼任することになり、事実上のオランダの元首となりました(ただ、正式に「連邦共和国総督」の
役職が設置されるのは18世紀です)。

 1588年8月、スペインの「無敵艦隊」がイギリス艦隊によって壊滅させられました。勢いづいたオランダは、非
常に優秀な将軍であるマウリッツ総督の指導の下、1500年代の終わりまでに領内からスペイン軍を一掃するこ
とに成功しました。さらには南部ネーデルラントへの侵攻も行われたのですが、これは失敗しました。マウリッツ
公は、マニュアル化された組織的な訓練の概念を軍隊に導入した最初の将軍であり、「軍事革命」をもたらした
人物でもあります。
 
 その後、戦争は全体としてオランダの優位に進みました。1604年、イギリスとスペインの間に講和が成立する
と、それを機にオランダ国内でも和平の機運が高まりました。その一方で、オランダは既に海上国家として雄飛し
ており、カリブ海とインドネシアに一大勢力を築き上げていたので、商業上の利益をさらに確保するためにも、海
運業者は休戦に反対していました。そして、マウリッツ総督ら軍部も休戦には反対でしたが、結局は和平派に押
し切られ、1609年4月、スペインとの間に12年間の休戦条約が成立しました。この時点ではまだ、スペインは
オランダを正式な独立国と認めたわけではなく、実際、休戦明けにはスペインとの戦争が再開するのですが、こ
の時点で実質的な独立を達成したのでした。

 1621年、休戦の期限が切れると、スペインとの戦争が再開します。しかしこの時、ドイツではかの有名な30
年戦争(1618-1648、ただし、当時はズバリ「宗教戦争」とか呼ばれていた)が始まっており、スペインの戦力はか
なりドイツに吸い取られていました。それでも、最初はスペイン軍のオランダ領内への侵攻を許し、南部ネーデル
ラントへの遠征も失敗するなどしましたが、カソリックであるはずのフランスと他の新教勢力と協調し、1648年1
月、スペインとの間でミュンスターの講和を締結して、スペインは、オランダを正式な独立国として承認しました。
この間を称して、80年戦争(蘭Tachtigjarige Oorlog 1567-1648)と呼びます。

オランダ海軍の起源
 オランダ海軍の起源は、独立戦争の開始時からスペイン艦隊を攻撃した、「海の乞食(Watergeuzen)」団に始
まります。日本では何故か、「ゼーゴイセン」とドイツ語的な音訳で呼ばれることが多いのですが、「Zeegeuzen」
の語はオランダで用いられることは少ないです。なお、「乞食(Geuzen)」の語は、もともと反スペインのカルヴィン
派オランダ貴族に対する蔑称でしたが、反スペイン派は誇りを持って「乞食」を自称しました。

 「海の乞食」これは組織化された艦隊ではなく、私掠船の集団でした。おまけに、私掠免許状の法的根拠が怪
しいケースも多々あり、ほとんど海賊団に近い扱いでしたが、彼らは、海上での作戦は勿論、南部ネーデルラント
沿岸に対する上陸作戦も行い、かなりの成功を収めました。実際、独立派反乱軍の最初の地歩は、「海の乞食」
がブリエル市を海から占領したことで得られています。
 その後、海沿いの各州毎に艦隊が作られるようになりましたが、共和国そのものが州の緩やかな連合体であっ
たため、軍事面でも地方分権体制で、共和国が確立した1597年になっても海上兵力の組織化が行われません
でした。そのため、ホラント州のアムステルダム、ロッテルダム、ノールトカターの三つ加え、ゼーラント州とフリー
スラント州に一つずつの、併せて五つの海軍司令部が設置されていました(下の表を参照)。

邦共和国の海軍司令部とその所在地
名称             所在州    備考
アムステルダム司令部
Admiraliteit van
Amsterdam
ホラント 1586年創設。元々はマース司令部の支部だったが、ごたごたの末に分離独立し、財政的にも戦力的にも、最大の司令部となった。本国艦隊(Staatse vloot)の最高司令官(Opperbevelhebber)は、基本的にここの所属なため、なんだかんだありつつも、オランダ海軍全体の司令部的役割を果たした。
マース司令部 
Admiraliteit van de
Maze
ホラント 在ロッテルダム。ロッテルダム司令部とも呼ばれる。1575年創設で一番古い。そのため、場合によっては最上席とされることもあった。
ゼーラント司令部
Admiraliteit van
Zeeland
ゼーラント 1584年、ミッデルブルフMiddelburgに設置。以後何度か移転しており、デ・ロイテルの出身地、フリシンゲンに置かれた事もある。アムステルダム、ロッテルダムと並んで主力を構成した。
フリースラント司令部
Admiraliteit van
Friesland
フリースラン
1596年、ドックムDokkumに設置。1645年、ハルリンヘンHarlingenに移転。弱小。
ノールトカター司令部
Admiraliteit van het
Noorderkwartier
ホラント 1589年にマース司令部から分離。北西部担当と言う意味だが、西フリースラント司令部Admiraliteit van West-Friesland と呼ばれていたこともある。創設当初はホールンHoorn、1597年からはエンクハウゼンEnkhuizenに所在。財政的にも戦力的にも最弱の呼び声高いが、その反動か、1680年代以降はオランダ最大の軍艦を保有した。


 これら司令部の中で、ホラント州のアムステルダム海軍司令部が他よりも上席とされ、艦隊の最高司令官に
は、基本的にアムステルダム司令部所属の士官が就任することになっていました。しかし、これは慣例的なもの
で正式な序列ではなく、特に建国初期の頃は、共和国の海軍として統一した行動を執るには、なかなか難しいと
ころがありました。

 また、専門の海軍士官が少なく、経験のある商船の船長(ただし、当時は商船と武装船の境界はあいまいだっ
た)が適当に選ばれて、艦隊行動の指揮を執りました。海軍組織としては明らかに、そしてめちゃくちゃ大きな欠
陥でしたが、それでもオランダ海軍は非常に強力であり、本国周辺海域の制海権を確保するばかりか、カリブ海
や東インドへの貿易ルートも完全に保護しています。
 1639年の「ダウンズの海戦」では、名将マールテン・トロンプ率いるオランダ艦隊は、僅か一隻の損害で70隻
のスペイン艦を拿捕、もしくは撃沈して、北海からスペイン海軍を一掃しています。しかし、こうした強さ故に海軍
組織としての欠陥は見落とされてしまい、第一次英蘭戦争で苦杯をなめることになったのでした。


デ・ロイテル、商船時代
 ミヒール・アドリアンスゾーンは、1607年3月24日、オランダ西部、ゼーラント州フリシンゲン(Vlissingen 英語
ではフラッシングFrusing)の、ビール醸造業者の五番目の子供として生まれました。
 後に彼は、やや語呂合わせ的に「一人の男が祖国を敗北から救い、二つの王国を三度屈服させた」と評され
る、オランダ随一の名将となるのですが、子供の頃は手に負えないワルガキであり、学校ではガキ大将で、勉強
は全くせずにイタズラばかり。そして10歳の時、教会に狼藉を働いたのを期に、ついに学校から放逐されまし
た。

 具体的にナニをしたのかと言うと、ある夏の日、フリシンゲンの教会の尖塔に登り、修理中でハシゴが立てかけ
てあった屋根の上に出ると、天辺にまたがって、
「ワッハッハ、俺はここに居るぞ!」
 と帽子を振ったということです。当然、大人達は危ないから降りろ怒鳴りますが、ミヒール少年は聞き入れな
い。ところが、そこに工事関係者が現れ、どうやら騒ぎには気がついていなかったようで、ハシゴを外して持って
行ってしまったのでした。そして、ミヒール少年もそれに気がつかず、降りようかと思った時、ハシゴが無かった
(←バカ)。
 尖塔の天辺の屋根はかなり急角度であり、足がかりが無いと降りるのは危険です。ここで、助けて、ハシゴを持
ってきて、と言えば子供らしいのですが、さすがは未来の大英雄。やることがひと味もふた味も違います。このガ
キ、いきなり屋根のスレートをかなりの範囲に渡って蹴破って、屋根の骨組みを露出させると、そこに足をかけて
安全に塔の屋根から降りて、窓から建物の中に戻ったのでした。
 ハイ、現代でもここまでやれば、器物損壊で刑法に問われかねません。まだ教会に権威があったこの時代です
から、宗教的にはかなり寛容な当時のオランダにおいても、これは涜神行為です。そのうえこのガキ、塔から下り
たその足で礼拝堂のオルガンに破壊工作を加えていたところを、教会の人に捕まったということであります。

 父親は激怒してミヒールを鞭打ち、母親は大泣きしたということですが、それほど裕福では無かった父親は、こ
れを機会に勉強しないミヒールに学校を辞めさせ、奉公に出すことにしました。
 そしてミヒール少年は「draaiersjongen」(旋盤工Draaiersの弟子jongen、という意味ですが、Draaiersには「嘘
つき」の意味があり、「嘘つきのガキ」と言う意味にもとれます)として、週給6スタイファー(かなり安い)で、フリシ
ンゲンの裕福な船主で、フリシンゲン市長や連邦議会議員も輩出する権力者の一族であるLampsins兄弟のロー
プ製造工場に雇われました。しかし、彼の素行は全く変わらず、たちまちロープ工場の徒弟達のガキ大将と化
し、仕事はそっちのけで、子分を率いて暴れ回っていたようです。
 でも、Lampsins家の人は良い人であり、父親の懇願を聞いて彼をクビにしなかったばかりか、ミヒール少年にと
ってロープ作りが退屈なこと、彼がボートに乗ったり、停泊中の船で作業している時は活き活きとしていることに
気がついて、自分の会社の商船で働けるように手配したのでした。いやはや、人生、良き師に出会えるのは幸せ
です。そしてミヒール少年はこの後、長くLampsins家と付き合うことになるのでした。

 1618年8月3日、11歳の時、ミヒール少年は、Lampsins兄弟所有の武装商船「De Haen」のキャビンボーイ
として初めて航海に出て、ブラジルとカリブ海への航海に参加しました。その後も彼は、キャビンボーイとして商
船に乗務していましたが、休戦が明けてスペインとの戦争が再開すると、1622年、15歳になったミヒールは、マ
ウリッツ公のゼーラント州陸軍に入隊しました。
 陸軍のミヒールは、自費で馬を用意して騎兵になっています。これは、ミヒールの母親が”騎手 De Ruiter”とい
うニックネームで呼ばれていたこと、また、叔父がゼーラント州軍の騎兵将校で、その後ろだてが得られたことと
関係しているようです。しかし、バーゲンの町でスペイン軍に包囲され、苦戦したのが気に入らなかったようで、騎
兵の生活は長くは続かず、下士官として海軍に再入隊しました。
 この時の軍隊生活は、陸海通じて僅か一年ほどのものでしたが、ミヒール・アドリアンソーンは最初の実戦経験
を得ます。短期間ながら色々あった軍隊生活で、ミヒールは、海上での切り込み戦闘でスペイン兵にパイクで殴
られ、頭に負傷しました(←戦死した際を除き、唯一の戦傷であるという)。さらに、ダンケルクの私掠船に乗艦を
拿捕されて捕虜になり、スペイン本国に抑留されるも、二人の仲間と共に脱走。フランスを徒歩で縦断して、無事
にオランダに帰国するなど、波乱万丈でした。
 これで軍隊生活には懲りたのか、その年のうちにミヒールはLampsins家の商船隊に戻ります。その後、彼は海
運業の世界で昇進を続けました。

 1630年代を通じて、ミヒールは航海術の数学的側面の研究に没頭し、腕の良い航海士となりました。また、こ
の頃から”デ・ロイテル De Ruyter”を、称号と言うか、姓として名乗り始めたようです(以後、デ・ロイテルと表記
します)。これは明らかに、母親のニックネーム”De Ruiter”にちなんでおり、多分、ゼーラント訛りの綴りだと思
われます。なお、母親は別に乗馬の名手でも何でも無かったのですが、結婚前、夫の馬に相乗りして頻繁にデー
トしていたことと、結婚式にもパッカパッカと馬に相乗りして現れたことが、仇名の由来らしいです。

 当時はまだ、庶民レベルでは「姓」がまだ一般的ではなかった時代であり、「誰それ・誰それの息子」式の命名
で、姓は無いか、職業を示す名詞が「姓」としての機能を果たしていたことが多く、ミヒールの一族も、「デ・ロイテ
ル」を名乗るまで姓が無かったか、Jacob de Liefde著「The Great Dutch Admirals (1873年)」が言うように、
父親の職業そのまんま「ブリューワ Brewer」の語を姓として使っていたかしていたようです(ちなみに、デ・ロイテ
ルの父はAdriaen Michielszoonという名前であり、祖父はデ・ロイテルと同名のMichiel Adriaenszoonという名前
らしいです。代々名前を使い回ししていたのです)。

 1631年、デ・ロイテルは最初の結婚をしました。しかし一年後、この最初の妻は、デ・ロイテルの航海中に女
の子を出産し、産褥熱で死亡しました。 
 1633年、デ・ロイテルはグリーンランド会社に転職し、捕鯨船「De Groene Leeuw」に航海士として勤務しまし
た。ロイテルは当時まだ26歳でしたが、既に15年の海上経験を持っており、有能な航海士として地元では名が
知られるようになっていました。この捕鯨船での航海は、大嵐にあったり、浮氷塊につぶされそうになったりで、
危険いっぱいの不運な航海であったようです。しかし、デ・ロイテルはこの捕鯨船に二年勤務しました。
 1635年、捕鯨船を降りたデ・ロイテルは、またLampsin家の会社に戻り、しばらくの間、アイルランドのダブリ
ンで積荷監督を務めました。彼はつつましい倹約家であり、現実的で優れた商才も持っていたので、雇われ人で
ありながら、1633年の時点で公債、有価証券などで6000フルデン(当時、船長の給料は月30-80フルデン程
度)に上る財産を蓄えていました。

 その後1636年7月1日、Neeltje Engelsと二回目の結婚をしました。彼女との間には二男二女をもうけます。
ただ、夫が航海に出ることが多いため、子供の世話や、一家の商売、財産の管理は全て妻Neeltjeの仕事であ
り、彼女は大変な苦労をさせられたようです。
 1637年、デ・ロイテルは船長に昇進しました。しかし、船長としての最初の指揮船は、商船ではなくLampsins
兄弟所有の私掠船であり、二隻からなる戦隊を組んでの航海でしたが、獲物は少なく、さっぱり儲かりませんでし
た。名将デ・ロイテルが船員に不平を漏らされたのは、後にも先にもこの時だけだったそうです。

 1640年、船長としてブラジル-リスボン間の航路(当時ポルトガルは、同君連合でスペインの支配下にあり、オ
ランダとも抗争中でした。怪しげな密輸か何かだったのでしょう)を、利益の一部を貰うという条件で航海しました
が、失敗しました。その後、会社の指示に従って、ペルナンブーゴ(ブラジルの都市で砂糖の名産地。当時はオラ
ンダ領)からの砂糖と木材、アンティル諸島からのタバコ、フランスのラロシェルからのワインとブランデーを運ぶ
航路に就き、着実に財産を増やして、故郷フリシンゲンでは尊敬される市民となりました。

セント・ビンセント岬沖海戦

 さて、ポルトガルは、スペインとともに大航海時代を先導した海洋大国でしたが、16世紀後半には衰退し、15
80年、同君連合としてスペインに併合されました。過度の海外移民のために本国人口が減少し、有能な人材も
海外植民地に流出したのが衰退の原因と言われています。

 併合された当初は、ポルトガルの主権も尊重されていましたが、やがて内政がスペイン人に掌握され、さらにス
ペインの対外戦争(とその敗北)のおかげでポルトガル経済も圧迫されたため、ポルトガル国内ではスペインに対
する反感が強まってゆきます。そして、スペインのカタルニャ地方の反乱鎮圧にポルトガル軍を派遣するという決
定が下された時、ポルトガル人の不満は爆発しました。
 1640年12月1日、リスボンでブラガンサ公ジョアン(João IV de Portugal e II de Bragança 1604-1656)
首謀者とするクーデターが発生。スペイン支配を打破します。12月15日、ブラガンサ公はジョアン4世(在位1640-
1656)としてポルトガル国王に即位し、ポルトガルは独立を回復しました。

 そして、スペインからの反撃に脅かされるポルトガルは、スペインの敵国に同盟を呼びかけました。しかし、そ
の呼びかけに応えたのはフランスとオランダだけ。しかも、フランスは表立った援助を拒み、オランダはとりあえ
ずのポルトガル支援を決定しましたが、ブラジルの植民地や通商関係でポルトガルと激しく対立していたので、ポ
ルトガルを支援すると言いながらも、オランダはポルトガルの海外領土を攻撃し続けるのでした。

 ま、それはともかく、ネーデルラント連邦議会は、ポルトガルに艦隊を派遣することにしました。この時点でオラ
ンダ海軍は本国周辺の制海権を確保していましたが、専門の海軍士官が少ないという体質的な欠陥は変わって
いませんでした。その上、海外にあっては商業上のライバルでもあり、自国の存亡にも関係の無いポルトガルの
支援には、船や人員を提供する船主達も甚だ消極的でした。

 しかし、どうにか士官や人員、さらには船そのものも、民間や東西インド会社から一時雇いでかき集められ、五
つの海軍司令部がそれぞれ4隻ずつ出し合って、20隻の艦艇が集まりました。デ・ロイテルも、ゼーラント州代
表の一人として、遠征に参加することになります。
 ゼーラント州はデ・ロイテルを遠征艦隊の司令官に推しましたが、当時34歳のデ・ロイテルでは若すぎると思わ
れたのか、連邦議会は、東インド会社出身で、この時は西インド会社の職員だったアルトゥス・ヒーゼルス
(Artus Gijsels)を海軍中将(vice-admiraal)として司令官に任命し、副司令官にも、北方航路の船長ヤコブ・ピー
タースソーン・トロックという人物が海軍少将として任命されました。

 このため、ゼーラント州と連邦議会との間で一悶着おきそうになりましたが、フレデリック・ヘンドリク総督(162
5年に死去したマウリッツ公の異母弟)が仲裁に入り、デ・ロイテルも海軍少将(schout-bij-nacht)に任命される
ことで決着し、デ・ロイテルは.ゼーラント州司令部が提供した戦隊を指揮することになりました。
 とは言え、デ・ロイテルの旗艦は360トンの「De Haze(=ウサギ?)」。商船としては標準サイズですが、軍艦とし
ては小型です。また、砲26門搭載に対して、乗組員は僅か90人であり、戦闘中、砲を操作しながら操船すると
なると、かなり人手不足です(むしろ装備過多なのかも知れません)。デ・ロイテルは、指揮下の人員について、
「優秀で数も足りている」とコメントしていますが、人手不足は派遣艦隊全体の問題でした。

 1641年9月10日、艦隊はリスボンに到着しました。協同作戦を取るはずだったフランスとポルトガルの艦隊
は現れなかったのですが、オランダ艦隊は、ポルトガル周辺海域に出動します。
 そして1641年11月4日、ポルトガルのちょうど左下すみっこ、セント・ヴィンセント岬の沖で、スペイン艦隊と
ダンケルクの私掠船の合同部隊と遭遇しました。スペイン側は、新大陸からの銀輸送船団の安全を図る目的で
の出動であり、20隻のオランダ艦隊に対して、20-23隻とやや優勢でした。
 オランダ艦隊は、ヒーゼルス提督直卒の戦隊が前衛、デ・ロイテルの戦隊は戦列の中段で、艦隊の副司令官、
トロック少将の戦隊が後衛という態勢でしたが、トロック少将の戦隊は本隊からかなり遅れていました(デ・ロイテ
ルは、後で臆病だと批難しています)。
 オランダ艦隊はスペイン艦隊の後方から接近し、午後、オランダ艦隊の前衛とスペイン艦隊の後衛二隻との間
で戦闘が始まりました。
 しかし、オランダ艦隊の前衛の私掠船「De Swaen(白鳥)」が、スペイン艦「De Angel Gabriel(天使ガブリエル)」
に捕捉されて切り込まれ、窮地に陥りました。それを見たデ・ロイテルは、ギーゼル提督の指示を無視し、直ちに
針路を変えると、指揮下の戦隊を引き連れて「De Swaen」の救援に向かいました。ここで「De Haze」は砲撃を受
け、喫水線下に何発か被弾し、激しく浸水しました。
 それを見た部下の艦長が援助を申し出ましたが、デ・ロイテルはそれを断ると、大砲を移動させて船体を傾け、
破孔を水面上に出して浸水を止めるという大技をやってのけました。デ・ロイテルは、敵と戦うことよりも、窮地に
陥った僚艦の救援を優先する傾向がある有難い指揮官でしたが、目的のために手段を忘れるのか、その救援を
実施することで直面する危険には、かなり無頓着だったようです(この大技も、失敗すれば船が転覆しかねませ
ん)。
 ムリヤリに浸水を止めて、僚艦の救援に向かう「De Haze」でしたが、その後も更に被弾して浸水は激しくなり、
ついに火薬庫にまで水が流れ込みましたが、必死のポンプ排水(勿論、当時の手押しポンプです)のおかけで、火
薬の大部分を守ることに成功しました。
 そして、近距離からの砲撃で敵艦「De Angel Gabriel」を撃沈、制圧されかかっていた「De Swaen」を奪還した
のでした。

 結局、この「セント・ビンセント岬沖海戦 Zeeslag bij Kaap Sint-Vincent」は、勝敗がはっきりせずに終わりま
した。損害については、双方2隻ずつの船を失い、オランダ側は戦死200人程度、スペイン側は戦死1000人以上
と言われています。どうも、スペインの人的損害は過大なような気がしてなりませんが、スペイン艦隊は、被害の
大きさに戦闘を打ち切ったということです。
 一方のオランダ艦隊も損傷艦が多く、パトロールを中止してリスボンへ向かいました。このため、スペイン側とし
ては、銀輸送船団の安全を図るという目的を達したわけであり、まあ、スペインの戦略的勝ちと言っていいかも知
れません。
 デ・ロイテルの「De Haze」は18発被弾しており、彼の報告によると、水線下に2〜2.5フィートの大穴が開く大損
傷を負いました。浸水は激しく、かろうじてポンプの排水が追いつく状態で、「De Haze」は非常に危険でしたが、
それでもデ・ロイテルは「De Haze」に将旗を掲げ続け、リスボン近郊、テーショ川河口の泊地を目指しました。そ
の途中、嵐にも遭遇しましたが、デ・ロイテルの卓越したシーマンシップのおかげで「De Haze」は沈没をまぬか
れました。

 翌1642年1月11日、オランダ艦隊はポルトガルから撤収し、デ・ロイテルはフリシンゲンに帰還しました。「セ
ント・ビンセント岬沖海戦」は決して大規模な戦闘ではないし、デ・ロイテルがあげた戦果もそれほど大したもので
はなく、自分の旗艦も派手に損壊させていましたが、ギーゼル提督は、個人的にデ・ロイテルの行動を顕彰しまし
た。これは、トロック少将が顰蹙を買ったのとは対照的であり、これで軍人としてのデ・ロイテルの名は高まった
のですが、本人はと言うと、「もうたくさんだ」と、再びLampsins家の船会社に戻ってしまいました。彼はどうも、根
が商売人だったようです。

 この150年後、1797年2月14日、同じくセント・ビンセント岬沖で、戦列艦15隻のイギリス艦隊と、戦列艦2
7隻からなるスペイン艦隊が衝突します。この「セント・ビンセント岬沖海戦」では、イギリスの戦列艦「キャプテン」
のホレイショ・ネルソン艦長が、司令官ジョン・ジャービス提督の命令を無視して突進し、大損害を受けつつも、
「キャプテン」よりも大きな戦列艦を二隻も拿捕して勇名をはせます。デ・ロイテルと概ね似たような状況であり、
歴史は繰り返す、の典型例です。
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