マイケル・コリンズその2
生誕からイースター蜂起まで
  マイケル・コリンズは1890年、アイルランド南部、コーク州クローナ・キルティの小作農の家に生まれました。8
人兄弟の末っ子で、マイケル誕生時、父親はなんと75歳。当時のアイルランドの農村では、主として経済的な理
由から、結婚できるのは長男だけという慣習があり、コリンズの父親は長男ではなかったのか、結婚当時は60
歳という超晩婚。一方、奥さんは20〜23歳の若い美女でした。
 前述の慣習のため、女性の多くは結婚相手が居ないので(この為、多くの若い女性はアメリカに出稼ぎに出て、
そこで結婚した)、アイルランド人同士の結婚となれば、こういう祖父と孫ほどの年齢差も珍しくはなかったようで
す。
 なお、コリンズ家は小作農でしたが、由緒ある家柄であり、小作農なのは単にカソリックの土地所有が禁止され
ていた時代の名残であっただけで、経済的にはかなり裕福でした。そのため、父親は読書家であり、独学でギリ
シア語とラテン語をマスターしたり、アイルランドの古典を研究したり、IRBに加盟したりと、いろいろやっていま
す。
 この父親は、コリンズが6歳の時になくなりましたが、その影響は大きく、コリンズも大変な読書家でした。シェイ
クスピアから思想書までと幅広く、中学生の時には、シン・フェーンの機関紙を読んで、早くもアイルランドの民族
運動にも傾倒しています。
 コリンズは15歳の時、ロンドンへ渡り、郵便局で働いています。農民の子が英国本土や大陸、アメリカなどへ出
稼ぎに出て、故郷へ送金することはアイルランドではよくあることでした(このような形でアイルランドに流入する外
貨は年間百万ポンド以上になった)。さらに、クローナ・キルティ近辺では、郵便局職員というのは、一種の流行だ
ったようです。
  郵便局でのコリンズの職場は貯蓄部門であり、1910年からはアメリカ系の投資会社に転職しています。ロンド
ンでは、アイルランドの志士達の例に漏れず、ゲール語連盟に加盟してゲール語を勉強し、民族運動の高まりの
中、 1909年にIRBに加入しました。25歳までロンドンに滞在した後、1916年に帰国してアイルランド義勇軍に参
加しました。どうやらこれは、イースター蜂起に備えて呼び戻されたからのようです。
 ここでコリンズは、IRBの幹部の一人、エイモン・デ・ヴァレラ(1882-1975 エール初代首相、後にアイルランド共
和国大統領)と出会います。デ・ヴァレラはイースター蜂起に中心的な役割を果たした16人の一人で、後にアイル
ランド共和国臨時政府首班(肩書きとしては国民評議会議長)として独立運動を指導してゆくことになる人物で
す。コリンズはデ・ヴァレラを非常に尊敬し、個人的にも親しく交際していて、デ・ヴァレラの家族もコリンズの事を
歓迎していました。この頃のコリンズは、デ・ヴァレラと戦う時が来ようとは予想していなかったでしょう。
さて、IRBの過激派とシン・フェーンの一部が、第一次世界大戦を好機としても反英蜂起を企んでいたのは前にも
述べたとおりですが、ここでコリンズはビジネスマンとしての経験を生かして、アイルランド義勇軍の財政顧問とし
て資金や武器の調達を行っています。そして、そのままイースター蜂起に参加しますが、先にも述べたように蜂
起は大失敗、逮捕されてウェールズの刑務所に収監されてしまいました。
 コノリー、ピアーズら蜂起の指導者のうち15人は銃殺刑に処されますが、ただ一人、エイモン・デ・ヴァレラはア
メリカ国籍を持っていたために処刑を免れました(こう言っては何ですが、後の出来事を考えると、この時死ねば
良かったんですが・・・・・・)。
  コリンズがウェールズの刑務所に収監されている頃、アイルランドの世論には重大な変化が起こります。即決
の軍事裁判で(これも先に述べたように、あながち不当とは言えないのですが)蜂起の指導者らが処刑されるに
及び、蜂起には冷たかったアイルランド人達の間に同情論が高まり、世論は逆転。イギリスのやり方を批難する
ようになります。



政界デビュー
  逮捕されたコリンズでしたが、まだ若くて無名だったために短期間の禁固刑ですみ、1916年の末には釈放され
て帰国することができました。帰国したコリンズは、蜂起失敗の大打撃で再編成中のシン・フェーン党に加入し、
同時にIRBの最高評議会議員となって、IRBの再編を手がけました。もっとも、この後、IRBはかなり影が薄くな
り、シン・フェーンが独立運動の表舞台に立つことになります。これは、IRBが元は秘密結社であり、陰湿なところ
が多々あったので、グリフィス、デ・ヴァレラなどの大物がそっぽを向いたからのようです(もっとも、デ・ヴァレラが
IRBを抜けて意思疎通が円滑でなくなったことが、後々のコリンズとの対決の原因の一つのようです)。

 彼の政界デビューはこの頃でした。彼はなかなか宣伝上手で、獄中のハンストで死亡した義勇軍幹部、トマス・
アッシュ(コリンズの友人でもあった)の葬儀の際、コリンズは軍服を着て列の先頭を歩きます(葬儀そのもののこ
った演出と映画撮影も忘れなかった)。そして、短い演説の後、空砲を三発撃ったとされています。葬儀には数万
人の群衆が参加していましたが、このパフォーマンスは群集に強い感銘を与え、コリンズの名はアイルランド人
の間に知られるようになります。イースター蜂起と同じくらいアイルランド社会に影響を与え、社会全体の雰囲気
を変えたと言われています。
 ちなみに英国側の官憲はコリンズの人相風体に関する情報が無く、特に変名を使っていたわけでもないのに彼
の正体をつかみかねていたとされていますが、逮捕歴もあるし、このような派手なパフォーマンスを演じた以上、
これは伝説でしょう(それだけうまく追撃をかわしていた、ということでしょうか)。
 また、ここでもコリンズはビジネスマンとしての経験を活かし、シン・フェーンの金庫番として活動しました。彼は
金銭面に厳格なことに加えて優秀な管理能力も持ち合わせており、こうした役割にはまさにうってつけでした。
「スーツと自転車」が当時の彼のトレードマークで、この格好でダブリン市内を行き来しながら、資金や武器の調
達(密輸)に奮闘しています。公債を発行したりもしましたが、信用度からすればこれは空手形も同然のこの公
債、売れたのはアイルランド人の愛国心もさりながら、コリンズの巧みな宣伝によるところが大でした。
 そして1917年10月、シン・フェーン党は釈放されたデ・ヴァレラを党首に迎えると、イースター蜂起の際の共和
国宣言の継承を訴え、再びイギリスと対立します。皮肉な話ですが、当時コリンズを中心とするIRBは、英国の王
権を一部認めようとする穏健なアーサー・グリフィスを嫌っていたので、コリンズは積極的にグリフィス追い落とし
を行い、後任にデ・ヴァレラを強く推薦しました。デ・ヴァレラはわりとすんなりシン・フェーンに受け入れられました
が、おかげでコリンズは、グリフィス支持者の多かったシン・フェーン党内でひどい恨みを買ってしまいました。こ
のため、党執行部の選挙ではコリンズはギリギリ最下位当選でした。
 この後、アイルランド義勇軍でも大会があり。デ・ヴァレラが議長に、コリンズは組織局長として戦闘部隊再編
の仕事に着手しました。
 そうこうしているうちに1918年、アイルランドで徴兵令が施行されました。ここでアイルランド紛争は大きな転
回点を迎えました。シン・フェーンをはじめとする共和派は徴兵令に反対しますが、ロイド・ジョージの連立内閣
は、共和派を厳しく弾圧します。
 1918年4月、コリンズも扇動罪で逮捕されてしまいました。が、義勇軍が保釈金を払ったのですぐに保釈さ
れ、そのままトンズラ、以後、お尋ね者になってしまいました。従来、義勇軍は同情論を喚起するため、逮捕者の
保釈は申請しない方針でしたが、武装闘争が近いと見た義勇軍が、既に義勇軍の実権を握りつつあったコリン
ズを必要としたからです。また、アイルランド警察の内通者からの情報で、コリンズは独立運動の指導者達の一
斉逮捕の情報を掴みましたが、これは、同情論をかきたてようとするデ・ヴァレラの意向で無視されました。この
時の逮捕者は80名に及び、逮捕を免れたのはコリンズと親友のハリー・ボーランドだけでした。イギリス政府
は、逮捕理由をドイツと密かに接触していたからだ、としましたが、独立運動弾圧のための大ウソです。
 そんな状況ではありましたが、シン・フェーンは1918年12月の総選挙に打って出ました。
「投票すべき候補者が刑務所の中にいたとしても関係ない!」「我々には拒絶という強力な武器がある!」
コリンズは若くて見栄えも良く、天性のカリスマも持ち合わせており、演説の内容もなかなか説得力がありまし
た。
 さて、選挙の方はというと、イースター蜂起はまだ記憶に新しく、処刑された指導者達への同情はシン・フェーン
には追い風でした。11月に第一次世界大戦は終わり、徴兵令は自然消滅していましたが、いまだ反発は大き
く、戦争終結まで、という条件で凍結されていた1914年のアイルランド自治法も、ロイド・ジョージの連立内閣が約
束を反故にしたので、シン・フェーンは大躍進。これまでの最大勢力、自治主義者の国民党を議会から一掃して
73議席を獲得、アイルランドにおける第一党に踊り出ました(なお、この時を境に国民党は消滅。二番目はアル
スターの英国帰属派、統一党だった)。穏健な自治主義はこれ以降影を潜め、アイルランド民族運動の共和主義
(つまりアイルランドの完全独立)への傾斜が決定的になりました。
 この選挙運動中、コリンズはキティ・キアナンという女性に出会って一目ぼれします。ところが、イースター蜂起
以来の親友で、独立戦争を共に戦うことになるハリー・ボーランドもキアナンに一目ぼれ。まさに絵に描いたよう
な三角関係になってしまいました。マイケル・コリンズとは殺し屋としてのダーティーなイメージが先行する人物(勿
論、1918年当時はまだそうした行為に手を染めてはいませんでした)ですが、本来は陽気で快活、優しく温厚な
性格の人物で、女性にもてる要素は多分にありました。しかし、コリンズに関して事実関係がはっきりしている恋
愛沙汰はこれだけです(後に不倫騒動もありましたが、デマのようです)。コリンズとボーランド。キティ・キアナン
はどちらを選んだのでしょうか?それは後のお楽しみ。
 さて、選挙で大勝したシン・フェーンでしたが、当選した議員達(と言っても、多くはイギリスの刑務所に収監中で
した。コリンズの演説は冗談ではなかったのです)はイギリス議会への登壇を拒否、まだ自由の身のシン・フェー
ン党員とともに1919年1月21日、ドール・エレン(アイルランド国民評議会)と称する臨時政府を設立。獄中にい
たデ・ヴァレラは議長に、アーサー・グリフィス(彼も収監中)は副議長に任命され、アイルランド共和国独立が宣
言されました。コリンズは最初、内務大臣に、次にはビジネスマンとしての経験を買われ、財務担当大臣に任命
されますが、I RBの組織局長でもあったコリンズは、アイルランド義勇軍(後にIRA、アイルランド共和国軍と改称)
に強い影響力を持っていたため、軍事、諜報部門の長にも任じられました。
 この義勇軍の司令官という人事、コリンズが自ら買って出たものか、他から推薦されたものなのかは、残念な
がら分かりませんでした。義勇軍としては、最初は臨時政府副議長のアーサー・グリフィスをボスに望んでいたよ
うです。しかしグリフィスは、シン・フェーン党(先にも述べたようにもともと穏健派です。ただしこの頃にはかなり過
激化していた)の創設者として人望がありましたが、穏健な路線の人物なので、義勇軍のメンバーの多くに不人
気だし、本人もこれは断ったようです。コリンズとて財務管理者としてのこれまでの業績や、温和で優しい本来の
性格を考えると、ぱっと見は相応しくないポストですが、多分、イースター蜂起に参加したことが買われた物と思
われます。結果としてコリンズは、これ以上に無いほどの適材でしたが。
 コリンズの最初の任務は、1918年5月に逮捕されていたエイモン・デ・ヴァレラの救出でした。コリンズとハリ
ー・ボーランドはイギリス本土に乗り込み、リンカーン刑務所を襲ってデ・ヴァレラを脱走させました(デ・ヴァレラ
は女装して逃げたとか)。ただし、3月には一斉逮捕された人々に恩赦が下って釈放されたので、無理に脱獄す
る必要は無かったような・・・。
 1919年4月、改めてドール・エレンが開催され、臨時政府内で人事異動があって、コリンズは財務大臣に指名
され、義勇軍の副司令官と兼任となりました(正式な司令官はデ・ヴァレラ)。また、デ・ヴァレラと親しく、義勇軍の
参謀長を務めていたカサル・ブルッハーという人物が国防大臣に就任しました。ブルッハーは、アイルランド義勇
軍を「アイルランド共和国軍(IRA)」と改称しますが、これは、アイルランド義勇軍に対するコリンズの影響力が増
大しているのを見て、義勇軍がコリンズの私兵化することを恐れたためです(←ただし、IRAという名称は、コリン
ズが発刊した義勇軍の機関紙で既に使用されていた)。義勇軍は、今や共和国臨時政府の軍隊であることをは
っきり示すため、「アイルランド共和国軍」と改称したのですが、このエピソードが示すように、ブルッハーとコリン
ズの仲は非常に悪いものでした。この時、デ・ヴァレラに悪意はまだ無かったと思われますが、これは後の対決
の伏線となります。
 また、デ・ヴァレラが、イギリスの宣伝に対抗し、アメリカでアイルランド共和国の承認を得るために渡米すると
言い出した時、コリンズは激しく反対しました。アメリカ大統領ウイルソンは、新英派のプロテスタントで、どう考え
ても
アイルランド共和国を承認するはずはないし、臨時政府の指導者が国を明けることなど許されないのも明白でし
たが、1916年6月、デ・ヴァレラは、ハリー・ボーランドを連れて渡米しました。この事も、コリンズとデ・ヴァレラ
の間の連絡の不行き届きとなって、対立を助長したと思われます。


キティ・キアナン

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