マイケル・コリンズ  
   (1890-1922)
 
 +:アイルランド独立の英雄

-:殺人者  
  マイケル・コリンズ。彼の名前は決して有名ではありませんが、700年におよんだ英国のアイルランド支配を終
わらせ、現在のアイルランド共和国の礎を築いた業績は特筆されるべきものです。アイルランド独立は英国領に
おける独立運動の最初の成功例であり、大英帝国という植民地帝国の終わりの始まりと言えます。この意味で
は、コリンズは大英帝国を倒した男と言えるのではないでしょうか。
 しかし、マイケル・コリンズは、アイルランド共和国軍(IRA)として知られる組織の基礎(決してイコールではあり
ません。その理由については後述します)を作った上に、都市における破壊工作、待ち伏せ、狙撃、暗殺などの
仮借ない都市ゲリラ戦の大家としても知られています。現在の一般的なテロリストの戦術は、概ねコリンズによっ
て先鞭をつけられたものであり、この点では評判が悪い。もっとも、世の英雄と言われる人物の多くは大なり小な
り殺人者であり、彼だけを批難するのは不公平と言えるでしょう。
 残念ながらコリンズの伝記は日本では全く手に入りません。従ってこの記事も、近代史に関する書物から、コリ
ンズに関する記事を抜き出して構成せざるを得ませんでした。


 先ず、本題に入る前に近代におけるアイルランド独立運動の簡単な流れを説明しておきましょう。
  イギリスとアイルランドの対立と抗争の歴史は有名ですが、実のところ19世紀後半から和解と融和の兆しが見
え始め、イギリスはアイルランド市民の権利保護と政治的な譲歩に(しぶしぶながら)乗り出しました。1874年、保
守党、自由党に次ぐ第三の政党としてアイルランドの自治獲得(独立ではない)を目指すアイルランド国民党が英
国議会に登場、1886年には(不成立でしたが)最初のアイルランド自治法案が内閣から提出されています。1893
年、再度提出された自治法案は下院で議決されましたが、上院で否決されました。アイルランド自治法案はこの
後もたびたび提出されますが、ずっと下院で議決、上院で廃案というパターンを繰り返します。この間のアイルラ
ンド独立運動は概ね低調でした。中にはIRBのような過激派もいましたが、アイルランド人の多くは、英国との連
合王国を形成することがアイルランドの利益になると考え、英語を国語とすることにも全く抵抗を感じていなかっ
たようです。アイルランド人の多くを占める小作人達のための土地改革も進展しており、国民党もイギリスとの協
調を重視していたために摩擦も少なく、それなりに満足すべき状況だったのです。
  しかし19世紀末から20世紀初頭にかけて、グレゴリー夫人、イェーツ、ダクラス・ハイド(後、エール共和国初代
大統領)ら詩人、文学者による文芸復興運動を通じて、アイルランド人の愛国精神が高揚してゆきます。自治主
義を標榜して英国との協力関係を重視する国民党は相変わらず多数派でしたが、アイルランドの完全独立を目
指す団体が力をつけ始めました。
アイルランド独立運動を展開する団体にはアイルランド共和同盟(IRB、1848年設立の秘密結社)、シン・フェーン
党(1907年、アーサー・グリフィスによっていくつかの組織が統合されて設立)の二つが有名です。基本的にはIRB
が武闘派で、シン・フェーン党は英国と妥協しても良いという穏健派でした。
 そんなこんなで1912年、下院で議決されたアイルランド自治法案は、またも上院で否決されましたが、同一会
期中に再度下院で可決されます。このため、議会法の改正により1914年には、上院の議決無しでも立法化され
ることになりました。
 しかし、ここで問題発生。アルスター(北アイルランド)は、いわゆる「アルスター殖民」政策のために、イギリス人
が人口の半分を占めていました。そのために自治法案への抵抗が強く、エドワード・カーソン卿という人物に率い
られた統一党は、自治法案が成立すれば内戦も辞さない、という強硬論を主張。英国に対して、少なくともアルス
ターだけは自治法案から除外せよ、との要求をつきつけました。更に統一党はアルスター義勇軍なる民兵組織を
設立し、公然と反乱の準備をはじめました。
 それに対抗して1913年、IRBを中心にアイルランド義勇軍が結成され、アルスター義勇軍と睨み合います。アイ
ルランドは内戦の危機に直面しました。アイルランドの安全は駐留イギリス軍の手にかかっていましたが、そもそ
もの兵士が、当事者それぞれで構成されている以上、期待はできませんでした。同じようなことは1960年代初頭
のアルジェリアでも起きています。
 さて、結果として内戦は起こりませんでした。なぜなら1914年8月、第一次世界大戦が始まったからです。対立
はひとまず棚上げにされ、アイルランド人たちは続々とイギリス軍に志願(アイルランドは徴兵法の対象外であ
り、彼らは完全な志願兵であった)、最終的に二十万人のアイルランド人が出征します。ドイツ帝国がイギリス以
上の敵とみなされたこと、貧乏なため兵隊になるしか職が無かったこと、なんだかんだいいつつも英国に親しみ
を感じる市民が多かったこと、国民党のような現実派が、イギリスに積極的に協力することによってせいぜい恩
を売っておこうと考えたこと、などがその理由でしょう。
 一方、成立するはずだったアイルランド自治法は、戦争勃発のあおりを食らって施行を停止されました。当時
の英国首相、アスキス自身は自治法施行に積極的で、戦争終結時には自治法施行を約束していましたが、ま、
これは仕方無いでしょう。
 さりながらアイルランド義勇軍の中の過激派(特にIRBのメンバー)は、イギリスには一切手を貸すべきではない
と主張し、イギリスと協力してより多くの譲歩を引き出そうとする現実派と対立、そして何を思ったかドイツの援助
を受け入れ、武装蜂起を画策しました。
 1916年、イースターの日曜日に計画されていた蜂起は、武器を輸送してきたドイツの輸送船が撃沈されたため
に中止が決定されました。ところが、IRBの中でも特に過激な一派が大暴走、蜂起は一日遅れになっただけ、と
勝手に声明を出し、蜂起を決行してしまいます。

 1916年4月24日、約1500名の男女(そう、女性も含まれていた)はダブリンの中央郵便局を占拠。アイルランド
共和国独立と、共和国暫定政府の成立を宣言しました。しかし、第一次世界大戦のさなかの蜂起にはアイルラン
ド人達でさえ冷淡であり、最大勢力の国民党も蜂起を批難しました。また、市街戦で多数のアイルランド人市民
(反乱軍の銃弾に倒れた者も少なくなかった)を巻き添えにしたこともあって支持は全く得られず、結局、5日間で
降伏、蜂起は失敗しました。
 コノリー、ピアーズら蜂起の中心人物15人は、即決の軍事裁判で銃殺刑に処されました。当人達も容疑を認め
ているので事実関係が明白であり、そして多数のアイルランド人市民が巻き添えになったことで駐留英国軍司令
官、マックスウェル将軍は怒り狂っていました。当時26歳だったコリンズも蜂起に参加していましたが、当然逮捕
され、ウェールズの刑務所に送られてしまいます。

 
 あ、コリンズの名前がほとんど出ていないな。でも後半へ続く。後半は、コリンズの人生です。

inserted by FC2 system