マイケル・コリンズその3
独立戦争勃発
  独立は宣言されたものの、大英帝国が認めるはずはありません(アルスターも認めない)。コリンズは、1919
年1月の義勇軍の機関紙、「若い戦士」の中で、パリで開催されている第一次世界大戦の講和会議でアイルラン
ドの独立が承認されなければ、武力に訴えてでも独立を勝ち取るしかないと宣言していましたが、実際、臨時政
府は代表団をパリに送ったものの、事前に予想できたことでしたが、デ・ヴァレラが一方的に期待を寄せていたア
メリカ合衆国大統領ウッドロー・ウィルソンがアイルランド共和国の承認を拒否したことで、平和的独立の構想(=
妄想)はあっさりと崩壊しました。
 それを知るや、イギリスは直ちに弾圧を開始します。IRAも直ちに反撃しました。国民評議会が設立されたのと
同時期である1919年1月21日、非武装の警官二名が射殺される事件(イギリスの警察がモデルのため、「武
装警察」以外のアイルランド警察の警官は、火器の携帯を許可されていない)が発生、これを皮切りに独立戦争
(英国・アイルランド戦争と呼ばれる)が始まりました。
 この戦争、大規模な部隊同士が正面衝突するような戦いはありません。もともと2000人程度しかいない、武
器も不十分な(第一次世界大戦後のことなので、兵士のレベルはそれなりでしたが)IRAが、6万人の駐留英国軍
を相手に正面から戦っても勝てない。自明の理なのですが、当時はまだゲリラ戦というアイデアはまだ一般的で
はなかったのか、それに気がつかなかったからこそイースター蜂起のような悲劇が起こったのです。コリンズは
失敗を繰り返すことなくゲリラ戦に徹しました。従って、イギリスは決して戦争状態とは認めず、「犯罪の多発」とし
て対処していましたが、コリンズのゲリラ戦は、後に毛沢東やチェ・ゲバラも「影響を受けた」と明言するほど、効
果的なものでした。
 政府要人の暗殺、小部隊への待ち伏せ攻撃、焼き討ちなどのテロ攻撃がアイルランド全土で行われます。IRA
の作戦行動は、末端に至るまでコリンズに直接管理されており、一般市民を巻き込まないことが徹底(勿論、任
務失敗も許されなかった)されていましたが、反対にイギリス軍の報復の矛先は、(IRAを捕捉出来ないために)無
関係な市民に向けられました。一般市民への報復はアイルランド人の怒りを招き、IRAの更なるテロを誘発。そし
てテロはまた報復を招いてイギリス兵は一般市民を襲う、という暴力の無限連鎖が、アイルランド独立戦争の実
態でした。どことは言いませんけど、地中海岸の小さな国を思い浮かべて下さい。

 臨時政府が武力で対決する腹を決めると、コリンズが最初に手がけたのは、英国側の情報網の遮断でした。
ゴミ箱の中身やタイプライターのカーボンを回収するという古典的な手法は勿論のこと、コリンズ自らダブリンの
警察本部に潜入(もちろん、内通者の手引きで)して、英国側の情報網の詳細を調べ上げます。同時に、郵便局
(←政府の文書をこっそり開封する)や税関(←武器は素通り)、警察など、行政府の中に情報網が築かれました。
アイルランドは貧しくて参議用も貧弱で、多くのアイルランド人には公務員くらいしか道が無かった事が、コリンズ
にとって幸いしました。
 また、「スーツと自転車」は相変わらず彼のトレードマークであり、自らダブリン市内を行ったり来たり、情報収
集や指示連絡に動き回りました。彼は既に指名手配中で、一万ポンドの賞金首だったのですが、「スーツと自転
車」では何故か怪しまれなかったということです。
 そうして彼は、英国側の情報網が予想外にアイルランド人社会に浸透していることを知り、英国側の情報網を
破壊しなければ、独立運動自体が成り立たないことに気がついたのでした。アイルランドには親英派も多く、行政
府の多くの職員がアイルランド人であることを考えれば当然のことなのですが、コリンズは、スパイとなる裏切り
者と、もっと直接に独立運動を取り締まる刑事(ほとんどアイルランド人)の抹殺という非情な決断を下しました。
マイケル・コリンズが殺し屋に変貌した瞬間でした。親英派を殺して情報網を遮断すると同時に、親英派アイルラ
ンド人に恐怖心を与えるというテロリズムの典型的発想です。その任務のためにコリンズ自身が選んだ義勇軍の
腕利きが集められ、「12使徒」として知られる暗殺団が結成されました(ただし、彼自身が銃を取った形跡はあり
ません)。
  スパイや刑事達は(手紙で一度だけ警告を受けたと言われている)、ある者は自宅で、ある者は白昼堂々と路
上で殺されて行きました(ソルダもそこのけのやり口。ノワールファンなら分かりますよね)。親英派アイルランド人
の士気は急落。多くの警官が辞職して警察組織が成り立たなくなったので、アルスターや本土からイギリス人の
警官も送り込まれたりしましたが、彼らの運命も、警告の手紙が無い以外はアイルランド人の裏切り者と違いは
ありませんでした。
 このように独立戦争初期のゲリラ戦は、性格として内戦に近いものがありました。アイルランド人の全部が英国
からの独立を望んでいたわけではなく、親英派のアイルランド人もかなりたくさんいましたし、独立運動を取り締
まるアイルランド警察の刑事や駐留軍の兵士の多くは、そもそもがアイルランド人です。
 手を焼いたイギリス政府は、1920年1月から第一次世界大戦に従軍したベテラン兵士からなる治安部隊、悪
名高い「ブラック・アンド・タンズ」を編成してアイルランドに送り込みます。彼らはイギリス人で構成されており、
IRAのテロに対しては、ほとんど人種差別的な悪意をもって一般市民に報復し、共和派はもちろんのこと、親英
派アイルランド人まで独立運動に傾斜させる結果となりました。コリンズの故郷であり、独立運動の震源と見られ
ていたコーク州も、何度か攻撃されています。肝心のIRAの討伐にもそれなりの成果を上げましたが、待ち伏せ
攻撃で損害が多発しています。「ブラック・アンド・タンズ」の一般的なイメージというのは「カーキ色の服に黒いベ
ルトで無蓋トラックに鈴なりになった兵隊」ですが、よく頭上から火炎瓶や爆弾が降って来ました。さらに、「補助
部隊」と呼ばれる暗殺チームもあり、コリンズも危うい目に遭っています。
 また、15人のエリート諜報部員からなる特捜班「カイロ・ギャング」が編成されてダブリンへ派遣され、IRAの捜
査に当たりましたが、情報戦でもコリンズの方が上でした。たいした成果をあげぬまま、「カイロ・ギャング」のメン
バーは秘密のはずの本名と住所を探り出されてしまい、1920年11月12日の早朝、それぞれの自宅や宿泊先
で、哀れ皆殺しの憂き目に遭いました。
 この事件はイギリス軍にとっては大変な衝撃だったようで、報復は素早く、無慈悲なものでした。同じ日の午
後、その報復にブラック・アンド・タンズがフットボールの試合中の競技場に乱入、観客に発砲して12人を殺し、
60人を負傷させました。しかしこの暴挙、さすがにイギリス国内からも批難の声があがりました。
 この事件の直後の1920年12月、アメリカを訪問していたデ・ヴァレラの代行として、臨時政府の指揮を執って
いた副議長、アーサー・グリフィスが逮捕されました。そのため、デ・ヴァレラが帰国するまでの短い間、コリンズ
は臨時政府首班の任を代行しています。
 1920年12月、臨時政府議長デ・ヴァレラは、アメリカから帰ってきました。さすがに脱獄囚の身ではアイルラ
ンドでも肩身が狭いのか、1919年6月から一年半もの間アメリカを訪問していました。目的だった大統領との会
見とアイルランド共和国の承認は果たせませんでしたが、アイルランド系アメリカ人がそれなりの勢力を持ってい
る上に、もともと「自由」「独立」という言葉には弱いお国柄ではあり、多額の資金を調達するとともにアメリカ国内
の世論を喚起することに成功。内外の世論の圧力に、イギリスは交渉の道を模索しはじめます。
 1921年5月、イギリスの選挙法の下では最後の選挙がアイルランドで行われましたが、南アイルランドではシ
ン・フェーンが大勝(ただし、アルスターではやっぱり統一党が勝った)。これをきっかけにイギリスは、臨時政府に
対して交渉の意思を示しました。なお、コリンズはなぜかアルスターで出馬し、当選しています。
 さて、臨時政府首班たるデ・ヴァレラは、イギリスが折れそうな雰囲気を見せたことに満足したのですが、ここで
とんでもないことをやってくれました。彼は臨時政府議長、アイルランド共和国臨時政府首班としてIRAに大規模
な攻勢を命じたのです。目標はアイルランド総督府、カスタムハウス(税関事務所)。
 コリンズの仮借ないゲリラ戦のおかげでIRAは殺人者としてのイメージが定着してしまい、好意的な世論の一抹
の汚点となっていましたから、アイルランド共和国臨時政府が国家の体裁を整えていることを示すためにも、IRA
はテロリストではなく正規の軍隊であると証明しなければならず、ここらで一発、臨時政府の命令による「軍隊ら
しい戦闘」が必要だというのがデ・ヴァレラの考えでした。また、世の戦争では、交渉を前にすると優位に立つた
めに攻勢に出ることはよくある話ですから、デ・ヴァレラもその例に漏れなかったのかもしれませんが・・・・・・。
 しかし、この背景にはもっとフクザツな事情もありました。前述の国防大臣、カサル・ブルッハーとの対立以外に
も、まだ20代のコリンズと年長の他の閣僚との間には摩擦がありました。アーサー・グリフィスを含めて閣僚の
全ては憲政主義者であり、必要性は認識しながらも、過激な武力行使にはいい顔しなかったのです。しかし、ゲ
リラ戦の成功により、必然、独立運動全体におけるコリンズの影響力は増大しており、おいそれとコリンズに手を
出すことは出来ない状況でした(生意気な若造だ、どうしてくれよう、でもコワイ・・・・・・)。
 また、決断が早いコリンズは、デ・ヴァレラについて「卵を抱いた雌鳥のように、いちいち考え込む」と不満を漏
らしていました。しかし、それでもコリンズは、失望していたとしても、デ・ヴァレラをまだ尊敬していましたし、アイ
ルランドに残ったデ・ヴァレラの家族とも親しくしていました。また、アイルランドの自由が最優先でもあったので、
デ・ヴァレラやその他閣僚にとってかわろうなどという意思はなかったようです。
ただ、デ・ヴァレラのアメリカでの行動、集めた資金の半分をアメリカにおいて来た事、若い女性を秘書として連
れまわし、家族と別居したことなどが批難の対象となり、デ・ヴァレラの人気の低下とともに、コリンズの人気が増
していました。この結果、デ・ヴァレラは、自分の地位を脅かす存在として、はっきりとコリンズを警戒するようにな
りました。カスタムハウス攻撃は、こうした不協和音の中で、コリンズの力を削ぐ為に強行されたとも考えられま
す。
 コリンズは勿論、反対しました。数では圧倒的に劣る IRA(相変わらず数千人規模。対するイギリス軍は10万
人にまで増強されていた。加えてアルスターには親英派民兵もいる)が、強大なイギリス軍に打撃を与えるにはゲ
リラ戦しかないのは勿論、作戦行動の隅々まで管理していたコリンズは、軍事的な抵抗が限界に近づいているこ
とも理解していました。コリンズは言わば「平和主義の殺し屋」であり、仮借ない戦い振りとは裏腹に、本質的に
は平和を求める心が強く、引き時も心得ていたのです。しかし、デ・ヴァレラの命令に逆らうことは出来ず、カスタ
ムハウス攻撃は決行されてしまいます。
 どうもこのエイモン・デ・ヴァレラという人物、イースター蜂起の時といいこの時といい、好戦的な割には戦闘を
甘く見る傾向がありました。勿論、カスタムハウス攻撃はイースター蜂起以上の大失敗。集結していたIRAはまと
めて叩かれ、死傷、逮捕などで120名の損害を被りました。幹部達も続々と逮捕(もしくは殺害)されてゆきます。
独立運動自体が大変な危機に直面し、コリンズの流血の二年間は水泡に帰すかと思われたのですが、1921年
6月29日、イギリスは臨時政府に休戦を申し入れました。軍事的な情勢を把握していなかった(コリンズが正確
に報告しなかった?)デ・ヴァレラが、交渉で強気に出たためのようです。でもまあ、それはともかく、イギリスの方
から先に休戦を申し入れて来た。締まらないラストシーンでしたが、コリンズの勝利の瞬間でした。

ブラックアンドタンズ


カイロ・ギャング襲撃現場
英国の圧政と戦うマイケル・コリンズの典型的
なイメージとして有名なのがこの肖像画。しか
し、実はこれ、内戦時代の写真が元。
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