ジョモ・ケニヤッタ(?-1978)

+:ケニヤ建国の父
 民俗学者として優れた業績

-:キクユ族中心の独裁体制
 政敵が何人も「行方不明」?
 ムゼー(Mzee おじいさん)の愛称で知られるジョモ・ケニヤッタは、ケニヤ建国の父にして、初代大統領です。彼の功績は、ケニヤのみならず、アフリカの民族運動全体に多大な影響を与え、アフリカ諸国の独立に大きく貢献しました。ケニヤッタは非常に多芸、多才でした。天性のカリスマ性と雄弁さを持ち、そのため、非常に有能な政治家でもありました。また、ジャーナリスト、教師、作家、民俗学者(主にキクユ族の伝統文化の研究)としても多大な業績を残しました。彼が初等教育しか受けていないことを考えれば、彼はまさしく天才です。ジャーナリストとして、植民地政府に対するケニヤ人の要求を伝える新聞を発行し、ケニヤ人の啓蒙と民族意識の高揚に大きな貢献を果たしました。また、学者として、キクユ族の伝統文化の研究で優れた業績を残しています。
ケニヤ概略

  現在、ケニヤの民族構成は、使用される言語の系統によって、バントゥ、ナイロティック、クシティックの3つに大別されています。ケニヤの最初の住人は、紀元前2000年ごろ、エチアピアから移動してきたクシティック系の部族であるとされ、その後、ソマリアからもクシティックの移住がありました。それから紀元後1000年頃には、西アフリカからバントゥ語族(グシイ族、キクユ族、アカンバ族、メルー族など)が移住し、16世紀の終わりにはナイロティック語族(マサイ族、ルオ族、サンブル族、ツルカナ族など)が、スーダン南部のナイル渓谷から移住してきたようです。もっとも、サハラ砂漠以南のアフリカは無文字社会であるため、アラブ人との接触があった海岸地帯を除いては、16世紀以前の記録はほとんど残っていないため、事実はなんとも、はっきりしません。ケニヤ最大の部族は、バントゥ語系のキクユ族であり、全人口の20パーセントを占めていて、現在は、主にケニヤ南部の高地帯に居住しています。中部から南西部にかけての地域は、ナイロティックの領域であり、牧畜を生業とする、あの有名なマサイ族、農耕民であるナンディ族やブシギス族が居住しています。砂漠地帯の北部では、トゥネカナ族、ソマリ人など牧畜系の部族が居住しています。
 ケニヤが世界史に登場するのは八世紀ごろ、アラブとの交流が盛んになった時期です。海岸地帯には大きな都市が建設され、アラブ人が多く移住してきました。しかし、1505年、ポルトガルのドン・フランシスコ・デ・アルメイダの遠征(文字通りの砲艦外交)により、ソファラ、モンバサ、キルワなど海岸の主要に貿易都市は占拠され、以後、海岸地帯は200年に渡り、ポルトガルによる厳しい搾取を受けることとなりました。もっとも、ポルトガル人による統治は成功とは言いがたく、アラブ人との抗争が頻発し、1698年、首都モンバサがアラブ軍の包囲攻撃の前に陥落すると、ポルトガルはこの地の支配権を失い、二度と戻ってきませんでした。
 海岸地帯のゴタゴタの中、内陸部の状況はと言うと、完全に自給自足の部族社会であり、およそ政権と言えるものは存在しませんでした。農耕部族と牧畜部族との間では、物々交換による交流も行われていましたが、どちらかと言うと抗争の方が多く、その為、時々は部族間で緩い同盟が結ばれていたようです。中でもマサイ族は、その対外的な凶暴さで恐れられており(マサイ族の恐怖に関しては、ライダー・ハガードの小説に詳しいです)、特にキクユ族は、マサイ族ににらまれるたびに転々と逃げ回る有様でした。もっとも、そのマサイ族の凶暴さに阻まれて、アラブ人の影響力が内陸部まで浸透せず、結果として、各部族の伝統文化が守られて、忌まわしい奴隷貿易の被害にも遭わずにすみました。
 さて、ポルトガル人を追い払った後、ケニヤは、オマーンの支配下に置かれ、海岸の各都市は、オマーンから派遣された総督によって統治されました。これらの総督は非常に権限は大きく、モンバサのマズルイ家を中心として、海岸の各都市は半ば独立国のように振舞っていましたが、1822年、オマーンのスルタン・サイードは、マズルイ家を討伐してケニアの主要都市を制圧するとともに、ケニヤの直接統治に乗り出しまた。ここで、マズルイ家がイギリスに援助を求めたため、イギリスの軍艦がモンバサに乗り込んできて、何をトチ狂ったか「保護領化」を宣言し、三年後に宣言を撤回すると言う意味不明な事件も発生したりしましたが、1832年、スルタン・サイードは、新たに建設した首都ザンジバル(現タンザニア)に遷都しました。
 19世紀末、他の地域の例に漏れず、ケニアも帝国主義の大波に直面することになります。英仏独の三国間の協定により、海岸から10マイルまでの土地はザンジバル領としたうえで、それより内陸の部分は英独間で分割されることとなり、1895年、ケニヤには東アフリカ保護領政府が発足しました。これにはケニヤの全部族が抵抗の意思を示します。しかし、当時ケニヤの中央部を押さえていたマサイ族(これまで誰にでも喧嘩を売ってきた人々)が、疫病、飢餓、内部抗争のトリプルパンチで弱体化しており、イギリスの侵略に全く無抵抗だったため、植民地化は順調に進みます。後にマサイ族の大酋長であるオロナナ(Olonana、レナナ/Lenana?)はイギリスと条約を結び、この条約によりモンバサ−ビクトリア湖を結ぶ鉄道工事が開始されました。
 1902年、従来は英領ウガンダの一部であった西部国境の高原地帯が、東アフリカ保護領に編入されました。この高原地帯は無人の土地でしたが、ヨーロッパによく似た気候で、農業にも適した肥沃な土地でした(無人の地であるが故に、ユダヤ人国家の候補地に挙げられたこともあった。「ダビッド・ベングリオン」の項参照)。翌年、ビクトリア湖への鉄道が完成したため、ヨーロッパは勿論、南アフリカからも白人の入植が加速されます。
 このモンバサ−ビクトリア湖鉄道が開通すると、多くのインド人がケニヤ奥地に移住しました。ビクトリア湖周辺は無人地帯だったため、部族民とイギリス人の摩擦が無かった代わりに、やや国粋主義的な考えから、イギリス風の植民地建設を目指す白人達と、平等な権利を求めるインド系移民との間で対立が生じました。もっとも、インド系移民の多くが裕福なビジネスマンであり、東アフリカ保護領全体の経済に大きく貢献していたため(これはケニヤに限ったことではなく、今も東アフリカではインド系の経済力が強い)、政府もインド系移民を無碍には扱えない事情がありました。アフリカ人との紛争に関しては、白人入植者の圧力団体と植民地政府の見解が一致していたようですが、インド系移民の問題に関しては、白人入植者の主張は丁重に無視されました。
 しかしながら、土着のアフリカ人がからむと、これほど問題は簡単に片付きませんでした。白人の入植により、部族伝来の土地を奪われたケニヤの各部族は、当然ながら大きな不満を抱くようになります。また、入植の過程において、労働力確保のため、部族民の強制労働が頻繁に行われ、アフリカ人の怒りを買いました。こうした強制労働が禁止されたのは第一次世界大戦後です(公平を期するために言っておきますが、イギリス本国はこうした強制労働に強い嫌悪感を示しており、いろいろ手段は尽くしています)。
 また、それぞれの部族を指定した地域に居住させると言う政策も、悶着のタネになりました。こうした隔離政策は、必ずしもイギリス人の都合ばかりを考えたものではなく、入植者による部族民の土地収奪に歯止めをかける意図もあったのですが、いざ実行という段になると、当事者双方からの反対に遭ってなかなか実行に移されず、悶着が長く続くこととなりました。
 1920年代に入ると、民族自決の波の中、ケニヤでもアフリカ人による政治団体がいくつも結成され、政府に対してアフリカ人の権利、特に白人の移民によって不当に奪われた土地の返還を主張しはじめました。こうした紛争に対し、イギリス本国政府は常にアフリカ人の主張を優遇する方針でしたが、当の東アフリカ保護領では、白人の圧力団体の横車によって、アフリカ人の運動は様々な手段で厳しく弾圧されました。
少年-青年時代

  ジョモ・ケニヤッタは、1889年から1895年までの間に(どうやら1891〜1892年説が有力なようですが)、キクユ族の領分であるケニア北部のNg'enda地方、Kiambu地区のIchaweriという村で生まれました。最初はカマウ・エンゲンギ(Kamau wa Ngengi)という名前でした。1896-1909年頃、父Muigaiが死亡。母Wambuiは、キクユ族の伝統に従って、Muig aiの弟Ngengiと再婚しました。その後、カマウ・エンゲンギにとっては異父弟にあたるジェームズを生みますが、その後実家に戻り、そこで死亡しました。
 母の家出の後、カマウ少年は、故郷Ng’endaを離れ、部族の占い師兼治療師である祖父のKingu Maganaに引き取られました。この時、祖父の仕事を手伝ったことが、後のキクユ族文化に関する研究に多大な影響を与えたようですが、その他、少年時代の詳しい経歴に関しては不明です。
 19世紀末から20世紀初頭のケニアでは、先住部族の土地の多くがイギリス人所有の農場と化していましたが、それら農場の労働者の多くはキクユ族(←農耕民族)でした。また、多くのキクユ族が都市に流出するようになったため、必然、キクユ族とイギリス人は接触の機会が多くなり、キリスト教の宣教師達による教育の恩恵を受けることができました。その結果、ケニアの政治運動において、キクユ族が大きな勢力を持つことになるわけです。
 カマウ・エンゲンギも、1909年の11月から、ナイロビ近郊Thogotoのスコットランド系のミッションスクールで初等教育と、大工の訓練を受けます。しかしこの時、彼は既に14〜20歳。初等教育を受けるには遅すぎる年齢です。キクユ族はまだ幸運なほうでしたが、教育の不備という問題は、アフリカでは今も昔も変わっていません。ただし、ジョモ・ケニヤッタの場合、初等教育がごくお粗末だったが故に、おそらく型にはまったヨーロッパ式思考法に毒されなかったため、才能が開花したと言う意見もあります。
 Thogoto時代の教師の一人は、当時のカマウ・エンゲンギについて、「彼は内なる葛藤と戦っているかのように、当惑の表情で周囲の世界を見つめていた”He stares at the world with a somewhat quizzicalexpression, as though he were struggling with an interior debate"(Jeremy Murray-Brown, JomoKenyatta 1890-1978より)」と証言しています。
 1912年、初等教育を終えたカマウは大工見習いとなり、1913年には、キクユ族の伝統に従って成人と認められて割礼を受けました(この割礼のナイフは消毒なしで使いまわしするので、昔から感染症の温床であり、今はエイズ流行の要因でもある)。1914年8月、カマウはキリスト教の洗礼を受けて、ジョン・ピーター・カマウ( JohnPeter Kamau)の洗礼名をもらいますが、気に入らなかったのか、すぐにジョンストン・カマウと改名しました。
 その後、職を求めてナイロビに出かけ、1915年、Thogoto以来の知り合いであるジョン・コック技師(イギリス人)の下で、シザル麻の農園に職を得ました。しかし翌年、ひどい病気にかかります。具体的にどんな病気が分かりませんが、ミッションの医師が治療を拒否したので(人種差別によるものか、重症で匙を投げたのかは不明 )、友人の世話になり、彼の病院で治療を受けました。
 翌年、健康を回復しましたが、第一次世界大戦中のことではあり、今度はキクユ族に課せられた徴兵につかまりそうになりました。そこでカマウは、徴兵を逃れるため、マサイ族の領分であるNarok(現在は、マサイ・マラへの入り口として有名)に逃げ込み、インド人の貿易業者の事務員として働きました。この時、マサイ族のフリをするためなのか、マサイ族伝統の玉飾りの帯、Kinyataを着用しましたが、どうやらこの玉飾りの帯をえらく気に入ったらしく、後に彼のトレードマークとなりました。このKinyataのキクユ語読みが、後に彼の名前となるKenyattaだそうです。この玉飾りベルトのエピソードから分かるように、Narokで暮らしている間、彼は(キクユ族の伝統的な仇敵である)マサイ族の文化に理解を深め、順応しました。
 1918年、ナイロビに戻ったカマウは、商店の事務員として働き始めました。また、ミッション系の夜学に通いだし、勉強も怠りませんでした。1919年、キクユ族の伝統に従って、グレース・ワフ(Grace Wahu)と結婚して、翌年には長男、ピーター・ムイガイが誕生しました。しかし、この年になって、カマウがカソリックの洗礼を受けていたにもかかわらず、教会で結婚式を挙げなかったことが問題とされて、結婚は無効だということになり、ヨーロッパ人の行政官の立会いの元に、改めて結婚式を挙げるように教会から命じられました。また、カマウ自身の飲酒癖、と言うか、キクユ族伝統の飲み物であるchang'aa (njohi?とする資料もあり)を愛飲していることが、飲酒の罪として告発されて教会内で問題となり、一時は破門されそうになりました。この問題は結構長引いてしまい、結婚問題は1922年末にようやく、民事婚(キリスト教圏の結婚には、神の祝福の元に、宗教の管理下で認められるという慣例があるので、教会が認める「宗教婚」と、役所に書類を提出して、役人の立会いの下に行う「民事婚」に区別される)で結婚が認められ、1923年には、酒を控えるとの誓約書を書いたため(ただし、守らなかった)、教会からの破門も解かれました。しかしカマウは、地元の伝統を無視する宣教師達のやり方に強い不快感を覚え、これが民族主義に走る大きな要因になったものと思われます(宣教師の理想と情熱には十分敬意を払っていたようですが)。
 1920年、キクユ族の土地問題の裁判沙汰に絡んで、ケニア最高裁判所の要請で、裁判所の通訳になりました(この件に関しては、どうやらカマウ自身は気が進まなかったようです)。このことからも分かるように、初等教育しか受けていないにもかかわらず、カマウはキクユ族の中でも有識者として目されていたようです。
 1922年になるとカマウは、商店の事務員を続ける傍ら、旧知のジョン・コックが監督官を勤めていた、ナイロビ市の水道部門に検針係に就職しました。それやこれやで月250ケニアシリングというかなりの高給であり、白人の標準からしてもかなり裕福で優雅な暮らしでした。
政治運動への参加

 1920年代に入るとケニア植民地(1920年、東アフリカ保護領から改変)では、都市部で生活し、ヨーロッパ式教育の恩恵を受けていたキクユ族を中心に、民族運動が高まってゆきます。と言っても、教育の恩恵を受けていたのは、キクユ族の中でも幸運な極少数でしかありませんでしたが。そうしたキクユ族のインテリ層は、イギリス式民主主義を理想の政治として、イギリス的政治手法で運動を展開しました(これは、イギリス領に共通した現象のようです)。
 キクユ族にとって大きな問題は、植民地における土地所有権でした。また、(人口の割には)最も多くの土地を奪われたマサイ族も、キクユ族の後に続きます。1921年、ハリー・ツク(Harry Thuku キクユ族の人 ?-1970)を中心に、土地の収奪や強制労働に抗議し、不平等な課税や低賃金の是正を求める、アフリカ人の最初の政治団体、青年キクユ協会(Young Kikuyu Association)が設立されました。続いて、ツクの力添えにより東アフリカ人協会(East African Association)が結成され、当時、裁判所の通訳を務めていたカマウは、その生来の雄弁さを買われて、東アフリカ人協会の宣伝担当秘書になりました(なお、資料によっては青年キクユ協会の宣伝担当者としているものもあります。また、1921年にキクユ中央連盟に加盟したという資料もありますが、キクユ中央連盟の結成は1924年なので、これは明らかに間違い)。
 その後、いくつもアフリカ人による政治団体が誕生しましたが、こうした民族運動の高まりに対し、ケニア植民地政府は、デラメアー卿という人物を黒幕とする白人入植者の圧力団体の差し金により、厳しい弾圧を行いました。1922年にはハリー・ツクが逮捕されます。この時、怒った群集が、ツクが拘留されているナイロビ市警察署に押しかけ、警官達の銃撃を受けて23人が死亡する(100人死亡説もあり)惨事となりました。ツクは英領ソマリランドに退去を命じられ、ケニアを追放されましたが、こうした弾圧に対し、1924年、諸団体は団結してキクユ中央連盟(Kikuyu Central Association, KCA 別にキクユ族でなくても加入できた)を結成しました。
 1923年頃になると、カマウは自宅の一部を食料品店に改装し、そこを件の玉飾りベルトからとって、「Kinyata Store」と名づけました。この頃にはもう、Kinyataはカマウのトレードマークとして定着していたようです。この店は、ヌビアのジン(地酒か?)を売っている事と、カマウが気軽に金を貸すことで人気があり、キクユ族は勿論の事、キクユ以外の部族や、低所得層の白人にも人気がありました。客の中には、Jaramogi Oginga Odinga やJames Beauttah(KCAのリーダーの一人)等の民族運動の指導者達も居て、いつの間にやら店は民族主義者の溜まり場と化し、彼らを通じてカマウは人脈を広げてゆきます。
 カマウはKCAの活動に大いに興味をそそられ、1926年ごろから、秘書として保護領政府宛の書簡の作成と翻訳を担当していましたが、しかし、彼がKCAの活動の主要な部分に関係するようになったのは、ほんの偶然からでした。
 1927年、KCAの書記長であったJosphat Kamau(←主人公、ジョンストン・カマウと同じ名前だが、一切関係無し)なる人物が組織を裏切り、KCAの秘密文書を当局に売った上に、KCAの活動資金1600ケニアシリングを持って逐電するという事件が起こりました。このため、信頼できる人物を後任に求めたKCA指導部は、ジョンストン・カマウに白羽の矢を立てます。当時カマウは、高収入の職につき、優雅な暮らしをしていたので、要請を受けるかどうか疑問視されていましたが、当のカマウはあっさりと要請を引き受け、その上、「職は生得権ではない」として、これまたあっさりと仕事を辞めてしまい、KCAの仕事に専念しました。
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