少年-青年時代 ジョモ・ケニヤッタは、1889年から1895年までの間に(どうやら1891〜1892年説が有力なようですが)、キクユ族の領分であるケニア北部のNg'enda地方、Kiambu地区のIchaweriという村で生まれました。最初はカマウ・エンゲンギ(Kamau wa Ngengi)という名前でした。1896-1909年頃、父Muigaiが死亡。母Wambuiは、キクユ族の伝統に従って、Muig aiの弟Ngengiと再婚しました。その後、カマウ・エンゲンギにとっては異父弟にあたるジェームズを生みますが、その後実家に戻り、そこで死亡しました。 母の家出の後、カマウ少年は、故郷Ng’endaを離れ、部族の占い師兼治療師である祖父のKingu Maganaに引き取られました。この時、祖父の仕事を手伝ったことが、後のキクユ族文化に関する研究に多大な影響を与えたようですが、その他、少年時代の詳しい経歴に関しては不明です。 19世紀末から20世紀初頭のケニアでは、先住部族の土地の多くがイギリス人所有の農場と化していましたが、それら農場の労働者の多くはキクユ族(←農耕民族)でした。また、多くのキクユ族が都市に流出するようになったため、必然、キクユ族とイギリス人は接触の機会が多くなり、キリスト教の宣教師達による教育の恩恵を受けることができました。その結果、ケニアの政治運動において、キクユ族が大きな勢力を持つことになるわけです。 カマウ・エンゲンギも、1909年の11月から、ナイロビ近郊Thogotoのスコットランド系のミッションスクールで初等教育と、大工の訓練を受けます。しかしこの時、彼は既に14〜20歳。初等教育を受けるには遅すぎる年齢です。キクユ族はまだ幸運なほうでしたが、教育の不備という問題は、アフリカでは今も昔も変わっていません。ただし、ジョモ・ケニヤッタの場合、初等教育がごくお粗末だったが故に、おそらく型にはまったヨーロッパ式思考法に毒されなかったため、才能が開花したと言う意見もあります。 Thogoto時代の教師の一人は、当時のカマウ・エンゲンギについて、「彼は内なる葛藤と戦っているかのように、当惑の表情で周囲の世界を見つめていた”He stares at the world with a somewhat quizzicalexpression, as though he were struggling with an interior debate"(Jeremy Murray-Brown, JomoKenyatta 1890-1978より)」と証言しています。 1912年、初等教育を終えたカマウは大工見習いとなり、1913年には、キクユ族の伝統に従って成人と認められて割礼を受けました(この割礼のナイフは消毒なしで使いまわしするので、昔から感染症の温床であり、今はエイズ流行の要因でもある)。1914年8月、カマウはキリスト教の洗礼を受けて、ジョン・ピーター・カマウ( JohnPeter Kamau)の洗礼名をもらいますが、気に入らなかったのか、すぐにジョンストン・カマウと改名しました。 その後、職を求めてナイロビに出かけ、1915年、Thogoto以来の知り合いであるジョン・コック技師(イギリス人)の下で、シザル麻の農園に職を得ました。しかし翌年、ひどい病気にかかります。具体的にどんな病気が分かりませんが、ミッションの医師が治療を拒否したので(人種差別によるものか、重症で匙を投げたのかは不明 )、友人の世話になり、彼の病院で治療を受けました。 翌年、健康を回復しましたが、第一次世界大戦中のことではあり、今度はキクユ族に課せられた徴兵につかまりそうになりました。そこでカマウは、徴兵を逃れるため、マサイ族の領分であるNarok(現在は、マサイ・マラへの入り口として有名)に逃げ込み、インド人の貿易業者の事務員として働きました。この時、マサイ族のフリをするためなのか、マサイ族伝統の玉飾りの帯、Kinyataを着用しましたが、どうやらこの玉飾りの帯をえらく気に入ったらしく、後に彼のトレードマークとなりました。このKinyataのキクユ語読みが、後に彼の名前となるKenyattaだそうです。この玉飾りベルトのエピソードから分かるように、Narokで暮らしている間、彼は(キクユ族の伝統的な仇敵である)マサイ族の文化に理解を深め、順応しました。 1918年、ナイロビに戻ったカマウは、商店の事務員として働き始めました。また、ミッション系の夜学に通いだし、勉強も怠りませんでした。1919年、キクユ族の伝統に従って、グレース・ワフ(Grace Wahu)と結婚して、翌年には長男、ピーター・ムイガイが誕生しました。しかし、この年になって、カマウがカソリックの洗礼を受けていたにもかかわらず、教会で結婚式を挙げなかったことが問題とされて、結婚は無効だということになり、ヨーロッパ人の行政官の立会いの元に、改めて結婚式を挙げるように教会から命じられました。また、カマウ自身の飲酒癖、と言うか、キクユ族伝統の飲み物であるchang'aa (njohi?とする資料もあり)を愛飲していることが、飲酒の罪として告発されて教会内で問題となり、一時は破門されそうになりました。この問題は結構長引いてしまい、結婚問題は1922年末にようやく、民事婚(キリスト教圏の結婚には、神の祝福の元に、宗教の管理下で認められるという慣例があるので、教会が認める「宗教婚」と、役所に書類を提出して、役人の立会いの下に行う「民事婚」に区別される)で結婚が認められ、1923年には、酒を控えるとの誓約書を書いたため(ただし、守らなかった)、教会からの破門も解かれました。しかしカマウは、地元の伝統を無視する宣教師達のやり方に強い不快感を覚え、これが民族主義に走る大きな要因になったものと思われます(宣教師の理想と情熱には十分敬意を払っていたようですが)。 1920年、キクユ族の土地問題の裁判沙汰に絡んで、ケニア最高裁判所の要請で、裁判所の通訳になりました(この件に関しては、どうやらカマウ自身は気が進まなかったようです)。このことからも分かるように、初等教育しか受けていないにもかかわらず、カマウはキクユ族の中でも有識者として目されていたようです。 1922年になるとカマウは、商店の事務員を続ける傍ら、旧知のジョン・コックが監督官を勤めていた、ナイロビ市の水道部門に検針係に就職しました。それやこれやで月250ケニアシリングというかなりの高給であり、白人の標準からしてもかなり裕福で優雅な暮らしでした。