ジョモ・ケニヤッタその2
カマウ、表舞台に立つ
 1928年は、ジョンストン・カマウにとって、より大きな活躍の舞台となりました。
 2月28日、イギリス政府は、英領東アフリカの連邦化に関する調査団、ヒルトン-ヤング委員会をケニアに派遣し、カマウは、KCAを代表して、委員会の席で意見陳述を行います。5月には、KCAの支持基盤を拡大するという新たな任務の元、キクユ族文化と最新の農業経営を取り扱った週間新聞、Muigwithania(「調停者」の意味?)の編集長となりました。おそらく、アフリカ人の手によって発行された最初の新聞であると思われます。キクユ文化を取り扱っていたあたりが、後のキクユ族中心の独裁体制を予感させるものではありますが、この新聞がケニア人の啓蒙に果たした役割は大きく、Muigwithania発行の功績は高く評価されています。6月に入ると、自費で購入したオートバイで、キクユ族の居住地を旅して回り、KCAの支部を各地に建設しました。また、KCAはキクユ族以外の部族からの支持をとりつけようと、あれこれ頑張りましたが、他の部族はキクユ族に主導権を取られることを好まなかったので、この点に関してはいまいち不成功でした。
 そして1929年、ソマリランドに追放されていたハリー・ツクが、突然、ケニア植民地政府に対する協力を表明しました。この結果彼は、翌30年には帰国を許可されるのですが、この裏切りとも言える行為のため、民族運動のリーダーとしての地位を失ってしまい、必然、カマウが新たなリーダーとして注目されました

 1920年代、アフリカ人の間に民族主義が高まってはいましたが、どちらかと言うと、インド系移民と白人移民の対立の方が、ケニア植民地にとって重大な問題でした。そうした移民同士の対立に鑑み、1923年、イギリス政府は、ケニアに関して「アフリカ人の利益を至上とすべき」と宣言しました。さすがは大英帝国、新参者の少数派同士の争いに惑わされること無く、公正な裁定を下しています。ところが、当の植民地政府が、アフリカ人の利益になるようなことは何もしませんでした。
 1929年、植民地政府と交渉しても埒が明かないと悟ったKCAは、植民地省に対して、ケニアの現状と、奪われた土地の返還と経済的不公平の是正を訴えるべく、イギリスに代表を送り込むことにしました。同様の任務を帯びていたインド系移民の指導者、イシャー・ダスから旅費の援助を受け、1929年2月17日、カマウは、イシャー・ダスとともにケニアを出発、3月8日にイギリスに到着しました。
 イギリスでカマウは、イギリスの新聞に「我らの土地を返せ(Give back our land)」という文章をはじめ、ケニアの現状を訴える記事を寄稿しました。途中、ハンブルグ、ベルリン、モスクワへの旅行を挟んだ一年半の英国滞在の後、反奴隷制団体(アフリカの一部では、21世紀になった今でも奴隷制度が存続しています)に、滞在中の借金と旅費を肩代わりしてもらって、1930年9月に帰国しました。帰国しても休む間もなく、キクユ族の女性の割礼(現在も、女性差別や虐待の象徴として捉えられている)に関して宣教師達と争ったり、キクユ族のための私立学校を設立したりと忙しく働きました。特に学校設立の意義は非常に大きいです。当時、ケニアにはアフリカ人のための公的な教育制度が無く、アフリカ人の為の学校は、全てが宣教師達によって運営されていました。しかし、宣教師達は地元の伝統を無視する傾向が強く、カマウ自身、結婚と飲酒の問題で、そのことを思い知らされていましたから、アフリカ人によって運営される学校の必要性を痛感していたのです。
カマウ、再び英国へ

 1931年5月2日、カマウは、再度の英国訪問に出発しました。ケニア植民地の抱える問題、特に主として土地問題の解決を図るカーター土地委員会(Carter Land Commission)が再度召集されたため、そこでKCAの意見を陳述するためでした。しかしカマウは、一度は委員会から無視されてしまいます。イギリス政府は、カマウに帰国を要求しましたが、それを無視して、ウッドブーロークのクェーカー教カレッジに入学し、1932年まで研究を続けました。なお1931年11月には、英国訪問中だったマハトマ・ガンジーとの会見を果たしました。カマウがガンジーとの会見にどのような感想を持ったのかはわかりませんが、ガンジーは、人を魅了する人物である反面、無趣味で非常に退屈な人物でもあり、誰彼なしに説教を垂れる悪癖もあったので、カマウとは気が合わなかったかも知れません。
 1932年6月、居座った甲斐があって、カマウは委員会で証言する機会を得ることが出来ました。後に委員会は、白人所有の農場と、アフリカ人の所有地及び「予備」の土地との分離(早い話、人種による隔離)という裁定を下しました。これにより、土地問題に関しては一定の解決を見たわけですが、立法化は5年後に先送りされた上、現状の追認に他ならず、「奪われた土地の返還」というKCAの要求を満たすものではなく、ケニアでは、却ってヨーロッパ人とアフリカ人の対立が深まることになります。1932年の植民地省のケニア問題に関する白書では、「アフリカ人の利益を至上とすべき」だが「少数民族の権利は失われてはならない」と明記されていました。ケニアにおける少数民族とは、すなわち白人とインド系です。
 1932年8月、トリニダード島の過激な共産主義者、ジョージ・パドモア(1901-1959 なかなか興味深い人物で、いずれ取り上げる予定です)の招きにより、カマウはソ連、モスクワ大学の聴講生となり、経済学を学びました(革命戦略を学んだと言う説もあり)。しかし、パドモアがスターリンに睨まれたため、勉強はキャンセルして、パドモアともどもソ連から逃げ出し、イギリスへ戻りました。ケニヤッタは、二度ソ連を訪れていますが、共産主義、社会主義に興味を示すことはありませんでした。これを奇妙だと考える歴史家もいるようですが、ソ連から追放され、社会主義の理想の醜悪な部分を目の当たりにしたとあっては、当然の事でしょう。カマウ自身、「共産主義について知ったし、見た。I know about communism, I have seen it,」と述懐しています。
 イギリスに戻ったカマウは、ロンドン大学の聴講生となり、キクユ語の辞書の編纂に携わる一方、「ケニア:争いの大地(Kenya: The Land of Conflict)」というパンフレットを書いたり、新聞への寄稿や講演、トラファルガー広場での街頭演説などを通じて、ケニアにおけるアフリカ人による政府の樹立を訴えました。1936年には、警察の非常線を潜り抜け、ロンドン駅で、イタリアの侵略によって故国を追われたエチオピア皇帝、ハイラ・セレシュと(約束なしで)面会しました。
 ロンドン大学で研究を続ける傍ら、ロンドンスクール・オブ・エコノミックの研究生となり、文化人類学の権威、マリノフスキーの研究室に入って、キクユ族の伝統文化に関する研究論文をいくつも書きました。これらの論文をまとめ、1938年に出版された本が、名著「ケニア山をのぞんで(Facing mount Kenya 日本語では「ケニア山のふもと」として知られる)」です。この「ケニア山をのぞんで」の出版に際し、彼は初めてジョモ・ケニヤッタの名前を使いました。Jomoとは「萌える槍」もとい「燃える槍」の意味で、Kenyattaは、愛用のマサイのベルトからとったという説もある反面、「ケニアの光」を意味する「Taa ya Kenya」からとったとも言われています。どちらかと言えば、「燃える槍・ケニアの光」の方が意味がとおるので、ベルトの方はあまり意識していなかったのでしょう。
 「ケニア山をのぞんで」は、欧米で出版された最初のアフリカ人の著作であり、「文化的ナショナリズムの教本」として、大きな衝撃を与えました。ケニヤッタは、アフリカ人は自らの文化遺産ら誇りを持つべきだと主張し、宣教師達がいかにアフリカ人の伝統を無視してきたかを指摘して、批判しました。彼はまた、宣教師達の攻撃の的になっていた、キクユ族の女性の割礼に関して、キクユ族の文化全般にからすれば、極めて適切であると証明しています(なお、これに関して私見を述べさせていただくと、ケニヤッタの意見やキクユ族の伝統がどうあれ、この割礼の儀式が感染症の温床となっていることを考えると、その適切さに関しては大いに疑問です)。またこの時期、人類学の研究書「キクユ 我が民 My people of Kikuyu」と、キクユ族の歴史と伝説に範を取ったフィクション「族長Wang'ombeの生涯 The life of chief Wang'ombe」の二つの著作を著しました。

 また、1939年以降、ケニヤッタは、様々な職につきました。ロンドン大学の東洋アフリカ学部の助手を務めたのをはじめ、サリー州の農場で働いたり、ロンドンのフラットで同居していたアメリカ出身の黒人俳優の縁で映画に出たり、イギリス陸軍のアフリカ問題担当の顧問になったりと、いろいろと忙しく働いていました。
 1942年5月11日、サリー州の教師、エドナ・クラークと結婚(重婚か?)、翌43年8月11日、彼女との間に息子ピーター・マガナ・ケニヤッタをもうけました。なお、マガナ・ケニヤッタ氏は現在、BBCのディレクターとして活躍中とのことです。

ブロニスラウ・キャスパー・マリノフスキー
(Bronislaw Kasper Malinowski 1884-1942)
ポーランド出身。「神話、伝説、昔話」の区分を提唱した人物。
「ケニア山をのぞんで」の序文も書いた。

ケニア山。標高5199m。キリマンジ
ャロに次ぐ、アフリカ第二の高峰。



ジョージ・パドモア(George Padmore 1901-1959)
トリニダード島出身の共産主義者。黒人による社会主義革命を提唱
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