カマウ、再び英国へ 1931年5月2日、カマウは、再度の英国訪問に出発しました。ケニア植民地の抱える問題、特に主として土地問題の解決を図るカーター土地委員会(Carter Land Commission)が再度召集されたため、そこでKCAの意見を陳述するためでした。しかしカマウは、一度は委員会から無視されてしまいます。イギリス政府は、カマウに帰国を要求しましたが、それを無視して、ウッドブーロークのクェーカー教カレッジに入学し、1932年まで研究を続けました。なお1931年11月には、英国訪問中だったマハトマ・ガンジーとの会見を果たしました。カマウがガンジーとの会見にどのような感想を持ったのかはわかりませんが、ガンジーは、人を魅了する人物である反面、無趣味で非常に退屈な人物でもあり、誰彼なしに説教を垂れる悪癖もあったので、カマウとは気が合わなかったかも知れません。 1932年6月、居座った甲斐があって、カマウは委員会で証言する機会を得ることが出来ました。後に委員会は、白人所有の農場と、アフリカ人の所有地及び「予備」の土地との分離(早い話、人種による隔離)という裁定を下しました。これにより、土地問題に関しては一定の解決を見たわけですが、立法化は5年後に先送りされた上、現状の追認に他ならず、「奪われた土地の返還」というKCAの要求を満たすものではなく、ケニアでは、却ってヨーロッパ人とアフリカ人の対立が深まることになります。1932年の植民地省のケニア問題に関する白書では、「アフリカ人の利益を至上とすべき」だが「少数民族の権利は失われてはならない」と明記されていました。ケニアにおける少数民族とは、すなわち白人とインド系です。 1932年8月、トリニダード島の過激な共産主義者、ジョージ・パドモア(1901-1959 なかなか興味深い人物で、いずれ取り上げる予定です)の招きにより、カマウはソ連、モスクワ大学の聴講生となり、経済学を学びました(革命戦略を学んだと言う説もあり)。しかし、パドモアがスターリンに睨まれたため、勉強はキャンセルして、パドモアともどもソ連から逃げ出し、イギリスへ戻りました。ケニヤッタは、二度ソ連を訪れていますが、共産主義、社会主義に興味を示すことはありませんでした。これを奇妙だと考える歴史家もいるようですが、ソ連から追放され、社会主義の理想の醜悪な部分を目の当たりにしたとあっては、当然の事でしょう。カマウ自身、「共産主義について知ったし、見た。I know about communism, I have seen it,」と述懐しています。 イギリスに戻ったカマウは、ロンドン大学の聴講生となり、キクユ語の辞書の編纂に携わる一方、「ケニア:争いの大地(Kenya: The Land of Conflict)」というパンフレットを書いたり、新聞への寄稿や講演、トラファルガー広場での街頭演説などを通じて、ケニアにおけるアフリカ人による政府の樹立を訴えました。1936年には、警察の非常線を潜り抜け、ロンドン駅で、イタリアの侵略によって故国を追われたエチオピア皇帝、ハイラ・セレシュと(約束なしで)面会しました。 ロンドン大学で研究を続ける傍ら、ロンドンスクール・オブ・エコノミックの研究生となり、文化人類学の権威、マリノフスキーの研究室に入って、キクユ族の伝統文化に関する研究論文をいくつも書きました。これらの論文をまとめ、1938年に出版された本が、名著「ケニア山をのぞんで(Facing mount Kenya 日本語では「ケニア山のふもと」として知られる)」です。この「ケニア山をのぞんで」の出版に際し、彼は初めてジョモ・ケニヤッタの名前を使いました。Jomoとは「萌える槍」もとい「燃える槍」の意味で、Kenyattaは、愛用のマサイのベルトからとったという説もある反面、「ケニアの光」を意味する「Taa ya Kenya」からとったとも言われています。どちらかと言えば、「燃える槍・ケニアの光」の方が意味がとおるので、ベルトの方はあまり意識していなかったのでしょう。 「ケニア山をのぞんで」は、欧米で出版された最初のアフリカ人の著作であり、「文化的ナショナリズムの教本」として、大きな衝撃を与えました。ケニヤッタは、アフリカ人は自らの文化遺産ら誇りを持つべきだと主張し、宣教師達がいかにアフリカ人の伝統を無視してきたかを指摘して、批判しました。彼はまた、宣教師達の攻撃の的になっていた、キクユ族の女性の割礼に関して、キクユ族の文化全般にからすれば、極めて適切であると証明しています(なお、これに関して私見を述べさせていただくと、ケニヤッタの意見やキクユ族の伝統がどうあれ、この割礼の儀式が感染症の温床となっていることを考えると、その適切さに関しては大いに疑問です)。またこの時期、人類学の研究書「キクユ 我が民 My people of Kikuyu」と、キクユ族の歴史と伝説に範を取ったフィクション「族長Wang'ombeの生涯 The life of chief Wang'ombe」の二つの著作を著しました。 また、1939年以降、ケニヤッタは、様々な職につきました。ロンドン大学の東洋アフリカ学部の助手を務めたのをはじめ、サリー州の農場で働いたり、ロンドンのフラットで同居していたアメリカ出身の黒人俳優の縁で映画に出たり、イギリス陸軍のアフリカ問題担当の顧問になったりと、いろいろと忙しく働いていました。 1942年5月11日、サリー州の教師、エドナ・クラークと結婚(重婚か?)、翌43年8月11日、彼女との間に息子ピーター・マガナ・ケニヤッタをもうけました。なお、マガナ・ケニヤッタ氏は現在、BBCのディレクターとして活躍中とのことです。