スティーブン・ディケーター  (1779-1820)

+:名指揮官、勇者

-:特になし(盲目的愛国主義?)

ホレイショ・ネルソン、ジョン・ポール・ジョーンズ、東郷平八郎は世界三大海軍提督と呼ばれてい
ます。イギリスのネルソン、日本の東郷平八郎は国際的にも知名度が高く、実績としても申し分
は無いのですが、ジョン・ポール・ジョーンズは、果たしてどうでしょうか?実際、彼に関しては一
部に異論があり、私的には、三人目にはエリザベス朝の英雄、サー・フランシス・ドレークが相応
しいと思います。もっとも、この「三大提督」は、英、米、日の三大海軍国から強引に一人ずつ選
出したものですから、どうしてもアメリカ人をいれなければならない。ジョン・ポール・ジョーンズは
私掠船の船長として、確かにアメリカ独立戦争で勇戦敢闘しましたが、「わしゃ、まだ戦っとらん
ぞ!」という名台詞ばかりが有名であり、彼以上の戦果を上げた船長も多くいます。また、誕生し
たばかりのアメリカ合衆国が苦労していた時、彼はロシアで傭兵をやっていました。従って、この
スティーブン・ディケーター・ジュニアこそ、三大提督のアメリカ代表として相応しい人物だと思う
のです。

用語説明
・戦列艦
 戦艦に当たる。二層から三層の甲板を持ち、24ポンド以上の重砲を五十門から一三〇門程度装備する大型
艦。現代風に言うと戦艦にあたる。なお、当時の軍艦は大砲の搭載数により一等、二等などと類別されていた。
一等から四等までが戦列艦に該当する。ただし、等級と砲の搭載数の関係は、時代によって違う。一般的には
大砲の搭載数と艦名で、たとえば100門搭載なんとか号とか、74門艦なんとか号という風に呼ばれた。

・フリゲート
 単層から二層甲板の中型艦で、9ポンドから18ポンドの砲を二〇門から四〇門程度装備する。戦列艦よりも圧
倒的に取りまわしが良く、ある程度強力な火力を持っているため、非常に重宝された。フリゲートの運用はイギリ
ス海軍で非常に発達したが、イギリス製の艦の性能はいまいちであり、フランス製フリゲートの方が大型で火力
が大きく、かつ高速だった。戦列艦にも共通することだが、18世紀末以降は、呼称に付属する大砲の搭載数は
当てにはならない。識別上の砲搭載数に含まれるのは、所謂キャノン砲のみで、「カロネード砲」と呼ばれる大口
径砲(ただし、射程がとても短い)や、対人用の小型砲が含まれてないからで、特にフリゲートの場合、44門艦と
称しながらも、60門近い大砲を搭載していることがあった。

・私掠船
 「国家公認の海賊」と日本ではよく言われているが、若干違う。戦争状態、もしくは極端に国際関係が関係が悪
化している場合などに、政府が発行する、交戦国の船舶を攻撃する許可(拿捕許可証、Letter of Mark)を受け
た民間の武装船のこと。敵船の拿捕によって得られる利益、すなわち船そのものやその積み荷の売却から得ら
れる利益の一部(概ね20%程度)が政府の取り分となる。このため、金持ちや貴族がスポンサーとなって私掠船を
仕立て、利益を配当すると言う事業が盛んに行われた。ただし、こうした「是が非でも利益を上げねばならない」
という私掠船の体質は、船長を海賊まがいの行為に駆り立てることもあり、時には重大な国際問題を引き起こし
ている。敵に捕まった場合は、戦争捕虜としての処遇を受けることも出来た。
 なお、有名な海賊、ウイリアム・キッド船長は、スポンサー付き私掠船の船長だったが、獲物が見つからず、ス
ポンサーに配当する宛てがなかったため、許可証の対象外の船舶を攻撃したことが、海賊行為の罪に問われた
ものである(なお、全くの余談ですが、キッドは日本になんか来ていません。ついでに財宝も確実に存在しませ
ん。なんとなれば、隠して埋めるほどの利益を得ていないからです。多分、減刑の取り引きに使おうとでっち上げ
たのでしょう)。

生誕
 スティーブン・ディケーター(ジュニア)は、1779年1月5日、アメリカ(当時、まだ独立戦争中)のメリーランド州で
生まれました。祖父は元フランス海軍の士官の移民であり、同名の父、スティーブン・ディケーター(エルダー・ディ
ケーター)も、若い頃は商船の船長として働いていましたが、アメリカで独立革命では、2隻の私掠船「ロイヤル・
ルイス」と「フェア・アメリカン」を指揮して大きな功績を上げていました。国が独立を達成して海軍が解散になる
と、ディケーター父はフィラデルフィアに移り、海運業を営なんでいました。
 ディケーター・ジュニアは8歳になると、父の商船に乗って航海に出ました。独立後、アメリカの海運業は、英仏
オランダその他、海運先進国の影響力がまだ及んでいない極東地域での貿易を中心に著しい成長期に入ってい
ました。当時のアメリカの海運業界では、十歳になるかならないかのうちから海に乗り出し、優秀ならば二十歳前
には自前の船を持つようになって、30歳になるころには大金持ちになって引退というのがよくあるパターンでした
から、エルダー・ディケーターが別に息子を虐待していたわけではないです。

クェージ・ウォー(Quasi War)
  革命戦争が終わった時、アメリカは、フリゲート以下の艦艇からなる十数隻の海上兵力(なお、これら革命戦争
中の海軍は「大陸海軍(Continental Navy)」と言う矛盾した名称で呼ばれている)を保有していましたが、戦争が
終わるや否や、合衆国政府は、独立万歳の楽観論と予算不足によって全ての軍艦を売り飛ばしたので、アメリカ
合衆国の海上兵力は掛け値なしゼロという事態になりました。つまり、エルダー・ディケーターはいやでも海運業
の世界に戻らなければならなかったのです。これは非常に愚かな決断であり、アメリカは高い犠牲を払うことにな
ります。
 アメリカ革命で植民地側最大のスポンサーだったフランスは、国を挙げて植民地側を支援しました。吹けば飛
ぶような大陸海軍がイギリス海軍と対等に戦えたのは、強力なフランス艦隊の支援があったからこそです(そし
て、十中八九、イギリス海軍に負けていたフランス海軍が、北米水域の戦闘に限ってはなぜか勝ってしまったか
ら)。しかし戦争が終わると、今度はフランス自身が革命の渦中に投げ込まれました。イギリス、ロシア、オラン
ダ、プロイセン、オーストリアは革命の拡大を阻止すべく、フランス革命政府に対して宣戦布告します。こうしてヨ
ーロッパで大戦争が始まった結果、海運業の需要は増大しました。アメリカ商船もヨーロッパ航路で活動するわ
けですが、フランス対他の大国という図式の戦争では当然、他国の海上活動のほとんどはフランスにとって不利
益にしかならないものであり、1793年5月、フランス革命政府は敵国港湾向けの船舶は、中立国船でも攻撃対
象とする宣言を発しました。
 こうなってはアメリカとしても武力で対処せざるを得ず、さすがに海軍は必要だったと悟った議会は、1794年3
月、通商保護のために44門フリゲート4隻、38門フリゲート2隻の建造を決定し、当代随一と呼ばれた才技術
者、ジョシュア・ハンフレイズを造船主任に任命しました。
 ところが、建造作業が始まった1795年から1796年にかけて、外交努力でフランスの商船攻撃宣言を撤回さ
せることに成功。議会は再び、海軍不要論が支配するところとなり(このころのアメリカ議会は、極論から極論
へ、万事この調子でした)、一時、全ての軍艦の建造中止が決定されます。しかし、さすがにワシントン大統領が
この決議には難色を示し、強く建造を要求したため、議会は6隻の半分、44門艦「ユナイテッド・ステーツ」「コン
スティテューション(Constitution 星座?)」と38門艦「コンステレーション( Constration 憲法)」に限って工事続
行を承認しました。こういう「間をとってタマムシ色」とか「なかよくはんぶんこ」という政治的解決は、洋の東西も
時代も問いません。
 1796年、17歳になっていたデイケーターは、海軍創設準備委員に雇われてニュージャージに移り、フリゲート
艦「ユナイテッド・ステーツ」の工事に参加しました。父親であるエルダー・ディケーターも、独立戦争時代の実績
を買われ、新型フリゲートの艦長予定者として招集されます。
 天才、ジョシュア・ハンフレイズの手になる、「ユナイテッド・ステーツ」以下の三隻は、分類上はフリゲートとされ
ており、それにふさわしい速度と運動性を持つと同時に、戦列艦並の24ポンド砲を装備していて、12ポンドから
18ポンド砲を装備している、ヨーロッパの一般的なフリゲートよりも火力で圧倒的に勝っていました。また、戦列
艦は従来、重心位置の関係から大型砲は下層甲板に配置せざるを得ず、上甲板には18ポンド程度の砲しか装
備出来ませんでした。これはこれで、威力の大きな火砲で喫水線に近い部分が狙いやすい有利さもありました
が、ちょっと波が高い日に(北米沿岸では良くあることだった)下層甲板の砲門を開けると、波が入って浸水する
ので射撃不能という、致命的な欠点がありました。しかし、アメリカのフリゲートは24ポンド砲を思い切って上甲
板に配置しました。このため、天候によっては戦列艦に勝る火力を発揮できるようになるはずでした。
 要するに、既存のいかなるフリゲートにも火力で勝り、でっかくて強い戦列艦には速度で勝つという、言わばナ
チスのシェーア級装甲艦に似た、非常にムシの良い設計です。ベテラン船長の中には「中途半端」という意見も
ありましたが、実際に就役してみると、まさしく狙い通りの能力を発揮したため、「戦列艦の時代は終わった!」と
まで絶賛され、イギリスのような大海軍国も、既存の戦列艦の上甲板をとっぱらって小型軽量化するという大改
装を行ってまで、アメリカ式フリゲートの真似た軍艦(ラゼー RazeeもしくはRasee と呼ばれました)を運用するように
なります。

 さて、フリゲートを完成させたのはやはり正解でした。1796年末、再び、アメリカ商船がフランスの私掠船に拿
捕される事件が発生したのです。この頃になると、革命干渉戦争は完全な英仏戦争に性格を変えていましたが、
イギリスが船団護衛を強化したため、フランスの私掠船はイギリス船を攻撃することが出来ない状態でした。しか
し、私掠船という存在があくまでも私企業である以上、利益を上げねばならないため、結局、海賊さながらに中立
国の船を襲いはじめたのです。
 フランス政府も1797年、再度、中立国船攻撃を宣言し、外交努力も失敗したため、今度こそアメリカは、武力
で対決せざるを得なくなりました。1798年、議会は残る三隻のフリゲートの建造を承認し、4月30日には正式
に海軍省が設置され、初代長官にベンジャミン・スタッダートが任命されました。
 同時に、独立戦争で鳴らした私掠船乗り達が召集され、買収、レンタル、寄付、その他手段で駆り集めた46隻
の小型艦、及び「ユナイテッド・ステーツ」「コンスティテューション」「コンステレーション」の3隻、併せて49隻の軍
艦で、アメリカ合衆国海軍は世界制覇への道を歩き出しました。19歳になっていたディケーター・ジュニアも、ジ
ョン・バリー戦隊司令官(Commodore)指揮するフリゲート艦「ユナイテッド・ステーツ」に士官候補生として配属さ
れます。父親、スティーブン・ディケーター・シニアも、20門搭載のスループ艦「デラウェア」の艦長に任命されまし
た。そして5月24日、ジョン・バリー司令官(ユナイテッド・ステーツの艦長兼任)率いるアメリカ艦隊は、私掠船の
被害が多発していたカリブ海目指して出撃し、ここにフランスとの間の宣戦布告無き戦争「クェージ・ウォー(Qu
asi War)」が始まりました。日本語に訳せば「擬似戦争」とか「偽りの戦争」という意味になりますが、日本語の定
訳はありません。

USS.United States
ジョシュア・ハンフレイズ設計のスーパーフリゲート。


ディケーターの奮闘
 「ユナイテッド・ステーツ」は西インド諸島の封鎖任務につきました。そこでディケーターは、バリー司令官の指導
の下、士官候補生達の中でも頭抜けた優秀さと勇敢さを示します。
 ある時ユナイテッド・ステーツは、6門搭載のフランスの私掠船「L'Amour de la Patrie」を砲撃戦の末、降伏さ
せました。船を確保するため、バリー艦長はディケーターを指揮官とする臨検隊を送り込みます。ところが、「L'
Amour de la Patrie」は喫水線部分を24ポンド砲弾が貫通していて浸水が激しく、ディケーターのボートが接舷
したときには沈没寸前でした。ディケーターは乗組員の一部を救助するも、私掠船の乗組員は60人以上いて、と
てもボートに収容することが不可能だったため、ディケーターは「L'Amour de la Patrie」の艦長に対して、自力で
「ユナイテッド・ステーツ」まで帆走するように命じたので、私掠船は「ユナイテッド・ステーツ」の40メートル手前で
沈没しましたが、乗員は全員無事に救助されました。
 このエピソードは、二つばかりの点を理解しておかなければ、現代人には何が優れているのかわからないかも
知れません。まず、降伏した船に自力帆走を許可したことですが、強盗に入られた銀行が、警察に通報せずに
見逃してやるくらいに寛大な処置です。それからもう一つ、そうした処置をとらなければならなかった理由ですが、
これはフル装備の鎧武者でも立泳ぎをするような水泳先進国、日本の住人にはなかなか信じられないかもしれま
せんが、当時の欧米の船乗り達は、いや、現代でも昔気質の漁師達などもそうなのですが、ほぼ確実に泳げま
せんでした。「泳げる」という人が居たとしても多分、日本の小学生と競争したって負けたでしょう。とにかくヨーロ
ッパでは、中世以降に水泳という技術が完全に衰退してしまい、その価値が見直されたのは20世紀も近くになっ
てからだったので、当時、水泳の訓練を受けられる場所なんて皆無でした。また、海難の時に苦しまずに死ねる
というプロフェッショナルな船乗りのこだわりも、水泳が流行らない理由だったと言われています。
 またある時、「ユナイテッド・ステーツ」が、海で溺れている男を発見しました(どういう理由で海に溺れていたの
かはわかりません)。ただちにボートが下ろされましたが、当時は救命ボートを下ろすためには、重たいボートを
人力で舷外にえんやこら押し出し、ロープと滑車を大勢で操って着水させなければなりませんでした。とても間に
合わないと見たディケーターは、すぐに海に飛び込んで(彼は泳げる幸運な船乗りでした)、溺れる男にしがみ付
かれながらもボートの到着まで耐え抜き、見事に男性を救助しています。
 そんなことがあってか、ディケーターの評判は、「勇敢で騎士道精神に富み、若さに似合わぬ卓越した指導力を
持つが、人当たりが良くて誰に対してでも丁重だ。」などと良いことずくめです。そして実際に彼は、バリー司令官
の指導の元、短期間で立派な士官に成長し、「非凡で(one not equaled in a million)、時代を代表する士官にな
る素質がある」ということで、1799年には「ユナイテッド・ステーツ」の先任士官に任命されました。
 ディケーターが海軍士官候補生としてスタートした19歳という年齢は、当時の標準からすればかなり遅いスター
トです。イギリス海軍では、士官候補生は普通、10歳から12歳で採用されました。現代ならば「ボーイ・ソルジャ
ー」としてものすごい人権問題になるでしょうが、海軍士官とは、それくらい早くから修行しないと勤まらない職だ
と考えられていたのです。また、指導者教育に多大な費用と時間をかけるという、現代も変わらぬイギリス軍の
特質(そして、装備の開発や購入はケチられる)があったればこそ、イギリス海軍は常に、数や艦の性能に勝る敵
に対しても常に、勝利を収め続けたのでした。
 その後「ユナイテッド・ステーツ」はフランスまで和平交渉の代表団を運ぶ任務につきましたが、その後、「ユナ
イテッド・ステーツ」はオーバーホールに入り、ディケーターは一時、18門搭載のスループ艦「ノーフォーク」に配
属された後、1800年9月には再度、修理の終わった「ユナイテッド・ステーツ」に配属されました。
 そして1801年2月3日、革命フランスとの間で和平協定が成立し、クウェージ・ウォーは終結します。この戦争
の間、出動した約50隻のアメリカ艦隊は、フランスの私掠船81隻を拿捕しました。戦果としてはいまいちのよう
に思われるかもしれませんが、軍事行動によって防止された貿易上の損失は、二億二千万ドルに及ぶとされて
います。
 ところが、戦争が終わるや否や、クウェージ・ウォーの苦い経験を綺麗さっぱり忘れたジェファーソン大統領
は、海軍、というか軍隊そのものに対して大鉈をふるい、6隻のフリゲートを残して艦船全てを売り飛ばした上
に、28人の正規艦長(Captain, 現代の大佐)の内19人、海尉艦長(Commander 現代語では少佐から中佐を
指しますが、当時は若い下っ端の指揮官を指した)の全て、110人いたその他海軍士官のうち74名をリストラす
るという大統領令を発しました。しかも、残った6隻の軍艦は全て屋根付き乾ドックに収容されることになったの
で、またもアメリカ海軍の戦力は賭け値無しのゼロに逆戻り。陸軍も、なんと一個連隊にまで縮小されてしまいま
した。これはさすがに無謀に過ぎるため、議会は反対しますが、そうこうしているうちにリストラは実行され、当
時、グアドループ島駐留艦隊司令官だったエルダー・ディケーターも退役させられました。
 しかしながら、息子ディケーターは、その卓越した実績と成績、バリー司令官の熱烈な推薦によりにより、海軍
に残ることができました。また、弟のジェームズ・ディケーターも士官候補生として新たに海軍(もはや名ばかりで
すが )に配属されました。
 しかし、ジェファーソン大統領は、三ヶ月ほどで自分の決定の愚かさを嫌でも思い知ることになります。

 
ジョン・バリー(1745-1803) 

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