スティーブン・ディケーターその2
トリポリ戦争
 その昔、エジプトを除いた北アフリカの地中海岸は「バーバリ海岸」と呼ばれており、形式上はオスマン帝国の
支配下にある、トリポリタニア(現リビア)、チュニス、アルジェの三つの太守国が存在しました。15世紀以降、バ
ーバリ海岸は、「コルセア(Corsair)」と呼ばれる海賊集団の巣窟、というか、はっきり言って、国家そのものが太
守を親玉とする海賊団以外の何物でもなく、政策としてキリスト教徒を激しく敵視して、とにかくヨーロッパの船を
掠奪して船員を奴隷にする(そして、交渉して身代金をふんだくる)という行為を繰り返しました。
 こうしてバーバリ海岸は世界の船乗りの恐怖の的となりますが、海賊行為が拡大して手がつけられなくなると、
船を襲われて通商路に大打撃を蒙るよりも、通行料で話をつけようとする国が現れるのも当然です。結果、イタ
リア諸国やポルトガルなどの小国は、バーバリ諸国に多額の通行料を支払い続け(しかし、それでも完全に見逃
してもらえるわけではなかった)、バーバリ三国は繁栄しました。また、こうした海賊行為を制圧するのに十分な海
軍力を保有していたはずの英、仏、蘭の三大海上国家は、自国の強力な海軍力で自国船だけはしっかり護衛す
る一方、自国の海運業のシェアを拡大すべく、海賊に資金援助してライバル国の船を襲わせるありさまでした。こ
うした行為が数百年も放置されていたのも、しごく当然と言えます。
 さて、アメリカは植民地時代から、その豊富な森林資源による、造船費用の安さを強みとした海運業が盛んで
あり、地中海でも多数のアメリカ船が活動していました。植民地だった頃は、イギリス艦の護衛を受けられる上
に、イギリスとバーバリ三国の協定の下で保護されていました。しかし、独立によりアメリカ船は保護の対象外に
なってしまい、早速1785年頃から、アメリカ商船は海賊のエジキになりました。おまけに、アメリカの海軍力が掛
け値なしにゼロと来ています。更に、英、仏、蘭の三大海上国家は、急速に台頭しているアメリカの海運業を脅
威とみなしていたので、ひそかに金を出してアメリカ船を襲うことを奨励するありさまでした。
 1793年には、前述したフランスによる中立国船攻撃が開始されたため、フランスとの関係が深かったアルジ
ェの海賊によるアメリカ船襲撃事件が激増しました。海軍力を持たない合衆国は手も足も出せず、結局、抑留さ
れたアメリカ人の身代金と、多額の通行料を三国に対して毎年支払う破目になりました。ワシントン大統領がフリ
ゲート6隻の建造を要請したのも、こうした海賊行為も理由の一つです。
 で、海賊に通行料を払うことにはなったのですが、通行料が約束どおり支払われることはありませんでした。当
時、アメリカ合衆国政府は壮絶に貧乏であり、払う金がありませんでした。だいたい、自国の安全を守るのに最
低限必要な軍備も放棄しなければならないほど貧乏だったところに、海軍整備という大事業に着手(フリゲートの
建造の始まった1794年からクェージ・ウォーの終わる1801年まで、海軍予算は1000万ドルを越えた)。おま
けに、1798年からは「クェージ・ウォー」が本格化したため、アメリカは海軍予算に推計で600万ドルの臨時出
費を強いられました。この600万ドルで防止された貿易上の損失は2億ドルを越しましたが、合衆国の海運業者
は、海賊の懐に流れる献金をする気は全くありませんでした。
 トリポリタニアの太守、ユースフ・カラマニリは、アメリカの違約に怒り、22万5千ドルの一括払いと、年2万5千
ドルの通行料を要求してきました(ただしこの太守は、ワシントンが死去した時、「偉大な人物が亡くなった」と言っ
て現金一万ドルと金の冠を贈って寄越した)。
 クェージ・ウォーが終わって一息ついたアメリカは、滞納していた身代金と通行料を、オスマン帝国のスルタンを
通じて支払うため、ベインブリッジ艦長指揮する、「ジョージ・ワシントン」に200万ドル持たせてコンスタンチノー
プルに派遣しました。色々あってベインブリッジ艦長は、建国の父の名を冠した船に、オスマン国旗を掲げてアル
ジェに入港させられるという屈辱を味わったのですが、200万ドルという合衆国政府の歳入の30%にあたる金額
も、約束の金額よりも圧倒的に少なく、バーバリ三国の太守全員を怒らせました。
 危険を察知したアメリカ合衆国は、すぐに海軍のリストラを中断して人員を呼び戻し(ただし、ディケーター父は
軍務に戻らなかった)、例のごとく購入とレンタルで船を集めつつ、残存戦力をかき集めると、地中海に「監視戦
隊(Squadron of observation)」と称する艦隊を派遣しました。
 そんな中、リビアの太守ユースフ・カラマニリは大暴走し、1801年5月14日、トリポリのアメリカ領事館の星条
旗を旗竿から切り落とすという行動に出ました。そして6月10日(資料によっては5月10日という説あり。また、
旗切り落とし事件の5月14日が宣戦布告という説もあります)、トリポリタニアは合衆国に対して正式に宣戦布告
しました。かくしてリビアは、世界史上初めて、公式にアメリカに噛み付いた国という栄誉を得ました。歴史は繰り
返すものです。

 
ベインブリッジ艦長、身
代金の払うの図

ディケーター 地中海へ行く
 うむ、ここでやっとディケーターの出番が。
 リチャード・デイル司令官率いるアメリカ監視戦隊は、6月1日にジブラルタルに到着しました。しかしその戦力
は、「プレジデント」「フィラデルフィア」「エセックス Essex」の三隻のフリゲートと、12門搭載のスループ艦「エンタ
ープライズ(出たっ!)」のたった四隻。対するトリポリ太守は、25000人の兵士と24隻の戦闘艦(光栄の「大航海時
代」にも登場するジベック Xebec やポラクルと呼ばれる小-中型の高速軽武装の艦が中心)を保有していまし
た。
 「プレジデント」と「フィラデルティア」は、ハンフレイズ設計のスーパーフリゲートであり、トリポリが持つどの艦よ
りも強力でしたが、さすがに数が違いすぎて勝負になりません。おまけにトリポリ市は複数の要塞で厳重に守ら
れていたので、アメリカ船の護衛とトリポリ市の遠巻きな封鎖という、消極的な行動に終始せざるを得ませんでし
た。それでも、8月1日に最初の戦闘があり、「エンタープライズ」が14門搭載のポラクル「トリポリ」と砲撃戦の
末、損害無しで、80人の乗組員のうち60人を殺傷して降伏させました(撃沈や拿捕にはいたらず、武装解除し
た後に追い返した)。

 ディケーターは、アルジェリアで大恥をかかされた、件のベインブリッジ艦長が指揮するフリゲート、「エセック
ス」の副長に任命されました。彼の海軍軍人としての経験は三年でしかなく、この措置は異例中の異例で、ディケ
ーターがいかに優秀であったかを物語っています。しかし「エセックス」が船の護衛に終始したため、この時は戦
闘に参加する機会は無く、1802年7月22日、ニューヨークに帰還しました。
 ディケーターは休む間もなくフリゲート「ニューヨーク」に乗せられ、デイルの艦隊と交代するために出動した、リ
チャード・モリス司令官率いる、フリゲート7隻を基幹とする艦隊とともにまた地中海に旅立ちました。地中海に到
着後、ディケーターは、例のスループ「エンタープライズ」(可哀想にこの船は1804年までずっと地中海にとどま
った)と、18門搭載のスループ「ノーフォーク」の海尉艦長を務めました。この年、フリゲート「コンスティテューショ
ン(44門搭載)」がトリポリ市沖まで進出し、9隻のジベックと交戦して2隻を撃沈していますが、他に大きな戦闘
はありませんでした。
 1803年10月3日、名将の呼び声高いエドワード・プレブル司令官が、フリゲート「コンスティテューション」「フィ
ラデルフィア」「J.アダムス」を率いて地中海に到着しました。アメリカ政府は、早くから彼の能力に期待していた
のでが、本人が体を悪くしていたことに加え、旗艦「コンスティテューション」の長期オーバーホール、低予算での
海軍増強による人手不足などの悪条件が重なって、1803年までずれ込んだのです。
 プレブル司令官は、人手不足、特に全員が二十歳そこそこでしかない士官達の経験不足を嘆きつつも、士官
達を「マイ・グッド・ボーイズ」と呼んで厳しい訓練を課しました。当時、スループ艦「エンタープライズ」の艦長を務
め、若い士官達の中では最も優秀で比較的長い経験があるディケーターでしたが、彼も容赦なく「ボーイズ」の仲
間入りをさせられてしまいました。
 プレブル司令官は、シチリア島に基地を置いて作戦を開始するのですが、いかんせん、彼には三隻のフリゲー
トと「エンタープライズ」、他に現地で調達した武装の貧弱な小船が何隻かしかありませんでした。そのうえ、到着
後間もない10月31日、ベインブリッジ艦長指揮する「フィラデルフィア」が、トリポリ沖で敵の小型艦を追跡中、
座礁して(座礁させられた?)しまいました。ベインブリッジ艦長は、大砲と飲料水を投棄しフォアマストを切り倒し
てまで船体を軽くしようとしましたが、あいにくと干潮時にさしかかっており、どう頑張っても離礁できない。それど
ころか、潮が完全に引いた後、船体が大きく傾斜してしまい、残しておいた大砲も射撃不能になりました。当時の
艦載砲は、射撃→反動で後退→筒先から再装填して押し出す、という構造上、車輪付きの大砲をロープと滑車で
くくりつけただけのもので、船体に固定されていませんでした。このため、傾斜が大きい場所で発砲すれば反動で
斜面を転がり落ち、船の横っ腹を突き破る危険があります。特に、フィラデルフィアの24ポンド砲は2トン近い重
量がありました。
 トリポリの砲艦に包囲されたフィラデルフィアは降伏し、ベインブリッジ艦長と300人あまりの乗組員は捕虜に
なってしまいました。あまつさえ、数日後に大嵐があって、あれほど頑張っても離礁しなかった「フィラデルフィア」
が、なんとトリポリ市のど真前に吹き寄せられてしまった。当然、トリポリ側は船を捕獲した上、投棄されていた備
品も回収して、船の修理と再装備を開始しました。「フィラデルフィア」は、ハンフレイズ設計のスーパーフリゲート
の1隻で、4隻しかなかったアメリカ海軍最強の44門艦の一つでした。それが敵の手に渡るということは、現代
風に言うと、空母か戦略ミサイル原潜が、某I国か某北の国に捕獲されるのと同じくらいの大問題です。
 「フィラデルフィア」の事件が起きた時、艦隊はマルタ島に停泊中でした。ベインブリッジ艦長は(多分、身代金
要求の手紙で)、「フィラデルフィア」が稼動する前に破壊するように提案してきました。

エドワード・プレブル
(1761-1807)
エンタープライズ、トリポリを撃破するの図
包囲されたフィラデルフィア
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