エイモン・デ・ヴァレラ (1892-1975)  
 
+:アイルランド共和国の父

-:裏切り者?
 英国との関係を損ない、北アイルランド問題にも責任ありか?  
 
 
  エイモン・デ・ヴァレラはアイルランド建国の父であり、その長い人生は、アイルランド現代史そのものです。し
かし、ダニエル・オコンネル、パトリック・ピアース、ジェームズ・コノリーらの名は日本でもよく知られていますが、
デ・ヴァレラの知名度はほぼ皆無です。本コーナーでは、同時期のヒーロー、マイケル・コリンズを取り上げました
が、デ・ヴァレラに関するリクエストが寄せられたので、ここに取り上げることに致します。なお、近代アイルランド
の概略に関しては、「マイケル・コリンズ」の項を参照して下さい。  


生誕から第一次世界大戦まで  
 
  エイモン・デ・ヴァレラは1882年10月14日、マンハッタン島に生まれました。本来はエドワードという名前であ
り、ゲール語風の「Eamon」に名を変えたのはアイルランドに渡ってからです。また、De Valeraという姓からも分
かるように、音楽教師の父フアンはスペイン人であり、母ケイト・コールがアイルランド人です。しかし、生証明書
にはなぜか「ジェームズ」の名で記載されており、それが訂正されたのはイースター蜂起の後の除名嘆願の時で
す。また、彼の出生については様々な噂があり、どうやら私生児であることは間違い無さそうです。
 エイモンが二歳の時、父フアン・デ・ヴァレラが亡くなりました。このため、幼い息子を養うことが出来ないケイ
ト・コールは、息子をアイルランドの母(つまりエイモンの祖母)エリザベス・コールの元に送りました。もっともケイ
トは、息子をアイルランドに送るとさっさとイギリス人の馬丁と再婚してしまい、デ・ヴァレラの引き取りも拒否して
います。ただ、貧しいアイルランドでは、アメリカや旧大陸で働いて稼ぎを故国に送金するという生活スタイルは
いたって普通のことで、こうした出稼ぎ労働に従事している以上は子供を育てるのは無理だっただけで、特に息
子への愛情が欠如していたということではないようです。しかしながら、私生児説に関する噂の一つとして、ケイト
が渡米したのは、奉公先の息子とデキちゃったため、妨害されずに出産するためだったという説もあります。
 アイルランドでデ・ヴァレラは、カソリック系の学校で教育を受けました。家は貧しくて自転車すら買えなかった
ので、毎日7キロの道を歩いて往復という、うらやましいとは言い難い学校生活でしたが、成績は非常に優秀で
あり、16歳でダブリンのブラックロック大学に入学しました。彼は最初、聖職者を目指していたようですが、その
要請は拒絶されています。母ケイトと父フアンの結婚が正式なものではなかったためのようで、保守的なアイルラ
ンドでは私生児に対する風当たりは強く、聖職者になることができませんでした。
 そこで仕方なく、デ・ヴァレラは数学教師の道を目指すことにしました。大学でもやはり成績は優秀で、ラグビー
の名選手(←それ故、彼は親英的と見なされていた)として鳴らすとともに、在学中から数学の講師としてダブリン
の他の大学で教鞭をとりました。アイルランド史の研究科、鈴木良平先生の著書「アイルランド問題とは何か」に
よると、人付き合いの苦手なデ・ヴァレラが、数学教師なら人付き合いの必要が無いと考えたから、らしいです。
どちらにせよ、彼の生い立ちや私生児としての差別を受けたためか、親しい友人はおらず、孤独な青春時代でし
た。
 アメリカ合衆国は地縁的な国籍法を採用しており、合衆国の領土内で(場合によってはアメリカ船籍の船の上で
も)生まれた人は、誰でもアメリカ国籍を取得することが出来ます。従ってデ・ヴァレラは、母親がアメリカにいるこ
ともあって自分をアメリカ人だと考えており、特にアイルランドには執着していませんでした。
 ところが20世紀初頭、アイルランドにおいて文芸復興運動が盛んになります。そんな1908年、彼もゲール語
連盟(後にエール共和国大統領となるダグラス・ハイド博士が設立。知識人の間の流行でしかなかった文芸復興
運動を市民レベルにまで拡大した)に加入しましたが、そこで担当教官となった4歳年上の女性、シニド・フラナガ
ンに一目惚れ!1910年には結婚しますが、彼女の強い影響により、デ・ヴァレラはアイルランド民族運動にも
傾倒して、過激派のIRB(アイルランド共和兄弟団)に加盟しました。もっとも、鈴木良平先生によれば、彼がゲー
ル語連盟に加盟したのは愛国心からではなく、文芸復興運動の結果、公務員となるにも大学を卒業するにもゲ
ール語が必修となったからだけだそうです。鈴木先生はどうも、デ・ヴァレラを嫌っているようであります。 
 この後デ・ヴァレラは、妻シニドを通じて、アイルランド独立を目指す多くの人々と知り合い、民族主義に大きな
影響をうけ、名前もアイルランド式の「エイモン」に変えました。
 1912年、アイルランドに独自の議会設置を認めるアイルランド自治法が成立。1914年に施行されることにな
りました。しかし、アルスターのイギリス系住民はこれに猛反対、エドワード・カーソン卿率いる統一党は、アルス
ターは自治法の対象から除外せよ、さもなくば内戦も辞さないと強硬に反発し、同年中に「アルスター義勇軍」と
いう民兵組織を設立して、公然と反乱の準備を開始しました。
 一方、南部アイルランドもアルスターの動きに対抗して、1913年11月、IRBを中心に「アイルランド義勇軍」が
設立されました。数でアルスターを圧倒すると言う方針の下、アイルランド義勇軍への参加者は20万人にもおよ
んだため(しかし、軍隊経験者はせいぜい2000人で、武器は1500人分。弾薬は、ライフル一丁につき25発し
かなかった・・・・・・)、南部アイルランドとアルスターは内戦の危機に直面しますが、皮肉なことに、すぐに第一次
世界大戦が始まったので、両者は内戦どころではなくなりました(そしてアイルランド駐留軍が削減された後、両
者はなんだかんだ言いつつも協調して治安を維持し、両者の武力衝突は一度も発生しなかった)。
 デ・ヴァレラも創立メンバーとして義勇軍に参加しており、武器の調達(密輸)で指導力を発揮して、一目置かれ
る存在となりました。


第一次世界大戦

 1914年、第一次世界大戦が始まると、戦争遂行が優先ということで自治法施行は棚上げにされました。これ
に満足したカーソン卿は、35000人のアルスター義勇軍兵士をイギリスに提供しました。
 南部でも、当時のアイルランドの最大勢力で自治主義を標榜するアイルランド国民党の党首、ジョン・レッドモン
ドは戦争協力を表明し、アイルランド義勇軍兵士の提供を申し出ています。レッドモンドはアイルランド義勇軍司
令官(彼は穏健な人物であったが、義勇軍が過激な行動に走ることを恐れて司令官職を買って出た)でしたが、し
かし、義勇軍幹部の多くは過激派のIRBによって占められており、レッドモンドの対英協力姿勢に反発しました。
 そして1914年8月のIRB最高評議会では早くも武装蜂起の敢行が決議され、1916年のイースターの日曜日
に実行することが決定されています。ただし、こうした計画段階でのデ・ヴァレラの関与はそれほど大きいもので
は無かったようです。
 シン・フェーンのアーサー・グリフィスや、IRB最高評議会メンバーのパトリック・ピアース、エイモン・キャント、ジ
ェームズ・コノリーらは早速、武装蜂起の計画に着手しました。アイルランド独立を支援していたアメリカの秘密結
社、クラン・ナ・ゲールが必要な資金を調達し、クラン・ナ・ゲールのメンバー、ロジャー・ケースメント卿がドイツに
派遣されて、35000人分のライフルと弾薬を調達しました。
 ところが、アイルランドの世論はIRBの思惑とは反対の方向に進みます。アイルランドが徴兵法の対象外となっ
たことで、アイルランド人の多くが戦争をどこか他人事のように捉えているところがありました。もともと、なんだか
んだ言いつつも英国に親しみを感じるアイルランド人は多かった上に、ベルギー侵攻をきっかけに、ドイツ帝国は
イギリス以上の「悪者」と見なされるようになりました。それに、小国ベルギーが大国ドイツに蹂躙されるのを目の
当たりにすると、イギリスとの連合も悪くないと考える人が増えました。そしてIRBは、(蜂起の計画に頭が一杯だ
ったのか?)アイルランド人の反戦気運を盛り上げることに失敗しました。
 このため、民族主義者の活動はいやがうえにも低調になり、シン・フェーンやゲール語連盟のような穏健な組織
は活動停止に追い込まれました。その上、イギリス側は武装蜂起の計画を掴んでいました。ただし、蜂起の計画
は、あくまでデモンストレーションだと考えたようで弾圧はせず、却ってイギリス政府は態度を軟化させ、1915年
から、自治法施行までの空白期間を統治するための、アイルランド人による暫定自治政府樹立に関しての協議
を始めました。このことがきっかけで、穏健派はより積極的に英国に協力するようになりました。
 そんな逆風の中ではありましたが、IRBは裏工作でレッドモンドをアイルランド義勇軍の司令官職から引き摺り
下ろすことに成功します。この時、大部分の義勇軍兵士は既にフランスに派遣されていて、国内に残っていたの
は相変わらず装備も訓練も不十分な2万人程度でした。しかしこれは、レッドモンドの息のかかった義勇兵が国
内に残っていないことを意味しており、残った兵士達は蜂起の首謀者であるオーエン・マクニールとパトリック・ピ
アースが掌握していたため、却って好都合だと解釈されました。また、著名な社会主義者の労働運動家でもある
ジェームズ・コノリーは、「市民軍」と言う、小さいながらも労使紛争で経験を積んだ強力な私兵団を持っており、
義勇軍に呼応して蜂起に参加することになりました。
 一方のイギリス側の兵力は、駐留英国軍は削減されていたので、王室アイルランド警察軍(ほぼ完全にアイル
ランド人で構成されている)約一万人が中心。加えてダブリン市には千人の警官が配置されていましたが、彼らは
スコットランドヤードをモデルにしているために非武装でした。そして蜂起の計画は着々と進み(何と言うか、現状
を正しく認識していなかっただけの気もしますが)、予定通り1916年のイースターに、義勇軍の軍事演習を隠れ
蓑に蜂起実行の運びとなりました。 

アーサー・グリフィス(1872-1922) 
1905年(1907年?)シン・フェーン党を創設
ロジャー・ケースメント卿
(1864-1916)
元イギリスの外交官。イー
スター蜂起では反逆罪で
絞首刑に処せられた。この
最期が強烈なためか、アフ
リカに残る奴隷制度の廃
絶に尽力していたことは知
られていない
ジェームズ・コノリー
(1868-1916)
社会主義者で労働運動家 
パトリック・ピアーズ
(1879-1916)
イースター蜂起のリーダー 
オーエン・マクニール
(1867-1945)
イースター蜂起時にはアイルランド
義勇軍最高司令官。後に臨時政
府の財務大臣として活躍した。
ジョン・エドワード・レッドモンド
(1856-1918)
アイルランド国民党党首

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