ナンセン その4
難民、そして大飢饉

「そいつは驚いた。あなたは北極の探検に一生をかけられた。だけどそんなことは誰も期待してませんよ。でも頭
痛の治療法を発見されなかった。患者はみな切望していることなのですがね」
 頭痛の治療法は知っているかという問いに対して、「NO」と答えたナンセンに、バーナード・ショーが言った言葉。

 ナンセンが捕虜送還のために奔走していた1921年、ナンセンの前にさらなる問題が持ち上がりました。舞台
はロシアです。
 第一次世界大戦とロシア革命、それに続く内戦は150万人におよぶ、もはやロシアには帰れない難民(これが
白系ロシア人と呼ばれる人々です。あくまでボルシェビキの赤色革命に対抗する人々、と言う意味で「白系」なの
であり、決してベラルーシ人ではありません)を生み出していました。現在でも変わりませんが、こうした難民とは
常に、食料無し、衣類無し、家も無いし職も無いというないない尽くし(金持ちや著名人は「難民」ではなく「亡命
者」と呼ばれる……)。同情はするのですけど、経済的負担を考えると、どこの国も受け入れには消極的です。
 1921年2月、それまで細々と難民保護を行ってきた国際赤十字社は、とうとうたまりかねて、国際連盟に対
し、難民対策への支援を要請しました。国際連盟は、この大事業の責任者としてナンセンに白羽の矢を立てま
す。数も比較的少なく、必ず受け入れてくれる故国(ロシア人捕虜の場合、ちよっとフクザツでしたが)が存在した
捕虜達と違って、難民はとてつもなく数が多く、もはや帰るべき祖国もありません。難民救済事業の困難さは、捕
虜送還の比ではありません。ナンセンは最初、また渋ったのですが、人道上の義務、と考え直し、同年8月、ナン
センは国際連盟難民問題担当高等弁務官に就任しました。赤十字を含めた、難民救済に関わる全ての機関の
調整役という大役です。

 最も重要な問題は、ロシア難民達のほとんどはパスポートや身分証を持っていないこと(これは別に、ロシアに
限った事ではありませんが)でした。実際、ボルシェビキはもっと直接に、国外逃亡を図る一部のロシア人(主とし
て著名人が多かった)の国籍を剥奪しており、そういった人々は、無国籍であるということで、ロシアを脱出できて
も、そこから先の国境通過が妨げられていました(官僚主義の弊害とも言えるかもしれませんが、周辺国としても
自国の安全をおろそかにする事は出来ない)。これは難問と思われましたが、ナンセンは、いかにも彼らしい単
純だが効果的なアイデアを思いつきます。
 それは難民達の為に、専用の身分証明書を発行する、というものでした。誰にでも思いつきそうなことなのです
が、それは今だから言えることです。国際連盟の権限は、現在の国連ほどには強くなく、いくら国際連盟発行の
身分証だ、と言ったところで、それが法的な効力をもつには、加盟国それぞれの政府をいちいち説得する必要が
ありました。加えて当時はまだ加盟国も少なく、何よりも難民問題の当時者たるロシア(ボルシェビキ)と、難民達
を受け入れる余裕のありそうなアメリカは、国際連盟に加盟していませんでした。
 ナンセンはやりとげました。彼は52カ国(資料によっては51?)の政府を説得し、この身分証を正式なパスポ
ートとして承認させるとともに、アメリカとヨーロッパ諸国(ただし、国内が混乱しているドイツやバルカン諸国は除
かれたものと思われます)それぞれに、一定数の難民受け入れを認めさせることに成功しました。
 この身分証、ナンセンの肖像がデザインされていたため、「ナンセンパスポート」と呼ばれ、所持する者の国境
通過の自由や、定住、就学、就職の権利を保障するものでした。ナンセンパスポートのおかげで、その後、数百
万の難民が国境を越えて新天地へと旅立つ(そして帰化する)事が出来たのです。
 この「ナンセンパスポート」は1922年から制度化されましたが、その年だけでも150万部が発行されていま
す。ナンセンパスポートのおかげでロシアを脱出できた人の中には、作曲家のストラビンスキーとラフマニノフ、
画家シャガール、バレリーナのアンナ・パヴロヴァなどの著名な芸術家もいました。
 さて、この「ナンセンパスポート」が、なぜナンセンの肖像入りになったのかというと、ちょっと笑える話がありま
す。まだ国際連盟とナンセンがロシア人難民救済に乗り出していなかった頃、赤十字もまた、身分証を持たない
難民をいかにして国境を通過させるか、と言う問題につきあたっていました。その時、先にも述べましたが、捕虜
送還問題に関してナンセンがボルシェビキの信頼を得ている事を知った一部の赤十字職員が、ナンセンの名前
を使った(勿論、本人には無断で)書類をでっちあげて、ソ連の国境警備隊をごまかした事があったからだとか。
 捕虜送還と違い、難民救済事業は終わることは無く、結局彼は、死の直前まで働きつづけなければなりません
でした。ナンセンの死後も、国際連盟の支援の下にナンセン財団がその遺志は受け継いでゆきました(1938
年、ナンセン財団はノーベル平和賞を受賞した)。

 
 さて、難民救済事業は、それだけでも十分ナンセンの手に余る大事業でしたが、その大事業にとりかかって間
も無い1921年夏、更なる難題がナンセンの前に立ち塞がりました。舞台はまたしてもロシアでしたが、今度は
難民とは違った、ロシアの国内問題でした。
 当時ロシアは、第一次世界大戦、革命、革命に干渉する外国軍の侵入、そしてボルシェビキと反革命派の内戦
と、続けざまに災厄に見舞われていました。特に1918年から1920年11月まで続いた内戦は、少ない見積も
りでも死者は2000万人!!!と言われ、当のロシアですら、現在に至るも実態をつかみかねているような大規
模で、凄惨なものでした。そんな中で、ウクライナで大飢饉が発生したのです。
 内戦の直接の戦災に加えて、旱魃による不作と配給の不手際(→ウクライナは、ロシアの他の地方よりも肥沃
な土地であり、帝政期から常にロシア第一の穀倉地帯でした。それだけに、社会の混乱や内戦で他の地方での
食料生産が減少したこの時期、ボルシェビキによる収奪が厳しかったのでした)が重なって、数百万のウクライナ
人が餓死し、更に一千万人近いウクライナ人が餓死の危険にさらされていました。飢餓はかなり深刻で、一部で
は食人まで報告されています。
 ロシアの著名な作家、マキシム・ゴーリキーは、(ボルシェビキの指示で)飢饉救済のための国際的な支援を訴
えました。これに応えてアメリカでは、革命に干渉した時のアメリカ人捕虜釈放の見返りということで、赤十字を通
じた食糧援助が行われ、また金地金による米国産穀物購入の取り決めが行われましたが、飢饉の救済には圧
倒的に不足でした。
 その一方、ロシアの指導者たるレーニンは、アメリカの援助だけに頼ることを危険と考え、バランスをとるべくナ
ンセンと国際連盟にも支援を求めます。そこでナンセンは、国際連盟の指示と、ゴーリキーおよび赤十字社の要
請に従ってソ連を訪問しました。
 しかしながら、これはアメリカを含めた西欧諸国に大変な疑惑と波紋を呼び起こしました。特にイギリス政府
は、ナンセンはレーニンに利用されたのだ考えはじめ、以後、ナンセンには冷たくなります。他の西欧諸国も食
糧援助がボルシェビキ政権を強化するのに利用されることを恐れ、そろってロシアに対する経済封鎖を行いま
す。そして民間団体を通じての援助すら、自国内の社会主義、共産主義団体によるボルシェビキ支援のカモフラ
ージュとみなして、いい顔はしませんでした(さすがに禁止はしなかったようですが、どちらにせよ経済封鎖でロシ
アに食料を運べなかった)。
 さらに、当時のロシア、ボルシェビキ政府は世界ののけ者。国際連盟への加盟すら認められておらず、主要な
加盟国の非協力もあって、国際連盟の支援を得る事も出来ませんでした。
 当事者であるボルシェビキ政府の方も、誕生したばかりの社会主義国家をつぶそうと、よってたかって攻撃して
きた西欧諸国(みんな国際連盟の加盟国)の所業を忘れておらず、飢餓救済の援助活動そのものを疑っていまし
た。かくしてナンセンは、この件に関しては公的機関から一切の支援を得られないまま、孤立無援の戦いを強い
られる事になりました。
 それでもナンセンは、民間の飢饉救済基金設立のために奔走します。休むことなく世界を飛び回って講演を続
け、本を書き、ウクライナ飢饉救済のための寄付と協力を市民に呼びかけ、自身もためらい無く私財を提供しま
した(いろいろあってかなりのお金持ちになっていた)。
 その甲斐あって、ロシアへの食糧援助に必要な資金や資材も集まり、やがて大規模な食糧援助が開始されま
した。飢饉が峠を越した1923年の秋まで食糧援助は続けられ、最終的に700万人のウクライナ人が餓死から
救われました(余談ですがこの1923年とは、ソビエトにとって最悪の厄年でした。1923年に生まれた男性の8
0%が、大祖国戦争で命を失っています)。
 またナンセンの活動は、食糧援助だけではありませんでした。ウクライナ人のカナダへの移住も推進し、ロシア
の農業技術の改良にも協力しています。ロシアのような広大な土地で、農業生産を上げるには機械化が不可欠
でしたが、ロシアの農業は原始的(他の産業も遅れていたが、農業は特にひどかった)に遅れていました。ナンセ
ンの活動によって、ウクライナとボルガ河沿岸地区に機械化された近代的な農場が建設されますが、その後、こ
の二つの農場は長くソ連の農業政策のモデルとなります。
 こうした多大な努力のおかげで、ナンセンはソ連共産党の名誉党員に迎えられました。ナンセンは、著書「ロシ
アと平和」の中で、レーニンの厳格な統治手法を賞賛し、ロシアの地を再見するには不可欠だと述べています。
ロシアのような後進国の発展には、共産主義は有効なシステムだと考えていましたが、実の所、ナンセンはかな
り反共的でした。
 なお、飢餓救済活動のさなか、ナンセンが通訳に雇った一人のノルウェー人青年がいました。休職中の軍人だ
ったこの青年の名は、ヴィドクン・クィスリング。人口の少ない小国ゆえかもしれませんが、最も高潔な人物と、(ノ
ルウェー的視点では)最低に汚いクズ野郎の運命が交わった瞬間であり、歴史の皮肉です(クィスリングが何者か
は、ここでは評価しませんが)。
 
 そして1922年、捕虜送還問題、白系ロシア人難民救済の功績で、ナンセンはノーベル平和賞を受賞しまし
た。ナンセン本人は、この受賞について「意外だった」とコメントしています。最初、こうした人道支援活動が研究
の妨げになる、と渋ったことを気にしていたからのようです。
 賞金は難民救済のために寄付されました。受賞時には、ナンセンの活動に深く感動したデンマークの出版業
者、クリスチャンセン・エリクスンが、賞金と同額をナンセンに贈りましたが、これもウクライナの食料援助へと回
されました。
 冒頭のセリフ、時期はいつかはよく分かりませんが、バーナード・ショーと言う人物が、実はただのバカであるこ
とを如実に示しています。確かに北極探検に関しては、人は誰も期待していなかったかも知れません。しかしナン
センは、不幸な人々の期待に応えて多くの人命を救いました。バーナード・ショーのような、好き勝手な事を書き
散らすだけで行動しようとはしない人物から、かかる侮辱を受ける筋合いは全くありません。


ナンセンパスポート


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