ナンセン その3
ナンセン 政治の世界へ
 ナンセンは国民的英雄として帰国しました。ナンセン一行は、この探検行で北極海の地理学的データは勿論の
事、極における地磁気やオーロラの観測、気象学や海洋学、動物学の分野にまで及ぶ膨大な成果を持ち帰り、
当時の学界に一大センセーションをまきおこしました。
 この探検行の記録、「夜と氷の中(「極北」 中公文庫刊、英語版に依拠しているらしくナンセンによる図版は無い)」は1897年に出
版されました。ナンセン自身の手による版画の挿絵つきの本書はベストセラーになり、各国の学会から講演依頼
が殺到しました。 
 1897年、ナンセンはクリスタニア大学の動物学教授に任命されますが、その後、彼の学問的関心は海洋学
の分野へと移って行き、ノルウェー近海における海洋調査(やっぱりフラム号を使った)を何度か行っています。そ
うして、海洋学研究の第一人者として自他ともに認められたナンセンは、1908年、クリスタニア大学の海洋学研
究室の教授に就任しました。
 そうは言ってもナンセンは、極地探検を忘れたわけではなく、新たな極地探検計画をいくつも立案しています。
北極には懲りたのか、ナンセンの視線は主として南極に向いていました。しかし、これらの計画は実現されること
は無く、そうこうしているうちに1909年、アメリカのピアリーが北極点に到達(ただし、1990年代以降、一部で
捏造疑惑がささやかれています。決着はついていません)、1911年には、ノルウェーの英雄、ロアール・アムン
ゼンが見事に南極点一番乗りをキメてしまいました。アムンゼンは最初、北極点をめざしており、そのつもりでナ
ンセンからフラム号を譲られていました。しかし、ピアリーに先を越されたので、急遽、南極に目標を切り替えた
のでした。

 ナンセンの探検計画が実現しなかった理由は、大学教授としての研究、教育の業務が忙しかったのも事実で
す。しかし、それ以上にナンセンの足を激しく引っ張ったものがありました。それは、第一に祖国たるノルウェー、
第二に故国を追われた数百万人の人々であり、ナンセンは愛国心とヒューマニズムから、自分の願望や計画を
犠牲にせざるを得なくなったのです。1890年代後半から、ナンセンは次第に政治の世界へと入り込んで行きま
した。
 1905年、デンマークの王子を国王に迎え入れたノルウェーは、スウェーデンとの同君連合を解消して完全独
立を達成しました。宗主国たるスウェーデンは、この動きを特に妨害しようとはしなかったので、この独立は平和
的に達成されました。
 しかし、簡単に独立出来たわけでもなければ、危険が無かったわけでもありません。スウェーデン政府は一応、
武力で独立運動を鎮圧する準備はしていたし、ノルウェーの方も、スウェーデンとの境界線の防衛を強化してい
たので、軍事衝突に至る可能性は十分にあったのです。
 日本では、北欧史に関する書物にナンセンの名が載ることは稀ですが、彼がノルウェー独立運動において果た
した役割は地味ながら非常に重要なものでした。
 まず、独立運動の成功には主要国の了解が不可欠なのですが、時は帝国主義、植民地主義の時代。イギリ
ス、フランスなどの列強は皆、「独立」というものには冷淡でした。国際連盟のような小国も発言できる国際舞台
もまだありません。しかし、ヨーロッパ会議(第一次世界大戦勃発まで、ヨーロッパ列強が紛争解決のために時々
開いていた)のような排他的な「列強クラブ」も、ナンセンのような著名人には門戸を開かざるを得ず、マスコミも
ナンセンの手になる寄稿となれば掲載せざるを得ない。ナンセンは著名人であることを最大限に利用して、列強
各国(多分、日本とアメリカは関係なかったでしょうけど)の政治家や国民の間に、ノルウェー独立運動に対する
好意的な世論を作り出すことに尽力し、成功しました。更に、独立に向けたノルウェーとスウェーデンの世論の調
整にも重要な役割を果たしています(「マイケル・コリンズ」の回でも触れたように世論が統一されないままの独立
運動は、ほぼ内戦を意味する)。おかげでもって、独立の賛否を問うノルウェーの国民投票では、投票総数37万
票のうち、反対は200票ほどだったといいます。
 これらの活動の結果、ノルウェー独立後は、ナンセンの声望は前にも増してずっと大きくなっており、ノルウェー
政府内で対立が持ち上がる度に調停者として大きな影響力を行使しました(ただし、国内の要職にはついていな
い)。なお、ナンセンは1906年から1908年まで、独立ノルウェーの初代駐英大使を務めています。

 そうこうしている内に第一次世界大戦がはじまりました。ノルウェーは中立を維持したのですが、1917年、重
大な危機に見舞われます。同年、第一次世界大戦に参戦したアメリカは、中立国を連合国側に囲い込もうという
意図のもとに、中立諸国に対する経済封鎖を開始しました。ノルウェーは戦争に参加する意思など全くありませ
んでしたが、食料の多くをアメリカからの輸入に頼っていたため(第一次世界大戦勃発からは特に)、ノルウェー
は飢餓の危機に直面してしまいます。急遽ワシントンへと派遣されたナンセンは、ウイルソン大統領との困難な
交渉の後、1918年の春には食料品の輸入に関する合意を取り付けることに成功しました。アメリカの伝統的な
悪癖である利己的孤立主義のカベをナンセンは見事に打ち破ったのです。そしてこれは、アメリカと中立国間の
協定における模範とされ、アメリカも中立国の囲い込みという愚かな意図を放棄しました。
 戦後の1919年、ナンセンは国際連盟のノルウェー協会を主宰し、翌年には国際連盟のノルウェー代表に就
任しました。ナンセンは、ノルウエーのような弱小国の安全を保障するには国際連盟は最高の組織であると考え
ており、ノルウェーのためだけでなく、国際連盟の地位強化にも尽力しました。



    
クリスタニアに入港するフラム号(1896年9月)   駐英大使時代のナンセン   オーロラ (「夜と氷の中」の挿絵。ナンセン画)


捕虜送還 

  第一次世界大戦が終り、ベルサイユで和平交渉が行われていた頃、大きな問題が持ち上がりました。ロシア
には25万人のドイツ、およびオーストリア・ハンガリー帝国兵の捕虜が抑留されたままになっており、一方、ドイ
ツ国内にも20万人のロシア兵捕虜が抑留されていました。本来、捕虜送還という業務は当事国双方の間で行わ
れるものなのですが、ドイツもオス・ハン帝国も国内が大混乱、ロシアも内戦中(これに関しては後述)であり、捕
虜の面倒を見ている余裕はありませんでした。
 1920年の春、国際連盟はナンセンに捕虜送還問題担当高等弁務官の地位を打診します。ナンセンは最初、
研究の妨げになるとして断ったのですが(この頃ナンセンは、政治と外交の世界にかなり深入りしており、この言
い訳にはまるで説得力が無かった)、捕虜の本国送還は人道上の義務であるばかりでなく、敵対国間の和解にも
不可欠であると考え直し、弁務官職を引き受けました。また、これは国際連盟が、国際機関としての真価を問わ
れる最初の試練でもあり、捕虜送還の成功が、創立間も無い国際連盟の地位強化にもつながると考えたので
す。
 この捕虜送還に関しては、赤十字からの全面的な協力がありましたし、ドイツも、ロシア(ただし内戦中)の実権
を掌握しているボルシェビキも、捕虜送還の意思を明確にしていたので、どうもナンセンは、この件をあまり深刻
に考えていなかったフシがあります。しかし、これが彼の生涯を賭けた(と言っても、もう残り少なくなっていました
が…)戦いの始まりでした。ナンセン本人は(未練たらしく)学者たらんとしていたのですが、最初は祖国ノルウェー
への愛国心から、次いで人間愛から自分の願望を犠牲にせざるを得なかったのです。

 さて、いざ仕事にとりかかって見ると、いろいろと困難に直面しました。最初の問題は、送還に必要であろう莫
大な資金と、45万人の捕虜を運ぶ輸送手段の不足でした。捕虜達の当事国たるロシア(のボルシェビキ政権)と
ドイツは自国内に深刻な悩み事を抱えており、オーストリア・ハンガリー帝国は既に消滅していました。従って、そ
うした問題に対処することは不可能であり、金とアシの調達はナンセンの手腕のみにかかっていたのです。しか
し、幸いにしてナンセンは、これまで探検や学術的業績と駐英大使の経歴のおかげで、当時の超大国であるイギ
リスでは人気があり、イギリス政府を説得して資金を拠出させることに成功。さらに輸送手段として、第一次世界
大戦で拿捕していたドイツ船(ドイツ帝国の無制限潜水艦作戦のおかげで、イギリスはひどい船舶不足だった)を
使用する許可を取り付けることも出来ました。
 しかし、資金と船舶の調達の間にも時間は過ぎて行き、ここでロシアの冬という重大な問題が発生しました。主
としてシベリアに抑留されているドイツ人捕虜達は、食料、衣服、燃料、医薬品などなど一切合財が不足してお
り、国外からの援助なしでは、とても厳しいシベリアの冬を越せそうにはありません。しかしながら、ボルシェビキ
は西欧諸国と国際連盟に不審を抱いており、ナンセン個人以外との連絡、交渉を拒否します。ありがた迷惑なボ
ルシェビキの信頼ゆえに、抑留者への援助の責任はナンセン一人が抱え込む事になってしまいました。
 彼はベルリンに「ナンセン援助協会」を設立し、そこを経由して抑留中の捕虜に対する必要物資の援助が行い
ます。そして1921年6月26日、解放捕虜の第一陣、960人のドイツ人を乗せた船がシュテッチンに入港、19
22年夏までに全ての捕虜達は、それぞれの祖国の土を踏む事が出来ました(必ずしも幸せな事ではなかったけ
ど……)。


ドイツ人捕虜を乗せた船(1921年6月)


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