サロジニ・ナイドゥその7 サロジニさん、楽天的になる インドの民族運動が高揚すると、大きな問題となったのはやはり、最大人口のヒンズー教徒(人口のおおよそ 70%)と、ムガール帝国の旧支配勢力にして少数派中の最大勢力、そして大きな社会的影響力を持つイスラム教 徒(23-4%)との融和でした。 そもそも、ムガール帝国盛んなりし時代からして、イスラム教徒の支配層は、ヒンズー教徒に限らず他宗教に 対してさほど公平でも寛大でも無く、文化的には「神仏習合」ならぬ「ヒンズー・イスラム習合」も多々見られるもの の、宗教間の軋轢は絶えず、はなっから宗教間で団結していると言い難い状況でした。そして、インド大反乱以 降には、インド政庁はイスラム教徒勢力との融和(もしくは懐柔)を目指すな方針を採ったため、余計にイスラム/ ヒンズー間の亀裂は広がっていました。 1905年、インド政庁は、ベンガル州を宗教人口によって分割し、ムスリム多数の東部地区(南半分が概ね現 在のバングラデシュ)を新たな州とする一方、ヒンズー教徒多数の西部地区を別の州に編入するという「ベンガル 分割令」を発表すると、ヒンズー・イスラムの対立は深刻になりました。 当時のベンガル州(もしくはベンガル管区 Bengal Presidency)は、8千万人以上の人口と広大な面積があり、 本来は行政効率化のための分割案でした。しかしながらベンガル州は、インド帝国の首都カルカッタ(現コルコタ) もあり、東インド会社時代からイギリス支配の中心であるとともに、インド民族運動の中心であり、国民会議派の 地盤でした(と言うか、イギリス支配の中心であるがゆえにそうなった)。 そして、この分割によって、東ベンガル地区のヒンズー教徒は地方選挙で少数派に転落し、他州に編入される 旧西ベンガル地区でも、民族運動の大物が多いベンガル人が少数派になってしまうため、宗教間の分断を図る とともに、民族運動そのもの弱体化を図る策謀だと受け止められました(最初からの意図ではなかったにせよ、 実際にインド政庁もそう考えていた)。 当然ながら、ヒンズー教徒多数のインド国民会議は反発し、過激派筆頭のティラクの主導により、激しい反対運 動が展開された結果、1911年、インド政庁は分割令の当初案を撤回しました。 そして1912年、本来の目的に立ち返ったのか、宗教ではなく言語と民族構成によってベンガル州は分割さ れ、東ベンガル州(概ね現バングラディシュ)、西ベンガル州に加えて、東ベンガルの北にアッサム州が、西ベン ガルの北にオリッサ・ビハール州(現在は二つに分かれている)が創設されました。そしてこの時の線引きは、現 在でも概ね活きています。 一方、イスラム教徒と言えば、もともとのヒンズー教との軋轢に加え、インドの独立なり自治なりが達成されるま でもなく少数派になので、ヒンズー教徒主導の(←単に人口比からそうならざるを得ないだけなのですが)インド国 民会議中心の民族運動に対して、かなりの警戒感を持っていました。このため、イスラム教徒の間では、東ベン ガル地区にイスラム主導の自治州創設すらもあり得る1905年のベンガル分割案には好意的であり、インド国 民会議に対抗すべく、1906年、インド政庁の肝いりで、インド国民会議に対抗する民族運動団体として、イギリ スへの忠誠を綱領に掲げるベタベタな親英団体でもある、「ムスリム連盟 Muslim League」が結成されました。 そういうわけで、ヒンズー教徒とイスラム教徒の政治指導者達の溝は深まりましたが、この空気が変わったの も、皮肉か必然か、ベンガル分割令が絡んでいました。 1911年末、インド国民会議の反対運動でベンガル分割令の当初案が撤回されると、当然ながら、ムスリム連 盟はこれをイギリスの裏切りと見て、親英的な雰囲気はだいぶ低下しました、1912年、後のパキスタン建国の 父、ムハマンド・アリー・ジンナー( Muhammad Ali Jinnah 1876-1948)が主導権を握ったムスリム連盟は、「イギ リスへの忠誠」を撤回して自治権の要求を掲げ、インド国民会議との協力を模索するようになりました。 ただ、ここで注意しなければならないのは、ヒンズー教徒の数の力でベンガル分割令が撤回されたという反発 から、イスラム教徒のヒンズー教徒に対する警戒感や反感もまた強まっていたことです。それでも、ムスリム連盟 が協調路線を選んだのは、誤解も承知で簡単に言ってしまうと、この時点では、反英感情がヒンズー教勢力への 警戒感に勝っていたに過ぎないと言えるでしょう。 そして第一次世界大戦が始まると、戦後の見返りを期待して、インド国民会議もムスリム連盟も、イギリスの戦 争努力に熱心に協力しました。ムスリム連盟の場合、「カリフ」の帝国でもあるオスマン・トルコを敵とするこへの 反発もありましたが、それでも大勢としては戦争に協力的でした。 そして1915年には、インド国民会議とムスリム連盟の連携の機運が高まり、政治指導者達の間には(特に楽 観的なタイプの人々には)、ヒンズー・イスラムの融和実現という希望を見出し始めました。ゴーカレーから「楽天 的すぎる」と言われたサロジニですから、これには大いに喜びました。1915年末のボンベイの国民会議大会で は、サロジニは「目覚めよ! Awake!」という詩を朗読して、宗教融和への希望を歌いました。
この詩は、ジンナーに献辞されていました。名作なのか、その反対なのかは私には分かりませんが、個人的に は、イスラム教やキリスト教のような一神教の信者に対し、いかに祖国とはいえ、神以外を信仰の対象としている ような比喩表現に、いささかギモンを感じます。 サロジニはジンナーと親しい友人となり、ジンナーこそが「ヒンズー/ムスリム団結の代表 ambassador of Hindu-Muslim unity」であると考えました。後の印パの対立抗争は、その原因の多くがジンナーに帰せられるよ うな気がすることを考えると、サロジニには見る目が無かったと言うしかありませんが、まあ、30年先のことはさ すがにわかりません。イスラム教徒達を思う気持ち故になのでしょうが、ジンナーにはどうも、狭量と言うか、依怙 地で頑迷なところがありました。 しかし、何はともあれ、インド国民会議とムスリム連盟の連携は強化されることになります。1916年末には、イ ンド国民会議とムスリム連盟の大会が、ウッタルプラデシュ州の州都ラクノーで同時開催され、ここで両派の共闘 を定めた「ラクノー協定」が結ばれました。 ラクノーで、サロジニは国民会議大会とムスリム連盟大会の両方に出席しました。彼女は、インド国民会議で は、インド人が武器を携帯する権利を求める決議案を提出しました(否決された)。なんでも、「未来のインドの母 の一人として、息子達の生得権(=武器の携帯)を取り戻す」ということで、政庁の武器取締法に反発し、伝統とし ての短剣携帯の権利を求めたのです(何も火器までも携行しようというのではありませんし、そもそもインド人全 てが短剣を携行する習慣を持っているわけでもありません)。また、ムスリム連盟の大会では、自治法案に関す る演説をぶちました。 ついでにラクノー大会では、サロジニは、後の独立インドの初代首相ネルーと初めて会い、家族ぐるみで付き 合う親友となっています。 関連地図 チャンパラン農民運動 1916年2月、マハトマ・ガンジーは、かのアニー・ベザント博士らが創設したベナレス・ヒンズー大学の開学式 典の場で演説しました。そして、居並ぶ政庁の高官達と大学設立を支援した藩王達を前にして、インド政策と藩 王達の華美な生活を批判し、居心地の悪い思いをさせたということですが、これが、南アフリカから帰ってから初 めての公的な場への登場であり、一般には、インド本国の民族運動におけるガンジーの本格デビューであるとさ れています。 さて、マハトマ・ガンジーと言えば、非暴力・不服従の抵抗運動、「サティヤーグラハ運動 Satyagraha」こそが、 その人生と言えます。この「Satyagraha」という言葉は、南アフリカ時代からガンジーは使っていましたが、一般 的には、インド独立運動の中での非暴力、不服従運動を指して使われます。 そして、サティヤーグラハ運動の最初の試みが、「チャンパラン農民運動」でした。サロジニもまた、この運動の 発端となる場面に立ち会いました。もっとも、立ち会っただけであまり重要なことはしていないのですが、全く触れ ないわけにはいかないでしょう。 舞台となったチャンパラン県は、ヒマラヤ山脈にほど近いビハール州の田舎でした(ド田舎かも)。イギリスのイ ンド支配が固まった18世紀末頃より、イギリス人の地主による、染料のためのインド藍栽培が始まりました。もと もと藍は儲かる商品作物であり、北米植民地で大々的に栽培されていたのですが、アメリカの独立によって、藍 栽培業はインドに移動せざるを得ませんでした。 そしてチャンパランでは、小作人に農地の20分の3(場合によっては5/20)で藍栽培を強制するティンカティヤ ー制度(Tinkathia 3カティヤーという意味で、カティヤーは面積の単位)という、強制栽培制度が導入され、小作 人は地主達のひどい搾取の対象になっていました。そういうわけで、当初ガンジーは「よく知らない」と言っていた ものの、実はかなり昔からの問題だったのです。 しかしながら、19世紀末にドイツでインディゴ染料の人工合成法が開発されると、栽培にも製造にも手間のか かる天然藍は、価格面で全く太刀打ちできず、大きく値崩れしていました。 そこで地主達は、あの手この手で小作人を搾り取るという安直で悪辣な手段にでました。それまでは藍物納だ った小作料を、値崩れ前の藍価格を基準にした現金徴収に切り換えたあげく、小作人の反発は雇ったゴロツキ に暴力的に抑圧させ、払えない分は家財や家畜を取り上げるという横暴ぶりです。 作物の転換を考えるとか、ゴロツキを雇う金があればその分を小作料を下げて反発をやわらげれば良いとか、 そういうのは現代の常識人の発想でしょう。一応、小作人にはティンカティヤー契約を破棄する権利もあったりし たのですが、そのためには高額の現金を地主に支払う必要があり、実質的に契約破棄は不可能となっていまし た。 そういうわけでチャンパランでは、小作料は不当だというので、地主に対する返金請求の裁判が頻発していまし たが、地主の搾取に加えて、穀物の不作と増税が重なって、小作人の生活条件は危機的な状態となり、1914 年と16年には暴動も発生していました。 1916年12月、チャンパランで活動する弁護士達が、事態改善を求める決議案を国民会議に要請するため、 ラクノーを訪問していました。そしてこの時、ガンジーのもとをラジ・クマル・シュクラ(Raj Kumar Shukla)という人 物が訪れてチャンパラン県の小作人の窮状を訴え、ガンジーに事態改善のための行動を頼みました。そしてこ の時、サロジニもシュクラとガンジーの会見の場に立ち会っていたのです(もっとも、立ち会っていただけで、何も していない)。 会議では、チャンパランに関する決議案が採択されましたが、ガンジーはと言うとけっこう冷淡なもので、シュク ラの話を聞くだけにとどめ、チャンパラン県の問題はよく知らないので、現状を調査してから返答する、予定の旅 行を済ませた後でチャンパランへ調査に行くと答えました。 しかしシュクラは、カーンプル、アーメダバード、カルカッタと、ガンジーを追って北インドを横断して説得しつづ けたので、ついにガンジーは根負けし、1917年4月10日、シュクラと弁護士の一団とともにチャンパランに乗り 込んだのでした。 ガンジーはシュクラ氏について、その熱意と行動力に大いに敬意を払いつつも、自伝では、「教育を受けていな い、洗練されていない農民」「弁護士達の友人と言っているが、実際は使用人のような者」などと、なかなか偏見 に満ちた書きっぷりであり、ガンジーのような人物であってもやはり、金持ちエリート的の上から目線を捨てられ なかったようです。 そして、ガンジーが自伝に「農民」と書いたせいなのか、今に至るも貧困に苦しむ小作農だと思われているラ ジ・クマル・シュクラ氏ですが、ガンジーを追って北インドを一周していることからして、それだけの旅費を出せた のは明らかであり、実際は貧しい小作人などではなく、いわば「街金の社長」的な裕福な金融業者でした。 地元の弁護士達は、小作人の権利保護に尽力しつつも、活動資金を確保しなければならないというので、かな り高額な弁護料を取っており(←ガンジーは怒りの苦言を呈してる)、弁護士と金融業者のつながりは当然あった でしょう。そしてその職業柄、シュクラがチャンパランの小作人達の窮状をよく理解していたことは、想像に難くあ りません。だいたい、ラクノーに乗り込んでガンジーに訴えたことからして、決して教養の無い人間の発想ではな いでしょう。ド田舎のせいなのか、当時のチャンパランではインド国民会議の活動はあまり知られていなかったら しいので、ガンジーを動かしたラジ・クマル・シュクラこそは、チャンパランの真のヒーローかも知れないのです。
チャンパランでガンジーは、弁護士達が、訴訟にあたって小作人達から千ルピー単位の相談料をとっていたこ とに大いに憤慨しました。チャンパランでの活動に際して、ガンジーが支持者達から最初に申し出られた寄付が 1万5千ルピー(断った)であり、チャンパランでの一連の運動全体にかかった経費が3千ルピー程度であったと 言いますから、それを考えると、千ルピー単位の相談料はかなりの大金です。 ガンジーは、法廷闘争は時間がかかりすぎるうえに、弁護料のため小作人にはかえって不利益であるとして、 弁護士達を説得して無償で働かせて、小作制度そのものを見直す運動方針を採用しました。 そして、インド全土から集まったボランティアとともに、小作人達から聞き取り調査を行いました。わかりきった 問題であっても、詳細な報告にまとめることで、行政府にグウの音も出なくしてしまう作戦です。 また、調査と同時に村人の衛生状態の改善を指導し、カースト差別と女性差別の是正を訴え、さらに小さな学 校と診療所を建てて、村人の信頼を勝ち得ました(ガンジーは、帰国以来、貧困とともにインド各地にみられる不 衛生さを問題視していました)。 またガンジーは、その真意はともかく、チャンパランの事態は政治問題ではなく人道問題であるとして、インド国 民会議には決議をあげる以上の行動はしないように要請して、政庁からの妨害を防ぎました。 その後、ガンジーと警察とのゴタゴタと、それに抗議するデモ隊という、ガンジーの人生でよくある図式(笑)が展 開された後、インド総督の勧告により調査委員会が設置され、ガンジーもその委員に加わりました。 そして1917年10月、ティンカティヤー制度の是正が勧告されました。またガンジーは、全額返金を求める小 作人達の意見を取り上げず、25%の返金で手を打ちました。ガンジーにとっては、問題は金額ではなく、一部でも 小作料の返金に応じたということはすなわち、小作人達の搾取が不正であったと認定されたということであり、そ れで正義の勝利だったのです。 とはいえ、この結末には、生活の現実に直面する貧しい農民と、理念優先のガンジーとの意識の差が明確に 表れているのも事実です。1917年末に、別の労働争議の調停を依頼されたガンジーらがチャンパランを去る と、ほぼ即座に農民の生活が以前の不衛生な状態に戻ったのは、けだし当然と言えましょう(苦笑)。
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