サロジニ・ナイドゥその2

サロジニさん、詩作を始める

 少女時代のサロジニは、極めて病弱でしたが、いわゆる「天才」とか「神童」に分類される少女でした。彼女は
ハイデラバードとマドラスで教育を受けますが、12歳になった1891年には、マドラス市でもトップの成績で大学
入学資格試験に合格しています。
 高い知能を持つが病弱な良家のご令嬢。ベタなキャラかも知れませんが、事実だから仕方ありません(笑)。

  とは言え、彼女は完全無欠の天才というわけでもありませんでした。サロジニ・ナイドゥは、インド英語文学の先
駆者の一人として名を成す人物でありながらも、子供の頃は、前頁のマンガにもあるように、英語がキライで苦
手であり、しばしば、父チャットパーディヤーヤ博士から、英語を勉強しないとして罰を受けていました。
 また、長じて後のサロジニは、英語、ウルドゥー語(パキスタンからインド北部の言葉)、テルグ語を流暢に話し
ていましたが、ヒンズー語はさほど得意ではなかったようです。また、ベンガル語を勉強しなかったことを生涯に
渡って悔やんでいたとのこと(多少は読めたようですが)。
 端的に言うと、サロジニは、チャットパーディヤーヤ家の兄弟姉妹の中でも、こと言語学に関してはデキが悪い
方だったのでした。実際、弟の一人、ビレンドラナスは16か国語を操ったと言われています。
 なお、植民地時代のインドにおいては、英語とは支配者の言語ではあるものの、インドが多言語社会であるが
ゆえに、知識人の間には、「共通語が出来た」と好意的に受け取る向きがありました。実際、外来の支配者の言
語ゆえに、英語を共通語として用いても、インド人社会で民族対立を引き起こさない便利さ(笑)もあったのでしょ
う。

 さて、大学入学資格試験に合格したサロジニでしたが、学業に専念できないような健康状態に加えて、本人も
学問にあまり興味を示さなかったため、進学することはなく、1892年にはハイデラバードの自宅に戻りました。
それから1895年までハイデラバードで過ごすのですが、この期間にサロジニは、詩人としての才能を発揮し始
め、英語の詩を書き始めます。
 当時のチャットーパーディヤーヤ邸は、サロジニ・ナイドゥの言葉によれば、骨董品と動物にあふれた「美術館
と動物園の中間」であり、「天文学者から物乞いまで」、様々な来客がありました。現在、ハイデラバードには、ア
リ・カーン宰相のコレクションをもとにした「サラール・ジャング美術館」がありますが、美術品収集はアリ・カーン
の影響かもしれません。なんであれ、サロジニが芸術と知的な刺激に満ちた生活を送っていたのは確かで、詩作
のネタは尽きなかったようです。

 そして、サロジニの弁によると、彼女の詩作への情熱には、父親チャットパーディヤーヤ博士の影響が極めて
大でした。サロジニは、チャットパーディヤーヤ博士について、「(古代ギリシアの詩人)ホメロスの横顔」を持った
人物、だったと述べています。ついでに、英語が苦手だったサロジニが、英語で詩を書けるまでになったのは、博
士が無理やり英語を勉強させたおかげなのも確かです(笑)。
 また、チャットパーディヤーヤ博士は、いかにも化学者らしく、錬金術(の再現)を趣味としており、近在の人々か
ら面白がられていたのですが、この錬金術が、サロジニの詩作への意欲に大きな影響を与えました。サロジニ
は、最初の詩集「The Golden Threshold」の序文にこう書いています。

「錬金術は、詩人が欲する永遠に対する唯一の物質的な対応物です。黄金を作る者と、韻文を作る者、彼らは、
神秘に対する世界に対する秘められたる欲求に突き動かされた双子の作者なのです。(その欲求とは)父にとっ
ては天賦の好奇心と科学的な才能の神髄であり、私にとっては美への欲求です。」

 とは言え、この説明では、サロジニが文学の道を選んだ理由がわかりません。彼女が「Golden」という言葉を多
用する理由はなんとなくわかりますが(笑)。
 「美への欲求」ならば、詩ではなく、他の分野の芸術でも良いわけですが、恐らくは、ベンガル語で詩を書いて
いたという母親の影響もあったことでしょう。サロジニがベンガル語がダメだったにせよ(笑)。また現代において
も、病弱で引きこもりがち→たくさん本を読む→文学に興味を持つ、という図式はよくあります。現代よりも娯楽
の少ない19世紀末の世界では、この傾向はより顕著だったのではないでしょうか。


サロジニさん、恋に落ちる

 さて、サロジニがハイデラバードに帰った1年ほど後、彼女の幼い弟が病死しました。そして、弟の死を悼んで
以下のような詩を書きました。

2年前に私達のところへきた貴方 Thou cam'st to us two yesrs ago
黄金の空の下、ピンクの野ばらが咲き誇る6月だった In June when pink wild rose blow
Beneath the golden skies.
秋風がメロディを奏でる時、木々から黄色い葉を落とす Whem autumn winds made melody
And yellow leaves fell from the tree
神の御使いは貴方に印を置き、可愛い瞳は閉じられた God's angels set their seal on thee
And closed thy lovely eyes.
(Sarojini Naidu her life, work and poetry. V.S. Naravane より)

 弟の死は、サロジニにとって大きな悲しみであったことは勿論ですが、文学者としての彼女に、「生命」というも
のについて、深く考える機会となります。また、サロジニ自身が病気がちだったこともあるでしょうが、彼女は、人
間および自然界の生命の大切さ、儚さについて考えるようになりました。
 
 その一方、サロジニはこの頃、健康を取り戻しつつありました。そして、インド中部の都市、シャルプールを旅行
したサロジニは、ゴビンダラジュ・ナイドゥ(Muthyala Govindaraju Naidu)という、医学校を卒業したばかりの若い
医師と出遭い、恋に落ちます。これが、体の弱い少女が医師に恋する、というベタなシチュエーションなのか、上
流階級のお嬢様と若きエリート医師の順当な出会いかはともかく、ナイドゥ医師の方も、サロジニの思いに応えま
した。
 なんであれサロジニは、死とは対極にある、生命の明るい一面を考える機会も得たのでした(笑)。

 とは言え、サロジニの両親は、この段階での恋愛沙汰には難色を示し、娘をナイドゥ医師と引き離すべく、サロ
ジニをマドラスのカレッジに入れました。このことについては、バラモンカーストでは無いナイドゥ医師への、チャッ
トパーディヤーヤ夫妻の偏見による妨害という見方が今でもあるようですが、チャットパーディヤーヤ夫妻はカー
スト差別にとらわれるような人物ではなく、実際のところは、詩人としての才能の片鱗を見せ始めたサロジニに
は、もう少し学問を続けてほしかったのでしょう。またサロジニ自身も、両親の決定にさほど抵抗はしていないの
で、彼女自身にも、学問を続けたいという意思があったものと思われます。
 また、アニー・ベサント博士がセントラル・ヒンドゥー・カレッジを設立した時、学生の在学中の結婚を禁じたよう
に、インドの進歩的な知識人達は、年少の結婚で学業が妨げられることを憂いていました。ついでに言うと、チャ
ットパーディヤーヤ夫妻も、出会ったのは14歳の時ですが、結婚したのは博士が英国留学から帰ってからです。
 
 さらに1895年、ニザームが奨学金制度を設立したのを受け、サロジニはその奨学金を受けて英国へ留学し
ました(やはり、娘をナイドゥ医師からさらに引き離そうという両親の意図もありました)。
 サロジニは、ロンドンのキングスカレッジと、ケンブリッジのガートンカレッジで学びました。しかし、天才児の彼
女にとって学校は退屈だったようで、成績は良かったものの授業はさぼりがちでした。そして、英国の田舎を旅し
て詩心を大いに刺激されるばかりか、ヨーロッパ本土にも旅行しています。
 サロジニは、スイスの風景に地上の天国を見出しました。また、イタリアを大いに気に入り、「この国は黄金でで
きている。黄金の日暮れと夜明け、黄金のホタル。天空の黄金。」と、故郷への手紙に書いています。藩王の奨
学金を受けながら、サボリとは太いヤツ、と言いたいところですが、当時はおおらかなものでした。

 とは言え、サロジニもただ遊んでいたわけでなく、英国の自然や動物をテーマにした詩を多く書き、そのため、
英国の著名な作家/批評家のエドマンド・ゴッスに紹介されました。
 サロジニの詩を読んだゴッスは、その才能を認めたものの、サロジニは「感性が英語化されている 
Anglicising her feelings 」と感じ、彼女に対し、英文学の模倣はやめて、インドの風物に立脚した詩作を行うよう
に助言しました。
 実際のところ、サロジニはそこまで模倣していたわけではなく、単に英国で見たものを詩に書いて、ゴッスに見
せただけだと思われます。とは言え、ゴッスの助言を受けた後、サロジニの詩は、以前よりも印象的なものになっ
たと評されています(ただし、英語的感性の影響は完全に脱していない)。
 そしてこの後、サロジニはまた、著名な詩人アーサー・シモンズに紹介されますが、シモンズは彼女の詩をベタ
褒めしています。そしてシモンズは、サロジニの印象について、「長い黒髪の小柄な少女で、やさしい音楽のよう
な、低い、小さな声でしゃべる」「どこか孤独そうに見えた she seemed, wherever she was, to be alone」と、お
よそ快活さに欠ける様子を書き残しています。
 実際、サロジニは、この時もまだ弟の死の悲しみを引きずっていました。おまけに、恋人との別離の悲しみもあ
ったものと思われます。彼女の詩作のモチベーションは、どちらかと言うとネクラなものだったのでしょう。

サー・エドマンド・ゴッス
(Sir Edmund Gosse 1849-1928)

(画像はEncyclopedia Britanicaより)
アーサー・シモンズ
(Arthur Symons 1865-1945)

(画像はWikipediaより)

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