まずは背景の話 サロジニ・ナイドゥ女史(旧姓チャットパーディヤーヤ Chattopadhyaya)は、1879年2月13日、ハイデラバー ドの教育者/化学者アゴールナス・チャットパーディヤーヤ博士(Aghore Nath Chattopadhyaya 1850-1915)の 長子(長女)として生まれました。 父親チャットパーディヤーヤ博士は、「サロジニ・ナイドゥの父親」という以外ではあまり有名ではない人物のよ うですが、興味深い人物であり、また、サロジニや他の子供たちの人生に大きな影響を与えたのは無論のこと、 インド社会に対しても相当な功績を残している人物です。 そう言うわけで、本題に入る前にまず、少しはチャットパーディヤーヤ博士や、その他の背景について書かねば ならないでしょう。 アゴールナス・チャットパーディヤーヤ博士は、ベンガル州ブラフマナガール(Brahmanagar)村で、バラモン階 級(ブラフミン)の中でも最上位に属する「Kulin Brahmin」に属する学者の家に生まれました。この階層は、財産 や権力よりも、ヒンズーの聖典に関する知識やその他の学問を誇りとしているということであり、チャットーパーデ ィヤーヤ家も貧しい家でした。 知識欲旺盛な少年だったアゴールナスは、貧しさゆえに苦学しながら奨学金を取ってカルカッタ大学で化学を 学びました。そして、研究業績を認められ、給費留学生としてイギリスへ渡り、1877年、エディンバラ大学でイン ド人として初めて理学博士(D.Sc)の学位を取得しました。 イギリスでは、専門分野の研究の傍ら、英語はもちろん、ギリシア語、ヘブライ語、サンスクリット語の知識を深 めました。そしてヒンズー教改革運動「ブラフモ・サマージ Brahmo Samaj」に入信もしています。 1878年、チャットパーディヤーヤ博士はインドに戻りましたが、ここでどういう心境の変化か、研究業績が高く 評価されていたにもかかわらず、化学者ではなく教育者としての途を選びました。そして博士は、ハイデラバード 藩王国(ニザーム王国とも)の首都ハイデラバードに住み着くと、ハイデラバード藩王、および藩王国宰相アリ・カ ーンの絶大な信頼と支持を得て、ハイデラバードカレッジ(Hyderabad College 現ニザームカレッジ)およびガー ルズカレッジ(Girl's College)の設立に尽力し、カレッジ設立後はその学長を務めました。 さて、このハイデラバード藩王国は、ムスリム系藩王の最高位である「ニザーム」の称号を許された唯一の王国 にして、1000万人以上の人口と総兵力10万人以上の陸軍を持つインド最大の藩王国です(ちなみに、ヒンズー系 藩王の最高位が「マハラジャ」)。 藩王ら支配者層はイスラム教徒、人口の80%以上はヒンズー教徒と言う社会ではありましたが、国内は安定し ていました。そして、代々の藩王は進取の気性に富み、一族の蓄財と同じくらいに(笑)、国の発展にも熱心でし た。 もともと、このような「藩」というものは、宗主国とうまくやっていける限り、難しい外交や国防をたいして気にしなく て済むので、気楽に内政に尽力できるものです。ハイデラバード藩王国が好き勝手出来たのは、「インド大反乱 (セポイの乱)」で、名宰相アリ・カーンの主導の下、イギリス側の同盟国として行動し、インド南部一帯の平穏を守 ったところによるのが大きいでしょう(笑)。 今では民族運動のようにとらえられがちな「インド大反乱」ですが、実際のところは、日本風に言う「末期養子の 禁」のような制度に対する藩王国の反発によるところも大きいです。ですから、冷静にソロバンを弾いてイギリス 側についた藩王国も多くあったのでした。 そして、アリ・カーン宰相は極めて有能でした。彼は近代的な警察制度と裁判所を整備するとともに、どちらかと 言うと質が悪かった、藩王国軍の主力であるイスラム傭兵の性根を叩き直し、軍を治安部隊として運用すること で国内の治安を劇的に改善しました。もともと鉱物資源に富んでいた藩王国でしたが、このことによって経済活 動が盛んになります。さらに、アリ・カーンは農業インフラの整備にも尽力しました。 もちろん、ハイデラバード藩王国にもイギリス人の「顧問」やら監察官やらが居て、内政干渉も多々あったので すが、それでもインド政庁はハイデラバードには一目置いて、ニザームを独立国家の君主として礼遇しており、藩 王国の意に沿わない決定を押し付けるようなことには慎重でした。
話を戻すとして、チャットパーディヤーヤ博士は、14歳の時に出会っていた女性バラダスンダリ (Varadasundari)と結婚し、1879年にはサロジニが生まれました。その後、早逝した男児一人も含めて、息子4 人娘3人(サロジニも入れれば4人)の子宝に恵まれました。 さて、その職業と社会的立場から言って驚くほどの事ではありませんが、チャットパーディヤーヤ博士は、いわ ゆる「教育パパ」でした。一方、母バラダスンダリは、わりと放任主義で、夫の子育て方針に口は出しませんでし たが、ベンガル語の詩人、そして音楽家として当時はそこそこ有名な人でした。こういう両親ですから、当然、子 供達が影響をモロに受けました。かてて加えて、教育者としてハイデラバードの名士となったチャットパーディヤ ーヤ博士の下にはサロンが形成され、有名無名関係なく、学者、政治家、芸術家などがひっきりなしにチャットー パーディヤーヤ邸を訪れていました。 ナイドゥ女史のみならず、チャットパーディヤーヤ家の子供達の幾人かが詩作や政治の道に進んだのは、ひど く当然の事でしょう。 これぞ、バベルの塔のタタリである
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