ジャン・バールその10 ジャン・バール、ついに貴族になる さて、穀物輸送船団の一部とともにダンケルクへ帰投した7月3日、バールは、戦勝を報告する簡単な報告書 を息子フランソワ=コルニルと義弟(Vandermeecheという名前で、おそらく夫人の弟)に持たせてヴェルサイユへ 送り、7月11日には、各艦とそれぞれの艦長の手柄にも触れたやや詳細な報告書を送りました。ジャン・バール 本人はヴェルサイユへ出向いておらず、これは任務が忙しかったからなのか、あるいはコルニルを宮殿デビュー させたかったのかは分かりません(義弟の影は極めて薄いです)。 しかし、二番目の報告書があろうとなかろうと、穀物輸送船団奪回のニュースにヴェルサイユ宮も湧きかえり、 コルニルは、英雄たる父の名代として大歓迎を受けました。バールの意図が何であれ、コルニルには派手な宮 殿デビューとなりました。 海軍大臣ポンシャルトラン伯の計らいによって、コルニルはルイ14世との謁見が許され、鹵獲したデ・フライゼ 少将の将官旗を国王に献じる式典に臨みました。ルイ14世はジャン・バールの功績を大いに称え、直ちにバー ルを貴族に取り立てて、報償として年金2000リーブルを支給するように命じ、さらに戦勝記念のメダルを鋳造し て、戦闘に参加した士官全員に配布するように命じました。ついでにコルニルも昇進することになり、見習士官だ った彼は、王の命令により、直ちに海軍少尉(Enseigne)に進級することになりました(なお、一般の水兵がどのよ うな報償を受けたのかは分かりません)。 その後の式典の中では、コルニルがパレードの最中に転倒したので、それを見たルイ14世が「さすがバール 家の男、歩くよりも船を操る方が得意だな」とギャグを飛ばしたとか、前コンティ公ルイ・アルマン(1661-1685 コ ンティ公家はコンデ公家の分家、つまりブルボン王家の分家でもある名門)の未亡人、マリー・アンヌ・ド・ブルボ ン(1666-1739 ルイ14世と妾ド・ラ・ヴァリエールの間に生まれた娘。なお、コンティ公が若死にしたのは、彼女 から天然痘をもらったせいである)が、本人がその場にいないにも拘わらずジャン・バールの大ファンになって、 国王に花を渡して、「私のため月桂冠をこの花で飾ってね(はぁと)、と艦長さんに頼んでください」(注: かなり意 訳)と言ったとか。 そして1694年8月4日、ルイ14世よりジャン・バールはChevalier(勲爵士)の爵位が与えられ、貴族に列せら れました。ややこしいですが、今回は勲爵士団メンバーの称号ではなく、ホンモノの貴族の爵位です(当時のフォ ルバンと同格です)。最下級ではありますが、ジャン・バールは、名誉あるフランス貴族社会の一員となったのでし た。ダンケルクのしがないコルセール兼漁師の息子から大出世です。ついでに、翌年12月より、2000リーブル の支給も始まりました。 さて、めでたく貴族となったものの、その後しばらく、バールの活躍はパッとしなくなります。94年中にもう一度 バールは出撃し、マース河口でオランダのフリゲート艦と交戦したようですが、戦果等ははっきりしません。ぶっ ちゃけて言えば、封鎖と、それに恐らく予算不足により、ダンケルクから動けなくなったのでした。 この当時の戦況はと言えば、フランスはドイツ、ネーデルラント方面では守勢に回っていましたが、反仏同盟で も弱い国を突き、サヴォイ、カタロニアなど南仏では優位に立っていました。まあ、陸では五分五分と言ったとこ ろです。しかし海での戦いでは、相変わらずコルセールや少数の軍艦による通商破壊作戦は盛んなものの、大 西洋側の制海権は完全に英蘭のものとなっていました。 1694年5月、ラッセル提督率いる英蘭連合艦隊がブレストに威力偵察を行い、フランス艦隊が退去している ことを確認した後、停泊中の商船多数を焼き討ちしました。6月7日(旧暦)には、ブレスト占領を目指して大規模 な上陸作戦が行われましたが、これは大失敗。1000人以上の死傷者と500人近い捕虜を出しました(カマレ湾 の戦い Battle of Camaret)。 しかし、その後も連合艦隊による大西洋岸の港湾都市への攻撃は続き、7月には、ディエップとル・アーブルが 攻撃を受けました。特にル・アーブルへの攻撃は5日連続で行われ、港湾施設が大打撃を受けました。そして9 月にはカレーが攻撃され、9月21日にはダンケルクまでもが砲撃を受けました。 連合艦隊は、一連の沿岸都市の攻撃については、損害の割には効果が少ないと評価していましたが、1695 年にも作戦は行われ、サン・マロ、カレーへの攻撃に続き、8月11日には、再度ダンケルクが攻撃を受けまし た。 ダンケルクを攻撃したのは、バークレー少将(John Berkeley 1663-1697)率いる臼砲艦や火船まで揃えた大 艦隊で、1200発以上の砲弾をダンケルク市街に撃ち込んだと言われます。 海の勇士としては口惜しいことだったに違いありませんが、バールは水兵を下船させて要塞(Bonne Esperance)に移動させ、自身もそこから防戦の指揮を執らざるを得ませんでしたが、奮戦の甲斐あって、フリゲ ート1隻と火船1隻を撃沈したと言うことです。 ジャン・バール、また戦いに勝つ さて、そうこうしている間に月日は流れ、1696年5月、バールに海に出る機会が巡って来ました。この出撃 は、フレッケフィヨルドに集結中の穀物輸送船団の護衛のためとも言われていますが(「The Corsairs of France」より)、その後のバールの行動を見ると、通商破壊作戦が目的だったと思われます。もっとも、相反する 多重任務を課されることは、それほど珍しいことではありませんでしたが。 目的が何であれ、バールに用意されたのは、旗艦「モール」以下、テクセル沖海戦に参加した5隻のフリゲート に、「l'Alcyon (38)」「le Milfort (36)」のフリゲート7隻、小さな私掠船2隻に、偵察用の大型ボート2隻と火船1 隻と言う陣容でした。 例によってこの情報は漏れており、ジャン・バールの出港を阻止すべく、ダンケルクの封鎖線は、ジョン・ベンボ ー少将率いる英蘭連合艦隊によって増強されました。 しかし、悪天候だったとも、霧にまぎれたとも言われていますが、これまた例によってバールは、気象と夜の闇 を利用して、しかも、わざと風向きが悪い方へ進むことでベンボーの予想の裏をかき、封鎖線をすりぬけることに 成功しました。
そして出港して数日後、デンマークの商船に遭遇して、フランス商船の待ち伏せか、はたまた帰港が近づいてい たバルト海帰りの商船隊の援護のためなのか、オランダの艦隊がクリスタニア(現オスロ)沖で待機中との情報を 得ました。 ジャン・バールはこれを攻撃することにして北上していると、6月17日(旧暦では7日)の夕刻、南南西およそ6マ イル離れたところに、5隻のフリゲートに護衛されたバルト海帰りのオランダの大コンボイ(商船75-112隻)を視認 しました。 バールは、このコンボイを攻撃することにしました。凄く行き当たりばったりの判断な気がしますが、商船を襲う のはコルセールの本能なのでしょう。バールは直ちに「モール」に艦長達を集めると、短い演説の後に戦闘計画 を説明しました。そして「モール」以下5隻は護衛艦を攻撃することにして、「Alcyon」と「Milford」および小型船に は、必要とあれば戦闘を支援出来るようにと待機を命じました。 オランダ側の戦力は、指揮艦「Raadhuis te Haarlem (40-44, Raadhuis van Haarlem, Stadhuys van Haerlem とも。いずれも 「ハーレム市」号くらいの意味)」と、24門から36門程度の砲を備えたフリゲート艦が4隻。名前が判明している艦と、16 96年にフランスによって失われたフリゲート(Sailing warshipsより)の所属がいずれもアムステルダム司令部で あることから、この部隊はアムステルダムの指揮下で行動していたと思われます。 この時バールの戦隊は、軍艦の数でもオランダ側に勝っており、砲40門以上の艦が中心なので、火力も勝っ ていました。オランダのコンボイは分散して、逃走しはじめます。 戦闘は夜7時ごろから始まりました。バールは、砲戦を続けることは避けて切り込み戦闘に持ち込むように命じ ており、戦隊は風上側から迅速に接近しました。 バールは「Raadhuis te Haarlem」を狙います。「Raadhuis te Haarlem」は切り込まれるのを避けようと、風上 側に退避しますが、商船と衝突してしまったので、この隙に「モール」は切り込みに成功しました。そして激しい戦 闘の末、「Raadhuis te Haarlem」は、護衛隊の指揮官でもあったRutger Bucking艦長を含む50人の死者を出し て降伏しました。他のフランス艦も敵艦を撃ち破り、「Mignon」が大破する損害があったものの、3時間後には全 てのオランダ艦を拿捕しました。他の艦は商船団を追跡して、船団が分散する前に25隻の商船を捕獲します。 かくして、この「ドッガーバンクの戦い Bataille du Dogger Bank」は、ジャン・バールの大勝利に終わりました。 オランダ側はフリゲート5隻、商船25隻を奪われ、艦長二人を含む戦死97、負傷143に加えて多数の捕虜を 出しました。フランス側の損害は、士官3人と水兵27人が戦死、負傷57人で、その内「モール」の損害は戦死1 5、負傷16でした。ここまではジャン・バール、またしても大戦果を挙げる!! だったのですが、しかし、そんなに上 手くコトは運びませんでした。 先ずバールは、士官の捕虜から、戦列艦も含むオランダの大艦隊がコンボイの後を追っていることを知らされ ました。その後、回航要員の配置やら捕虜の収容やら、応急修理やらで大慌ての数時間が過ぎましたが、そうこ うしているうちに見張りが、風下側の水平線上に十数隻分のマストを発見しました。これは、ベンボー提督のイギ リス艦隊だとする資料もあるのですが、接近してきた方向と捕虜の証言から、オランダ艦隊であるとの説の方が 有力です。 この報告を受け、バールは厳しい判断を迫られました。この時バールの戦隊は、「Mignon」が舵を破壊されて いた上に、回航員のために人手は減っており、多数の捕虜(1200人?) をも抱え込んでいました。 バールは戦える状況では無いと判断し、戦闘を回避して逃走することしました。彼は再び、「モール」に艦長達 を集めると、一隻を除く拿捕した艦船全てに火をかけるように命じました(実行に当たっては、運べる限りの値打 ち物を略奪するのは忘れなかった)。そして、士官以外の捕虜は釈放することにして、残した拿捕艦に捕虜を乗 せると、オランダで下級者を下船させてから、ダンケルクに向かうとの誓約に同意したオランダ人士官の指揮に 任せて別れました。 なお、捕虜を釈放したと言う話は、「The Corsairs of France」に書いてあるのですが、同書のこの部分は、バ ールの乗艦の名前すら間違っており、信頼性はやや疑問です(しかし、バールがこの後に取った行動を考える と、納得できる話ではあります)。釈放された艦は「Dent Arend」だと「The Corsairs of France」にはあります が、同時代にこのような名前のオランダ艦は確認できません。諸々の資料から、「Graaf van Solms (34-40)」と 言う艦の可能性が高いと思われます(ただし、この艦はSailing warshipsによると1696年に"Captured, and burnt by French"とある)。 まあ、この辺りの話はあまり本質とは関係ない(と思いたい)ので、後々に調査したいと思います。 さて、この時の敵は接近しつつあるオランダ艦隊ばかりではなく、ベンボーのイギリス艦隊も、ダンケルク沖を 離れてバール戦隊を捜索中でした。実際この時、ベンボーの艦隊はかなり近い海域で行動していたし、バール も、ベンボーが自分達を捜索していることは予想していました。 そして、進退窮まったと感じたのか、バールはここで、中立国デンマーク領のノルウェー南部に逃げ込むこと で、追跡から逃れることに成功。そのまま三ヶ月ほど滞在しました(多数の捕虜を抱え込んで中立国に滞在する のは、やや無理があるように思われるので、先述の通り、確かに捕虜の釈放は納得できる話です。しかし捕虜の 数が多く、フリゲート艦「Graaf van Solms」だけで一度に運べたとは考えられないので、実際は何回かに分けて 運んだのかも知れません)。 ベンボー提督は、大敵を取り逃がしたと焦ったようですが、実際のところ、バールが上手く逃げ切ったと見るよ りも、最強のコルセールが、母港から遠く離れた場所に追い払われたと見るべきなのかも知れません。実際、バ ールの戦隊は1696年の夏をノルウェーで過ごさねばなりませんでした。 そうして9月27日(旧暦17日)、ベンボーの艦隊の目をかすめて出港したバールは、ダンケルク目指して帰途に つきました。この直前、英蘭それぞれの東インド会社の船団が、近くの海域を通過していました(バールがこの船 団についての情報を得ていたかは不明)。厳重に護衛された東インド会社船団への攻撃が成功した可能性は、 けっこうビミョーだと思うのですが、一般にこれは「惜しい」と評されています。 しかし29日朝、ダンケルクまであと30マイルと言う地点で、バールの戦隊はついに、14隻からなるベンボー の艦隊に追いつかれました。あまつさえ、イギリス艦隊の別働隊6隻が、ダンケルクの進路を遮断しようと前方に 立ちふさがります。そして「Conte」「Mignon」および小型艦「Tigre」が追いつかれて砲撃を受け、ピンチになりまし た。ここでバールは、思い切って北北西に向かい、ダンケルクから遠ざかって広い外海で追撃を振り切ろうとしま す。この策は成功し、9月30日夜、追跡を振り切った戦隊は、無事にダンケルクに入港することが出来ました。 そしてバールの戦隊は、そのまま越冬に入りました。 翌1697年、バールはこれまでの功績を称えられ、海軍少将(Chef d'escadre 英海軍のRear Admiralに相当) に昇進し、前任者の死去に伴って、4月1日付けでフランドル地区司令官(Chef d'escadre des Flandres)に任命 されました。これは読んで字の如く、フランドル地区(当然ダンケルクも含まれる)に基地を置く軍艦と私掠船を指 揮する役職です。 とは言え、せっかくの昇進でしたが時は1697年、戦争の終わりが見え始めており、もうバールの活躍の場は 残っていませんでした。 戦局は、フランスにとって五分五分と言う感じでしたが、財政はもはや破綻寸前でした。庶民への重税は当たり 前で、貴族や金持ちから半強制的に寄進させたり、有名無実な官職や称号を作って売りに出したりと言う涙ぐま しい努力も、もう限界でした(こうした金欠も、利益の上がる通商破壊を重視する要因でした)。こうした財政事情 と、スペイン王位継承問題へ力を注ぎたいルイ14世の意向もあったと言われていますが、「その6」でも触れたよ うに、1697年9月20日、オランダのライスワイクで講和条約が締結され、大同盟戦争は終結しました。 ジャン・バールの活躍はと言うと、講和の直前、ダンケルクの軍艦/私掠船合同の14隻を指揮して、アイルラン ドからオステンデへ向かっていたコンボイを捕獲し、羊毛、皮革および牛の積荷で最後の戦果をあげたと言われ ています(Naval review Vol.74 1986 p.381)。 なお、大同盟戦争全期間を通じて、ダンケルクの私掠船に支払われた拿捕賞金は17,533,697リーブルに達し たということです(前掲書)。 ただ、別の資料には、バールは9月に、ポーランド・リトアニア連合国(Polish-Lithuanian Commonwealth)の 国王選挙に立候補したフランスの王族、コンティ王子をダンチヒまで護送する任務についていて、これがChef d' escadreとしての唯一の作戦行動であるとされています。どちらにせよ、戦争が終わると、バールは海軍を休職 扱いになり、陸に上がることになりました。 ちなみに、この年のポーランド国王選挙では、和平努力の一環として、ルイ14世がウィリアム1世のイングラン ド王位を承認する一方で、その代わりにジェームズ二世をポーランド国王(ポーランド王国はカソリックです)にし て、とにかく王位に復帰させようと言う話がありました。これは、それなりに実現の可能性もあったのですが、ジェ ームズ二世本人が拒絶したため、話は流れました。もう一つちなみに、この時に国王に選出されたのは、ザクセ ン選帝侯フリードリッヒ・アウグスト(1670-1733 プロテスタントだったが、立候補のためカソリックに改宗した)。 その大力で馬の蹄鉄をへし折る一発芸が得意な王様で、どマイナーなネタで恐縮ですが、大どろぼうホッツェン ブロッツで有名な、プロイスラーの「クラバート(偕成社刊)」で、親方にコケにされていた人です。 ジャン・バール、あっけない最期 大同盟戦争終結による平和は長くは続きませんでした。1700年11月、スペイン国王カルロス二世は、姉の 息子でルイ14世の孫であるアンジュー公フィリップ(スペイン国王フェリペ5世 1683-1746)を後継者に指名して 崩御。これには当然、ハプスブルグ家としてオーストリアが異を唱え、ウィレム三世もまた当然、フランスの影響 力拡大を快く思うはずはなく、英蘭もこの王位継承に異を唱えます。スペイン国内でも、フランスの息のかかった 国王の即位に異論出まくりでした。かくして1701年、世に言うスペイン継承戦争(1701-1714)が始まりました。 当然の如く、ジャン・バールは海軍少将として軍務に復帰。またぞろ、ダンケルクを拠点として通商破壊作戦に 従事することになりますが、そのための部隊編成に当たっている時に肋膜炎に倒れ、1702年4月27日に死去 しました。享年51歳(1651年生まれとして)。 バールは精力的に作業に当たっていましたが、過労で(事務作業とは慣れない人にはストレスフルです)体調を 崩し、それでも嵐の日に艦の様子を調べに行って、風邪をこじらせたのが原因だと言われています。 さて、スペイン継承戦争でもフランスの私掠船は大活躍し、ダンケルクのコルセール達は勇名を馳せましたが、 誤解を承知で敢えて言うと、結局はそれだけのことでした。 通商破壊作戦とは、それほど簡単なことではないし、効果の方も、この時代ではそれだけで勝てると言うもので もありません。フランスの主敵であるイギリスとオランダ(この後の時代では専らイギリスになる)は、確かに海外 貿易が国富に多くを占めていました。しかし、食糧や燃料を輸入に頼る20世紀のイギリスとは違い、当時のイギ リスは穀物の輸出国であり、オランダもドイツと地続きでした。つまり、いかに海上交通線を遮断しても、死命を 制するまでには至らないのです(逆に、テクセル島でのバールの活躍が無ければ、フランスの方が干上がってい たでしょう)。 通商破壊による貿易上の損害は、相手国に厭戦気分を広げることはできますが、それは決定的な軍事的勝利 に代わるものではありません。また確かに、私掠船によって敵海軍力の分散を図ることはできるし、事実、英蘭 海軍は通商路保護のために分散しました。しかしフランスには、その隙を突く戦略、戦意を欠いており、後には戦 力すら欠くようになります。これは国王や大臣達の方針もあるので、決してフランス海軍ばかりの責任ではないの ですが、その宿病である積極性の欠如、及び腰の戦いが、英海軍と対決した場合の勝利も難しくしていました。 もしジャン・バールが、提督としてこの戦争に参加していれば、彼の見敵必殺(と言うよりも、収入にダイレクトに 響くため、獲物は決して逃がさない)なコルセール流の戦いが、フランス海軍に新風を吹き込んだ可能性はありま す。 もっとも、バール本人は艦隊勤務よりも私掠船稼業の方を好んでいたので、この戦争でも通商破壊に活躍する ばかりで、結局は何も変わらなかった可能性の方が高いと思われます。だからと言って、バールが悪いわけでは ありません。彼は芯からのコルセールなのであり、自らの本分を尽くしました。海軍戦略は別の人間の責任で す。 なんであれジャン・バールは、生涯を通じて捕まえた船は大小100隻以上、破壊した船も100隻以上という大戦 果をあげ、その卓越した技量と勇気によってフランスのために戦いました。50歳過ぎというやや早めの死を迎え ましたが、その後も彼は、英雄としてフランス人とフランス海軍軍人の心の中に生き続けました。 1845年、ダンケルク市はバールの事績を記念して、有名な彫刻家、ダビッド・ダンジェ(David d'Angers 1788 -1856)の手になるジャン・バールの銅像を建立しました。この像は今も、ダンケルク市のシンボル的存在です。 その他に、バールの名を冠した地名や、軍艦(現在もカサール級フリゲート 「D615 Jean Bart」がフランス海軍 に就役中です)があり、今日でもフランスでその名は偲ばれています。
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