アニー・ベサントその10 ベサント 大人気となる さて、インドの独立闘争と言えば、つとに"マハトマ"ガンジー(Mohandas Karamchand "Mahatma" Gandhi 1869-1848)、初代首相のネルー(Pandit Jawaharlal Nehru 1889-1964)、それにチャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose 1897-1945)が有名です(ボースの場合、彼がインドの為を思って活動したことは間違いないので すが、実際のところ、極左のボースが権力の座についていれば、スターリン時代のソ連さながらの大殺戮が行わ れた可能性があります)。その中でもガンジーとネルーの一派は、大多数のインド人の支持を集め、インド独立運 動の主導権を持ち続けました。 しかし、その「大多数のインド人」は、いきなり沸いて出てきたわけではありません。ガンジーは1915年まで、 南アフリカ連邦において人種差別と戦っていました。ですから当然、それ以前に、インドの民衆の間に、インドの ための政治運動に参加する気運を盛り上げていたリーダー達が居るわけで、そのリーダーとは、暴力主義から 卒業したティラク、そしてアニー・ベサント博士でした。 日本の歴史教科書では、ティラクの名前は言及されても、ベサントの名前が言及されることはありません。イギ リス人であるベサントが(本人はイギリス人であることを否定するでしょうけど)、植民地インドの独立闘争に関わ っていたという事実は、左右両方の人々の持論に都合が悪いからであろう、と言うのは僕の邪推でしょうか? また、イギリスでも無視されているケースがあります。リチャード・アッテンポロー監督の映画「ガンジー(1982 年)」では、ベサント博士は影も形も出てきません。まあ、リチャード・アッテンポローという人は、かなり偏った視 点から映画を作る人ですから、当然と言えば当然ですが。勿論、インドの独立運動だからインド人だけによるショ ーで無ければならない、との考えも理解は出来ます(賛成はしませんが)。神智学協会会長と言う事で、「あっちの 世界」だけの人と誤解されて、敬遠されているのかも知れません(その点、国民会議派の創始者ヒュームも確か にあっちの人で、教科書にも出ません)。 さて、教育活動を通じて、ベサントは、インドのエリート層が抱く不満を理解しました。また、インドを自らの祖国 と定めたベサントは、当然ながら、英国のインド統治に対しても戦いを挑みました。そして、教育活動を通じての 経験と、 1913年から、ベサントは、インドにおける政治的闘争に踏み込んでいきます。彼女は先ず、週間新聞「The Commoneweal (公共の福祉)」を1914年1月に発刊します。次に、神智学協会を通じて日刊紙「マドラス・スタン ダード」を買収すると、1914年8月、「新しいインド New India」と名前を代えて、神智学協会の政治的機関紙と しました。なんと言うか、当時の神智学協会は、創価学会に似ていなくもありません。 ベサントは、「鉄は熱いうちに打てStrike the iron while it is hot」ではなく、「ぶったたいて熱くしろ Make it hot by striking」をモットーに(『A short biography of Annie Besant』より)、政庁批判を展開しました。そして、 ティラクの「ケーサリー」を代表格として、インド人の新聞が暴力的な主張を掲載してしばしば処分を受けるのに 対して、「New India」は、冷静な論調で政策を批判しました。イギリスでは当然のことですが、どうやら、ベサント 登場前のインドのジャーナリズムにはこの簡単な事が出来なかったらしいです。ただ、ベサントは「インドのため になれば何でも良い」と、治安対策や衛生対策、農業政策などでは、インド政庁を支持する記事も掲載しました。 そしてベサントはインド国民会議にも参加します。当時のインド国民会議は、前述のとおり、イギリスべったりの 親英派(←この人々に比べれば、イギリス人官僚の方がまだ政庁に批判的でした)と、ティラクを初めとする過激 派に分裂していました。 思い切り簡単に言ってしまえば、ティラクら過激派が唱える「スワラージ」とは、かなりアナーキズムも入った手 段選ばずの強引な主張であり、穏健派の方は反対に、イギリス政府が自治権をくれるまでいつまでも待つという 雰囲気だったのです。当然、インド国民会議は沈滞しきっていて、具体的な行動が何も取れない状態でした。 ベサントは、両者の溝を埋めようと考えました。そして、アイルランドの自治運動を手本として、憲政的手段のみ を用いて自治権を獲得する運動を考えます。1915年のインド国民会議でベサントは、「インドは何を求めている かWhat does India want?」とのアピールを行い、自身の目標とするところを明確にしました。そして、こうした「明 確な目標」こそが、当時のインド国民会議に欠けていたものでした。 「インドは何を求めているか? What does India want? イギリス人がイングランドで自由であるように、インドが自由であること。 To be free in India, as the Englishman is free in England; インド人自身による自由な選挙によって選ばれたインド人によって統治されること。 To be governed by her own men, freely elected by herself; インド人の意志で内閣を編成すること。 To make and break ministries at her will; インド人志願兵による独自の陸海軍の編成して、武装すること。 To carry arms, to have own army, her own navy, her own volunteers; インド人独自に徴税し、独自に予算を編成すること。 To levy her own taxes, to make her own budgets; 国民を自ら教育すること。 To educate her own people; 自身の土地を灌漑し、鉱物を採掘し、貨幣を鋳造すること。 To irrigate her own lands, to mine her own ores, to mint her own coins; 大英帝国の威光の下、その領域内では主権国家でありつつ、インド人を帝国議会に送ること。 To be a Sovereign Nation within her own borders owing the Paramount Power of the Imperial Crown, and sending her sons to the Imperial Council; 英国とインドは手を携えあう。しかし、インドはその権利として自由である。 Britain and India hand in hand, but an India free as is her Right. 」 (「A Short biography of Annie Besant」 より) ベサントを積極的に支持したのは、ティラクら過激派であり、ベサントとティラクは、共同で自治権獲得運動を推 進することにしました。ティラクは6年のムショ暮らしから解放されたばかりだったので、さすがに反省していたの か、彼もまたベサントと同様に、穏健派との溝を埋めようと考えていたのです。 ただ、この時にベサントが宣言したインドの理想像の中では、インドの完全独立は決して考えておらず、インド は主権国家として大英帝国のメンバーにとどまると明確に宣言されています。大英帝国の統治下にあると言うこ とは、それほど悪いことではなかったのです。 ティラクとベサントは、第一次大戦が終わった後の自治を求めて、先ずは別々に「自治連盟(Home Rule League)」を組織しました。ティラクは1915年12月、プーナで自治連盟を組織し、ベサントは1916年9月に、ア ディヤールで自治連盟を旗揚げしました。それぞれの設立時期が示すように、ティラクはあんまり準備しておら ず、ベサントは十分な時間をかけたのが分かります。 ティラクの組織の活動は、ボンベイ近辺と中央州に限られていましたし、大きな支持も得られませんでした。ティ ラクは以前から「スワラージ」を訴えていたのですが、まあ、暴力主義者が急にマトモなことを言い出しても、なか なか人はついてきてくれません。一方、ベサントの自治連盟は、神智学協会のネットワークの助けも借りてインド 全土に支部を設け、新聞「New India」で盛んに宣伝してまわり、全インドで多大な支持を得ました。もっとも、この 二つの組織は統合されるので、どっちでも良いのですけど。 そして、これがインド現代史におけるベサントの功績ですが、「自治連盟」は、実質的な活動は年末四日間だけ のインド国民会議や、まだ御用団体の体制を引きずっていたムスリム連盟と違い、体制の変化を求めて常時活 動する、インド人による最初の政治団体として設立されたということです(ベサント本人はインド人のつもりです)。 次に、ベサントは、大衆レベルでの政治運動を形成したという点にも注目すべきです。インド国民会議もムスリム 連盟もエリートの集まりであり、ベサントの登場まで、インドの政治闘争は、一般市民の世論とは全くかけ離れた ところで行われていました。ぶっちゃけインドの大衆には、誰が支配者でも良かったわけです。しかし自治連盟 は、都市部の市民を中心とするインドの一般市民にも、インドの自治を求める世論を盛り上げることに成功した のでした。ガンジーの運動も、自治連盟の延長線上にある、と言えば言いすぎでしょうか? ティラクは1916年に全国ツアーを行い、そのスピーチのなかで、 「スワラージ(自治)は私の生得の権利で、私はそれを獲得する」と呼びかけました。彼は、自治権の獲得を通して こそ、インドの政治的な宿唖とインド人民の不満を癒せると主張し、戦争にも最大限の協力が出来ると訴えて、 自分の二つの新聞でも自治権のアイデアを宣伝しました。ベサントもまた、全インドを講演して回り、「New India」 で盛んに自治運動を宣伝して、自治に賛成する大衆的熱狂を作り出すことに成功しました(なお、イスラムのリー ダー、ジンナーもこの時期に同様の運動を展開していますが、盛り上がりませんでした)。 自治運動の盛り上がりに、冷淡だった国民会議の穏健派は態度を改めます。1916年度のインド国民会議で は、自治連盟の主張を受け入れた方針が採択され、イギリス政府はインドに自治権を与えるべき、との決議が採 択されました。 1917年、自治連盟の運動はピークに達しました。インド政庁は自治運動の盛り上がりにパニックを起こし、強 圧的手段で弾圧します。政府は、インド防衛法を政治活動の抑制に適用し、大学生(ベサントの影響大)は、自治 連盟の集会に参加することを禁じられました。ティラクは煽動罪で起訴されたあげく、パンジャブ州とデリーへの 入域を禁止されました。 ベサントもまた1916年、ボンベイ行政区と中央州から追放され、域内への立ち入り禁止を命じられました。そ して1917年6月、マドラスでついに扇動罪で逮捕され、自宅軟禁となります。 ティラクの場合と違って、ベサント逮捕のニュースは、インドに大きな衝撃を与えました。ガンジーやネルーも含 めたインド人の政治指導者達は、団結してベサントの釈放を要求します。インド国民会議とムスリム連盟も、共同 でベサント釈放のための抗議運動を開始して、南インドを中心に、インド各地でベサント逮捕に抗議し、釈放を求 めるデモや集会が行われます。 この運動の盛り上がりに、イギリス政府も政策転換を余儀なくされ、1917年8月20日、インド担当大臣モンタ ギュー卿は、下院議会で、インド人の政府機関への登用を増やし、徐々にインドに自治政府を設立する旨を宣言 しました。ただ、この宣言の中では、自治政府への移行のタイミングはイギリス政府が決定するという点が強調さ れていましたが、とりあえず、自治政府設立が約束されたため、とにかくとりあえず、ヒンズー教徒は満足しまし た。 しかし、イスラム教徒は、自治政府が成立すれば少数派のイスラム教徒の立場が脅かされる、と反発して、そ れ以来、急速にヒンズーとイスラムの関係は悪化していきます。ラクノー協定は?とか、ベサントのめたにムスリ ム連盟とインド国民会議が手を組んだのはなんのため?と言うツッコミは当然ですが、宗教対立とはこういうもの です。 ベサントは10月に釈放されました。拘束されている間も、庭にインドの三色旗を掲げ、抵抗の意志を示し続け たベサントには、全国的に人気が集中しました。そして、1917年のインド国民会議で、ベサントは議長に選任さ れました(冒頭の演説では、日露戦争での日本の勝利を引き合いに出しました)。 ここでベサントは、歴代の国民会議議長では初めて国民会議議長のオフィスを設置し、議長の肩書きで年間を 通して活動した最初の人物となりました。国民会議議長と言っても、本来のところは単なる司会役だったので、か なり越権行為の気もしなくはありませんが、後に続いた議長達もベサントに倣うようになり、政党の党首としての 役割を果たすようになります。
ベサント 不人気になる 1917年から約二年間、ティラクと並んでベサントは、間違いなく自由を求めるインド人達のリーダー、いや、大 ボスでした。しかし、この後で起こった事件は、インドの歴史の流れを象徴しています。 まずベサントは、インド国民会議の最後のイギリス人議長でした。イギリス人と言われれば、「わたしゃインド人 じゃ!」もしくは「アイルランド人じゃ!」とベサントは怒るでしょうが、とにかく最後のヨーロッパ生まれのインド国 民会議議長でした。そして、自治連盟は支持を失い、ガンジーにリーダーシップが移っていきます。 さて1918年、第一次大戦は終わりました。戦争が終わっても、インド人が期待したほどの速度で自治政府の 設立は進行しませんでしたが、それでも1919年末、新しいインド統治法が成立し、行政参事会へのインド人定 員の増員、一部の州を除いてイギリス人知事を廃止して地方行政をインド人大臣へ移管し、地方選挙を実施(た だし、選挙権は財産を基準に制限されていた)、教育、衛生、農業政策、警察権などを州政府の管轄とする等の 改革が行われることになります。 ついでに言うと、現代のインドでは、文盲の多さのために、候補者をイラストで示す投票用紙が使われますが、 イラスト付き投票用紙はこの頃から使われるようになりまし。投票権の基準は財産ですから、つまり、そこそこ裕 福であっても字が読めない人が多かったのです(さすがのベサントも、識字率の低さから、制限の無い選挙権は まだ無理と考えていました。女性の参政権は強く主張していましたが)。 しかし1920年、インド国民会議はこの新しいインド統治法を拒否しました。何故かと言うと、1919年に、イン ドと大英帝国の対立が決定的となったからです。ベサントの大衆的人気は急落し、ティラクも1920年にマラリア で急死。以後、インド政界は、イギリスからの完全独立を目指すガンジー一派が主導権を握ることになります。 新インド統治法による改革が実行に移される前の1919年1月、サー・シドニー・ローラットが指揮する治安委 員会の調査によって、インドにおける革命謀議の存在が明らかとなり、イギリス政府は、革命運動を取り締まる 非常大権をインド政庁に認める、「ローラット法」を制定しました。1919年3月に採択されたこの法律は、破壊活 動の容疑者を礼状無しで拘束することや、陪審員に対する脅迫を防止するため、陪審制によらない裁判を認め るものでした。 実際のところ、ローラット法の制定には、ある意味仕方が無い面もありました。しかし、この抑圧的な法律への 反発は激しく、自治が進行しないことも加わって、インドの情勢は不穏なものになります。 ガンジーはローラット法に抗議し、3月30日と4月6日の二回、非暴力主義(ahimsa)によるストライキを訴えま した。しかし、この頃のガンジーの影響力は大したものではありませんでした。すぐに各地で暴動が発生し、デリ ーでは鉄道駅が襲撃されて8人が死亡しました。4月6日、パンジャブでは叛乱を呼びかけが行われ、さらに、ア フガニスタンにも支援を求める使者が送られました(この一ヵ月後、アフガニスタン王国軍がインドに侵入します。 小国が大国に侵略する戦争です)。 そして4月8日から12日まで、アムリットサルを中心としてパンジャブ州(ドイツ帝国の支援を受けたテロ組織 「ガダル党」の中心地だった)で大暴動が発生し、政府機関の建物は勿論、鉄道駅、電信電話センター、銀行、イ ギリス国教の教会、キリスト教系の学校が襲撃されて、ここでも十数人のイギリス人が殺害されます。 これらの暴動の背景は、イマイチはっきりしないのですが、明らかに組織的に要所が襲撃されていたし、外国と の通牒もありました。つまるところ、ローラット委員会が報告したように、暴力的な革命運動はやはり実在した、と 言うしかありません(ぶっちゃけガダルがその正体でしょう)。歴史の教科書では、ローラット法への反発から来た 民衆の抗議運動、と言うことになってはいますが、事実は逆の可能性もあります。ガンジーは、自分の呼びかけ が暴動を招いたと嘆きましたが、ガンジーのアピールとは別に、蜂起を呼びかけるビラも出回っていたのです。 しかし4月13日、パンジャブ州の中心都市アムリットサルでは、不穏な状況にも関わらず、ジャリアンワラ・バ ーグ広場(Jallianwala Bagh)で、非武装の平和的なローラット法に対する抗議集会が開かれました。前日に集会 の禁止が通達されていましたが、参加者に禁令が周知されていたかどうかは不明です。そして集会の最中、レジ ナルド・ダイアー准将率いるインド軍一個小隊50人(グルカ兵およびシーク教徒)が広場に乱入して、集会に参加 していた群集を銃撃しました。 リチャード・アッテンポロー監督の映画「ガンジー」では、エドワード・フォックス演じるダイアー将軍が、警告無し でいきなり射撃を命じていますが、事実もまさしくその通りでした。 銃撃はおよそ10分から15分間続きました。また、広場には出口が二箇所しかなく、広い方は兵士が塞いでい たので、もう一つの狭い出口に脱出しようとする人々が殺到したため、すさまじい惨劇となります。公式報告では 1500人以上が死傷しました。 同日、パンジャブ州には戒厳令が施行され、また虐殺事件のショックもあって、とりあえず暴動は収束に向かい ますが、インド人の対英感情は最悪になりました。自治論者の多くもまた、元の過激派に戻ってしまいます。 そして、この「ジャリアンワラ・バーグの虐殺」事件への反発が、インド統治法を拒否させ、インドを完全独立の 方向に決定付けました。
パンジャブ暴動の後、ベサントの人気は急降下しました。これは、ガンジーの影響力増大と共に、ベサントの性 格によるものでした。 反ローラット法暴動に際し、ベサントは、治安回復のための一連のインド政庁の行動を支持し、政庁は治安の 回復を最優先すべきだと主張しました。 元々暴力的な行動を嫌っていたことに加えて、アニー・ベサント博士は、「インドのためになればそれで良い」と の考え方であり、政庁が間違っていれば政庁を批判しますが、政庁が正しい行動をしていると考えれば、その行 動を支持し続けていました。 この点に関しては、ボンベイ知事時代にベサントを追放したウィリントン伯爵(The Earl of Willingdon 1931- 1936はインド総督)は、1924年の退任に際してベサントに書いた手紙で、 「あなた(ベサント)と初めてここで会った時のことを、私は決して忘れないだろう。あなたはあの出来事(追放にし たこと)についてこう言った。『私達はなんの遺恨も抱いていません』と。確かにあなたは遺恨を抱いていなかっ た。だから、そのことに対して私は心から感謝しています。あなたは、私のやり方が間違っていると考えれば私を 非難したが、私の方が正しいと考えた時はいつも、私を支援して下さった。もし、その謙虚な人柄が全ての新聞 編集者に等しく当てはまるならば、私の人生はもっと楽になるでしょうに。」 と、ベサントの公正さを称えています。 一連の暴動の場合、ローラット法への反感を考慮し、かつ革命運動など存在しなかったと仮定しても、当のイン ド人の財産も保管されている銀行や、当のインド人も利用している鉄道駅を破壊したところで、インドの民衆には 何の益もないです。そして、治安を回復しようとする政府の措置は正しいものなのでした。しかし、民衆にはこれ が理解されなかったのです。モノの本によっては「政庁の弾圧策を支持した」とか書いてあったりしますが、暴徒 の鎮圧は普通、弾圧とは言いません。 まあ、正義を貫くということは、必ずしも人気上々とは行かないものです。そしてさらに、これは全くベサントの責 任ではないのですが、ベサントが治安部隊投入を支持した後に、まさしく「弾圧」であるジャリンワラ・バーク事件 が発生しました。勿論ベサントは、ダイアーの行為を容認していません。しかし、この事件のタイミングが、ベサン トの人気に致命傷を与えてしまいます。その上、翌20年8月には、盟友ティラクがマラリアで亡くなってしまい、民 衆の支持は勿論、若い政治的指導者達も、ガンジーの下に集まるようになりました。 さて、ベサントとガンジーは対立しました。これに関しては、大英帝国内での自治領たることを求めるベサント と、完全独立を求めるガンジーとの考え方の違いだと説明されることが多いです。 実際ベサントは、常にイギリス-インドの「連邦 Commonwealth」を提唱しており、英国には寛容を、インド人に は自尊心を要求していました。また1921年には、主に反ガンジーのリーダー達を集めて(と言うか、それ以外は 集まらなかった)、「全国会議 National Convention」を主催し、大英帝国の中でのインド自治領設立を目指す法 案の作成を行っています。この「インド連邦法案 Commonwealth of India Bill」は、1925年に労働党を通じて イギリスの議会に提出されましたが、あえなく廃案となりました。 しかし、自治と独立の違いが、ガンジーとの対立の原因の全てではありません。ベサントのポリシーは常に「イ ンドのため」であり、インドのためになりさえすれば、自治領でも独立でも良かったのです。実際、晩年のベサント は、インドの完全独立に傾いていたらしいです。 ベサントとガンジーの対立点は、まずその政治手法の違いでした。 ガンジーが大衆動員型の運動を展開したのに対し、ベサントは、こうした大衆運動型の政治運動に協力する気 がありませんでした。ジナラジャダーサ氏のベサント伝によると、彼女は、ローラット暴動の経験から、こうした大 衆運動が、ちょっとした拍子で暴動になったり(実際に、ガンジー指導下でも何度かそうなった)、官憲の攻撃に曝 されて多数の人命が失われる事態になる事(さすがにダイアーみたいなのはもういなかった)を恐れたのです。 なんと言うか、自治連盟の創設者で、市民運動のさきがけのこの人が言うのも何か、という気がしますが、私見 ながら、ベサントはパンジャブ暴動で責任を感じていたのだと思います。セポイの乱は別として、これ以前、インド の暴力沙汰といえば、少数のキチピーさんによるテロリズムがほとんどだったのに、初めて組織的な暴動と言う 事態に直面した時、ベサントは、自治運動を通じて盛り上げた大衆運動の結果がこれだ、と考えたのではないで しょうか? そうであれば、ベサントの後悔は激しかったでしょう。 また、当時のニュース映像や、映画「ガンジー」の製塩所の場面にあるように、無抵抗の市民が警官にぼこぼ こ殴られるのを見ていると、人々にそのような姿勢を徹底させるガンジーの偉大さや、インド人達の自由を求め る情熱への敬意とは別に、やはり、運動の手法に何か違和感を感じてしまいます。 次に問題になったのは、ネルーを初めとして、ガンジーの周囲に集まった人々が概して社会主義者だったとい うことです。社会主義者だったクセに、と言うべきか、それとも社会主義者だったからこそ、と言うべきか、ベサン トは、社会主義の思想がインドの将来に有益だと考えてなかったらしいのです。 しかし、考え方が合わないからと言って、ベサントとガンジーの仲が悪かったわけではありません。仲が良いと 言うのが正しいかどうかは分かりませんが、少なくとも、この二人はお互いに尊敬しあっていました。 ベサントは、ガンジーこそ聖者である(要するに「マスター」)と考えていたようです。ガンジーの仇名である「マハ トマ(偉大なる魂)」とは、一般には、ノーベル賞詩人のタゴール(Abanindranath Tagore 1871-1951)が1915年 に奉ったものだと言われていますが、実はベサントがつけたという説もあります。「マハトマ」とはモロに神智学の 用語ですから、可能性は大いにあります(もっとも、タゴールも神智学の影響を受けていたらしいです)。 ガンジーもまた、南ア以来の、ベサントへの尊敬の念は忘れませんでした。ガンジーが議長を務めた1924年 のインド国民会議では、遠路の旅で遅刻したベサントが入場してきた時、ガンジーは真っ先に起立し、議事進行 を中断させてまで、敬意をもってベサントを迎え入れたと言います。 ただ、他人の意見に影響され易いベサント博士が、ガンジーにあまり影響されなかったと言う事実は、この二人 が、お互いに相容れないタイプであった可能性を示しています。無趣味で、政治と法律以外に関心が無く、どちら かと言うと退屈な性格のガンジーと、幅広い学識を持ち、何にでも関心を持つベサント博士との人格的な隔たり は大きかったでしょう。もっとも、さすがのベサント博士も、80歳近くになって性格が固まっただけなのかも知れ ませんが。 他人の影響を受け易いと言われつつ、ベサントは、暴力主義にだけは影響されませんでした。実は、他人の影 響もベサント自身がしっかりと選択していたと考えられます。そして、ガンジーはその選択から外れてしまったの かも知れません。 その後 「私は、他に何よりもインドの人々を愛しています。だから…、私の愛も心も、長い間、母国の変革のために捧げ てきました。 I love the Indian people as I love none other, and... my heart and my mind... have long been laid on the alter of the Motherland.」 (1918年の「Nwe India」紙より) 1924年以降、ベサントは、インド人枠で立法参事会に参加したりもしましたが、高齢のためもあって、政治の 世界から身を引きます。 この後も、まだ黎明期の商業航空路線を使って世界を飛び回りつつ、女性の権利擁護、教育改革、それにイン ドの政治的自由を訴え続けました。最大の情熱を注ぎ込んだのは、クリシュナムルティ氏を押し立てた「世界宗 教」運動でしたが、前述のとおり、1929年に頓挫してしまいます。ただ、これで気落ちしたとしても、ベサント博 士は表には出さず、相変わらず世界を飛び回っていました。しかも、クリシュナムルティ氏の考え方に同調しつつ あった、とも言われており、もう少し長生きしていれば、また新たな境地に立ち至ったかもしれません(笑)。 1933年9月20日、アニー・ベサント博士は、アディヤールで死去しました。遺言に従って、遺骨はヒンズー教 の聖地ベナレス(現バルナシ)に運ばれ、ガンジス河に撒かれました。 ベサントは、「自分の来世はきっとインド人」と信じていました。インド人として転生したことを祈りましょう。ひょっ としたら、「霊的に進化」して、マスターの列に加わり、チベットの山奥で暮らしているかも知れません。ベサント博 士には、その資格は十分にあると思います。 ベサント死去のニュースに、喪に服するためにインドでは株式取引が停止されました。いくつかの都市では地 名が変更され、ムンバイやチェンナイには、現在もベサント・ストリートやベサント・ロードと言った場所がありま す。そして、インド沿岸警備隊には現在、高速巡視船「CGS Annie Besant」(215t)が在籍しており、ベサント博士 の名が偲ばれています。 インド現代史におけるベサント博士の活躍は、無視されがちです。また、多忙の故、単に名前を貸しただけ、と いう運動もあったかも知れず、ここに書いたことは過大評価なのかもしれません。しかし、地名や船名に名が残 っている以上、やはり、それだけの功績があるのでしょう。 知人(右系)とベサントの話をした時、 「だからと言ってイギリスの罪は消えない」 と、いかにも右なバカなことをおっしゃいました。ベサントは、個人の善意で行動したのであり、イギリス政府の 擁護のために働いたのではありません。また、治安維持を支持したことに、「帝国主義的傾向」を見出す左系の 人も居るでしょう。しかし、ベサントは真剣にインドを愛していて、その愛ゆえに、パンジャブ州への治安部隊の投 入を支持したのです。その治安部隊の蛮行までは予期できないものでした。「上級の精霊」はこの時、眠っていた のでしょう(毒)。ヒュームも帝国主義的だと非難されることがありますが、彼ら英国人のインドに対する愛と誠意ま では、否定することは出来ません。 まとめ バーナード・ショーは、ベサントを評してこう書き残しています。 「ベサント夫人は、方針転換の早い人だ。彼女は、自分でも気がつかないうちに、過去の運動や団体を模範とし ている。そして、この人の転換は段階的ではない。彼女はいつも新しい運動に飛び込み、自分の以前の信念が 動揺させているのにも気づかず、びっくりしている聴衆に新しい信念を説く。」 歴史学者で、甲南大学文学部教授の井野瀬久美惠先生は、朝日新聞社刊「100人の20世紀」の中で、「B・シ ョーもたまげる方向転換の速さ」と題して、ベサントについて書いておられます(僕が見つけた、ベサントに関する まとまった唯一の日本語文献です)。その中で「キリスト教、自由思想、社会主義にことごとく背を向けた」とありま す。僕のようなシロウトの門外漢が言うのもなんですが、「カール・マルクスの孫娘とともにマッチ工場『ブライアン ト・アンド・メイ』の7百人の女工のリーダーとなり」など、存在しない孫娘(末の娘であるエレノア・マルクスのことだ としても、ストライキには関与していない)を持ち出していて、あまり信用は置けない内容ですが。 まあ、それはともかく、バーナード・ショーがたまげたからと言って、それが何なのでしょうか?ベサント博士は、 生涯に渡って自分の信じる正義を貫き、様々な原因で苦しむ人々に手を差し伸べ続けました(最後はいささか空 回り気味でしたが)。確かに、思想信条は一貫性がありませんが、そんなことは瑣末事に思えます。この人の人 生には、学ぶところがたくさんあります。「オカルトケミストリー」以外は(笑)。 ただ、到底、真似は出来そうにありません。ま、出来ることからちびちびとやりましょう。「オカルトケミストリー」 類似の活動以外は(笑)。
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