この章では、イギリス空軍第602飛行中隊、通称「グラスゴー市飛行隊」に配属され、親友となるジャック・レムリンゲルとの再開、シュバインフルトへの第二次空襲の護衛、1944年初頭のオークニー諸島への派遣、不時着して死にかけた話、V-1飛行爆弾の発射台への攻撃などが語られている。

生きるべきか、死ぬべきか・・・

 ここ何日か、僕は親友のジャックの心中が穏やかでないのを感じていた。彼の気分のむらといったら、シェークスピア劇かウッドハウス(#1)のコメディのようだった。
 ジャックは美男子で、どんな女性も彼を崇拝しその腕に抱かれたという、伝説的女たらしの俳優タイロン・パワー似(#2)だった。しかし彼は、海軍婦人補助部隊、"sailorettes"と仇名されるロイヤル・ネービーの女性予備部隊に執着していた。
 魅惑的なネイビーブルーの制服、本物か染色かは分からないが、三角帽を乗せたブロンドヘア、そして何よりも、真珠のような美しい肌を覆う黒いストッキングに、ジャックは全く抵抗できなかった(#3)。手短に言うと、ことが上手く運んだのか、ジャックは二ヶ月間、手紙を書く他に才能が無いのかと思われるWREN隊員と情熱的な手紙をやり取りしていた。ラブレターというやつは、疑いも無くロマンスよりも情熱、情欲の類を加熱させる。凍った世界(#4)での二ヶ月の独身生活は長かった。実際のところ、スカパ・フロー基地にはWRENの大きな分遣隊があったのだが、ここは文字通りにも比喩的にも海軍さんによって要塞化されており、僕ら空軍が彼女らと接触するのは不可能だった。
 ある朝、朝食中に嵐が起こった。この時はシェークスピアだった。ちょうど郵便配達人が到着した後だったが、ジャックは顔を赤くして、手紙をぐちゃぐちゃに丸めると投げ捨てた。
「ワハハハッ!何があった?」
 ジャックは歯軋りしながら答えた。そのフラングレイ(#5)から察するに、事態が悪いほうに向かったらしい。
「こいつらみんな尻軽女だ・・・。みんな尻軽女だ!」
  ジャックの説明によれば、彼のスウィートハートであるヴェラ、−相手はもうジャックなど眼中に無く、気にもとめていない−は、ビルマに出征することになっているコマンドス(#6)の少佐になびいており、すぐに結婚するつもりらしい。
「ばかな、ジャック。全てがうまくいくはずは無いんだから、落ち着けよ。これに関しちゃ、君は何も悪くない。」
 僕はこんなことを二度と言いたくない。
「俺はロンドンに行って、ヴェラをコマンドスのサルから助け出す。俺は前から、野郎がヴェラに付きまとっていたのを知っていた(←バカ)。」
「なんだって?僕らはオークニー諸島に居るんだ。世界の果てだぞ。それに、この基地での任務のことを忘れてないか?僕らは海軍に囲まれてるんだぜ。」
「ローヤルネイビーなんて糞食らえだ。俺が興味があるのはヴェラだけだ。考えがある。俺は10時45分のウィック発の列車を捕まえる。そうすれば、夜9時くらいにはロンドンに着く。」
「どうやってそんなことするんだ?ウィックへのフェリーは午前10時発だぞ。列車に乗れるのは明日の朝だぜ。それが分かってるのか?マックスに頼んでみよう。彼は48時間の休暇をくれるだろう。」
「問題外だ、それじゃ遅すぎる。ウィックまで飛行機で行くんだ、それなら可能だ。しかし、さすがに俺にスピットファイアを貸す者は居ないだろう。だから、君がR.A.Bのところに行って、彼の小さな自家用機を貸してくれるように頼んでくれ。」
 神よ!ジャックはヒステリーを起こしているんだ。R.A.B.とは、この基地を指揮している侮りがたい大佐なのだ。僕達は警告されていたが、彼のイニシャルの最初のRとは、狂犬病"rabies"のRだという。とんでもない人物である。彼は爵位を持っており、上級貴族階級のメンバーで、女王の叔父の従兄弟とかなので、ジプシーメジャー・エンジン装備のパーシバル機を、スコットランドへの往復のために所有/使用することを許可されていた。国王は親切にも燃料を融通していたが、その代わりR.A.B.は国王陛下をお乗せするために連絡機の燃料を節約していた。パーシバル機はR.A.B.にとっては非常に大切な物であり、ハンガーの中では、整備士がいつも機体を磨いていた。
「ジャック、気は確かか?R.A.B.は僕をたたき出すだろう。」
「クロ、君の親友のためなんだ、これくらい出来るだろ!(←超バカ)」

 自由フランス空軍司令部からの公信では、僕はジャックよりも二週間早く士官に任命されることになっていた。だから僕は、オウバートン大尉が長期出張の間、もったいなくも「第602 グラスゴー市飛行中隊フランス人分遣隊長」であった。この称号で武装した僕は、用心深くR.A.B.に近づいた。R.A.B.は礼儀正しく僕を迎えてくれた。しかし、僕は自分の要望をR.A.B.に詳しく説明すればするほど−生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ−、彼が僕の厚かましさに呆然としていくのが分かった。そして結局、R.A.B.は脳卒中の発作か、降参するかを選ぶしかなかった。
 飛行機を使う許可を与えられると、僕は敬礼し、完璧な回れ右をすると、呆然として目が飛び出しそうなR.A.B.を残して部屋を出た。
 R.A.B.が気を変えないうちにと、僕はパーシバル機を持ち出し、燃料量をチェックして、飛行経路を設定すると、分度器を持たせたジャックを乗せた。そして、大きな雪溜りの間を抜けてトップスピードで滑走路に出て、離陸した。
 基地からウィックまでは100マイルの旅だったが、ブレーとバーウィックに空襲警報を出したり、大きな海軍基地の対空砲火や阻塞気球を避けるために大きな回り道をしなければならなかった。この旅の間、ペンランド海峡の15マイルなど、何度も海上を飛行しなければならなかった。挙句の果てに、我らがスピットファイアの堂々たるロールス・ロイスエンジンに慣れてしまったので、このおんぼろ飛行機のエンジン音は、バルブがカスタネットで出来ているコーヒー挽きのように頼りなく聞こえた。勿論、僕らはライフジャケットを着込んでいたが、海水温は2−3℃であり、それほど役には立たない。
 ついに、ウィックの家並みとともに海岸線が見えた。ああっ、だがロンドン行きの列車が駅を出て行く!
「インバネスへ行くぞ。俺たちは列車よりも速い。俺はそこで列車を捕まえる。」
 地図を一瞥してみた。神よ、さらに60マイルもある。基地に帰るための燃料が残らない。再補給しなければならない。インバネスに降りると、列車の到着にはまだじゅうぶん時間があったのに、ジャックは脱兎のごとく走り去った。僕は飛行場の民間用燃料ポンプの前に居た。しかしそこでは、誰も僕の配給券を受け入れようとしなかった。僕はグラスゴー飛行中隊の隊員だと説明したが、郷土愛からか、それは連中にとって燃料補給を拒否する格好の理由になった。連中はエディンバラや東海岸出身であり、彼らにとってスコットランド西海岸出身のグラスゴー人など盗賊の群れなのである。続いて押し問答になったが、結局のところ、地元のR.A.Fの連絡士官が僕の説明を受け入れてくれた。
 だが、僕が基地に帰った時、予定時刻を何時間も遅れていた。海上航空救助隊が僕を捜索するために警戒待機していた。R.A.B.は頭をかきむしりながら、出会う誰彼に「あのフランスのバカどもが、俺の飛行機を海に叩き込みやがった!」とわめいていた。僕がその大切な飛行機を無傷で持って帰ってきた時、R.A.Bはあからさまにほっとした様子であり、僕を怒鳴りつけたりはしなかった。その代わり、僕の生還を祝ったりもしなかった。マックスに事の全てを話すと、彼は頭が吹っ飛ぶほど大笑いした。ケン・チャーニーは僕におごってくれさえした。
 ジャックは結局、一週間後に戻ってきたが、その何よりも大切なデートのことは厳重に秘密にしていた。聞いたところによると、彼の到着は破局を防ぐには遅すぎた。しかし、哀れなWREN隊員はそのハンサムな恋人の出征をひどく悲しんでおり、彼女を慰めるのにジャックは四昼夜かかった。

#1Pelham Grenville Wodehous (1881-1975) イギリスのユーモア作家。1951年にアメリカに帰化している
#2 Tyron Power (1913-1958)
 
#3 靴下フェチか?
#4 著者らはスコットランドの北、オークニー諸島に派遣されていた。
#5 英語由来のフランスの外来語。
#6 世界初の特殊部隊である。


ティルピッツ

 12月20日頃、602飛行中隊はRAF司令部から命令を受けた(#1)。いわく、自由フランス空軍所属士官候補生ピエール・クロステルマンは、某日某時にスカパ・フロー基地へ出頭せよ。第一種軍装着用の上、数日分の着替えも持参するように。
 指定されたその時刻、僕は威圧的な姿の空母へ向かうランチに乗っていた。僕はフルサービス付きで豪華な朝食を与えられた。過去二年間、見たことも食べたことも無かった代物だ。「漕ぎ手達」僕は、海軍のことをそう呼んでいたが、彼らの生活ぶりがどのようなものかを知ることが出来た。そして僕は、しばらく広間で待っているように言われた。僕は大いに興味をそそられていた。随行していた士官に聞いてみると、何かびっくりするようなことが待っているらしい。しばらくしてその士官に電話があり、その後で彼は言った。
「着いて来なさい。」
 僕達は雪に覆われた艦橋に上がった。空母の全体が見渡せる。僕が待っていると、突然、海面に低く垂れ込めた霧の中から、神秘的で、威圧的に巨大な戦艦のシルエットが現れた。巨大な灰色の鉄の塊たる堂々とした戦艦が、さながら海中から湧き出たかのように霧の中からゆっくりと姿を現した。僕の傍らでは何人かの海軍士官が微笑んでいて、その一人が僕に言った。
「彼女は美しいじゃないか?」
 彼女は確かに偉大なレディだった。僕は自分の目を信じられなかった。それは戦艦「リシュリュー(#2)」だった。イギリスやアメリカの艦と共に、ムルマンスクへのコンボイを護衛するのだ。このコンボイは、ノルウェーでこそこそ隠れている大きなネズミ、戦艦「ティルピッツ(#3)」への餌付き罠でもあるのだが。「ネルソン(#4)」は戦闘力ではティルピッツに匹敵するが、速度では対抗できない。アメリカ人のフレーザー提督(#5)指揮下の軍艦は、コンボイの近接護衛には十分なものだったが、すばしこくてパワフルな「ティルピッツ」を追跡するのには不向きだった。ただ「リシュリュー」だけが、「ティルピッツ」に匹敵する拳骨と速さを持っていた。また四隻の駆逐艦、ノルウェー亡命政府の「ストルト Stord」も含む、は必要ならば、「ティルピッツ」の速度を低下させようと試みるだろう。ところで僕の役割は何なのだろうか? PQ17船団(#6)がロシアにたどり着く前に、ルフトバッフェとドイツ海軍によって大殺戮を受けた有名な事件の後のことだった。北極の氷原から救出された生存者はほとんど無かった。
 そういうわけで、あんまり気乗りはしなかったのだが、僕は「リシュリュー」に乗艦してロシアへ向かったのである。しかし、僕は非常に感激していた。1930年代の末、フランス海軍は二隻のスーパードレッドノートを建造した。「ジャン・バール」と「リシュリュー」であり、この二隻は米英の同クラスの艦よりも技術的に10年は先行していた(#7)。不幸にも、彼女らは三年の長きにわたってダカールで動けなくなっていた。ダルラン提督とヴィシー政府の祖国への忠誠心の不足と、イギリスに対する憎しみのせいだ。幾多の惨劇の結果として(#8)、「リシュシュー」はアメリカで修理され改装を受けて(元々不足していた対空火器が増強された)、軍艦史上の傑作として戦場に戻ってきたのである。少し遅かったが、気にすることは無い(遅くても、来ないよりは・・・)。その上、士官区画に行くと、僕は熱烈に歓迎された。
「君は自由フランス軍から来たんだって? ド・ゴール将軍と会ったか? 彼を知っているか? 将軍についてどう思う?」
  僕は上級士官達とは話が出来なかった。僕が礼儀正しく乗艦を報告した時、彼らは僕をさながら天然痘もちのように扱った。僕の胸のロレーヌ十字(#9)は、連中に対して、ヴァンパイアに対する十字架と同じ効果があった。艦が出港すると、僕は映画会に招待されたが、上級士官達とは対照的に水兵達からは暖かく歓迎された。
「見ろよ、ド・ゴール将軍の飛行兵だぜ。戦功十字章(#10)とロレーヌ十字をつけてる。ばんざい!」そして、「少尉殿、教えてください。私の従兄弟が・・・」と何度も聞かれた。ここに居る場らしいブルターニュ人達の皆が、自由フランスに兄弟か親戚がいるかのようだった。僕は涙をこぼした。ここには真のフランスがあったのだ。
 三日後、僕はラウドスピーカーで司令塔に呼び出された。僕は案内役に付いて、いくつものエレベーターや階段を通った。艦は巨大であり、気が付くと僕は、氷のように冷たい暴風の中でエッフェル塔の一階のような露天甲板にいた。中央にはテニスの審判員が座るような椅子があり、大きな双眼鏡を胸の前にぶら下げて座っているのは、この艦の支配者、Merveilleux du Vignaux艦長である。僕は片手で帽子を押さえつつ、もう片方の手で敬礼した。その時になって初めて、水兵達の帽子にあご紐が付いている理由が分かった。艦長は僕をちらっと見ると、ふうん、という感じであごをしゃくって敬礼に応えた。
 僕は直ちに、そこにいる人々に大した戦争経験が無いことを見て取った。一人の士官が僕に近づいて来て、高空を飛ぶシルエットを指差しながら英語で尋ねた。
「あれはなんだ?」
 僕は彼の方を見て答えた。
「まず最初に、私はフランス人で、フランス語がしゃべれます。第二に、あれはユンカースJu88爆撃機です。僕の知る限り、あなたもあれはご存知のはずですよ。」
「なに、本当か? あいつは15分以上あそこを飛んでいる。」
 僕は言った。
「そうですか。それなら、あなたはとてつもなく忍耐強いですね。やつは、艦の位置をずっと観察して、ドイツ艦隊に連絡しているのです。」
 僕は彼に、あの飛行機は確かにドイツの偵察機で、連合国の飛行機ではないと請合い、あの飛行機が潜水艦に警報を出し、その結果として、敵は広範な警戒態勢を取っているであろうと付け加えないではいられなかった。そしてパイロットとして、敵の航空魚雷についてはよく知らないとも付け加えた。連中の艦なのだから、心配するのは連中に任せよう。それから僕は気取って艦橋を降り、30フィート下で仲の良い士官とパンチを飲んだ。
 我々は、スウェーデンの北端が見える位置までコンボイを護衛した(#11)。ハインケルIII水上機の魚雷攻撃以外は何事も無かった。僕はどれだけ安堵したことか!そしてスカパ・フローに戻った。僕達は、四隻の駆逐艦、三隻はイギリス海軍で、一隻はノルウェー亡命政府所属、が、ノルウェーのフィヨルドに隠れている「ティルピッツ」を破損させたと聞いた(#12)。入港時、艦橋で僕は尋常でない光景を見た。非常に低速で、ほとんど横に並ぶような感じで四隻の駆逐艦が通り過ぎていったのだが、駆逐艦の上部構造は、文字通りずたずたになっていた。彼らは、ロイヤル・ネービーでももっとも輝かしい武勲の一つを達成したのだ。我々が待ち構えていた「ティルピッツ」は、実際にはUターンして立ち去っていた。偵察機(僕が見たJu88も含む)の警告を受けたのは間違いない。荒海と凍てつく強風の中、これら四隻の駆逐艦は巨大な砲で武装した50,000tの鋼鉄の怪物に突撃して三回の雷撃を行って、それから護衛の駆逐艦に襲いかかった。護衛は戦艦を残して退却したと言う。
 なんて光景だろう!スカパ・フローの100隻以上の艦船が、サイレンや礼砲で四隻の駆逐艦の入港を迎えた。カーキ色のダッフルコートを着た艦長が、艦橋から棺の長い列を見つめていた。この勝利の入港の光景は、人々の記憶に一生残るだろう。

#1 602飛行中隊に配属された後なので、恐らく1943年。12月20日に出港したJW51B船団に同行したのではないかと思われる。
#2 Richleu。フランスの戦艦。基準排水量35000t、速力30ノット、主砲は38cm x 8。艦橋を後ろに寄せ、主砲は全て前部に配置してある。
#3 Tirpitz。ドイツの戦艦。基準排水量41700t、速力30ノット、主砲は長砲身の38cm x 8。同型艦「ビスマルク」がイギリスの巡洋戦艦「フッド」を一撃で撃沈し、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を半殺しにしたため、必要以上に恐れられていた。実際には設計思想が古く、射撃管制装置の能力も高くなく、乗員の訓練も不足していたので、それほど強力な軍艦ではなかったようである。ちなみに、「ビスマルク」も、「プリンス・オブ・ウェールズ」を追い払った後の戦闘では主砲弾を一発も当てていないことから、大戦果はまぐれ当たりという厳しい説もある。
#4 Nelson。イギリスの戦艦。基準排水量33950t、速力23ノット、主砲は40cm x 9。この艦も主砲を前部に配置してある。
#5 原文ママ。前後の文脈から、イギリス海軍のブルース・フレーザー提督だと思われる。
#6 1942年7月4日、「ティルピッツ」出撃の誤報にパニックに陥ったイギリス海軍本部は、護衛艦隊に反転を命じ、輸送船団には分散して各個にムルマンスクに向かうように命じた。護衛に見放された船団は34隻中21隻を失った。
#7 かなり大袈裟。
#8 メルセル・ケビル事件や、ダカールの戦い、トーチ作戦などのヴィシー・フランスの海軍と連合国の一連の戦闘のこと。ちなみに「リシュリュー」はイギリス軍の空襲で損傷を受けていたが、1940年9月23日、ダカールの戦闘で奮戦し、どうにかイギリス艦隊を追い払った。
#9 自由フランス空軍のマーク。海軍にはヴィシー支持者が多かった。
  ←ロレーヌ十字

#10 Croix de Guerre
#11 危険を避けるため、戦艦はノール岬よりも東に行けなかった。
#12 おそらく誤認。そもそも「ティルピッツ」は9月にイギリスの特殊潜航艇の攻撃を受けて大破して動けなかった(←ただし、イギリス側はどの程度の損害を与えたかは把握していなかった)。間違いなく、巡洋戦艦「シャルンホルスト」の誤認である。恐らくこの章は、1943年12月22日の、イギリス海軍が「シャルンホルスト」を撃沈した「ノール岬沖海戦」について書いてあると思われるのだが、間違いが多く内容が分かりにくい。クロステルマン氏の任務も不明瞭である。

補足
 この章について、クロステルマン氏の記述が間違いだとする根拠についてもう少し明確にして欲しいとのメールをいただきましたので、ここに返答いたします。
 1)「リシュリュー」がイギリス本国艦隊に合流した時期であること。これは1943年末のことなので、クロステルマン氏の記憶にも間違いはないと思われます。しかし、「ティルピッツ」は、この年の9月にフィヨルドの奥で特殊潜航艇の攻撃を受け、艦底が大破して修理中であったため、12月のドイツ海軍の稼動戦艦は「シャルンホルスト」ただ一隻でした。
 2)ノルウェー亡命政府の「ストルト」の名前が上がっている。この艦は「ノール岬沖海戦」に参加しています。
 3)イギリス海軍が、北極海でドイツ海軍の戦艦と追いかけっこをしたのは、「ノール岬沖海戦」以外に無いこと。
以上です。


偶然の将軍との会見

 僕達がデトリング基地に戻ると、新型のスピットファイアIX-Bを見つけて僕達は大喜びだった(#1)。そして、穏やかな気候に生き返った気分がした。僕達はエスキモーの手袋を横に置いた。もう、ウールとシルクの二枚重ねや、ウールの靴下を装備する必要は無く、シャツに制服、アーヴィンジャケットだけで良い。
 オークニー諸島ではお金を使う場所も無かったので、僕は四か月分の給料を貯めこんでいので、ショーウィンドウに'a la Guynemer(*)'の刺繍が入ったブーツを見た時、迷わず買ったし、英国風の乗馬用ブリーチをオーダーメードで何枚か買った。僕は進級していたので、士官用の竹杖(#2)も用意した。ロンドンスタイルの典型である。これでもう、外出しようとするバカなアメリカ人どもが、僕をホテルのポーターに間違えたり、タクシーを呼んでくれと頼んだりしないだろう!
 ジャックと僕は、三日間の休暇をもらっており、かなりのお金も持っていたので(ただし、あくまで自由フランスの安い給料と比較したうえでの話しだ)、長い週末が約束されていた。美容室でポマードと香水をつけられた後、帽子を斜めにかぶり、白のスカーフに茶色の手袋という服装で、ファッションリーダーでもあるかのように、クイーンズベリー・ウエイの元はフランス人学校であった自由フランス空軍司令部までぶらぶらと歩いた。未払いの給料を受け取るためである。僕達が到着した時、入り口の歩哨が、パイロット風情には似合わない完璧な「捧げ銃」の姿勢を取った。僕は少し驚いたが、自分達の優雅な服装ではなく、他の誰かに対して行われた敬礼であることに気が付いた。振り返ってみると、その時、到着したばかりらしいシトルエンから、二本のバッタのように長い脚が突き出されるのが見えた。栗色のストライプの入ったカーキ色のスボン、そして将軍。なんてこった!他の将軍ではない。ド・ゴール将軍である。
 ド・ゴール将軍は階段を一気に四段のぼった。僕達は気をつけの姿勢のまま固まっていた。将軍は僕達を見ると、くるりと向きを変えて、もっと近くで見ようとしたのか、身振りで僕に前へ出ろと命じた。僕は階段の下に進み出ると、例の竹杖を腕の下に挟んで将軍に敬礼した。顔を上げて、視線は将軍のケピ帽の星の上10cmに固定。掌はわずかに開く。完璧な教科書どおりの敬礼である。僕は自己紹介した。
「士官候補生、ピエール・クロステルマン、連隊番号30973、ご命令に従い、ご挨拶いたします、将軍閣下!」
 永遠とも思える一瞬、僕は待った。ひょっとしたら、僕の戦功十字章に対する賛辞があるかも知れない・・・。そして、それはかなり高いところから僕に降りかかってきた。将軍は、僕より三段上に立っていた。
「士官候補生殿。」(僕は二度と思い出したくない。言葉は良かったが、口調は吉兆を示していない。沈黙があった)「士官候補生殿、(もう一度沈黙)、馬はどこにおいてあるんだね?(#3)」
  僕は苦悶した。次に、将軍は僕の竹杖にあごをしゃくった。
「魚釣りにでも行くのかね?行け。そして、その恐ろしく奇抜な衣装は脱いで来い!」
  そして将軍は回れ右して、去っていった。
 ジャックは体を二つに折って爆笑しながら言った。
「俺たちは、将軍の後を追ってなかに入らないほうが良さそうだ。」

原注
* ジョルジュ・ギンメル (Georges Guynemer 1894-1917)。第一次世界大戦におけるフランス空軍最大のエース)

#1 この部隊では旧型のSpitfire MkVを使用していたから。
#2 Officer's Bamboo Cane. 短い竹の棒で、何に使うものかは分からないが、確かに今でも通販サイトがあったりする。
#3 恐らく、フランス式の軍装にこだわるド・ゴール将軍は、クロステルマン氏のイギリス士官風の竹杖を咎めたかったのだろう。


心の底からの結束


 ロンドンでのひと時。隊長のマックスは僕らに48時間の休暇をくれた。ジャックの母さんは、今月は彼にたいそうな小遣いを渡していたし、僕も、BBCでのスペイン語放送の報酬として、税引き後で22ポンドの小切手を受け取っていた。自由フランス軍の給料に比べれば一財産である。
 僕達は意気揚々としていた。そして、お金は使われるためだけに存在した。僕達はいつ何時、火球の中に消えてしまうかも知れないのだ。僕たちはロンドンに向かうことにして、ピカデリーの小さなホテルにちょっと立ち寄った後、ウォータールー駅行きの列車に乗った。
 僕たちは夕方6時半に首都に到着した。先ずはディナーだ。馬肉のステーキ−非常食としてり馬ではない−と、本物のフレンチフライをソーホーの小さなベルギー料理店、Chez Roseで食べた。僕らは、第609ベルギー飛行隊のグリーツとドモーランと、ブルゴーニュワインを分け合った。配給制度の時期には稀な、たっぷりとした食事だったが、それはたぶん、心正しき英国人が、人類の四つ足の友人を食べることにいい顔をしないからだろう。
 ロンドンでの食事は、S・・・のバーに行かなければ終わらない。誰もが知っているように、戦闘機パイロットはホシムクドリのような群居生物である。パイロット達はしばしば同じバーに飲みに集まり、同類でない者は誰でも追い出してしまう。S・・・に入るには、第11戦闘航空群所属の中隊のメンバーか、空戦殊勲十字章の佩用者という完璧な信用状が必要とされる。この選ばれた小さな世界では、必ず知人か友人に出くわす。いつも同じようなゼスチャーで、同じような話をしている。いつも制服姿の美女がいる。灰色やカーキ色、ネイビーブルーの制服のWAAF、ATS、それにWRENの士官達がバーのスツールに座っている。誰もがみんな立ち上がり、一パイントのマグカップを頭上越しに差し渡しているし、ジンアンドオレンジやPimm's No.5で酔いつぶれた男を支えるためにスクラムを組んでいるのも、いつものメンバーだ。ウエイターが銀の皿を回す。僕達はパン粉のついたソーセージを一つ取るが、もう一つ取ろうとするものはいない。
 バーテンは、「バトル・オブ・ブリテン」の時から働いていて、スピットファイア製造基金への献金を呼びかけるポスターは、パイロットのサインで覆われている。サインしたパイロットの10人の内9人は、これまでに献金をしている。バーテンの後ろの壁には注意書きがあった。「犬は敷地の外へ。」そこへさらに、誰かが書き加えている。「それにオランウータン(歩兵のこと)も」。そしてさらに、黒いペンキで、「ヤンキーとニガーも!(#1)」と書かれている。
 僕がジョニー・チェケッツと話をしている間に−ジョニーはフランスのレジスタンスの手を借りて、アヴェヴィル上空で撃墜されて三週間後という記録的な短期間のうちに帰国してきたのだ−、ジャックは美人のWREN士官のところに移動していた。
 僕は騒音の中で、どうにかジャックの口説き文句を盗み聞きしていた。
「しかしね、マイ・ラバー、ビクトリア女王はナポレオン三世に圧力をかけたよ。クリミアでは、ロシアを相手に肩を並べて戦ったのに。」
 これは、「心の底からの結束」をもたらすジャックの不変の、そして不謬の口説き文句であり、たいていは「一緒に戦争しよう」という誘惑へと発展する。
 これから何が起こるのか予期できたので、僕はジャックを放っておいた。恐らく、僕は次の日の朝食時までジャックに会うことは無いだろう。もし全て上手くコトが運んだなら、ジャックは次の週の間ずつと有頂天になって、任務中にはいつもよりも危険を冒すようになるだろう・・・。
 
#1 必ずしも人種差別的意図のみとは言えない。黒人=アメリカ人だったからである。また、黒人兵士はイギリスの一般市民には歓迎されていたと言われており、珍しいからか、いろいろと親切にされていたようである。


忌まわしい事件

  ベルギーの工場を爆撃するアメリカのB26を護衛した。B17フライングフォートレスに比べると、B26は速く飛べるし、クルーも正気を保っている。B17の銃手達は、ほとんどの場合、護衛の戦闘機も含まれるが、とにかく四つのエンジンを持っていない飛行物体全てを攻撃しようとするいやな習性があった。連中がかろうじて識別できるのは双胴のP-38ライトニングだけだが、これはまだ英国に到着しはじめたばかりだった。
 不運なことに、B26の巡航高度は、僕たちのロールスロイス63LFマーリンのスーパーチャージャーが作動する臨界点だった。スーパーチャージャーは、気圧に反応して自動的にスイッチが入る。スロットルを最小に絞っても効果はあまりなく、しっかり固定されているにも拘らずエンジンは乱暴に身震いし、絶え間なくブースターが作動したり切れたりした。僕の左手に陽が上って、ちりひとつ無い青空をぎらつかせて何も見えなくしてしまった。レイバンのサングラスをかけていても、東30度から60度の空域を捜索するのは不可能だった。何も見えないと思いながらも見続けていると、赤い点のある黒い穴が見えた。明らかに、いつものように太陽を背にして急降下してくるメッサーシュミットBf109だった。彼らは突然、我々の風防ガラスいっぱいに巨大になり、一列縦隊のまますばやく消えた。あっという間で、連中の黒い十字がぼんやりと見えただけだった。
 10機かそれ以上のBf109が、そのままパッと我々の進路を横切った。オウバートンが被弾し、マックスの新品の機体には穴が開いた。敵は同様にB26にも襲いかかった。曳光弾の光線に囲まれた爆撃機は、まるで巨大なヤマアラシのようだった。全ては数秒間で終わった。戦闘機パイロットは、反射神経と目の敏捷さが命だ。一機のB26が編隊から落伍し、高度を下げ始めた。濃い黒煙を引いている。それを見たマックスは、傷ついた爆撃機をイギリスまで護衛しようと、直ちに二機の戦闘機を分離させた。損傷した爆撃機には、ハエのようにドイツ軍の戦闘機がたかってくるだろう。また次の瞬間、別のB26が垂直降下に入り、村の近くに墜落した。パラシュートが五つ開く。脱出していない六人目はたぶんパイロットだろう。クルーが脱出する間も飛ばし続けるため、機と格闘していたのだろう。B26の編隊が爆撃航程に入ると、我々はタイフーンの編隊と護衛を交代した。タイフーンは、まだあまり有名でない機体なので、その登場は無線通信に混乱を引き起こした。トリガーハッピーな銃手達には弁護の余地は無いが、それでも、タイフーンをある角度から見るとフォッケウルフFw190と見間違いやすいこと、特に機種識別に熱心でないパイロットは誤認しがちだということを認めねばならない。
 我々はボビー・ユールの指揮で帰路についた。熟練パイロットの彼だが、航法でヘマをやらかし、僕らをオステンデ上空に導いてくれた。そこはよく知られたホットスポットであり、そこで88mm砲の砲火を浴びせられることは、何か戦闘機乗りの名誉のようにみなしていた。
 気がつくと僕たちは、閃光に照らし出された、厚く巨大な、真っ黒い爆発煙のただなかにいた。我々の戦闘隊形は、あらゆる方向へむちゃくちゃに散ってしまった。我々は、高価な88mm砲弾を浪費している砲台と付き合おうとはしなかった。1ヤード近い長さがある88mm砲弾は、疑いようも無くスピットファイアを撃つには高価すぎる。にもかかわらず、四機が砲弾の破片で損傷した。基地に戻った時、被弾した機のパイロットは顔面蒼白だった。

 翌日、また護衛任務だった。しかし今度はB17である。これは本当にいやな任務で、爆撃機編隊の側面を守る位置を保ちながら、低速で飛行しなければならない。もし攻撃を受けたとしても、スピットファイアは戦闘機動のための運動量と速度を欠いた状態になっている。そしてどんな場合でも、例え「近接護衛」でも、第八航空軍のB17からは距離をとっておくのが重要だ。銃手達はすぐに引き金に指をかけるし、着陸するその瞬間まで、連中の想像力は殺せ殺せと騒ぎ立てているのである!
 ヤンキー達の爆撃目標はルーアンの操車場だった。対空砲火はいつもほど激しくなかった。しかし、先導機の爆撃手が明らかに正気を失っていた。彼の指示に従い、130機のB17の編隊全てが爆弾を投下し、セーヌ川の左岸の手前、ターゲットよりもかなり南の地域に爆発と炎の死のカーペットを撒き散らした。操車場は全く無傷だったが、しかし破壊されて炎を上げる何百もの家々が、大聖堂のすぐそばまで広がっていた。大聖堂の優美な尖塔は、大いなる神の御意志のせいか、無傷だった。どのくらいのフランス人、全て民間人、が僕の目の前で死んだり、死にかけたりしていることだろう?殺意の篭った怒りが湧き上がった。僕は無線で叫び始めた。だから、みんなに聞こえていた。
「このアメリカのクソ野郎どもめ! ろくでなしの悪党ども、あれを見てなんとも思わないのか!」
 マックスの命令が僕を現実に引き戻した。無線を切り、編隊の定位置に戻るか、基地に戻るかしろという。マックスは、僕がB17を攻撃するため急降下したことに気がついたのだ。瞬間考え込んだ僕は、怒りを飲み込み、単独でデトリングまで帰ることにした。こんなことをする連中が同盟国なら、他に敵が必要なのだろうか?絨毯爆撃にはどのような法的正当性もみつけだすことが出来ない。
 さらに悪いことに、この時我々は新聞を通じて、我々フランス人にはもうふさわしくないと考えたか、アメリカのルーズベルト大統領がフランスの独立性を制限し、帝国の支配権を奪い取ろうとして、ド・ゴール将軍と対立していることを知っていた(#1)。
 数日後、僕達はロンドンのCoq d'Orで夕食をとっていた。そこで僕たちはアンドレ・フィリップ(#2)とばったり出くわした。彼はアウバートンと僕を自分のテーブルに招いた。僕はルーアンでの事件について彼に話すと、アンドレ・フィリップは、単にルーズベルト大統領がド・ゴール将軍を軽視しているだけでなく、フランス全体を軽視しているからだと言った(#3)。
 とはいえ、それがドイツ人でさえしなかった民間人虐殺と都市の破壊(#4)を行う理由にはならない。僕は、ルーアン爆撃の様子を目撃したRAFの友人達も、僕同様に憤慨していると言わずにはおれなかった。幸いにも、とアンドレ・フィリップは付け加えたが、アルジェのド・ゴール将軍は事態を把握しており、レジスタンスを通じてルーアンの被害者たちに小額ながら慰問品が送られたと言う。

 1995年に開示された、第二次世界大戦に関する文書には、戦争の恐ろしい本質に関する秘密文書もあり、強い不安無しには読めない。特に気になる一つの文書は、Dデイの作戦計画のカギと、我々の同胞を憤慨させた爆撃任務との関わりを示していた。連合軍最高司令官、アイゼンハワーによる指令RE8である。それは、あらゆる事態を想定したアメリカの作戦研究の一つで、些細な事柄に至るまで項目別に分けられて、評価されていた。特に、「輸送計画」という章では、大都市を含む40箇所以上のフランスの人口密集地に存在する幹線道路や鉄道の連結点、ドイツ軍の兵舎や物資の集積所に対する爆撃を要求していた。この作戦中の第八航空軍の損害を予測しているパラグラフでは、数行の脚注で、絨毯爆撃による莫大な物質的損害に関しては言うまでも無く、フランス市民の不可避的な損害として160,000人の死者と、相当数の負傷者が出ると警告しているが、全く無慈悲なことに、B17とB24の損害を減らすためには、じゅうたん爆撃が唯一の方法であると結論していた。
 イギリスのチャーチル首相は憤慨し、計画の再検討を要求した。もっとも、チャーチルは、このような作戦を遂行する上で数百程度の巻き添えの死は必要悪だと認めていたが。彼はやむなく、アルジェのド・ゴール将軍に対して警告の手紙を送ったが、その手紙は、RAFの勇敢で忠実な友人であるフランス人への謝辞で締めくくられていた(#5)。連合国の飛行兵は、アメリカ人も含む撃墜された飛行兵達を常に援助してくれるであろうフランス市民に、被害を与えることはないように手を尽くすことを厳命された。公文書館には、ド・ゴール将軍の返答、単にチャーチルに感謝しただけではないはずの返答は収蔵されていない。
 イギリス爆撃機軍団の司令官、ハリス元帥(#6)は、チャーチルから、ハリス個人と爆撃機軍団の兵員は、この問題に関してどのような見解を有するか尋ねられた。ハリス元帥はこう答えた。
「私には何の見解もありません。私は命令を受け、それを彼らに実行させるだけです。」
チャーチルは、1944年4月14日付けのルーズベルトへの書簡で、得られた戦果は、フランス市民の殺戮や政治的ダメージ(#7)も正当化していないと指摘し、
「この問題に関して、ル・メイ、イーカー、スパーツら(第八航空軍の指導的な将官達)に圧力をかけるようにお願いします」
 と書いていた。
 返事が無かったので、チャーチルは4月29日に再度アピールを行い、爆撃目標が非常に重要で、巻き添えを圧倒的に正当化しない限り、例え100-150人のフランス市民の死者でも黙認することは出来ないと宣言していた。アイゼンハワー将軍は、人口密集地にある27箇所の爆撃目標が攻撃できないことに気が付いた。撃墜された飛行兵を助けるために時には命をかけるフランス市民を爆撃で脅かすことは、倫理にもとった。
 それでもまだルーズベルトから返事がなかったので、5月7日、強い調子のメモを電報でおくりつけた。チャーチルがなんと言ったのかは不明だが、かろうじて「丁重」と言えるような文章だったと言う。ルーズベルト大統領は、5月15日に返答してきた。
「我が国のボーイ達の安全に必要なことはなんでも、アイクの裁量である」
 そのため、その月の末まで、アミアン、アンジュー、アヴィニヨン、キャンブレイ、シャルトル、グレノーブル、ニームス、サン・エティエンヌ、ルーアン、シェルブール、パリ、トラップスその他の都市がアメリカ空軍の爆撃にさらされた。三日間に渡る航空攻撃で、8,200人が死亡し、12,000人が負傷、120,000人が家を失った。11の病院と35の学校、そして無数の建物が破壊されたが、全体の80%は破壊する必要の無いものだった(#8)。
「アメリカ人の損害の最小化」という言葉は常に、何百もしくは何千の市民の殺戮と翻訳できる(#9)。同じような経緯で、カーン、サン・ロー、アブランシュ、ファレーズ、ヴィラ・ボカージュはノルマンデイー上陸作戦の後、すさまじい爆撃を受けた(#10)



#1 旧式な植民地主義に嫌悪感を持ち、この点ではチャーチル首相とも対立することがあったルーズベルト大統領は、フランスの植民地を保持していく意向を持っていたド・ゴール将軍とは意見が合わなかった。また、フランス人の間に派閥争いが盛んなため、派閥を超えた対独戦争協力のためにも、自由フランスに植民地の管理を任せることはせずに、フランス奪還に選挙を経た正式な政府が樹立するまで、フランス領は連合国の管理下に置くべきだと考えがあった。
#2 Redecouvrir Abdre Philip (1901- ) フランスの政治家、経済学者。経済学者。第五共和制では財務大臣を務める。
#3 ルーズベルト大統領は傲慢なド・ゴール将軍を嫌っていた。ド・ゴール将軍の傲慢さについては、ヴィシー政府軍と英米軍との軍事衝突が相次ぎ、フランス人の間では反英反米感情も根強かったため、英米寄りとみなされることを嫌った将軍の演出であると言われており、実際、チャーチル首相にはそのように説明していたと言う。しかし、それなら公的な場でのポーズだけにとどめておけば良いはずで、個人的にも嫌われたこと、さらには同じフランス人にも嫌われることがあったということからして、やはりド・ゴール将軍は、根っから性格が悪かったのだろう。また、アメリカはヴィシーを正式な政府として承認していたという外交上の問題に加え、戦争が民主主義と全体主義の対決である以上、民主主義の原則に反するため、選挙も経ないで自由フランスの代表におさまったド・ゴール将軍を政府首班として認めることは出来なかったのである。
#4 あくまでフランスに限った話。
#5 サー・アーサー・ハリス (Sir Arthur Harris, 1892-1984) ボマー"bomber"の通り名で知られるイギリス空軍爆撃機軍団の司令官。戦勝への功績は多大であるが、ドイツにおける都市部を狙った無差別爆撃の道義的非難は強く、戦後は冷遇された。
#6 チャーチル首相もド・ゴール将軍を嫌っていたが、夫人がド・ゴール将軍の大ファンだった。
#7 兵士の犠牲が増えると、アメリカ国内では批判が高まる。
#8 とは言え、こうした輸送網に対する航空攻撃の結果、ドイツ軍守備隊の移動や増援は完全に阻止され、上陸作戦成功に大いに寄与した。もっとも、いざ進攻の段になってみると、連合国の前進がかなり阻害された(←バカ)。
#9 イラクでも同様です。しかしながら、精密誘導兵器のある現代でも民間人の巻き添えがあるからには、1940年代の技術ではどうしようもなかったでしょう。また、自国の兵士のみを偏重するのもおかしいですが、かと言って、自国の兵士の生命を軽んずるのも間違いでしょう。また、イラクの米軍の行動には弁護の余地は無いとしても、第二次世界大戦ではどうでしょうか? 確かに忌まわしい事件ではありますが、戦争中のことではあり、私には少々異論があります。先ず、クロステルマン氏は著書の中で、連合軍の上陸に対応するアルジェリアのフランス軍の態度を批難し、占領地をドイツ軍の報復の危険にさらす価値はあった、その程度の犠牲を払う価値はあったと述べています。しかし、連合国の航空攻撃の巻き添えによる犠牲は価値の無いものだったのでしょうか? ダブルスタンダードではないのでしょうか? さらにはっきり言えば、連合国のパイロットが、敵国のはるか手前で迎撃を受けて撃墜されたり、フランスの人口密集地を爆撃して、本来は味方であるフランス市民の頭上に爆弾を落とすジレンマに陥ったのは、フランスの不甲斐無さのせいです。確かに民間人を巻き添えにすることは悪いし、本文にもあるような明らかな誤爆には弁護の余地はありません。しかし、上陸する連合国兵士の犠牲を少なくするために、輸送網を破壊してドイツ軍の展開を妨害しようとするのは悪いことでしょうか?自国の不甲斐無さを棚に上げて、他国の兵士に犠牲を求める神経には疑問を抱かざるを得ません。それとも、こういう偏った考え方が愛国的というのでしょうか?
#10 特にサン・ローのケースは凄まじく、町に陣取るドイツ軍に阻止されたため、「コブラ作戦」の名で、2000機の爆撃機による絨毯爆撃で町ごと破壊することにした。アメリカ軍部隊でさえも爆撃されたほどの、徹底した無差別絨毯爆撃の繰り返しで町は完全に破壊され、ドイツ軍も爆撃だけで壊滅してしまった。


川での出会い

  4月の末、僕は三日間の休暇をもらった。最初のカゲロウがちょうど姿を現し始めた時期であり、僕はマス釣りで運試しをしてみたいと思っていた(ジャックは、彼独自の魚釣りをするために出かけていた。女の子を釣るためである)。大陸への反攻上陸は6月か7月だ、とますます話題になっており、だから上陸が決行されるまでの魚釣りの最後のチャンスだった(#1)。デトリング基地からそう遠くないところにとてもすばらしい川があるが、それはいわゆる「チョークの小川」の一つであり、戦争前から一ヤード毎に小さな不動産として分割されて貸し出されており、所有者が宝冠のように守っていた。その時、土地管理人はいなかった。彼らはみんな、軍務についていたのである。だから僕は、権威を無視する真のフランス人として釣りをはじめた。しかし、これは厳密には密漁ではない。僕は英国紳士のように魚釣りをした。おまけに、毛針ではなく、ウジやスプーンベイトを使って釣った。僕のような海峡の向こうから来た野蛮人について、イギリス人がなんと言うかは神が知っておられる。僕はここ三年、休暇はたいてい水辺で過ごしていた。そして、魚を釣る時はいつも地主に許可を求めねばならなかったが、例外なく許可はもらえた。問題は釣り道具であり、僕の手持ちは尽きかけていた。ロンドンでは、有名な釣具店のハーディーのショーウインドウも空だった。だが、カウンターに立つ、とても上品な老人のセールスマンとは一ヶ月ほどで友達になり、彼はしばしば、秘密のストックを掘り返して、トーチュライン(#2)や絹の糸かせ、すっかり入手困難になった釣り針や、素晴らしい毛針などを僕にくれた。
 それから、川の美しさよ!水草のベッドに、沼地のマリーゴールドやアシ、気恥ずかしげに泳ぐバンや、飛び回るトンボやカゲロウ、羽虫の雲が、木々の間から差し込む曙光の中で輝いている。戦争など遠い世界の出来事に思える、平和で不思議な光景だった。
 2-3匹のマスが水面まで出てきた。アオサギが一本足で立ったまま動かず、静かに周囲を見回している。試しに二回竿を入れた後、僕はセッジ(#3)を、魚が立てて一番大きなさざなみの中に投じた。川には他に魚は見えなかった。どうやらそのマスは用心深さを失っており、少し欲張りすぎていたらしい。壮絶な戦いで、僕が吊り上げるまでに、そいつは上流に50ヤードも逃げた。同じようにして二匹目が釣れた。今日はもうこれで十分だ。僕は獲物を野生のミントの葉で包んだ。それは、マスの明るい真珠のようなウロコを汚してしまうが、魚の肉に不思議な味を添えてくれる。パイプに火をつける時間が来た。倒木に腰掛けて、もう10回目になるか、モーリス・ジュネヴォア(#4)の「La Boite a Pecbe」の一章を読み返した。一生もんの恥さらしだが、僕はこの本を、ブロメリーサウスの自由フランス志願兵図書館からかっぱらってきたのである。
 突然、そしてほとんど冒涜的なまでに静寂が切り裂かれ、V-1飛行爆弾が巨大なモーターバイクのようなガタガタ吼えながら、頭上を通り過ぎていった(#5)。そして数分後、そいつがロンドンに達する前に撃墜しようとする高射砲の砲声がきこえてきた。どこへ行っても戦争からは逃れられない。
 僕はナップザツクに手を突っ込んで、スパムのサンドイッチを取り出した。これはWAAFのキッチンの係が、親切にも(そして不正にも)僕に作ってくれたものだ。そして、途中のパブで買ってきたボルドーワインのビンを開けようとした時、栓抜きを忘れてきたことに気がついた。僕がビンの首を折ろうかと躊躇している時、後ろから声をかけられた。
「なんで私の栓抜きを使わないんだね?」
 その男は、音も無く草っぱらを進んできて、スイスアーミーナイフを僕に差し出した。
「こりゃあ、良いマスじゃないか。やったな。」
 70歳くらいだが、銃の込め矢のようにしゃんとした姿勢に、ゲートル履き、ツイードのジャケットに白い口ひげ。どうみたって彼は、インド陸軍の退役将官である。いったい誰だろう?
  老人は僕の隣に腰を降ろし、パイプを取り出した。僕は彼に手持ちのタバコを勧めたが、彼は匂いを嗅いで、アメリカ産は好きじゃない、甘すぎる、と言った。彼は自分のタバコを好んだ。僕は、彼がこの近辺の地主だと推測したが、彼はいつでも好きなときに来て、魚を釣って良いと言って僕を安心させた。彼は僕のことを尋ね、明らかにフランス人の戦闘機パイロットだという事実に面白がった。彼は僕の釣竿で一、二回運試しをしてみたが、魚にはかすりもしなかった。
「アメリカ製の竿です。」
 彼はほとんど驚かなかった。その一方、彼はこの川用の完璧な毛針を持っているので、もし明日のディナーに来れば、僕にそれを貸してくれると言った。彼は住所と、道順を教えてくれた。
 午後いっぱい、僕は川べりで僕なりに働き、さらに二匹のマスを釣り上げた。夕暮れとともに風が出できたので、僕は小さなパラダイスから出て、ヒッチハイクで基地に帰った。マスの一匹は、親切にも古いオースチンに僕を乗せてくれた牧師にあげた。残りは食堂の主任のところに持っていってフライにしてもらい、厳密には士官の立ち入りが制限されている静かな食品置き場でそれを食べた。
 それから、食堂の椅子に腰掛けて長らくほったらかしにしていた日記を書いた。僕がすごした今日の美しい日と、老将軍の翌日の招待を受けたことを書いた。
 
 彼の川で釣りをして、二匹の素晴らしいマスを手土産に僕は老将軍宅を訪問し、彼の孤独な友情の恩恵に預かった。彼は左手に二つの結婚指輪をはめていて、タウンジャケットに喪章をつけていた。彼はいつも、どこかにストックかせあるらしい、ポートワインのビンを持っていた。
 ある日、僕は将軍に、今度DFC(殊勲十字章)を受勲することになったと言った。将軍は、シャンペンを取ってきて祝いたがったが、僕は遠慮した。すると将軍は、失礼と言って部屋を出て、しばらくして長い皮のケースを持って戻ってくると、それを僕の前に置いた。
「これを君にあげよう。」
 そして二本のすばらしい竹の釣竿、一つはマス用でもう一つはサケ用、を見て僕は驚いた。

  フォード基地に転属する前に、僕は将軍にさよならを言おうと思った。だが、メイドストーンの警察署で悲しい結末を知った。故障したV-1飛行爆弾が小さな田舎屋敷のそばに落下し、屋敷を吹き飛ばした。我が老将軍は、1940年のロンドン空襲で死亡していた看護婦の奥様と再び一緒になったのだ。それだけではなく、将軍のご子息は戦闘機パイロットで、601飛行中隊の隊長であったが、1941年に海峡の向こうで行方不明になっていることを知った。将軍はそんなことは一言も話さなかった。将軍が僕にくれた釣竿は、彼の息子のものだったのだ。僕はこの夜、運命の不公平さについて考え込みながら、涙を流した。

#1 クロステルマン氏は上陸決行がいつかを知る立場にあった。
#2 Tortue line 釣り糸の商品名
#3 Sedge トビゲラを模した毛針
#4 Maurice Genevoix (1890-1980) フランスの作家。
#5 謎。V-1の実戦投入は1944年6月13日である。1944年4月末のこの時期にV-1を見たというのは疑問。試験的に何発かロンドンに打ち込まれていたのかも知れないが、クロステルマン氏自身が、日記をほったらかしにしていたと言っているし、「ティルピッツ」と「シャルンホルスト」を取り違えているくらいだから、これも記憶違いかも知れない。
 

この後、いよいよノルマンデイ上陸作戦となり、自由フランス空軍は祖国へと帰還する。


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