療養がてらの司令部勤務の後、1944年12月、タイフーンとテンペストへの転換訓練の後、クロステルマン氏は再び前線に戻る。ド・ゴール将軍はエースであるクロステルマン氏を出撃禁止リストに載せていたが、少佐に進級していたジャック・レムリンゲルの手引きにより、自由フランス軍を離れてRAFに移籍した。古い体質の高級軍人達や、レジスタンスメンバーとの確執が背景にあり、クロステルマン氏は厳しい言葉で批判している。。

変わらぬ日々

 ベッドの中でボールのように体を丸くし、半分服は着たままで、バラクラーバ帽を被り、オーバーコートとアーヴィンジャケットを体にかけた状態で、僕はすごく良い夢を見ていた。きれいな水をたたえた湖で、大きなコイが、今まさに餌にくいつこうと浮かび上がってくるのである。そいつは口を開け、僕は釣竿がしなるのを感じた。
 突然、僕は目が覚め、飛び起きた。誰かが僕の肩をつかみ、ゆすったのだ。僕は時計を一瞥した。その光る針は、5時10分過ぎを指している。僕らの当直は6時からである。快適で温かいベッドで過ごす余裕はもう無い。全能の神よ、寒いです。
 僕は、戦闘服を着て、太ももまでのウールの靴下の下に、さらに綿の靴下をはいた。空中で左右を見回すときに首をすりむかないように、シルクのスカーフを巻いてから、厚いポロネックのセーターも着た。まるで深海潜水夫のような防寒装備を付けて、僕は敵対的な世界、天候は曇天、対空砲、積雪が待つ世界へ飛び込んだ。ちょっとした幸運があれば、1月1日(1945年)のボーデンプラッタ作戦(#1)以来、すっかり見かけることがまれになったメッサーシュミットに出くわすかも知れない。あの日、連合軍は大損害を受けた。ルフトバッフェも、同じく大損害を受けていたが。
 僕は同じ当直の5人のパイロットに会うため、階段を駆け降りたが、元僧院の食堂には誰も居なかった。三つの電球が、長く、空っぽの食堂テーブルに淡い黄色の光を投げかけていた。平時なら、そこに神学生たちが座り、小さな演壇からは、指導役の修道僧が教科書を読んでいたのだろう。
 食堂での唯一の陽光は、給仕の小柄なオランダ人の女の子の優しいほほえみだった。彼女の小さな弟にチョコレートレーションをあげて以来、僕の面倒をとてもよく見てくれる。この特別な朝、彼女が隠していた貴重なタマゴと、ネービービーンズ -トマトソースとベーコン入りのアメリカ製のマメの缶詰-と、二つのパン粉付きソーセージが、僕の朝ご飯だった。
 彼女は可愛くて、とても美しい青い目をしていた。ああ、ただ、我々みんなが知っているように、今は「a time for love and a time for War」だ。
 他のパイロットが騒がしく到着し、この瞬間をブチこわした。僕たちは移動しなければならなかった。
「来いみんな、急げ!」
 外はまだ暗く、夜のうちに積もった雪が今は凍結していて、あたりをスケートリンクに変えていた。コックが、熱い紅茶の入った大きな魔法瓶と、腹にもたれるスコーンを三袋持ってきた。
「僕のジープはどこへ行った?」
 と探していると、大型トラックが滑りながら停車した。中隊のメンテナンスを担当している飛行軍曹のシェフィーが飛び降りてきて、56飛行中隊から来たどこかのバカが、ジープを溝に落っことしたと僕に告げた。明日までは動けないと言う。
 
 僕達は、夢遊病者のようなトランス状態になった。購買部(Naafi)の Woodbine(=タバコの銘柄)に火を付けたが、二ふき目にはむせかえってしまった。神よ、寒いです。僕達が中隊の待機所に到着した時には、文字通り寒さでマヒしていた。階級にモノを言わせたくはなかったのだが、移動の時、僕はパイロット達と共に荷台には乗らず、キャビンに乗った。
 待機所も、外よりそれほど暖かいというわけではなかった。時々、凍えた整備士が入ってきて、弱々しい熱を発する小さなストーブの上に身をかがめながら、お茶を飲んだ。タイムキーパーが、テレプリンターに入ったばかりの天気予報を伝えてきた。荒天(foul)。
 エネルギーを浪費しないため、ベッドに僕らを寝かしたままのほうがマシだっただろう。しかし、僕らは出動の用意をした。インクのような暗夜に踏み出し、パラシュートをコックピットに押し込んで、離陸の準備をする。
  Primum vivere(まずは人生を楽しめ)。命令に従え! そして考えるな! 全くだ。この呪わしいセイバーエンジンは、吸気口と排気口が凝固したオイルでふさがれるのを防ぐため、2時間毎に15分間、暖気運転しなくてはならない。そして今、燃料タンクは一杯だ。僕は、つるつる滑る主翼の上に立ち、燃えやすい130オクタンの燃料を扱う整備員を気の毒に思った。
 僕のJJ-Z号機のエンジンは、始動するのを拒絶した。僕達は始動を助けるために外へ出て、巨大な直径4.4mのプロペラを手で回した。この作業には4人が必要であり、三人で一人を担ぎあげ、その一人がプロペラにぶら下がって、全体重をかけてプロペラを四分の一回転させる。僕達はさらにプロペラをまわそうとしたが、プロペラを2−3回、完全に回転させるのは恐ろしい困難だと分かった。だから僕らは、シェフィーを連れてきた。−みんなは、シェフィーもセイバーエンジンには何もできないさ、と言ったが−、プロペラを二回まわしたところでスロットルに急なバーストがあり、シェフィーはそいつが消える寸前に、やっとのことで始動に成功した。排気が不規則にばちばち言って、ほとんど悲しげな感じで、何分間か青っぽい油煙を吐き出した後、とうとう、エンジンは、その24気筒の耳をつんざくような轟音とともに回り始めた(#2)。
 霧が氷結したため、主翼に薄い氷が張り、その輪郭が損なわれていた。解氷装置を積んだトラックが、次から次へとすべての機体を周る。トラックはしばしば、再び凍りついた主翼を溶かすため、最初のテンペストのところに戻らねばなかった。ヘラクレスの労働である。
 ライネの向こうで、陽光のかわいそうなほど小さい糸が、上空を覆う鉛のような雲を通して地面に垂れ下がっている。滑走路上では、ジープが怪物のような影を引きずりながら、滑走路灯を集めていた。視程は100ヤード以下である。
 よし、もう十分だ! 僕は指揮所に電話し、レーダーコンソールの上で快適に眠りこけている素晴らしい仲間達をたたき起した。
「だめだ」
 この天候で飛行するのは問題外であり、それはグーテルスロッフのFw-190D9にとっても同じだ。僕らは昨日の夕方、待ち伏せに手頃なひとつの雲の中で、同じく待ち伏せしようとしていた連中とばったり出くわしたのである。僕らは互いに相手を驚かせあい、それぞれ、相手が自身に対して抱いている恐怖感を感じた。ドラマティックな、一面雲で覆われた冬の空で、僕達は無益な銃火の応酬をばらばらと少しばかり交わした。マクラーレンが被弾したが、無事に帰還することができた。僕は、かっこいい"D9"に向かって発砲したが、MW5(*1)の力により、そいつは僕の指の間をすり抜け、何もできない僕を置いて逃げて行った。二度と繰り返したくない経験である。
 主任管制官で友人のラプスレーが起きだして、何か問題があるのかと僕に聞いた。僕は平静を保ちつつ、ラプスレーに、よろしければ窓の外を見て、自転車で外へでるにも無茶な天候で、大切な僕の身を乗っけるテンペストにとってはなおさらだと確認してくれませんか、と言った。ホーカー社のストライキ(#3)以来、機体が不足していていることを思い出させてやるまでもなかった。航空団の支援ユニットは、機体の不足について我々に警告していた。
「OK、ピエール、待機しろ。」そして5分後、「中隊、解散。」
万歳だ!
 翌日、天候はまだ悪かった。
 冬の天候は、僕達に二日の休息を許してくれたので、夕方を中隊のバーで過ごすことができた。バーでは、ウーデン(Uden)のオランダ人から貰ったボルス・イェネェファ(オランダのジン)であったまりつつ、先週号のデイリー・ミラーの、露出度の高いジェーン -RAFで人気の、裸になりたがるヒロイン(#4)- の冒険を、しげしげと読んだ。


0755時
 
 ウーデンの基地のボフォース砲の砲声が聞こえてきた時、やっと夜が明けた。その特徴的な弾倉による5発連射が、雲の向こうの空のどこかで爆発する音が聞こえた。
 それから、メッサーシュミットMe262のジェットエンジンの咆哮が聞こえてきて、チェーンソーが木を切るような唸り声が急速に大きくなってきた。僕達は急いで外へ飛び出し、そいつがロケットのようにフォルケル基地へ近づいてくるのを、ちらっと見るのには間に合った。低空飛行だ。くっきりとしていた灰色の排気煙は、波打ちながら霧に溶け込んでゆく。
 Me262が、凍った空気を絹のように切り裂いているのを聞きつけた時、既に遠く離れていた。飛行場のボフォースが狙いをつけようと旋回し始めた時には、とっくに居なくなっていた。僕らは、賞賛と羨望の念に、戸口に立ちすくんだままだった。
「ジーザスクライスト! なんて速いやつらだ!」
 三日の朝に、Me262は現れた。僕らは、ベルギーとオランダ周辺の飛行場の写真偵察を行っているのではないかと想像した。追跡するのは無駄だし、雲が低いので、高度9000ftから10000ftのあたりはパトロールできない。唯一の解決法は、射程内に捉えられるようにと無駄な希望を抱きつつ、急降下することだ。僕達は何か他の手段を考えたが、多分、場周経路にMe262を追い込み、援護する対空砲に勇敢に立ち向かう危険を冒して、着陸しようとのろのろ飛んでいるMe262を狙うと言う、フェアバンクス(#5)の危険な戦術を採用しなくてはならないだろう。
 購買部のワゴンと救世軍の人が、熱いお茶とビスケットを持ってきてくれた。僕達はいつも、凍えている整備士を先にするように強く言っていた。この朝はとても静かだった。 しばらく後、僕はRAFの「知的な人々」が好む本、「ミス・ブランディッシュの蘭(#6)」にのめり込んでいった。


クラリオン作戦

 BBCの広範な宣伝活動とともに、ライン河を渡河する準備として、数百の航空機がドイツ西部の鉄道網と操車場に対する攻撃を行った。第二戦術航空軍と第83航空群の戦闘機パイロット達、つまり僕達には、ハンブルグとオスナブリュックの間の鉄道輸送を破壊する任務が与えられた。
 この種のスポーツにはとても熱心にはなれないのだが、その朝僕は、274飛行隊の6機のテンペストの援護を受けながら、56飛行隊の6機のテンペストを指揮しなくてはならなかった。
 カッセル上空に直行し、すべての目玉が列車を探すために地面に釘付けになっていた時、20機くらいの「長鼻」フォッケウルフFw-190D9が、忌々しい低層雲の中から飛び出してきて、僕らの編隊の右側面を通過していった。
「タルボット、右にブレイク!」
 突如、低い雲にさえぎれた狭い空域で、大乱闘が始まった。交戦するには良い場所ではない。しかし、僕のあっぱれな二番機は、僕にぴったりとくっついていた。ほとんど近すぎるくらいに。彼の視線は、僕と彼自身の後ろの敵ではなく、僕の方に注がれている…。
 できる限り素早く、僕は「長鼻」を射撃できる良い角度につけると、曳光弾の連射を浴びせかけ、敵の右翼に命中させた。僕はパニックに近い急なハーフロールで離脱したが、その時、僕のチームメート(#7)が、文字通り爆発するのが見えた。円形標識のついた二つの翼が、火球の中から飛び出してきた。僕はロールを止め、パワーブーストしつつ、腹にくっつくまで操縦桿を引くと、二機のテンペストを引き連れて雲の上に上昇した。僕は、274のバカどもはどこなんだと自問した。連中は、僕らを援護しているはずなのだが。その時、この空域をパトロールしている、41飛行隊のスピットファイアXIVが、コントローラーからの警報を受けて戦いの中に飛び込んできた。
「ダルボットレッド、ここから逃げるぞ!」
 僕は疲れきって退却した。混乱の中、僕らは大きな飛行場に近付いており、そこの対空砲が、敵も味方もお構いなしに射撃し始めた。そこはたぶん、ライネかホップステインだっただろう。そこは、二週間も続いた爆撃に耐えねばならなかったから、砲手達はひどくいらだっていたに違いない。
 三機のテンペストが、低空を真西に向かって飛んでいた。僕はとにかく味方のいるところに帰るため、彼らに加わった。三機は、486中隊の所属機だった。結局、僕らは二機のD9を撃墜した。一機は274中隊で、もう一機は56だ。しかし、四機のスピットファイアが失われた。僕ら56飛行隊は、奇妙なことに、ルフトバッフェのJG-56とよく対決した(*2)。

 ブルース・コールとともに、どこかでメッサーシュミット262と出くわすことを願いつつ、僕はライネ基地まで天候偵察に出かけた。僕はそれほど熱心になる気分ではなかった。途中、僕達はドルトムント-エムス間の運河に沿って飛行していたが、一機のフォッケウルフと出くわし、そいつは僕らに向かってきた。
「僕に任せろ!」
 とコールに叫んだが、しかし彼は、古いFw190-A8を、ホンモノのエキスパートのように扱う敵パイロットと戦い始めていた。僕たちは、敵を挟み撃ちにしようとしたが、失敗した。敵のパイロットには不運なことだが、2−3分後、彼は僕らを振り切ろうとした。そして、もう一度視界に入った時には、小さなカゲだった。僕は大した望みもなく発砲したが、百万分の一の偶然で、命中した。あわやという瞬間、パシュートが飛び出した(*3)。よかったじゃないか! 
 反転すると、何機かのタイフーンを護衛している56飛行隊の編隊と出くわした。その時彼らは、おバカなアメリカのP-51ムスタングの一団に攻撃されていた。アメリカ人どもは、いったいどこでこんな危険なビョーキを拾って来たのだろうか? 僕らが自分の状況を把握する前に、連中は、56飛行隊のグリーン中尉を撃墜してしまった。僕らは、優速で連中を振り切った。ブリュッセルのアメリカ軍司令部への電話回線はこの日、抗議の電話で赤熱しただろう。
 僕達は、あのアメリカのバカどもにはこちらの担当空域に立ち入る権限がなかったばかりか、あまつさえ、二機のタイフーンを撃墜したことを知らされた。撃墜されたパイロット達は、進路を横切る最初のP-51には発砲すべきだと分かっただろう。アメリカ人どもは、いつになったら友軍機の識別を学ぶのだろうか?

 天候は回復し、0800時、122航空団の三つの中隊が出動し、4機づつの小隊に分かれて、ライネからベルリンへ行く列車を捜索した。僕はタルボットイエロー小隊を指揮していた。離陸して5分後、損壊したコローニュ大聖堂の尖塔が、廃墟と化した市街地にそびえたっているのが見える中で、対空砲火を突破して、次から次へと三つの列車を攻撃した。小隊の二機が被弾し、フォルケルへ引き返した。僕らは二機に減ってしまった。僕は、孤独感を紛らすため、空しく他のテンペストの編隊を探したが、みんなどこかに消えていた。
 まあ、気にすることはない。僕はベルリンへ向けて90度コースを変更すると、超低空飛行を続けるうちに、オスナブリュックの近くで、二台の機関車にひかれた長い貨物列車を発見した。よく言われることだが、この任務ピクニックではないのだ。
 僕達の存在について警告されたからだろうが、列車は停止していた。そして、たいていの場合、対空砲を載せた無蓋貨車が少なくとも三両は列車に含まれている。砲手達は間違いなく、我々を照準に捉えているだろう。僕が攻撃するかどうか迷っていると、フォッケウルフに襲われた。ピーター・ウエストは、十分な時間的余裕をもって敵を発見し、僕に警告した。僕達は機首をめぐらし、雲に逃げ込もうとしたが、彼らが退路を断つ前に飛び込むには、雲は少々高過ぎた。さしあたって、一人でできることをするしかない。少しの間、「長鼻」が、僕の数メートル横を並行して飛んでいた。そいつは、新しいペニー硬貨のように光っていた。僕は、胴体にJG-26の、黒と白のストライプを認めた。僕らはいつも、同じ連中に出くわす!
 僕と敵のパイロットは互いに見つめあい、そして離脱した。僕は左へ、彼は右へ。それからは、何もなかった。空には何もない。僕はピーターを探したが、見つからなかった。しかし、奇跡的に274飛行隊の小隊の中でピーターと出くわし、一緒に三機のドルニエDo215爆撃機の編隊 -今やとても珍しい- を追い詰めた。追いかけはじめてから数分以内に、僕達はこの哀れな三機の同僚達を撃墜した。僕は、編隊の後ろの一機を攻撃した。テンペストの四門の20mm砲は、最後まで容赦なかった。ピーターはドルニエに撃たれて被弾したが、基地に帰ることができた。
 午後の終わりにも、僕はイエローとブルーの小隊を指揮して、超低空を飛行を飛行していた。他の連中は、ライネ基地にMe-262を待ち伏せしに行っている。ブレーメンのアウトバーンで、何台かの大型トラックを銃撃した。
 その時、天候はますます悪化し、険悪な空の下、視界は急速に悪くなって行った。僕は、天候がさらに悪化する前に帰投するのが良いと考えた。だが、時速400マイルで飛ぶ8機の戦闘機を率いて、凍った雲を通り抜けようとは思わなかった。僕はブーツから地図を引っ張り出して、機位を確認しようとした。僕が地図から顔を上げた時、思わず叫んだ。
「気をつけろ、前方に飛行場!」
 もはや避けることは不可能だった。僕は、二機のFw190-D9が離陸しようとしている滑走路の真上に居た。他のフォッケウルフは近くに駐機していた。管制塔はこっちを見ている。最初のフォッケウルフは、垂直にバンクして僕を避けた。僕は発射ボタンを押して、離陸しようとしていた二番目のフォッケウルフに命中させた。僕の銃弾は滑走路と、離陸しようとしていたフォッケウルフに命中して炸裂した。そのフォッケウルフは、長い炎の尾を引く追加タンクをコンクリートの上に残しつつ、翼の片方を滑走路につけてひっくり返った(*4)。
 頭を低くして、僕は攻撃を続けた。松並木に沿ってよくカモフラージュされた<長い誘導路の端に隠された半ダースほどのJu188を銃撃した。きっちり狙いをつけるには速度は速すぎ、左翼からの20mm弾は全くの無駄だった。
 帰路にも僕達は、林の中に停車していた少なくとも三〇台の燃料トラックを含むコンボイを攻撃した。彼らにとっては不運だが、木に葉っぱが残っていなかった。コンボイは巨大なかがり火になり、炎は100メートルまで立ち上った。一機のテンペストが、炎を通り抜けた。マッキンタイヤの機だ。機体が見えなくなった時、僕は一瞬、彼も炎に包まれたと思った。フォルケルに帰って調べてみると、塗料が焦げ、溶けて泡立ったりしていた。

  僕達が帰投すると、悲しいことにブルース・コールが撃墜されたことを知った。ライネ/ホップスタインの区間への攻撃は、有益な企図ではなかった。僕よりも先任のヒッバートが、中隊の指揮を執ることになった。
 122航空団の司令部では、ラプスレイ、基地司令と航空団司令、他の二つの飛行中隊の隊長による大きな討論会があった。犯罪的なホーカー社のストライキにより、航空団では機体が不足していた。274飛行隊は僕から二機のテンペストを持って行ってしまったし、飛行隊全体でも、定数の26機ではなく12機しかない。二番目のテンペスト装備の航空団の創設が、キャンセルさせたことも僕は知った。
 会議の翌日には、原則として486飛行隊が、274か56のどちらか移動する方と交代することになっている。移動する方の隊のパイロットの何人かは、同様にパイロット不足である残る二つの飛行隊に配属された。56飛行隊には、定数の24人に対して14人のパイロットしかいない。
 そして、テンペストには、少なくとも一度の作戦行動を経験したパイロットが操縦する規定があるのだが、増援のパイロット10人のうち9人は未熟だった。そして、この時のもっとも大きな不都合は、効果的な12機編隊 -典型的な4機x3編隊- が使えないということだった。航空団司令のブルーカー中佐は、機体とパイロットの不足という我々と同じ理由で、かつてマルタ島の航空団が採用しなければならなかった、6機で一小隊という"fluid six"隊形を採用することにした。この隊形は数で勝る敵と戦うには便利だったので、結局のところ、このアイデアはそれほど悪くなかった。
 朝食の後、僕は、広大な地域を掃討する新しいシステムを試すために送り出された。高度500フィートで、ハノーバー、マグデブルグ、カッセルである! 僕達はまた、鉛色の空と雲という、ひどい天候にもてなされた。対空砲陣地の配置は毎日位置が変わり、かつ密度が増えていく傾向にあったので、僕は注意深く配置を研究していた。
 編隊の僕の左側には、二つのペアがあった。一つは、先週この飛行隊に配属された二人のフランス人の一人、Deleuze少尉がリーダーを努めていた。僕達は、メッサーシュミット262の巣で、大きくて防御が固いランゲンハーゲン基地の対空砲を避けるため、大きな回り道をしなければならなかったのだが、その時突然、一ダースほどのFw190-D9の一団が、僕らの編隊の右側を通り過ぎ、反対側に飛んで行った。典型的なブービートラップである。その敵を探そうと、みんなそっちを向いたが、その瞬間、左側からカバーを突破された。ほどんど僕達の真後ろから、4機のフォッケウルフが、編隊の左外側の二機を攻撃した。テンペストが炎に包まれて地面にまっすぐ突っ込んで行く。何もかもがあまりにも早く、僕は反応できなかった。さらに二機が被弾し、その内一機は、悪い兆候だが、冷却液のグリコールの白い煙を曳いていた。僕は打ちのめされた編隊を連れて、基地に逃げ帰った。
 着陸した後、Deleuze少尉が撃墜されたことを知った(*5)。彼は経験豊富なパイロットで、501飛行隊がV-1を追いかけはじめた後に仲間に加わった。彼の記録を読み直すと、スピットファイアMkVを飛ばしてはいたが、テンペストでの飛行がちょうど二回目だったということを知った。少尉は、501飛行隊が作戦任務で撃墜した8機のV-1の、最初の一機を撃墜していて、それから9月にはBf109を撃墜していた。彼は、自由フランス空軍が創設される以前、非常に早い時期にイギリスに来た若いフランスのパイロットの一人だが、引き止められてRAFに残っていた。初めて会った時、僕はなぜRAFに入ったのかと尋ねたが、彼は、ドイツ人 -もうパリか立ち去っていたが- と空で戦うためなら、エスキモーの仲間にだって入ると答えた。


原注
*1 メタノールを使った冷却システムで、エンジンに短時間ながらエンジン出力を大きく増大させる。
*2 ドイツ側の記録では、この特筆すべき戦闘で、JG-56のFeldwebel Gertstensorerが自身の機体の中で戦死し、他に二人のパイロットが負傷した。
*3 パイロットは、JG-54第III飛行隊の、エーリッヒ・ラング
*4 この飛行場はアルドホルンで、ドイツのパイロット、Bott中佐は重傷を負ったが生き延びた。
*5 少尉の遺体は、1946年の末、オランダで、墜落した機体のクレーターの中から回収された。ベルトに巻きつけていたフランス国旗によって、身元が判明した。その旗は、彼が海峡を渡ってイギリスへ逃げて来る時に乗っていた、小さなボートに掲げられていた旗だった。

訳注
#1 1945年1月1日、訓練部隊も含めたおよそ900機の戦闘機を投入して行われた、ルフトバッフェの最後の大規模空襲作戦。アルデンヌにおける陸軍の攻勢を支援するため、オランダおよびベルギーの空軍基地を戦闘機による地上掃射で攻撃して、地上で敵の航空戦力を破壊しようと言う計画だった。十数か所の飛行場を攻撃して144機を破壊し60-80機を破損させたが、パイロットを殺傷することはできなかった。一方、対空砲の同士討ちも含めて300機を失い、240人のパイロットを失って戦闘機体は背骨を折られる結果となり、ドイツ本土に対する空襲の迎撃ができなくなった。
 クロステルマン氏のフォルケル基地は攻撃を受けなかった(もしくは大した被害が無かった)ため、過重な任務を課せられることになった。
#2 テンペストのエンジンは、気温が13度以下になると、極端に始動性が悪くなる。
#3 イギリスでは、戦時下でもこのようなストライキがたびたび発生している。100年もの悲惨な闘争を経て獲得した労働者の権利を、数年の戦争如きで手放せないと言うのが、労働組合の言い分であった。世論は、賛成と反対で五分五分だったようである。この時は1945年だが、まだ戦争の先行きが不透明だった1943年にも炭鉱ストライキが発生している。
#4 Jane Greyという女性を主人公とする、 Norman Pett作のコミックストリップ(comic strip)と言われるジャンルの漫画(連載1932-1959)。本文の説明が全て。下着姿がメインだったが、1943年を境に景気よく脱ぎだしたと言う。個人的な感想を述べさせていただくと、やたらと脱ぎたがるヘンな女の人でしかなく、萎えである。
#5 デビッド・C・フェアバンクス少佐 (David Charles Fairbanks 1923-1975) カナダ空軍のエース。最終撃墜数12.5(V-1一機を含む)。戦果の全てはテンペストで挙げた。アメリカ人だが、戦争に参加するためにカナダに渡った人。「撃墜王」では、撃墜数14で、本文の戦術で、ライネ基地上空でMe262を二機撃墜したとされているが、公認されたジェット機の撃墜は一機で、しかもドイツ側の記録ではMe262戦闘機ではなく、アラドAr234Bジェット爆撃機である。危険な行動ゆえにウイングマンを頻繁に撃墜されている。1945年2月28日、空中戦でFw190に撃墜され捕虜になった。
#6 No orchids for Miss Blandish (1939) ジェームズ・ハドリー・チェイス作のミステリー小説。邦訳あり。
#7 原文ママ。爆発したのが誰なのかよくわからない。味方の機だとしても、後の文章では、テンペストの損害について触れられていない。


エキスパートからのレッスン

4月22日

 もし火遊びをする時は、かならず火傷に注意しなくてはならない。午前一時、僕の生還を祝う大騒ぎのパーティーが終わり、食事代で、僕は財布に大きなダメージを被った。
 多分JG-26の301飛行隊のエキスパートパイロットにより−そうであると僕はいつも考え続けたが−、自分がバカに見える破目になったことで、ショックを受けていた。僕は、彼の住処の中にふらふら入り込み、プライドは十分かつ正真正銘にへこまされた。
 僕は部下達に、注意するように詳しく語って聞かせていた。どのルフトバッフェの編隊にも、常に二人か三人の「年寄り達」、スペイン、ポーランド、フランス、ロンドン、そしてしばしばロシアの戦場を生き残ってきた優秀なパイロットで、我々がこれまで学んだ以上のドッグファイトの経験を持ってる連中が含まれているからだ。僕はいつも、奇襲をさけるためにジグザグに飛行し、最大の視界を確保するための機動で主翼を振り回している彼らの飛び方で、本能的にそうした優秀なパイロットを見分けていた。彼らに対処する方法は一つしかない。単純に、交戦しないことだ。しかし、そうしたアドバイスに耳を貸さずに最期を迎えてしまう、能力不足で疑り深くもないパイロットはしばし見られる。キプリングの「ジャングル・ブック」で、100機以上の撃墜数を上げたドイツのエースパイロット達に相応しい一節を読んだことがある。
「虎は臭いもしないし音もたてないが、そこにいることは分かる。暗がりの中に何かがいる。君を待ち伏せている虎だ。」
 ある日、ついに虎は僕を捕らえた。
 その時僕は、6機のテンペストを率いて、オスナブリュック-ハンブルク間道路に沿って定期パトロールを行っていた。高度は6000フィートで、理論的には20mmの対空機関砲には高過ぎ、88mm砲には低すぎる。僕らは、積乱雲になりつつある層雲の間をスラロームしながら、列車、もしくは、超低空飛行をするドルニエ爆撃機の編隊を求めて地上をくまなく探していた。その時、Fw190-D9が、雲の中からトップスピードで飛び出してきた。僕はかろうじてそっちに顔を向けたが、その敵機のコックピットのガラスに反射する光の筋に目がくらんだ。その瞬間そいつが発砲し、僕の左翼が被弾した。そして、そいつは僕の下に滑り込み、僕の右側を飛んでいたマッケンジーを撃った。マッケンジーのテンペストは、主翼を半分吹き飛ばされてスピンし始めた、その後フォッケウルフは、とても追い付けないようなスピードで、湖に向かって急降下して行った。すべては一瞬の間のことで、僕には反応する時間がなかった。
 突然、親友のマッケンジーと、彼の素晴らしい犬が僕に飛びついてくる様子が心に浮かんできて、同時に僕の身体は怒りで満たされた。僕はそのフォッケウルフをやっつけることにした。僕はハーフロールから垂直降下に移り、眼下の輝く小さな十字架みたいな敵機に突っ込んで行った。今、機首はDummerseeに向いている。僕はそいつを見失ったりしなかった。僕はオーバーブーストを作動させた。7tの自重による加速と3000馬力にブーストされたエンジンで、速度計の針は危険なぐらいあっという間にレッドセクションに入り、"時速550マイル超過禁止"の表示に向かっていった。僕は、機首が重くなったように感じたので、操縦桿を引いた。
「ベイ、イエロー2とフィルムスター3、僕を援護しろ。あの野郎をぶっ殺しに行ってくる。」
 湖の上に来ると僕は機首を引き起こし、速度超過ではじまった危険な縦揺れを制御した。フォッケウルフはまだそこにいて、こっちに気が付いているようには見えなかった。そいつは、僕の前方半マイルほどの距離を保ち、高度はおよそ40フィートのところを飛行している。僕は太陽を背にしており、おそらく、僕の機体は非常に目立っているだろう。僕はそいつのプロペラ後流を避けるため、じわじわと脇へ寄りながら、彼の真後ろ1000フィートまで距離を詰めた。奴はまだ僕に気付かない。僕は光学照準器を下向きに調整した。視線を上げ、4門の20mm機関砲に通じる発射ボタンに指をかけた。そして…、フォッケウルフが消えた!この狡賢いキツネ野郎は、僕をだましたのだ。奴は間違いなく、最初から視界の隅で僕を見ていたのに違いない。僕が再び奴を見つけた時、僕の1600フィート上を、ロケットのように垂直に上昇していた。僕は首をねじり、気が狂ったように操縦桿を引いて、彼に追随しようとした。僕らはひたすら上昇した。あまりに激しく引き起こしたため、敵を視界に捉えることができない。機体が、失速の兆候でがたがたと振動し始めた。高度3000フィート以下でテンペストをテイルスピンに入れるのは、良い考えではない。チクショウめ! 僕はまたオーバーブーストを作動させると、テンペストは一瞬、ピンの上に乗っかったようにぐらついた。エルロンと格闘しながら、フォッケウルフを探す。奴はまた消えていた。
 突然、大きな破裂音がした。プロペラが突然停止するように、僕の心臓が一拍飛んだ。敵弾はエンジンに命中し、噴き出したオイルに風防ガラスが覆われる。続いて、別の20mm弾が風防を叩いた。脱出するには高度が低すぎるので、僕は機体をゆっくり滑空させて高度を下げた。速度を保ちつつ降下し、胴体着陸することに決めた。他に採るべき手段は無かった。
 湖に流れ込む小さな川の河口の傍に大きな緑の牧草地があり、そこにならたどりつけると僕は考えた。影が僕の上空を通り過ぎる。カッコいい「長鼻」フォッケウルフFw190-D9が、背中を下にして、僕の機体の上でロールしていた。僕は、はっきりとこっちを見ているパイロットの姿と、排気管から噴き出す小さな青い炎を見た。彼は、僕を追い越さないように速度を落としたので、まるで静止したようにみえる。僕には、そいつの胴体の白黒のストライプと、尾翼の黄色い塗装を観察する十分な余裕があった。僕は後に、それがJG-26のマーキングだと知る。奴は、僕をカンペキに馬鹿にした。僕はパラシュートをほどき、ストラップと胴周りの安全ベルトをできるだけ強く締めると、それから、キャノピーを吹き飛ばした。ほんの数秒しかかからない。奇跡的にもフラップが下がった。降着装置は引っ込めたまま、僕は不時着した。噴き出した真黒い泥が滝のように降ってきて、どどっとコクピットと機体にかぶさる。泥炭地に着陸していた。テンペストは、なめらかな地面を滑り、大した損傷もなく停止した。

 パニックを起こして僕は飛び上がり、外すのを忘れていた酸素マスクのゴム管に、一瞬引き止められた。ゴム管はちぎれ、銅のノズルが飛んできて僕の顔にぶつかった。泥まみれの主翼の上をすべり、泥の中に尻餅をついて落っこちながらも、フォッケウルフのエンジン音が戻ってくるのが分かった。一瞬の光景で、僕の頭上数メートルのところで、僕はその黒白の螺旋模様のプロペラハブがまっすぐ向かってくるのが見えた。僕は本能的にはいつくばったが、彼は発砲せず、ただ、別れの敬礼に翼を振っただけで、ポプラの低い木立の向こうに消えていった。一ダースくらいのFw190-D9が、僕の真上を通り過ぎて東に向かって飛んでいった。
 ショックと完全な茫然自失で、僕は、自分を探しているであろうテンペスト編隊のエンジン音が聞こえなかった。全てがあまりにも早く起こり、僕は、自分が夢を見ているのか否か、確信が持てなかった。
 僕はタバコに火をつけたが、僕の口はからからに渇いていており、タバコを吐き出してしまった。心臓が胸の中で爆発しそうに感じられ、自分の呼吸をコントロールすることが出来ない。
 さて、さしあたっての問題は、ここが戦線のドイツ側なのかということだ。周囲には激しい動きがある。丘の向こうののアウトバーンでは、ごろごろと音を立てて戦車が走っていた。
 雷鳴のような砲撃が続いているだから僕は、泥炭地に接する狭い道路を走ってくる車の音が聞こえなかった。三人のアメリカ兵が乗ったジープで、僕の姿を目にするや否や、機関銃をこっちに向けた。戦闘服についたRAFのウイングマーク、肩の「フランス」の文字と機体にはっきり描かれた円形標識はどうにか連中に僕が味方だと納得させたが、その前に時計と財布とリボルバーはとりあげられ、ライフルの台尻で横っ腹をぶん殴られた。122航空団司令部からの連絡により、アメリカの小さな105スティンソン機が数時間後に現れ、建設途中のアウトバーンの未舗装の路盤に、巧みに着陸した。そしてさらにいくつか器用に動いた後、僕を無事に基地へ送り返してくれた。
 僕が帰って来た時は、ちょうどディナーの時間だったので、まっすぐ食堂へ行った。そこでは、僕は大喝采で迎えられた。僕の部下二人は、プラカードを振り回している。プラカードにはこう書かれていた。
「任せておけ、朝飯前だぜ! (Leave it me, Piece of cake !)」
 ベイ・アダムズが主張するには、援護するように命じた後、僕はこう言ったらしい。僕は自分がそんなことを言ったなんて信じなていない。しかし戦争が終わるまで、この言葉は僕にずっとついて回った(*)。

 過去三ヶ月間の損害により、僕達は死者に無関心になるばかりではなく、死に免疫が出来ていた。しかし、例のFw190D-9がマッケンジーを撃墜した後、僕達は深刻な影響を受けた。それは次のような理由からである。
 前年の12月、マッケンジーはアントワープの動物園の飼育係と出会った。戦争と占領で肉食動物の飼育が不可能になったため、飼育係は、肉食動物を射殺しなければならなかったが、肉食性で無い動物には、そんな問題は無かった。飼育係は、カナダの灰色狼を起源とする(#1)、シベリアン・ハスキーの子犬三匹を救っていた。マックはその一匹を買って、パラシュートバッグに入れて持って帰ってきた。
 その犬はとても美しかった。僕がそれまで見たどんな犬よりも容姿端麗だった。その犬はすぐに、主人に対する排他的な忠誠心と、はなはだしく獰猛な攻撃性を証明した。元来より、先祖から受け継いだ恐るべき牙を持っており、なでることは勿論、近づくことさえ無理だ。彼はマックの側を片時も離れず、いつも彼のベッドの下で眠り、主人の手からだけ餌を食べた。彼の名前はヌーク(Nook)と言い、マックが出撃しているときはいつも、彼の駐機位置の車輪止めの側に寝そべって、主人が帰ってくるのを待っていた。
 マックが撃墜されて戦死した日も、ヌークはいつもの場所で待っていた。ヌークはその場所にとどまった。近づきがたい感じで、動かず、飲まず食わずで四昼夜その場から動かなかった。5日目の朝、滑走路の上に倒れているヌークを憲兵が見つけた。憲兵はヌークを徹夜の場所に戻そうとしたが、ドイツ人の農夫が撃った銃弾が致命傷だと分かった。その農夫は撃ったことを否定したが、僕達は、ヌークがその農夫の羊を襲ったからではないかと想像した。その夕方、マッケンジーの誠実な相棒、ヌークを埋葬したが、皆の目には涙が光っていた。

 1996年、コローニュで戦闘機パイロットの親睦会があり、そこで僕は、7/JG-26の指揮官だったヴェルナー・モルヒと長い時間話をした。彼が言うには、1945年4月に僕を撃墜したパイロットを探した結果、三人の候補者が見つかったと言う。二人はJG-26、もう一人はJG-301の所属だと言う。
 JG-26には、テンペストキラーとして尊敬されている二人のパイロットが居た。ゼフィング(Soeffing)とドルテマン(Dortemann)と言う。後者は、3月28日から4月30日までの間、JG-26が撃墜した14機のテンペストの内、8機を撃墜していた。RAFの記録でも確認されている数字である。僕の脱出劇のあった日にはまた、JG-301のルディ・ウルフの撃墜が一致していた。
 モルヒによると、JG-26の第I飛行隊の指揮官だったドルトマンが、最も可能性の高い候補者だと言う。ドルトマンは、Dummersee地区で、二機の撃墜と一機の撃破を宣言していたからだ。実際のところ、ドルトマンが最初に撃った僕の編隊の一機に関して、彼が炎に包まれているのを見ておらず「撃破」と信じていたとすれば、ドルトマンは二機ではなく三機のテンペストを撃墜したのだろう。これは、二つのことから証明される。先ず、ドイツのパイロット、特に中隊長であるドルトマンのようなエースは、絶対に確実でないかぎり、撃墜を宣言しない。そして第二に、彼らは実にすばらしいパイロットなのだ! 面白いのは、ドルトマンがテンペストではなく二機のスピットファイアXIVだと報告していることだ。両方とも、同じ楕円形の主翼を持っている。

原注
* RAFは毎月、アドバイスの他に、失敗やパイロットの愚かしい行為に関する情報も含んだ内部向けの広報を出している。さまざまな問題で一万人に一人のパイロットが、「動かない指勲章」を受けているので、「鼻の上から指を外し、周りの空で何が起こっているのか注意すること。」という記事があった。別のコラムには、その月でもっとも有名な最期の言葉というのがある。1945年6月後期の号に、僕は見出し付きで登場する栄誉を得た。
「我が力強きフランスの友人、不滅の言葉を残し、ウィットと優雅さとともに戦争を終える。『任せておけ 云々』」かくして僕は、歴史に残った!

訳注
#1 実際はスピッツに近いらしい(笑)

 この後の章にはいくつか短い未訳の文章があるが、省略。


"不法な交流"事件

(冒頭の、休戦を知って感慨にふける部分は朝日ソノラマ刊「撃墜王」に訳出されているので略)

  それは5月9日だった。戦争はもう遠いことのように感じられた。パイロット達は、帰郷の計画を立て始めている。ブロディ将軍の副官の一人を呼んだ時、彼が僕にこっそりと言うには、我々は思ったほど早く故郷に帰ることはできず、しかも訓練飛行は続けることになるという。ロシア人との関係がうまくいっていないからだと思われた。
 昼食の最中、慣れ親しんだ、特徴的ににぎやかな航空エンジンの音が聞こえてきた。急いで外に飛び出した僕達が見たものは、完璧な隊形を保った5機のメッサーシュミット262で、長い躊躇の後に着陸しようとしていた。RAFの高射砲連隊の士官が走ってきた。
「どうすりゃいい? 撃とうか?」
「あんた、バカなことを言うなよ。戦争は終わった。あんたの楽しみのおかげで、また戦争をおっぱじめるわけにはいかないんだ。」
 262は、最後の機を除いては完璧な着陸をした。最後の機は、胴体に描かれた黒い二重のシェブロンでリーダー機だとわかった。彼は故意に滑走路の端で擱坐した。おそらく機体を無傷で渡さないために、降着装置を引っ込めたのである。
 僕はジープに飛び乗り、その262の元へ急いだ。パイロットは立ち上がり、バックミラーをのぞいて髪の毛を整えていた。その男は、長すぎる髪に、破れたヘルメット、そして白いシルクのスカーフに粋な黒い革の飛行服といういでたちで、首には柏葉付き騎士鉄十字章のリボンが見える。ドイツ国防軍の最高勲章の一つで、間違いなくエースなのだが、肩章を見ても、彼の階級がどのようなものか僕にはわからなかった。僕はジープを飛び降り、まっすぐ彼に向って言ったが、突然に、そしてほとんど無意識のうちに握手をしていた。彼はホルスターからリボルバーを抜いて、僕に差し出した。その銃は、四角い木製の床尾がついた、まさしく戦前型のルガーで、珍しい品物だった。さらに僕を驚かせたことに、彼は完璧なフランス語で僕に話しかけてきた。
「私は、貴官にこの銃を進呈したい。」
 僕は、なぜフランス人だと分かったのかと彼に尋ねた。
「私は、貴官の肩の『France』という文字を見たし、ヘルメットがイギリス軍のものと違う。貴官が士官でないなら、なぜ戦闘服に袖章をつけている?我々は、家ではいつもフランス語を使っている。コローニュの出身で、ラインのすぐ側に住んでいた。戦争が始まる前は、我々はいつもフランスで休日を過ごしていた。」
 この時、ジープに乗った二人の中佐がやってきた。「他の連中を集めてきてください。」僕は彼らに言った。「僕らは彼らをどう扱ったら良いかわからない。でも、僕らが外で作業している間、ドイツ人達を食堂へ連れて行って、飲み物と何か食べ物を出しましょう。勿論、士官用の食堂で。」
 我がルフトバッフェの中佐(#1)は体を洗いたいと言ったので、僕は彼を自室に連れて行き、剃刀とシェービングクリームをあげた。シャワーを使った後、彼は僕のタオルを被って現れた。彼はがっしりした体格だったが、体中に傷があった。彼が言うには、これまで5回撃墜され、4回負傷し、3回パラシュートで脱出したと言う。
 メッサーシュミット262が着陸してから一時間が経ち、突然、かすかだが力強いエンジン音が聞こえてきた。それは、小さなドイツの4人乗り連絡機、メッサーシュミットBf108で、これは何の儀式なしに着陸してきた。これは中佐の伝令の機体で、彼の荷物を持ってきたのだった。
このドイツ人達には、全く驚かされた。
  中佐は、ロシア人の手の中に残すことができなかった看護婦二人を連れて、包囲されたプラハからやって来たのだと言う(*)。彼は、かかとをカチカチ言わせて僕の部屋に手荷物を運びこむと、申し分のない敬礼をした。ナチ敬礼ではなく、手を帽子の前ひさしにあてる古典的な敬礼だ。ルフトバッフェのパイロットは、以前からナチ式の敬礼はしていなかった。
 我がチュートン人のお仲間は、下着姿でスーツケースを開け、中からよく磨かれた靴と、非常にエレガントな白い制服の上着を取りだした。ドイツ国防軍では、戦闘機パイロットは貴族階級なのだ。彼は私物の中を探しまわって見つけた、金箔の鷲とスワスティカという、パイロットの紋章に飾られたログブックを僕に手渡した。僕は最後のページをちらっと見てみた。百機以上の撃墜が記録してあった。
 一杯飲むために彼を食堂へ案内しようとしている時、見たいと言われたので、テンペストを至近距離で見せてあげた。僕は自分の機体を見せた。なぜなら、胴体の黒い十字(撃墜マーク)も見せられるからである。しかし、撃墜マークが彼にあまり感銘を与えたようには見えなかった。だが、機体の方には感銘していた。彼はテンペストを素晴らしいと考えた。
 僕は食堂で、ドイツ人とビールを飲んだ。彼は、とてもリラックスした様子でイスに座っていた。僕は、この地域を管轄しているカナダ第二軍の司令部をつかまえようと電話をかけた。僕の忍耐が限界に達したちょうどその時、やっと誰かが応答した。たぶん、将校付きの伝令だろう。停戦に関する儀式が進行中なのか、後ろで歌ったり叫んだりするのが聞こえた。結局、電話に出たのは伍長代理だった。間違いなく、この男は足を机の上に投げ出し、片手にはウイスキーのボトルを握っていただろうが、気にせず、僕は彼に話しかけた。
「捕虜が5人いる。どうしたら良い?(#2)」
 彼は笑い、こっちに捕虜は五百万人いる、僕はくたばっちまえ、と言うことだった。そして、彼は電話を切った。
 こうした状況なので、僕達はドイツ人達を、ビールの洪水付きの夕食に招待した。言葉が通じないにも関わらず、我々は、戦闘機パイロットが戦闘の事を話すのに使う、古典的で普遍的なジェスチャーで互いにコミュニケーションをとった。会話を助けるため、大きなドイツの地図がテーブルの上に広げられた。我々は、お互いが遭遇したり、交戦したりした場所を指差しあった。これは、栄光に包まれた戦闘機パイロットのプライベートな世界だった。
 ドイツ人が来て八日目になった。しかしそれ以上、ドイツ人のことを秘密にすることはできなかった。秘密をもらしたのは、空中で戦ったことが無い、数人の地上員のバカ者だった。しかし誰一人として、このことに抵抗したり抗議したりしなかった。ドイツ人のうち二人は、変装のため民間人の服を要求し、そのまま家路についた。残りは、オレンジ、チョコレート、タバコの重荷を持たされて、捕虜収容所へと送られた。なぜだ? 彼らはよく戦い、撃墜された連合軍のパイロットの扱いも良かった(#3)。戦争は終わり、我々は名誉とともに生き残ったのに。
 この素晴らしい平和な時の間、僕らとルフトバッフェの仲間達は一つだった。水泳パンツ姿で地下の水泳プールに居れば、あなた方に僕らを見分けることはできなかっただろう。

1945年5月12日

 戦争は、完全にそして本当に終わった。上部からの指令にも関わらず、訓練はかなりリラックスしていた。ある特にコミカルな事件が、敵国市民との交流に関する、最高司令官(アイク・アイゼンハワー)その人からの命令が、その命令が出されるもっともな場合であるにも関わらず、尊重されていなかったことを証明した。
 あざけりは誰も殺さない。我が「最高司令官」は、1945年のドイツという巨大な売春宿の中で、交流が禁止されているドイツ人と、禁止されていないポーランド、ヨーロッパ、バルカン半島から追放されてきた女性労働者とをどうやって見分けるべきかを教えていなかった。
 ある朝、軍医が僕に報せに来た。注意深く選んだ、やや当惑させられるような典型的な英国紳士の言葉遣いで、軍医は不快な話題を切り出した。飛行隊の二人のパイロットが、軍医が婉曲に言う「性的感染症」、つまり性病に罹ったと言う。慈悲深き神よ! ペニシリンはどうなんだ?
「もちろん、彼らを治療できます。」医者はそう返答した。「しかし、規則では報告書が要求されています。」
 僕は軍医に、報告は翌週まで待ち、その間に治療してくれるように頼み、時が来れば何とかなるさと軍医に言った。
 彼は返答せず、その無口な様子が僕を心配にさせた。僕は、部下のパイロットに対して懲罰を行うような司令部に従う気はなかった。彼らは、6週間続いた戦闘の後、ブリュッセルで雨の週末をリラックスして過ごしただけなのだ。すべての食堂に、アイゼンハワー司令官の命令を遵守するように促す厳格な注意書きが掲示されていたのは、つい先週のことなのだが、それにも関わらず、僕は大事件を引き起こす危険を冒していた。だが確かに問題はあった。そのパイロット達は、どこでそのみっともない悪魔につかまったのか? 僕も、どうやったら捕まるかは知っている。しかし、どこで、そして誰からなのか?
 僕は、罪を犯した連中を尋問のために呼びつけた。彼らは、狼狽しながら部屋に入ってきた。僕は、君たちは幸運だ、僕自身がフランスのならず者であり、ことの全てがとても面白いと思っている。アメリカ人どもはこちこちの偽善者どもだ、などと彼らに話しかけた。
 僕は自分の考えを付け加えた。可能な限り事件は揉み消す、しかし、事の詳細はすべて話してもらわねばならない。彼らが微笑したのを見て、僕は、伝えてもらった情報は、僕が個人的に使うようなことは無いと保証した。
 そして僕は真相を知った。二人の友人とともに、ヘルマン・ゲーリング所有の森林に鹿狩りに行った時−これも禁止されている行為の二番目なのだが-、森の奥から音楽が聞こえてきた。そしてその源を探すと、奇麗な狩猟ロッジに出くわした。そこには、十数人の若い女性達が居た。恐らく、ドイツ兵の慰安のため、占領地から連れて来られたのだろう。彼女らは、戦闘と戦争の無秩序から逃れ、そこに貯蔵されていた素晴らしいワイン、シャンパン、贅沢な食料品、キャビア等の豊富な品物と共に暮らしていた。我らが「探検家」達は、自分たちの発見を他人と共有するつもりはなく、沈黙を保ちつつ、用心深くそのロッジを訪れ、そこで営まれている楽しい生活に加わったのだった。
 僕は、RAFの名誉のため、この事件は秘密にするべきだと軍医を説得した。そして、軍医の仲間意識(esprit de corps)に感謝し、パリかブリュッセルで一週間を過ごす許可を与えた。密通の咎持ちの部下には、ロンドン塔に監禁され、トラファルガ広場で打ち首にされるぞと脅して、完全な沈黙を命じた。

原注
  この262飛行隊は、プラハ近郊のリュジネ(Ruzyne)を基地とするIII/KG(J)から来た(#4)。

訳注
#1 この人物については、名前が書かれておらず誰だかわからない。法的な差しさわりがあって実名は挙げなかったのだろうか? 手がかりとして、中佐で隊長クラス、柏葉付き騎士鉄十字章の佩用者、100機の撃墜、何度も撃墜されていることである。プラハ駐留のMe262使用部隊は7つあり、それらの隊長の内、100機の戦果を書き込んでいそうなのは、Stab.JG7のテオドール・ヴァイゼンベルガー少佐(208機)、I./JG7のウォルフガング・シュペーテ少佐(99機)だが、階級が該当しない。KG(J)6の隊長、ホーゲバック中佐が可能性が高そうだが、爆撃機パイロットからの転換なので撃墜数は少ない。勲章も一ランク上の剣付き柏葉をもらっている。ただ、ログブックに書かれていた「撃墜(原文victory)」が空対空以外の戦果も意味しているのかもしれない。
#2 原文ママ。Bf108のパイロットが数に含まれていない。
#3 空軍に捕まれば確かにそうだったが、ゲシュタポやSSに捕まればそうでもなかった。それから、民間人の服を着て逃亡すれば、ドイツ国防軍の法規にも抵触する可能性がある。
#4 原文ママ。III./KG(J)の後に番号が無い。リュジネにはKG(J)6とKG(J)54の第III飛行隊が配置されていた。この二つに加えて、Me262装備の飛行隊はさらに5つ、リュジネに配置されている。


悲劇的失敗

 悲劇は、喜劇のすぐ後にやってきた。ブレーメンスハーフェンでの衝突事故のショックは、5月12日の狩猟小屋事件に陰を落とし、完全に覆い隠してしまった。疑いなく、事件は書類仕事の中に埋もれただろう。その後僕は、前日の事故について書きとめている時もまた、突然、全身に冷や汗が吹き出したりした。そして、技術的な意味でも個人的にも、事故のことを受け入れようと僕は努力した。僕はあの時ほど死に近づいたことはなかった。
 モントゴメリー −我々、第83戦術航空軍は、彼の作戦を支援し、その受け持ち区域を上空援護していた−は、ロシアの総司令官、ジューコフ元帥を招待し、1944年7月24−25日、および28−29日の夜間空襲で破壊されたハンブルグの残りの部分を訪問した。ドイツ第二の都市には、事実上、残っているものは何もなかった。この機会にRAFは、ブレーメン上空で軍事力を見せつけることにした。ヴィッテンベルグにエルベ川を渡る浮橋をかけられ(#1)、5000人のロシアの空挺部隊がデンマークのボルンホルム島を占領するために派遣された後では、有益な演習だった。ソビエトと西側連合国の関係は危うかったのだ。
 それは非常にばかげたアイデアであり、司令部の要求したことを実行するには非常に困難だった。
 我々は、B-25、モスキトー、タイフーン、テンペスト、スピットファイアを装備する100の飛行隊からなる40の航空団で整列して、編隊でパレード飛行を行うことになった。不可能な任務だ。テレプリンターで届いた作戦命令 -D書式- は、きついスケジュールで、待機空域、高度、登場の順番、そして中央完成からの無線周波数まで指定してあった! 僕は、二人の隊長と命令を検討してみた。非常に厳しく、危険な命令だった。狭い空域の中で、性能が異なる1000機以上の航空機による協調行動は、無鉄砲の境界線上にある。戦争が終わったのに、パイロット達はこの上、また別の問題に直面しなければならなかった。理論的には、それぞれの航空団には、12機からなる中隊が三つで構成されていた。僕らの順番は18番で、17番のモスキトーと、19番のスピットファイアXIVの編隊の間に位置していた。
 12の集合地点が指定してあり、僕らの場合は、オスカーというコードネームが割り振られた、ハンブルグの南のエルベ川の屈曲部にあるWinsenという小さな村だった。管制塔(コードネームはジュピター)からの指示に従い、我々は行列の所定の位置に入る。朝食の後、新しい航空団司令官、マッキー中佐−前日に着任して、指揮を引き継いだばかり−がシュレスヴィヒの司令部に呼び出されていて、パレードの時には戻ってこられないことを知った。それで、このキチガイじみたショーで自分の航空団を指揮する責任は、僕が引き継ぐことになった。選ばれた36人のパイロットに対して説明する時間は僅かしかなく、出発時から神経を使わないよう、待機空域までは広間隔隊形で飛ぶということを説明した。もっとも僕達は、このパレードに参加するということそれだけでイライラしていた。要求されていることを実行するには、僕達は機動の一つ一つに細心の注意を払わなくてはならないだろう。−減速、加速、旋回−どれも簡単にはいかないだろう。僕はまた、最も重要なことだが、「密集隊形 ゴー!」の指示を下した時には、燃料をメインタンクに切り替えるように命じた。
 待機空域には、膨大な数のスピットファイア、おそらく500-600機が飛行しているはいずだ。D書式が命じるには、パレードの順番が回ってくる時間はきっかり1155時であり、僕達は、17番のモスキート(幸運にも、非常に識別しやすい)と、19番のスピットファイアの航空団の間にきっちりと入り込むことに意識を集中するつもりだった(300機のB-17フライングフォートレスを飛ばすため、アメリカ人達が0345時起床、朝食は0430時から0500時の間であることを念押しして、最終的に0700時に目標に向かって進撃する前に所定の位置に集合するため、2時間もの余裕をみておくかを考えれば、多くの場合、ドイツのレーダーがルフトバッフェの防空網に警報を出すのが間に合うのが何故かも理解できるでしょう)。
 離陸の時間が近づくにつれて、僕は急速に不安が増してきた。しかしながら、離陸と編隊の形成には、なんの問題も起こらなかった。Winsenに近付いた時、管制塔が連絡してきた。
「ハロー、フィルムスター、少し遅れが生じた。新しいタイミングは1205時だ。指示するまで、オスカー空域で旋回せよ。」
 「少しの遅れ」は婉曲な表現に変わり、僕が無線で聞いた罵詈雑言は、その事情を語っていた。僕は編隊を、ゆっくりと注意深く、一周6マイルの360度旋回に先導した。
 1210時、管制塔は、僕らにハンブルグ上空へ向かうように指示した。たくさんのハチの群れのように、それぞれの飛行中隊は、巨大な縦列の中の、それぞれの所定の位置に入り込もうとした。ようやく、僕はハンブルグを視認した。奇跡的にも無傷で立っている二本の工場の煙突、そして爆撃で破壊された大聖堂の壁により、ブレーメンスハーフェンへの進路を調整する。僕は空を見渡し、17番の編隊を探した。
「フィルムスターリーダー、こちらブルー1。モスキトーは10時方向、やや上方!」
 ケン・ヒューズがこれまでのように警告した。確かに17番の編隊で、僕達はゆっくりと左側につき、編隊の中に滑り込んだ。
 パースペックスのフードを通って差し込む陽光に、僕は汗ばんだ。神経質になり、気がつくと徐々に減速していた。僕はコックピットを開いた。モスキートの編隊に近付き過ぎており、そのスリップストリームに対処するのは簡単なことではなかった。しかし、僕達は正しく編隊ほ形成して、瓦礫や残骸がきれいに片づけられた街区の真上に差し掛かった。我々が市街を横切っている時、瓦礫の下の、炎で焼け焦げた何万という遺体のことを考えた。ゴモラ作戦の恐るべき二波の空襲で5000トンの爆弾が投下され、その結果、10万人が犠牲になった。
 ブレーメン港の波止場は車両で混雑しており、僕には、兵士達が、ジューコフ元帥と随行のアメリカ人やイギリス人の立つ演壇の周りを行進しているのが見えた。これらの人々に対する慈善興業のため、僕らは冷や汗をかいている。僕は少し前に、文字通り、破壊されたハンガーと倒れたクレーンの残骸に覆われたこの港を見たことがあった。
 やれやれ、僕達は上空を通過した。少し高度は低かったが、編隊が精密だったことは、後の査問会によって確認された。僕達は、フォルケル基地のビーコンの信号に向かってゆっくりと旋回しながら、再び高度を取った。高度3000フィートで、みんなのイライラを和らげるためにも、僕は編隊に散開を命じた。機がばらばらの方向に動き始め、美しい青い空を背景に、陽光が翼に照り返していた。
 突然、ヘッドホンから悲鳴が聞こえてきた。
「神よ!」
 あの瞬間はまったく信じられなかったが、僕は飛行機の残骸が宙を飛ぶのを見たし、恐ろしい衝突の音が、僕の機の胴体に反響するのも聞いた。
 目撃者の証言と査問委員会の報告によれば、事件の可能性として、僕の二番機が燃料系をメインタンクに切り替えるのを忘れたため、追加燃料タンクを使い果たし、エンジンが停止した。彼のテンペストは、文字通り三番機の真上に落下し、乱暴に追突された三番機は、二番機を空中に弾き飛ばした。そして三番機のプロペラが僕の機の胴体に切り込み、破片のシャワーが四番機を乱打した。三〇機以上のテンペストの編隊が緊急に分散するという状況で、それ以上の衝突が起こらなかったのは奇跡だった。
 僕は完全に恐怖にとらわれていて、この瞬間のことは、その後何年も、悪夢の中で繰り返された。僕はその時、小さな雲をコース維持の補助目標にしていたので、ジャイロ指示器で自分の位置に注意していなかったが、一瞬の間にその雲は上の方に消えてしまい、代わりに僕の視線には、飛行場と、野戦病院のテントと大きな赤十字が入ってきた。僕の目の前では、全ての物がぐるぐる回りながらひしめき合っている。生存本能が僕を突き動かした。僕は、ネコの顎にとらわれて振り回されているハツカネズミのようだった。
 地上では何が起こっているだろうか? もし僕が脱出しなければ、死んでしまうだろう。急げ、行動しろ、逃げるんだ。強烈なテイルスピンが、僕をシートに押し付けた。鉛のように重く感じる腕で、キャノピーを排除しようとした。そして突然、遠心力によって僕は乱暴に外へ放り出された。ブーツの片方は座席に引っかかったままになったし、飛行帽は、計器盤に接続されたままのヘッドホンのコードのおかげで、頭からもぎ取られた。
 僕は胸を手探りして、パラシュートの開傘ボタンを探した。僕はパニックに陥っていた。地面がすごい勢いで僕に迫ってくる。パラシュートが、二門の大砲が吼えるような音と供に開き、背中から生垣の上に乱暴に落ちた。その後、パラシュートの天蓋は、絡みついている有刺鉄線の方に僕を引きずった。僕は自然にハーネスを外したが、その間ずっと震えていた。僕は座り込んだまま、喉が塞がれて息ができず、飛行機が地面に突っ込む時に地面が揺れるように感じていた。炎とまじりあった黒煙の柱が4つ見えた。僕は立ち上がった。口の中は苦く、パニックで渇いている。他のパイロット達はどうなったんだろう? 僕は、よじれてタイマツのような格好になった、半開きのパラシュートを見た。飛行場の近くで、そう遠くはない。僕はよろめきながらそっちへ向かい、死体を見つけた。神よ、ピーターだ! テンペストが頭上を通り過ぎた。二機が編隊から離れ、翼を振りながら僕の真上を飛びすぎた。僕は足から力が抜け、膝をついた。そして、すくみあがりながら嘔吐した。僕はとにかく、地面に横になって眠りたかった。
 ドイツ語で僕に話しかける声が聞こえる。僕は漠然と、「クランケワーゲン(救急車)」という言葉を聞き取った。僕の上にかがみこんでいた女性が手を貸して僕を支え、つまづきながら農場の方へと連れて行った。ブーツをはいていない僕の足は出血し、避けたズボンを血でぬらしていた。彼女は僕にグラス一杯のシュナップスをくれ、僕はすぐに気分が良くなった。彼女は、小さな男の子を道の見張りに送り出した。一時間45分後、子供からの警報により、救急車を連れたジープが僕を探しに来た。ジェイムソン中佐その人であり、取り乱した様子だった。彼は、他の三人は死亡したと僕に伝えた。ピーターは脱出した高度が低すぎ、キャンベルとロバートソンは脱出できなかった。長く、つらい戦いを何年も経験した後に、なんという恐ろしい運命だろうか。
 彼らの母親達に、僕はなんと手紙を書けばいいのだろうか? 日々を不安な中で過ごし、戦争の終わりという唯一の救いを、僕の報せが打ち砕いてしまうのだ。 
 
 コペンハーゲン近辺の島々のドイツ軍の降伏を受け入れる英国第二軍団司令官、デンプシー将軍を護衛するという任務を帯びて、航空団はコペンハーゲンへ向かった。降服したドイツ兵達は、大きな巡洋艦ケーニヒスベルグ(#2)に守られていた。巡洋艦は、レジスタンスがドイツ兵の髪の毛一本に触れでもすれば、街を砲撃すると脅迫していた(#3)。デンプシーの飛行機はダコタで、時速180マイルほどで這うように飛んでいた。コペンハーゲンに着陸するなと言う命令にも関わらず、僕は、飛行隊に着陸させる決心をしていた。ダコタのゆっくりとしたスピードに合わせたため、帰路を飛ぶのに十分な燃料が無くなったのだ。この任務に連れて来た7人のパイロットは、熱烈に着陸したがった。デンマークの女の子の評判はよく知られている。すぐに実行に移した。大きな軍艦旗を掲げたケーニヒスベルグに注意して水平飛行をした後、首都の空港であるカーストラップに着陸した。テンペストのエンジンに必要な、特殊な130オクタンの燃料が到着するまでの何日間か、僕達は、解放に酔う空気に囲まれて暮らした。
 二週間後、我々の航空団は、クリスティアン国王により、コペンハーゲン市の賓客として招待された。RAFは7月1日に、各国のプレス向けに、派手なエアショーを見せることにした。僕は、テンペストで単独の展示飛行の任務を与えられた。予兆の読み方を知っていたなら、僕は自分の直感に逆らわなかっただろう。愛機「グラン・シャルル」はオイル漏れだった。5月12日にもそうだったように。しかし、僕の強情と、他の誰かを墜落させたくないという考えから、僕はブルースの新しい機体を行事のために借りた。
 参加した飛行機は、非の打ちどころがない隊形を整え、群衆と、はためく多くのデンマーク国旗に飾られた町の上を低空飛行で通過した。その後で運命が介入し、怖れてはいたが、愚かにもありそうにないことだと僕は信じていなかった結果を持たらした。ばかげた判断ミスだったのだ。
 全てが悪い方に向かっているように思えた。降着装置が途中で止まってしまい、出力を上げようとする僕の必死の操作にエンジンが反応しなかった。時速200マイルでテンペストはついに降参して墜落し、半マイルにわたって折れた翼、エンジン、尾翼などの破片をまき散らしながら分解した(#4)。
 救急車が、怪我はしていなかったが茫然自失の僕を乗せた。僕はようやく、この事故は僕に味方する運命の至高の努力であり、その最後の奇跡で、最後の警告なのだと理解した。運命は、僕を守るのに飽き飽きし始めたのだ。
 公式記録に残っているが、救急車は、飛行場に隣接した海岸の、対戦車バリケードの間に墜落していたテンペストの破片の中から僕を拾い出した後、VIP席の前で憲兵に停車させられた。ブロードハースト空軍司令官とデンマーク国王が、僕の容態について知りたがったのだ。光栄なことに国王陛下は僕に握手し、フランス語で「幸運を」と仰られた。1943年から僕は知っているブロードハースト将軍は、僕の上にかがみこみ、皮肉っぽい笑みを浮かべつつ低い声で言った。
「よくやった、クロステルマン。君は物事を盛り上げる機会を決して逃さないな。」
 数日後、僕はコペンハーゲンの王宮に招かれ、クリスティアン10世国王よりDannebroed勲章を授けられた!

訳注
#1 ソ連側の管理地域からの進軍が容易になったと言う意味。
#2 コペンハーゲンにはドイツ海軍の水上艦が逃げ込んでいた。しかし実際には、ケーニヒスベルグは既に沈没していた。同型艦であるニュルンベルグか、重巡洋艦プリンツ・オイゲンの間違いだと思われる。
#3 法的には問題ない行動なのだが、ドイツ軍のこうした居直り強盗的態度が反感を買い、却って復讐心を煽ったと言う指摘がある。
#4 事故の状況の説明は、朝日ソノラマ刊「撃墜王」と若干異なっている。


 この後、クロステルマン氏は8月27日に除隊し、愛機「グラン・シャルル」に別れを告げて帰国する。


付録

ピエール・クロステルマン大尉の戦果

空中戦での確認撃墜
フォッケウルフFw190 19機
メッサーシュミットBf109 7機
ドルニエDo24 (飛行艇) 2機
フィゼラーFi156(シュトルヒ) 1機
ユンカ−スJu252(輸送機) 1機
ユンカ−スJu88 1機
ユンカ−スJu290 (輸送機) 1機
ハインケルHe111 1機
空中戦による未確認撃墜もしくは撃破
フォッケウルフFw190 6機
メッサーシュミットBf109 6機






地上掃射による破壊もしくは撃破
ユンカースJu88もしくは188 7機
ドルニエDo18(飛行艇) 6機
ハインケルHe177(四発爆撃機) 4機
アラドAr232 (輸送機) 3機
フォッケウルフFw190 2機
ユンカースJu252 1機
ブロム・ウント・フォスBv138(飛行艇) 1
その他確認された地上、海上目標の破壊
機関車62および列車100両程度
トラックおよびその他車両125台、燃料車少なくとも30台含む
戦車5台
魚雷艇2隻
Gadesbudenの製油所を攻撃し、150,000ガロンの航空燃料を破壊。
その他爆撃と機銃掃射なよる破壊多数


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