スティーブン・ディケーターその4
1812年戦争
 短期間「チェサピーク」の指揮を執った後、ディケーターは馴染み深い44門フリゲート「ユナイテッド・ステーツ」
の艦長に任命されました。1810年には戦隊司令官に昇進(これも史上最年少と言われた)して、南部艦隊の司
令官となり「ユナイテッド・ステーツ」に自分の長旗を掲げる(=hoist broad pennant 海軍の言い回しで、将官級
になるということ)ことになりました。ただ、誤解が多いですが、戦隊司令官(Commodore)とは、戦隊が編成され
た時に、同格の艦長達を指揮するための資格のようなものであり、将官ではありません。基本的に、同時のアメ
リカ海軍に将官はいませんでした(と言うか、将官が指揮するほど大兵力ではなかった)。

 さて、ディケーターが順調に昇進している間にも、アメリカ合衆国の状況は悲惨さを増して行きます。英仏の強
硬な貿易政策と自らが課した貿易制限により、アメリカの海運業は1807年を境に急速に衰退していきました。
なんだかんだありつつも年間1億8千万ドルにのぼった貿易額は、年700万ドルにまで減少し、企業の倒産が相
次ぎました(もっとも、これで行き場を失った資本と労働力が国内の産業に振り向けられ、結果的にアメリカは経
済的自立を達成するのですが)。一方、イギリス軍艦によるアメリカ市民の強制連行も後を絶たず、そうこうして
いる内に被害者は6000人を超えてしまいます! さらに、カナダとの国境地帯ではネイティブ・アメリカンとの抗
争が頻発し、背後にはイギリスの扇動があると考えられました(本当は、そういうのばかりでもなかったのです
が)。
 こうした要因が、独立戦争以来、カナダを虎視眈々と狙っている一部の多血質で頭の悪い人々の思惑が重な
り、1811年末から南部および西部(独立後に獲得した地域)出身の、いわゆるタカ派(War Hawkes)と呼ばれる
国会議員達が、盛んに対英戦争を主張しました。一方、海運/貿易業で生計を立てている人が多いニューイング
ランドは、理不尽な経済封鎖を受けながらも戦争をのぞんでいませんでしたが、1812年は選挙の年に当たって
おり、再選したかったマディソン大統領は愚かにも多数派に妥協しました。1812年6月18日、アメリカ合衆国は
イギリスに対して宣戦布告します。
 しかし、同時期のイギリス議会では、「アメリカに対する政策と強制連行は不正義である」という意見が大勢を
占め、貿易制限の撤廃や強制連行の停止が議決されたところでした。いかに通信速度=移動速度の時代とは言
え、あまりにもマヌケ。周りを見ずに突っ走ると言う、頭の悪い自称愛国者達が陥る典型的失敗です。
 もっとマヌケなことに(いや、アメリカという国は現代に至るもそうですが)、大騒ぎしていたわりには戦争の準備
は全く出来ていませんでした。陸軍は数こそ揃いつつありましたが、訓練も装備も不足。海軍はトリポリ戦争後に
縮小されて、その全兵力は内海用の砲艦までかき集めてもたった21隻。主力はフリゲート7隻で、戦列艦は一
隻も無し。戦列艦の建造計画もあるにはありましたが、カナダ攻略のための陸軍予算が削減されることを恐れた
のか、戦争好きなはずのタカ派が揃って反対票を投じたので実現しませんでした。
 対するイギリス海軍は、250隻の戦列艦を含む一千隻を超える海軍力を保有しており、大部分がヨーロッパ海
域で作戦中で、カナダには64門戦列艦「アフリカ」とフリゲート以下数隻があるだけでしたが、カリブ海地域には1
00隻以上の艦艇が配備されていました。陸軍も大部分がイベリア半島で作戦中でしたが、それでもカナダには、
アメリカ軍と充分に対抗できるだけの兵力が配備されていた上に、ネイティブ・アメリカンの部族の協力も得られ
ました。
 
 そんな状態ですから、いざ開戦となったものの、陸での戦況は非常に悪く、開戦二ヵ月後にはデトロイトが陥落
して2千人の兵士が捕虜になり、カナダへ侵入を試みた部隊も撃退されます。以後、アメリカは防戦一方となって
しまいました。

対英開戦時のアメリカ海軍の外洋艦艇
艦名 (公称砲数) 艦種 トン
武装 1812年戦争での活躍ぶり
ユナイテッド・ステーツ United States (44) フリゲート 1575 24ポンド砲x32, 42ポンドカロネード砲x22 フリゲート1拿捕
コンスティテューション Constitution (44) フリゲート 1575 24ポンド砲x30, 18ポンド砲x1, 32ポンドカロネードx24 大活躍。フリゲート1拿捕1撃沈、スループ1拿捕
プレジデント President (44) フリゲート 1575 24ポンド砲x32, 18ポンド砲x1, 42ポンドカロネードx22 小型艦1拿捕。その後は何もしてない。1815.1.15 拿捕される。
コンステレーション Constellation (38) フリゲート 1265 32ポンド砲x2, 18ポンド砲x28, 32ポンドカロネードx18
コングレス Congress (38) フリゲート 1265 18ポンド砲x24, 32ポンドカロネードx20
チェサピーク Chesapeake (38) 
フリゲート
1244 18ポンド砲x28, 32ポンドカロネードx20 1813.6.1 HMS Shanonに拿捕される。
エセックス Essex (32) フリゲート 850 32ポンドカロネードx36, 18ポンド砲x6 大活躍 ブリッグ艦1、商船多数拿捕。1814.3.28 拿捕される。
ジョン・アダムス John Adams (28)
フリゲート
544 18ポンド砲x2, 12ポンド砲x20
ホーネット Hornet (18) スループ 441 12ポンド砲x2, 32ポンドカロネードx18 そこそこ活躍 ブリッグ艦1撃沈、1拿捕。
ワスプ Wasp (18) スループ 450 12ポンド砲x2, 32ポンドカロネードx18 不運。スループ1拿捕。しかし、その直後の1812.10.18に戦列艦を含む戦隊に拿捕される。
アーガス Argus (16) ブリッグ 299 12ポンド砲x2, 24ポンドカロネードx18 通商破壊で活躍。1813.8.14拿捕される。
サイレン Syren (16) ブリッグ 250 12ポンド砲x2, 24ポンドカロネードx16 1814.7.12 戦列艦に拿捕される。
ノーテイラス Nautilus (14) スクーナー 150 9ポンド砲x2, 18ポンドカロネードx12 不名誉。1812.7.17 戦列艦を含む戦隊に拿捕される。英米通じて最初に敵に拿捕された艦。
ヴィクセン Vixen (14) スクーナー 170 9ポンド砲x2, 18ポンドカロネードx12 1812.11.22 フリゲートに拿捕されるもその直後に難破。
エンタープライズ Enterprise (12) 
スクーナー
165 9ポンド砲x2, 18ポンドカロネードx14 トリポリ戦争ではディケーターの艦。ブリッグ艦1拿捕
バイパー Viper (12) カッター 148 6ポンド砲x2, 12ポンドカロネードx12 1813.1.17 フリゲートに拿捕される
 トン数はアメリカ式の算定方式による数字です。

HMS.マセドニアンの拿捕

 さて、開戦を迎えた時、ディケーターは、「ユナイテッド・ステーツ(44門)」の艦長兼任の戦隊司令官として、フリ
ゲート艦「コングレス Congress (36門)」、ブリッグ「アーガス Argus (18門)」とともに、ジョン・ロジャース戦隊司
令官(John Rodgers 1772-1838)の指揮下でニューヨークにいました。先ほども述べましたが、「戦隊司令官
Commodore」とは、同格の艦長達の指揮を執る資格なので、この場合ディケーターは、先任のロジャースの指揮
下に入っていたわけです。
 開戦と同時に戦隊は出動し、8月末までアメリカ沿岸をパトロールしたものの、敵と遭遇することはありませんで
した。その後、戦隊は基地をボストンに移し、1812年10月8日、今度はディケーターの指揮で出撃しました。出動
してすぐディケーターは、「アーガス」を分離させます。10月11日、商船を一隻拿捕すると、拿捕船と「コングレス」
に分離を命じ、ディケーターは「ユナイテッド・ステーツ」単独で大西洋を東に進みました。そして10月25日朝、ア
ゾレス諸島の南およそ1000kmのところで、マディラ諸島に向かって南東に針路を取って航行中に、進行方向お
よそ20kmのところに、西に向かう船を視認しました。この船は、イギリスのフリゲート艦「マセドニアン 
Macedonian (38門+カロネード砲11門)」でした。ディケーターはただちに攻撃を決断しました。
 ディケーターの「ユナイテッド・ステーツ」は44門艦ということになってはいましたが、実際には、24ポンド砲32
門、短射程ですが破壊力が大きい42ポンドカロネード砲24門の計56門を搭載しており、18ポンド砲主体の「マ
セドニアン」に対して、火力ではかなり優位に立っていました。一方の「マセドニアン」も1000トンを超える大型フリ
ゲートでしたが、速度と操作性で「ユナイテッドステーツ」に勝っていました。しかも、両者が遭遇した時、風は南
南東から吹いていたので、南東に向かっていたディケーターにとっては向かい風でしたが、「マセドニアン」にとっ
ては追い風でした。従って、「マセドニアン」にも十分勝ち目があったわけです。
 しかし「マセドニアン」は、残念ながら、ディケーターと戦えるほど立派な艦ではなかったようです。まず、横暴な
艦長が連続したため乗組員の士気はかなり低下していました。この時に指揮を執っていたジョン・サーマン・カー
デン艦長は、決して悪い人ではなかったようですが、乗組員をまだ掌握していなかったし、優柔不断で、若手士
官の仕事であるフリゲートの指揮には年をとりすぎていました(つまり、無能だから出世が遅かった)。とは言え、
ここらで一発大手柄、と考えたかどうかはわかりませんが、敵艦との遭遇にカーデン艦長は北に転舵を命じたま
では良かったものの、副長が、風上側の優位を生かして敵艦の針路をT字型に押さえようと主張したのに対し、
カーデン艦長は、「ユナイテッド・ステーツ」を、短射程のカロネード砲を装備した「エセックス Essex(18ポンド砲
6、32ポンドカロネード36)」だと誤認したため、接近戦は危険と考え、射程の優位を生かした遠距離からの交戦
を決定しました。少なくとも、後になってカーデン艦長は、この誤認を主張しました。もっとも、軍法会議の席では
何も言わなかったようですが。ただイギリス海軍が、アメリカの個艦の備砲の種類まで情報を持っていたのは本
当のようです。
 さて、いよいよ両者が接近した朝8時半頃、ディケーターは下手回しを命じ、大きく旋回して北東へ向かって進
みました。カーデン艦長はその動きを、風上側に大回りしようとしていると見たので、「ユナイテッド・ステーツ」に
並ぶ針路をとりました。すると、それを見たディケーターは、再び下手回しで南に旋回してすれ違います。「マセド
ニアン」はこの時、左舷から三度の片舷斉射を行いますが、「ユナイデッド・ステーツ」に弾は届きませんでした
(←バカ)。
 その後、カーデン艦長は艦を旋回させ、「ユナイテッド・ステーツ」と平行して距離を詰めようとします。一方ディ
ケーターはやや風下方向に針路を取り、「マケドニアン」が自艦を追尾する針路を確保する前に、24ポンド砲で
アウトレンジ出来るように距離を開けようとしました。
 そしておよそ30分間、ディケーターは「マセドニアン」を完全にアウトレンジすることに成功し、一方的に撃ちまく
って、「マセドニアン」のミズントップマストとメイントップマストを破壊します(もっとも、一斉射目は完全にハズレた
らしいです)。それからディケーターは「マセドニアン」に接近し、船尾斜め後からさらに30分間砲撃を続けて、ミ
ズンマスト全体を吹き飛ばし、残り二本のマストもトップを吹き飛ばします。
 マストや帆の残骸を海中に引きずって身動き取れなくなり、砲の多くも破壊されてしまった「マセドニアン」は、降
伏しました。
 「マセドニアン」の人的損害は、死者36名、負傷68名。一方の「ユナイテッド・ステーツ」は、接近した時に砲火
を浴びたので、死者7に負傷者5。艦の損傷は、帆の一部に穴が開き、マストの桁に軽微な損害を受けた程度で
した。
 この戦闘の後、ディケーターは、アメリカ国民の戦意向上に寄与するだろうと考えて、「マセドニアン」を拿捕して
応急修理を施すと、パトロールを切り上げて帰途につき、12月4日にニューヨークへ入港しました。そして、新造
艦で頑丈な造りだった「マセドニアン」は本格的な修理を受けて、ディケーターの指揮下の戦隊に編入されまし
た。

 なお、この時「ユナイテッド・ステーツ」には、後にアメリカ海軍について多くの著作を残す作家、サミュエル・リー
チ(Samuel Leech 1798-1848)が、火薬運び係(Powder Monky と呼ばれる少年兵)として乗艦していました。も
っともこの男、拿捕された時に「サイレン」に乗っていて、捕虜になっています。

1812年戦争 海軍編

 1812年戦争は、海上では、双方の海軍にとって大きな番狂わせになりました。開戦当初、世界最強であるは
ずのイギリス海軍は、アメリカ艦に全く勝てなかったのです。単に勝てないだけではなく、アメリカ艦にかすり傷も
つけられないうちに一方的に撃破される例も出ます。
 それまでのイギリス海軍は、戦列艦対フリゲートとか砲艦対フリゲートという極端な場合以外(こういう時は弱い
方は逃げるので、大抵は戦闘にはなりませんが)、一対一の水上戦闘では、ほぼ確実に勝利を収めていました。
 主な敵であったスペイン、フランスの軍艦は、技術的にイギリス艦よりもはるかに優秀であり、同クラスのイギリ
ス艦よりも大きくて頑丈で、大砲も多く装備していたのですが、イギリス海軍は全く問題にしていません。要は艦
船の運用法と指揮官の資質、水兵の訓練の勝敗を決めたわけです。前述した通り、現在もイギリス軍は指揮官
の養成に過剰なまでの努力を払っています。また、水兵達の訓練について一例をあげると、イギリス艦の砲の発
射速度と命中率はフランス海軍の1.5ないし2倍でした(ナポレオン戦争の頃になると、イギリスの大砲がフリントロ
ック式なのに対し、フランス海軍は火縄で点火するタイプだったため、発射速度の差はより大きくなった)。なおフ
ランス海軍は、七年戦争でイギリス海軍に壊滅させられた後、予備役制や専門の機関を設けて水兵の訓練に当
たっていたのに対し、イギリス海軍の訓練制度は、現場任せのいいかげんなもので、近代的な水兵の訓練制度
を取り入れたのは20世紀に入ってからだったのですが、制度がどうあれ、大事なのは中身だという典型です。
 実際、1839年に発表されたイギリスの統計によると、いわゆるフランス革命戦争からナポレオン戦争の期間
中、拿捕、もしくは破壊した敵の艦艇1209隻に対して、イギリス海軍の損失は166隻。戦列艦は、戦果167隻に対
して損失7(フランス海軍相手に限れば、なんと90隻対1隻!!)、フリゲート艦は戦果323隻に対して損失27隻、し
かも、損失の数字に、事故や海難が含まれているかははっきりしないのです。
 従ってイギリス艦は、一対一はもちろん、二対一、三対一の不利でも勝つのはざらでした(もっともイギリス海軍
は組織運営に柔軟性が無く、敵が明らかに圧倒的でどうしようも無い場合でも、逃げれば軍法会議で有罪にされ
ることがあったので、艦長達には嫌でも戦うという脅迫観念じみたものがあったようです)。しかし、こうした勝ち戦
で見過ごされがちですが、戦術レベルでイギリス艦はあまり洗練されておらず、その戦術は概ね、風に乗って一
気に接近し、至近距離から砲撃、それがダメなら敵艦と併走して撃ち続けるという単純なものでした。この戦術は
ヘタをすれば大損害が生じます。ネルソン提督のような名将でもそれは変わらず、砲火をものともせずに敵艦に
対して垂直に接近(この間、当時の船の構造上、船首のわずかな砲でしか反撃できない)、至近距離で回頭して
船体を射撃するという戦術を採用していため、ネルソンの艦や艦隊はしばしば大損害を受け、彼自身も額に穴が
あいたり、片目を失明したりと散々でした(さらに、上陸作戦の指揮中に被弾して片腕になっています)。
 しかし、スペインやフランス海軍の基本戦術は、艦の安全を優先して退避しやすい風下側で戦い、砲撃は基本
的にマストや索具を狙って敵を行動不能にさせてから切り込みをかけるというものでした。マストを狙うと、砲の仰
角が大きくなるので意外と命中率が悪く、かつ水兵の訓練はあまり行き届いていなかったからこそ、イギリス海軍
の戦術は効果的だったとも言えるのです(ネルソン提督が名将たる所以は、そのカリスマ性、統率力、戦略眼、
先見性です)。
 だから当然、水兵の訓練が行き届き、志願兵ばかりなので士気が高く、イギリス海軍のやり方を踏襲して遠慮
なく船体を狙って砲撃をかけてきて、かつハンフレイズのスーパーフリゲートに代表されるように、個艦の性能と
火力でも勝っているアメリカ艦には、イギリスの軍艦は手も足も出なかったのでした。とにかく、「ユナイテッド・ス
テーツ」級のスーパーフリゲートが出てくれば、イギリス艦は一方的にやられてしまったので、イギリス海軍は大き
な衝撃を受けます。実際、この戦争を通じてのスループ以上の軍艦の戦果:損害比率は、ほぼ1:1です。しかも、
単艦同士の一騎打ちでは、開戦一年後の「チェサピーク」を拿捕まで、フリゲートであれ小型艦であれ、イギリス
海軍は一度も勝利を収めていません(もしかしたら、「チェサピーク」がイギリス海軍の一騎打ちでの唯一の勝利
かも)。前述のナポレオン戦争の損失と比べれば、アメリカ海軍の善戦とイギリス海軍の苦戦がわかります。
 また、海軍だけでなく、昔ながらの私掠船も活躍して最終的に1300隻以上のイギリス船を拿捕します。で、あ
りがちな話ですが、海上戦闘での勝利に、北部での敗北を忘れたアメリカは「戦争に勝てる」と自信を持つのでし
た。

 しかし、実際のところアメリカ艦が撃破したのは、単艦から3隻くらいまでの小型艦の戦隊ばかりで、イギリス海
軍に精神的打撃以上のダメージを与えるには至っていませんでした。拿捕された商船も、数の上では多く見える
のですが、イギリスの海上輸送力全体から見ると大したダメージではありませんでした。そして1813年半ばにな
ると、イギリス海軍は単艦でのアメリカ艦との交戦を禁止したので、アメリカ海軍は戦果をあげられなくなります。
同じ頃、ヨーロッパでは、ナポレオンが前年のロシア遠征の大敗に引き続き、ライプチヒでも大敗を喫したので、
戦況は一気にイギリス側に好転し、多くの艦がヨーロッパ海域の封鎖作戦から解放されました。
 その結果、1813年初等から商船の護衛が強化され、同時に、数隻のフリゲートからなる戦隊が、それぞれニ
ューヨーク、ボストン、ニューロンドンその他、アメリカの港湾都市を封鎖しました。おまけに、1813年半ばにな
ると、アメリカのスーパーフリゲートに対抗するため、74門戦列艦が封鎖戦隊に加わるようになり、アメリカ側は
苦境に立たされました。
 こうした封鎖部隊に対し、アメリカ海軍は、沿岸用の小型艦艇で度々襲撃を加えました。イギリス側は入江や湾
口などを近接封鎖していたため、フリゲート以上の大型艦艇は、狭い水域で操船余地が無いため、機動性が制
限されて、大砲一門のガンボートでも束になってかかれば十分に勝算があった…、はずなのですが、アメリカ水
兵の勇敢な戦いぶりもむなしく、イギリス海軍のボートに逆に拿捕されたりして、座礁している艦に対する攻撃も
成功していません。
 そして1814年になると、パリが陥落してナポレオンがエルバ島送りになったので、海軍ばかりでなく、イベリア
半島作戦で経験を積んだ有能な陸軍部隊もアメリカに転用できるようになりました。
 実際イギリスは、首都ワシントンや、メイン州沿岸の主要都市に対する上陸作戦に成功しています。また、北か
らは五大湖を渡ってのカナダからの侵攻作戦が本格化して、南部ではニューオリンズに対する上陸作戦も企図
されました。アメリカは完全に包囲されてしまいました。私掠船だけは、中立国を拠点に活動を続けていました
が、海賊まがいの行為では戦局は変わりません。

 さて、こんな中ですから、「マセドニアン」を拿捕した後のディケーターの活躍は、はっきり言ってパッとしませ
ん。1813年5月24日、ディケーターは、「ユナイテッド・ステーツ」、修理の終わった「マセドニアン」、ブリッグ艦
「ホーネット」を指揮してニューヨークから出港しますが、一週間後、イギリスの封鎖戦隊に遭遇したため、退却し
を余儀なくされました。この後「ユナイテッド・ステーツ」と「マセドニアン」は、ニューヨーク港を出ることなく、終戦
を迎えるのでした。
 その後、戦局が悪化して行く中でも、ディケーターの戦隊は相変わらずニューヨークに閉じ込められて、その活
躍は全くパッとしません。しかしその間、北部ではいささかディケーターに縁のある出来事が起こっています。
 1814年夏、ハドソン河沿いに進撃してニューヨークを攻略すると言う計画の下、一万二千人のイギリス軍がカ
ナダを進発しました。対するアメリカ軍はわずか1500人。ただし、補給路であるシャンプレイン湖(ハドソン川の
上流、カナダとの国境にある湖。そんなに広くはなく、真中に大きな島がある)の制海権を確保するまでの間、イ
ギリス軍は待機していました。アメリカ軍の湖上戦隊司令官、トーマス・マクドノーは、士官候補生だった時、ディ
ケーターの「フィラデルフィア」焼き討ちに参加した人物でした。シャンプレイン湖のイギリス艦隊が、フリゲート1
隻、スループ2隻(川を遡航してきた)、砲艦12隻(近くの森の木で作った)というかなりの兵力なのに対し、マクドノ
ーの指揮下には、スループ4隻(うち二隻は、着任後に近くの森で急造した)と、武装した手漕ぎボート10隻しか
ありませんでしたが、1814年9月14日、イギリス艦隊に巧妙な待伏を仕掛け、司令官を戦死させたうえに艦隊
を壊滅させました。湖の制海権が奪われたので、イギリス軍は撤退します。こうして北部の脅威は取り除かれま
した。

 
1812年戦争。 「コンティテューション」
英フリゲート「ゲリエール」を粉砕する図

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