スティーブン・ディケーターその3
ディケーター トリポリを奇襲
 1803年12月6日、ベインブリッジ艦長は、フィラデルフィアを破壊するように提案してきました。
 プレブル司令官は、配下の士官を旗艦「コンスティテューション」に集めて会議を開きますが、「フィラデルフィ
ア」は砲台の真下に係留されているので、正面攻撃はまず不可能。となれば、夜間に奇襲をかけるしかないとい
うことになり、ディケーターがその任務を買って出ました。少し前、彼が指揮する「エンタープライズ」は、「マスティ
コ」というトリポリのケッチ漁船(下図参照)を拿捕していたので、地元の漁船のフリをして「フィラデルフィア」に接
近、船に切り込んで放火しようという計画でした。
 準備のため一旦、基地のあるシチリア島のシラクサに戻った後、ディケーターは76人(74人?)の志願者ととも
に、「イントレピッド(大胆不敵)」と改名されたケッチに乗り込んで、トリポリへ旅立ちました。
 この航海はなかなか大変なものでした。50トンほどの大きさしかない「イントレピッド」は、76人が乗り込むに
は明らかに小さかったのですが、漁船と見せかけるためにも、兵士達は甲板の下に隠れてなければならず、人
間ぎゅうぎゅう詰めの、例えは悪いが奴隷船状態。おまけに、仕方なく甲板に置いていた塩漬け牛肉(当時、ヨー
ロッパの船乗りの主食)が雨に降られて全滅して、食料の大部分を失ってしまい、シラクサへ帰投するまで、ディ
ケーター達はわずかなパンと水しか口に出来ませんでした。
 それでも天候と風に恵まれ、1804年2月9日の午後、トリポリを望む地点にまで到着します。そこで二隻の砲
艦に出くわしたため、一旦針路を変えて欺瞞してから、夜の10時ごろ、トリポリ港の西側に到着しました。この時
「フィラデルフィア」は、要塞の射程圏内に、二隻のシベックと一隻のガレー船に守られて停泊していました。
 ディケーターは、見つからないように兵士を上甲板に伏せさたまま、船を「フィラデルフィア」まで接近させます。
しかし、小さなケッチには全員が伏せる場所も無く、10人ばかりが立ったままになりましたが、怪しまれることは
ありませんでした。
 「フィラデルフィア」の番兵は当然、誰何してきますが、ディケーターはアラビア語がしゃべれるシチリア人の船
頭を雇っており、そのシチリア人が、自分たちはマルタ島から来た商船だ、嵐に遭って錨が流されたから「フィラ
デルフィア」に舫綱を固定させてくれと頼みました。
 トリポリ兵が簡単に許してくれたので、「イントレピッド」は堂々と接近するのですが、接近したところで「イントレ
ピッド」の船首に錨がぶら下がっていることに気づかれてしまいました。たちまち怪しまれ、トリポリ兵は「フィラデ
ルフィア」から離れるように言って来ました。
 ディケーターが戦闘準備を命じようとした時、「フィラデルフィア」の艦上から、
「Amerikanos!」
と叫ぶ声が聞こえてきました。ディケーターは直ちに「イントレピッド」を「フィラデルフィア」の左舷に接舷させる
と、二人の士官候補生とともに攻撃の先頭に立って、錨鎖をよじ登りました。
 奇襲は完璧で、トリポリ兵達はあっという間に右舷に追いやられると、そのまま海に飛び込んで逃げ出しまし
た。アメリカ側は一人の負傷者を出しただけなのに対し、20人以上のトリポリ兵が戦死。ディケーターは10分間
で「フィラデルフィア」を制圧しました。すぐに「イントレピッド」から持参した可燃物が運び込まれて火がつけられま
すが、リビアの太陽で乾燥しきっていた「フィラデルフィア」はあっという間に炎上し、予想以上に火の回りが速か
ったため、ディケーターは破壊作業を中止しなくてはならず、戦闘開始からだいたい20ないし25分後には、全員
が「イントレピッド」に引き上げました。
 さて、いざ逃げる段になった「イントレピッド」ですが、ここで重大な危機に陥りました。「フィラデルフィア」から離
れようとした時、「フィラデルフィア」のもやい綱と「イントレピッド」マストの索具がからまりあってしまったのです。
そして「フィラデルフィア」から噴出した炎が、「イントレピッド」の弾薬ケースのすぐそばまで迫ってきました。ま
あ、必要な時に必要なものが見つからないのはよくあることですが、「イントレピッド」でも、わずか二十数分に白
兵戦を終えたばかりだというのに、なぜかこの瞬間に斧が見つからなかったため、兵士達は剣を抜いて、必死に
なってロープをぎこぎこやりました。
 どうにかロープが切り離され、「イントレピッド」は必死で「フィラデルフィア」からこぎ離れました。「フィラデルフィ
ア」は炎上し、護衛についていたジベックとガレー船も燃え出しました。ここで乗組員から万歳三唱が起こったと
言うことですが、それはいささか早すぎたようで、ようやく事態を把握したトリポリの要塞が射撃を開始し、さらに、
間抜けなことに、ダメージを大きくするためにと装填されていた「フィラデルフィア」の大砲の弾まで、「イントレピッ
ド」の方に飛んできてしまった。しかし、どうにか被弾することなく「イントレピッド」は射程圏から逃れ、また混乱し
たトリポリ側も追跡することが出来なかったので、ディケーターは無事にシラクサへ帰還しました。
 このニュースはたちまちヨーロッパ全土に広がりました。悪名高いバーバリ海賊の鼻っ面をぶん殴ったと言うこ
とでディケーターは激賞されました。さらに、当時はツーロン港封鎖作戦を指揮していたホレイショ・ネルソン提督
も、
「当代で最も勇敢な行為である!」
と賞賛しました。
 当然、アメリカでもディケーターの行動は激賞され、1804年5月22日、「フィラデルフィア」破壊の功績により、
正規艦長に任命されました。現代風に言えば、大尉から一気に大佐まで昇進したのと同じです。当時彼は25
歳。アメリカ史上最年少の艦長でした(多分、正規艦長=大佐とすれば、アメリカでは未だにこの記録は破られて
いないはず)。もっとも、この時にはまだ、正規艦長の地位に相応しい指揮艦はまだありませんでした。また、作
戦に参加した他の兵士には、給料二か月分のボーナスが支給されました(ただし、大した金額ではなかった。当
時のアメリカ海軍は根本的に給料が安かったのです)。



ケッチ(Ketch)
2本マストの帆船で、図のようにマストを後方に寄
せて前甲板を広く取ってある。漁船として発達し、
広い前甲板が作業に便利だった。軍用としては、
広い前甲板に大口径で弾道の高い大型の臼砲(砲
身長が口径の10倍以下?)を装備したボムケッチ 
(Bomb ketch)が、陸上目標の砲撃に使われた。 
 「フイラデルフィア」の焼き討ち 


戦争の終わり
 「フィラデルフィア」の破壊に成功したものの、相変わらずプレブル司令官には戦力が少なく、実際、二隻のフリ
ゲートとスループ艦「エンタープライズ」、ケッチの「イントレピッド」しかありませんでした。この程度の戦力ではと
てもまともな封鎖は出来ないし、捕虜になっている「フィラデルフィア」乗員の救出の当ても無かったので、ユース
フ・カラマニリに圧力をかけるため、プレブル司令官は、イチかバチか、トリポリ市へ正面攻撃をかけました。
  しかし、トリポリ沖の浅い海は、大型艦にとって非常に危険であることは「フィラデルフィア」が身をもって証明済
みだったので、プレブル司令官はシチリア国王フェルデイナンド4世に頼み込んで、喫水の浅い小型砲艦6隻(2
4ポンド砲一門搭載)と、ボムケッチ2隻(上図参照)を借り出すと、1804年8月3日、トリポリ沖に突入しました。
  砲艦はトリポリの砲艦隊に対処して、2隻のボムケッチは臼砲でトリポリ市を砲撃しました。旗艦「コンスティテ
ューション」は沿岸砲台を攻撃することになっていました。
 一方トリポリ沖には、11隻の敵の砲艦が配備されていましたが、アメリカ軍の砲艦隊は風向きの急変で分断さ
れ、3隻しか射点につくことが出来ませんでした。しかしそれでも、トリポリの砲艦3隻を拿捕し、少なくとも3隻を
撃沈しました。この時、砲艦の一隻を指揮していたスティーブン・ディケーターの弟、ジェームズが狙撃を受けて
戦死しました。弟の復讐に燃えた兄ディケーターは、勇敢に戦っています。
 トリポリ攻撃は8月中にあと4回行われ、その後、プレブル司令官は、4万ドルの身代金と引き換えに「フィラデ
ルフィア」の乗組員を釈放するよう、カラマニリ太守に要求しました。後でプレブル司令官は身代金を5万ドルに
増やしましたが、太守は要求を拒否しました。
 それもそのはず、住民はパニックになったものの、実際にトリポリ市が受けたダメージはほとんど無かったので
す。また、実際にトリポリの要塞に効果のある砲は艦隊全体で40門しかないことが判明し、また、効果的な砲撃
を行えるのは2隻のボムケッチだけで(つまり役に立つ砲は二門だけ)、せっかく借りた6隻の砲艦も陸上攻撃に
は全く役に立たないことも判明しました。これで正面攻撃をかけたところで、141門の砲で守られたトリポリ市を
破壊する前に、こっちがやられることは明白でした。
 そこでプレブル司令官は別のプランを立てました。殊勲のケッチ「イントレピッド」に100樽の火薬を積んで爆弾
船に仕立て上げ、トリポリの敵の泊地に侵入させて敵艦隊を一網打尽にしようとする作戦です。9月4日、「イント
レピッド」は再度トリポリへ向かいます。しかし残念ながら、柳の下に二匹目のドジョウはいなかった。要塞からの
砲撃を受けた「イントレピッド」は、一発被弾しただけで大爆発。ソマーズ艦長以下12名の乗組員とともに吹っ飛
んでしまいました。
 この頃プレブル司令官は、ディケーターを旗艦「コンスティテューション」の艦長に任命しました。
 
 さて、「イントレピッド」爆発の6日後の9月10日、サミュエル・バロン司令官率いるフリゲート6隻、7隻のブリッ
グ・スループと、10隻の砲艦からなる艦隊がシチリア島に到着しました。「フィラデルフィア」喪失の責任を追及さ
れ、半年以上前から既に更迭を通告されていたプレブル司令官は、入れ替わりに帰国しました。もっとも、ディケ
ーターが「フィラデルフィア」を破壊したことがアメリカに伝わってからと言うもの、アメリカ政府は、プレブル司令
官に不満は無いと繰り返し表明しており、後にプレブルは叙勲されています。しかしこの時発令された人事はどう
しようもなかったようです。
 プレブル司令官の更迭に伴って、ディケーターは「コンスティテューション」艦長を解任され、代わりに36門フリ
ゲート「コングレス(Congress 議会)」の艦長に任ぜられました。
 さて、ここで艦隊は大幅に増強されましたが、肝心のサムュエル・バロン司令官が、到着早々に病気で寝込ん
でしまい、せっかくの艦隊もまともな行動を執ることができなくなりました(←バカ)。
 海上からのトリポリ攻撃が困難なことは既に証明されていたので、艦隊はまた、トリポリの遠巻きな封鎖に終始
することになりました。
 そして、この事態を見かねた前チュニス大使、ウイリアム・イートン将軍は、陸路トリポリを攻撃する計画を立
て、艦隊に対して100人の海兵隊員を指揮下に回すように要求しました(アメリカ陸軍は海軍に輪をかけて弱体
で、とても地中海まで派兵する余裕は無かった)。バロン司令官は、プレスリー・ネヴィル・オバノン中尉率いる海
兵隊の精鋭をイートン将軍の下に送ります。その海兵隊の精鋭はたった7人だったということに目をつぶれば、
イートン将軍の要求はかなえられました。
 イートン将軍は、トリポリ太守一族の不和に目をつけていて、退位させられた前トリポリ太守で、当時はカイロに
住んでいたユースフ・カラマニリの兄、ハメット・カラマニリを担ぎあげて内部から切り崩しを試みました。
 カイロに派遣されたオバノン中尉は、ギリシア人、エジプト人、ベドゥイン族等の雑多な民族からなる傭兵、金で
雇った山賊、ハメット・カラマニリの子分など400人の兵士をかき集めると、道々の族長達の妨害、ラクダ使い達
のストライキ、ギリシア人傭兵とイスラム傭兵との対立、食糧と水の不足などの困難にもめげずに寄せ集め部隊
を纏め上げ、45日かけて一千キロ近い砂漠を踏破して(ただし、普通の隊商なら二週間で往来できるルートだっ
た)、1805年5月25日、トリポリ太守国第二の都市、デルナを急襲しました。海上からの支援もあってデルナは
二日後に陥落(オバノンは、外国の都市に初めて星条旗を立てた男として知られています)。その後、イートン将
軍とハメット・カラマニリ率いる800人の兵士の増援を得て、敵の反撃にも持ちこたえました。これがきっかけ
で、ユースフ・カラマニリも強硬姿勢を改めざるを得なくなり、1805年6月4日、「フィラデルフィア」の捕虜の身代
金6万ドルと引き換えに和平に応じました。
 かくして、アメリカ合衆国の最初の対外戦争は勝利のうちに終わり(←クウェージ・ウォーは正式な戦争ではない
ので)、以後、トリポリの海賊船はアメリカ船を攻撃することはなくなりました。


幸福と暗雲
  戦争が終わり、「コングレス」に乗って帰国したディケーターは、英雄として国家的な歓迎を受けました。その反
面、また海軍は縮小され、沿岸防衛用の砲艦も合わせて21隻という体たらくとなりました。しかし、ディケーター
は海軍に残ることが出来ました。
 1806年3月8日、ディケーターは、当時のノーフォーク市長の娘、スーザン・ホイーラーと結婚しました。はたし
てこれが恋愛結婚か、それとも政略結婚かはわかりません。最終的に子供には恵まれなかったものの、二人は
仲良く幸せにやっていきました。

 さて1803年、「アミアンの和約」が破れたヨーロッパでは、ナポレオンのフランスと、イギリスの間で再び戦争
が始まりました。この戦争でアメリカ合衆国はその経済に、ひいては国家の存在そのものに対する重大な脅威に
直面します。
 フランスとイギリスは、互いに敵の経済にダメージを与えようと、相手側と貿易する中立国船への攻撃を開始
し、英仏両国の艦艇は、それぞれ敵国の港に寄港したということでアメリカ商船を攻撃しました。1807年5月に
は、イギリス海軍はヨーロッパ大陸の全沿岸に対する封鎖作戦を開始します。そして1807年11月には、ナポレ
オンが「ベルリン勅令」で大陸封鎖を宣言しました。ベルリン勅令はアメリカ船は例外とされていましたが、それに
対してイギリスは、中立国船のフランス領への入港を禁止すると宣言します。フランスも、ベルリン勅令の例外と
いう舌の根が乾かぬうちに、イギリス軍の艦艇による臨検を受けた船、およびイギリス領の港に寄港したことの
ある船は全て攻撃対象とすると宣言しました。実際、1803年から1812年までの間に、英仏両国の海軍によっ
て、1500隻を超えるアメリカ商船が拿捕されています。
 アメリカの貿易先は、イギリス、フランス本国は勿論のこと、ヨーロッパ諸国(ナポレオンに負けて不本意ながら
イギリスと敵対している)と、カリブ海における英仏の植民地が中心でした。小国の悲惨さの究極がこの時のアメ
リカで、他国の戦争のあおりを受けて経済封鎖を受けたも同然となって、海運業はもちろん、農産物の輸出が停
止したため、経済に壊滅的打撃を受けました。ジェファーソン大統領は、戦争に巻き込まれることを避け、特にイ
ギリスに攻撃される口実は作るまいと手を尽くし、1807年12月、外国との通商を完全に停止する二つの法律
を制定しました。これでアメリカ経済は、「壊滅的打撃」ではなく、本当に壊滅します。
 貿易停止によってイギリス側もダメージを受けるだろうから、イギリスが貿易制限を緩和するだろうという観測も
ありましたが、イギリス側はまったく譲歩しませんでした。アメリカ人の対英感情は悪化します。
 
 またさらに、貿易制限とは別の問題が、英米関係を悪化させました。当時のイギリス海軍は、200隻の戦列艦
を含む1000隻近い艦艇を保有していましたが、それを動かす人員が慢性的に不足していました。そのため、国
内では悪名高い強制徴募が頻繁に行われていましたが、それでも足りないので、アメリカ船を臨検するついでに
乗員を連行するという事件が頻発します。当時、たいていのイギリス艦は定員不足で運行されていましたが、定
員不足は艦長個人の管理能力の不足として責任を追及されるため、イギリス海軍の艦長たちもなりふりかまって
いられなかったのです。もちろん、不正に出国したイギリス人やイギリス海軍の脱走兵が、アメリカ商船に紛れ込
んでいることはよくありましたが、それに飽き足らず、言いがかりをつけて正当なアメリカ市民権を持つ船員まで
拉致されました。他国の市民を拉致して、しかも危険な軍務に強制的に就けたりしてただで済むはずはなく、アメ
リカの世論は沸騰します。
 そんな1807年6月22日、ジェームズ・バロン戦隊司令官指揮する36門フリゲート「チェサピーク」は、イギリ
スの50門搭載戦列艦「レパード」から臨検を要求されました。イギリス海軍の脱走兵が乗っているだろうから、そ
れらしい人間は強制徴募するというのです。商船ならともかく、中立国の軍艦に臨検を要求するなど、「レパード」
の艦長は明らかに血迷っていましたが、当の「チェサピーク」は地中海に向かう途中で、道すがら新米ばかりの
水兵の訓練と大砲の調整を行う予定にしていたので、戦闘可能な状態ではありませんでした。
 しかしバロン司令官は要求を突っぱねたところ、「レパード」は攻撃してきて、3人を殺し、バロン司令官を含む
18人が負傷させた上に、強引に乗り込んできて、4人を強制連行しました。そしてこの事件は後で、ディケーター
にとって、文字通りの意味で致命的な事態となって降りかかってくるのですが、それはまだ先の話。
 この一件はアメリカ国民の憤激を買う一方、海軍内部で問題視され、ジェームズ・バロン司令官は軍法会議に
かけられました。
 ディケーターは判事の一人として軍法会議に召集されます。バロンが戦闘開始と同時に負傷したことを考える
と、戦えなかったのは不可抗力と言えるでしょう。しかし、1803年以来、海上で英米の間で緊張が高まっていた
ことを考えると、怠慢だったかも知れません。判決はどちらにも転ぶ可能性はありましたが、軍法会議は「戦闘の
可能性を考慮しておらず、職務怠慢だった」としてバロン司令官に有罪を宣告し、5年間の謹慎処分を命じまし
た。
 しかし問題は、ディケーターがバロンの後任として「チェサピーク」の艦長に任命されたことでした。バロン司令
官は、艦長の中では最年少のため、縮小された海軍で指揮艦の無かったディケーターが、うまいこと立ち回った
と勘ぐり、ディケーターに対してすさまじい怨念を抱くようになりました。

スーザン 
ジェームズ・バロン
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